大路の春をうたがはず
石田 波郷
バスを待ち大路(おおじ)の春をうたがはず
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《私の鑑賞ノート》
石田波郷(いしだ・はきょう)は、昭和7年2月18歳にして郷里の愛媛県から俳句を極めるため単身上京してきました。ほどなく水原秋桜子(みずはら・しゅうおうし)が主宰する俳誌『馬酔木(あしび)』に投句を始めます。
高屋窓秋(たかや・そうしゅう)と共に、流麗清新な叙情俳句に新風を開き、秋桜子門の代表的俳人となっていきます。師の秋桜子から、波郷の句は「昭和時代を代表する秀句」と絶賛されました。
この句は昭和14年8月刊句集『鶴の眼』に収録された一句です。時に波郷26歳頃。この句はまさに「流麗清新な叙情句」の代表例のような句だと思います。
もちろん今の私たちには、その数年後戦災によってほとんどが焼失してしまうことになる、戦前の東京の町並みなど知るよしもありません。ただ戦前の帝都にバスが走っていたということは驚きです。
昭和14年といえば、2・26事件や日華事変が既に起きており、戦雲が妖しく立ち込めていることを、多くの東京市民はひしひしと感じていたことでしょう。しかしそんな重苦しい時代の空気とは別に、自然の四季の巡りはきちんきちんと繰り返されていくわけです。
この句が詠まれた時期は、立春を過ぎて間もない頃とみてよさそうです。ですから並木の木々は依然葉を落としつくした裸木の状態、まだ芽吹き初めの蕾(つぼみ)さえ見られないかもしれません。しかしそんな中で波郷は、万物が皆蘇る心弾む春の兆しを「うたがはず」確信したのです。
波郷に「春」を確信させたのは何だったのだろうか?その日その時町並みにあふれるばかり漲る日の光だったろうか?頬や体をそよとなでて吹きすぎる微風だったろうか?あるいは「大路」という広い開放的な場に立っていたからだったのだろうか?
俳句には「季語」が欠かせないように、俳句は四季折々の風物、事物やその微妙な移り変わりなどを読み込む伝統的な詩形です。その意味で立春という暦の上の決め事の春ではなく、まさに「春そのもの」を掴み取った波郷のこの句は、決定的な「俳句的場面」をとらえた秀句であるように思われます。
(大場光太郎・記)
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