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三月の甘納豆

    


         坪内 稔典

  三月の甘納豆のうふふふふ

…… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 坪内稔典(つぼうち・としのり) 昭和19年愛媛県西宇和島郡生まれ。立命館大学卒。高校時代から「青玄」に投句。「日時計」などの同人誌を経て昭和62年から「船団」を発行、現在に至る。句集『落花落日』『猫の木』など5冊。評論集『弾む言葉・俳句からの発想』『俳句-口誦と片言』『正岡子規-創造の共同性』などがある。京都教育大学教授。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 まあ何というふざけた俳句なのでしょう。自由俳句かなんだか知らないけれど、こともあろうに名のとおった俳人が「三月の甘納豆のうふふふふ」とは。坪内稔典先生、少しふざけすぎていませんか?と言いたくなりそうです。
 しかし甘納豆の幾つかを口にほおばり、噛みしめるとその甘味がトロッと口中に広がっていくように、この句の持つ俳諧味、おかしみがじわっと広がってきて、つい一緒に「うふふふふ」と笑ってしまいます。

 そもそも「三月の甘納豆」とはどんな甘納豆なのか。ごく普通なはずの甘納豆に「三月」という季節、季語を冠した、その意味合いは何なのか。今その甘納豆はどんな状況に置かれているものなのか。そしてそれがどうして「うふふふふ」なのか。
 作者の坪内稔典が「実はこうなんだよ」と説明でもしてくれない限り、本当のところ読み手には金輪際解りっこありません。そして通常、俳句は5・7・5の17音だけで完結していて、その他の余計なことは黙して語らない文芸なのです。

 読み手がもっと知りたいと思うことを何も教えてくれない、いや教えなれない。ずいぶん不親切ですが、それはわずかに17音だけという超短詩形である俳句の限界であり、宿命でもあると言えます。
 しかし取りようによっては、その限界というものが実は限界ではなく、いくらでも解釈が広がり、想像力を自由に羽ばたかせてくれる詩形でもあると言えるとも思います。

 例えば三月といえば、寒さも緩み暖かさを取り戻し、そろそろ山も笑い初(そ)める季節です。春の陽気につい誘われて、そこらへんの甘納豆も「うふふふふ」と笑っているように感じられたということなのか。
 あるいは三月はまた“ひなまつり”の季節です。家の中に立派に飾り付けられた雛壇の前で、その家の女の子が何人かの友だちとキャアキャア笑いころげ夢中になって遊んでいる。雛壇に供えてある甘納豆がそれを見て、つられてつい「うふふふふ」なのだろうか。

 人それぞれに、想像する「うふふふふ」の状況は少しずつ違ったものとなることでしょう。しかしいずれの場合も、「三月の甘納豆のうふふふふ」は、つかの間ではあっても人の心をぽっかり和ませてくれる笑いであることに違いはないようです。

 坪内稔典という俳人は遊び心十分の人のようで、「甘納豆」を一月から十二月までシリーズ化しています。その中でも今回の「三月の甘納豆」が特に出色です。
 いつしか、甘納豆が「うふふふふ」と笑うにはやっぱり三月をおいて他にないよな、と思えてくるから不思議です。

 (大場光太郎・記)

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コメント

俳句は素人ですが、この句は面白いですね。
以前「にやにや論争」で失礼しましたが、この句はとても微笑ましいと思います。
いろいろなシーンが想像されますが、作者が甘党なら自分のことを詠んでいるかもしれないし、幼女が甘納豆を口に含んでニコニコしているかもしれませんね。
ほのぼのとした情景が目に浮かぶようです。こういう素直な俳句が好きです。

投稿: 矢嶋武弘 | 2012年3月21日 (水) 17時34分

 確かに、甘党の自分を甘納豆に見立てて、という解釈も成り立ちそうですね。
 坪内稔典には、もう一つ諧謔味の利いた句があったかと思いますが、忘れてしまいました。そこで代わりにブラックユーモア句を二つ、ご紹介します。

  ゆびきりの指が落ちてる春の空

  がんばるわなんて言うなよ草の花

投稿: 時遊人 | 2012年3月21日 (水) 20時28分

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