零る雪はあはにな降りそ
穂積皇子
零る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに
(万葉集巻2・203)
(読み方)
ふるゆきは/あわになふりそ/よなばりの/いかいのおかの/さむからまくに
…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
穂積皇子(ほずみのみこ) 天武2年(673年)?~和銅8年(715年) 奈良時代の皇族、政治家。天武天皇の第5子(または第8子)、母は蘇我赤兄の娘・蘇我大娘。慶雲2年(705年)9月、知太政官事に任ぜられ、太政官の統括者となる。翌年右大臣に準じて季禄を賜る。和銅8年元旦朝賀に際し、一品に叙せられる。同年7月27日薨去す。
一読「悲愁胸ふさがる」というような哀切極まりない歌です。数多(あまた)ある万葉歌の中でも、私はこの歌と大津皇子、有間皇子の歌の三歌を「三大悲歌」と言いたいと思います。大津皇子、有間皇子の歌は(いずれご紹介できればと思いますが)、謀反の咎(とが)により自身が死を賜ったみぎり、辞世の歌として詠まれたものでした。この歌の場合、穂積皇子自身がそのような憂き目に遭遇しているわけではありません。
しかし哀切極まりないのです。なぜか?かつて皇子最愛の人であった但馬皇女(たじまのひめみこ)が薨去したその冬に、皇女を偲んで詠まれたのがこの歌であるからです。
歌の大意は、「今降り続いている雪よ。あまり降らないでおくれ。皇女の墓のある猪養の岡がよけい寒くなってしまうから」というのです。ここで「吉隠の猪養の岡」とは、旧奈良県磯城(しき)郡初瀬町(現桜井市初瀬)の東北にあったという岡のことで、今現在位置は特定できないようです。
和銅元年(708年)6月25日推定34歳で薨去した但馬皇女は、この岡の御墓に葬られたのです。それを遠くから見ている皇子が、皇女を偲びながら詠んだ歌です。
但馬皇女は、父が天武天皇、母が後の藤原氏の始祖となる中臣鎌足(なかとみのかまたり)の娘・氷上大刀自(ひかみのおおとじ)です。
2人の関係は正式な婚姻によるものではなく、今でいう道ならぬ「不倫の恋」だったようです。というのも、穂積皇子20歳、但馬皇女17歳(推定)の2人が関係を結んでいた当時、皇女は高市皇子(たけちのみこ)の香具山宮にいたからです。諸説あるようですが、皇女は天武天皇の長子である高市皇子の妻であったと見られるのです。
なお2人は、天武天皇を父とする異母兄妹になります。ここから今日的には近親相姦という禁忌(タブー)にも触れるわけですが、高市皇子ともそうであったように、上古ではそのような近親婚は珍しくなかったようです。
人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世にいまだ渡らぬ朝川わたる
(万葉集巻2・116)
これは但馬皇女が、穂積皇子との恋を詠まれた歌です。皇子に逢うために密かに夜訪れ、帰りに朝川を渡ったというのです。当時女が男の許(もと)に通うのは稀だったことから、皇女の皇子に対する恋情、思慕の激しさがうかがわれます。
しかしこの密通の恋はやがて露見することになります。結果穂積皇子は、近江志賀の寺に一時謹慎となり、2人はいつしか疎遠となっていきます。以後皇子は政治官僚として手腕を発揮していくこととなりました。
皇子が功なり名遂げた頃、但馬皇女薨去の報に接します。その年の冬に詠まれたこの悲歌には、但馬皇女は今は遠い猪養の岡の土の下に骸(むくろ)となって眠っている、あヽあんなにも純粋に激しくこの私を慕ってくれたのに、悲恋発覚後まもなく兄の高市は薨去したというのに、私は皇女を見捨てて政治的野心に走ってしまった、そんな皇子の悔恨の想いもこめられているのかもしれません。
(大場光太郎・記)
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