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若菜摘む

                                   光孝天皇

  君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手(ころもで)に雪は降りつつ
                           (古今和歌集、春歌上21)

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《私の鑑賞ノート》
 光孝天皇(こうこうてんのう)第58代天皇。別名仁和帝(にんなのみかど)小松帝(こまつのみかど)。天長7年(830年)~仁和3年8月26日(887年9月17日)、在位:元慶8年2月23日(884年3月23日)~仁和3年8月26日。第54代天皇・仁明天皇の第三皇子。母は太政大臣藤原総継(ふじわらのふさつぐ)の娘・澤子。
 先代の陽成天皇が藤原基経(ふじわらのもとつね)によって廃位されたのち、55歳で即位。先代に引き続いて基経に政務を委任し、また基経を藤原氏初めての関白とした。
 58歳で崩御。在位期間は3年と短かったものの、宮中行事の再興に努めると共に、諸芸に優れた文化人でもあった。特に和歌、和琴に秀で、桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させた。 (フリー百科事典『ウィキペディア』より)

 この歌は早春の歌として古来有名で、「小倉百人一首」にも採られている歌です。この歌には、「仁和帝親王(みこ)におはしましける時に、人に若菜たまひける御歌」という前書きがあります。歌の大意は、「あなたのために春の野に出て若菜を摘む私の袖に、雪がしきりに降りかかってくることよ」というのです。

 ここで「若菜」とは、(旧暦の)正月七日の「子(ね)の日」の行事で、七種の新菜を採って羹(あつもの)とすることで、現代まで伝わる「七草」を言うようです。
 ただ「七種(ななくさ)」が宮中行事となったのは、光孝天皇の孫の醍醐天皇の延喜年間(901年~914年)と言われており、この歌の場合は宮中行事に用いるための若菜とはとらえない方がいいようです。

 帝が親王であったお若い時分、ある想い人がいて、「君がため」雪が降りしきるのも厭わず野に出かけて行って、若菜を一心に摘んだ。その事実をありのままに詠まれたものなのでしょう。
 このように相手を想い、捧げるまことの行為は尊い“無償の愛”と言うべきです。その愛行為は、親王という高貴な立場でも一般庶民でも、そして平安初期の昔でも平成の今日でも、何ら変わるところはないと思います。
 その無償の行為がこの歌となって結実し、千載の時を越えてもなお光を放ち、今日の私たち読み手の心にまでダイレクトに届くのではないでしょうか?

 また平安初期の当時は、爛熟を通り越して腐臭が漂っていた平安末期貴族とは異なり、諸事簡素だったのに違いありません。日々の食事もそうで、いかな高貴な身分の御方といえども、今ほどの肉食、飽食グルメではなかったことでしょう。
 皇子といえども「野に出でて若菜摘む」フットワークの良さがあり、今の庶民よりもっと自然を身近に親しまれていたと言えるかもしれません。

 いずれにしても、虚飾や余計な技巧のない、真素直な心情を詠まれた気持ちのいい御歌だと思います。

  ー 時に霙(みぞれ)まじりの冷たい雨降る、荒れた早春の日に

 (大場光太郎・記)

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