蝶堕ちて
冨沢赤黄男
蝶堕ちて大音響の結氷期
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《私の鑑賞ノート》
冨沢赤黄男(とみさわ・かきお) 明治35年、愛媛県川之石町生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。「ホトトギス」「泉」「青嶺」に加わり、「旗艦」創刊にこたえた。応召して工兵将校となるが、戦後「太陽系」「火山系」「詩歌殿」をリードし、「薔薇」を主宰した。「俳句評論」のリーダーでもあった。詩人的才質と教養によって、実存的な、鋭い詩意識の俳句詩を創り出した。句集に『天の狼』『蛇の笛』『黙示』がある。昭和37年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)
この句における蝶とは「凍蝶(いてちょう)」、つまり冬蝶のことです。ぎりぎり晩秋の頃草むらの上を、小さな蝶がゆらゆら頼りなげに浮いているのを見ることがあります。しかし冬に入ってまで、蝶を見かけることなど滅多にあることではありません。
しかし冨沢赤黄男はあえて「冬蝶」を句の中に持ってきて、しかも結句で「結氷期」とさらに冬の季重なりという荒わざを用いています。
上の略歴だけみても赤黄男は、いわゆる高浜虚子流の「花鳥諷詠」のみでは飽き足りない、詩人的素養を持っていたことが、この句からも十分うかがえます。この句はまさに日米開戦に突入しようかという、昭和16年刊行句集『天の狼』に収録されています。当時の他の句もそうですが、戦後の句では?と思われるような新しい感覚の句がちりばめられているのは驚きです。
蝶堕ちて = 大音響の結氷期
と、左項と右項は何の因果かダイレクトに結びついています。私たちのごくありふれた日常世界では、蝶が堕ちたという原因が、即大音響と共に氷が結氷するという結果に到ることなど、まずあり得ません。
しかし倦怠と幻滅と減衰が支配する日常世界を一歩踏み越えた、新鮮な驚異とときめきの「詩的世界」では、一切の事象が一変してしまうのかもしれません。そこでは、およ重量とてあるかなきかの蝶が、冬という万物が死滅する季節に殉じて死なんとし堕ちていく。命まさに尽きなんとするその荘厳さに、氷さえそれを悼んで大音響を轟かせながら結氷するかもしれないのです。
「北京で木の葉が落ちると、ニューヨークで誰かがくしゃみする」と言います。「シンクロニシティ(共時性)」とは、おそらくこの世の通り一遍の“原因結果の法則”を超えて働く現象なのでしょう。私たちがこの世の固定観念、社会通念などにガチガチに呪縛されている間は、「見れども見えず」で、かかるシンクロニシティが実は日常身の回りで、ごく普通に起きていることに気づくことはないのでしょう。
そうです。赤黄男はこの句で図らずも、最近言われ出した「シンクロニシティとは何か?」ということを示してくれていように思われるのです。それが可能なのは、「生きとし生けるものは、深いところですべて一つに結ばれている」と心底観じ得る共感力(シンパシー)によってです。『えっ。氷(水)が生きているだって?』。ええ、もちろんですとも。
(大場光太郎・記)
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