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2010年4月

【読者からのお知らせ】

 過日KAD様より、『民主党内の反党不満分子は離党せよ』記事に下記のような案内コメントがありました。特に東京都内にお住まいの方で、趣旨にご賛同される方は是非参加されてみてはいかがでしょうか。

                        *

ご意見に全く同感です。
特捜やその手先となったマスコミ、そしてそれを利用している
政治家モドキの一方的な小沢攻撃は、「真の民主主義社会構築」を
願っている国民全体に対する攻撃そのものと感じます。

現状を憂いた小沢のクラスメート有志が主義主張・党派を超えて
上げた「小沢擁護の声」が発端となり、「小沢一郎幹事長を支援
する会」結成の輪が多方面に拡がり、以下要領の結成大会開催に
至りました。賛同者の一人として、僭越ながら、ご案内致します。

「小沢一郎幹事長を支援する会」
日時 : 平成22年5月8日(土)午後1時から3時
場所 : 総評会館〔東京都千代田区神田駿河台3-2-11〕
参加費 : 1,000円
世話人代表 : 伊東 章 (いとう あきら)
事務局 :   〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-29-5
         山の手ビル11階 伊東法律事務所 内
          電話 03-3981-2411
          Fax 03-3985-8514
「結成大会への呼びかけ」文書の結語 :
  当日は、小沢一郎幹事長をめぐる政治状況等につき皆さんの
  率直な御意見をご披露頂けると幸いです。

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開設以来満2年を迎えて

 当ブログ『今この時&あの日あの時』を開設したのが、2年前の2008年4月29日のことでした。以来本日29日で満2年を迎えたことになります。そもそもはある人から勧められて始めたブログでした。当初は、その方のサイトに寄せた拙文の幾つかを転載で当ブログに移させていただいたものの、当然ながらお読みいただくストック記事がほとんどない状態でした。
 折角始めたからには、出来るだけ多くの方の訪問を得たいとは思いつつも、なかなか期待するような訪問者数は得られませんでした。

 以前の報告記事で述べたことがありますが、開設から1ヶ月半ほどは、1日訪問者数が10人にも届かなかったのです。『あ~あ、せっせと良い記事書いてんのになぁ』、バカらしくなって『ブログなんか止めようか?』と投げやりになったこともあります。
 しかしその時、『折角勧められて始めたんだから…』と思い直し、当面の訪問者は少なくとも、めげずに良い記事を心がけて毎日更新していけば必ず訪問者は増えてくるはず、と信じて続けました。その結果、いつの間にか10人の壁を越え、それが20人、30人、50人とコンスタントに増えていきました。そして1年余経過してみますと、もう100人を下回ることがないほどにまでなっていたのです。

 2年間の総訪問者数は、
  開設時(08年4月29日)~10年4月28日   61,767人
となっています。その間の日平均訪問者数は、約84人となります。
 また本記事を含めた総記事数は、「761」記事となっています。我ながら驚くほど膨大量の記事数です。

 やはりブログを開設し人様からご訪問いただく以上、何よりも「記事」の公開は欠かせないわけです。これには当初から今に至るも、『次どんな内容の記事にしようか?』と思い悩むところです。
 開設当初はどんな傾向の、どんな内容の記事を書けばよいのか、さっぱり検討もつきませんでした。そこでとりあえず書きやすい、身辺雑記、身近な自然観察文、半生の思い出、季節の便り、詩、名詩・名句鑑賞文などが主でした。
 しかしブログを運営していきますと、より多く訪問してくれそうな記事はどんなものか、だんだん分かってきます。度々言いますが、これはテレビの視聴率傾向と大変よく似ているのです。つまり芸能記事、事件記事、時事的記事などに訪問者が多く集まるわけです。

 そこで開設した年の暮れ頃から、思い切ってそういう記事も載せていくことにしました。特に時々に起きる事件モノが、最も訪問者が得やすいようです。小室哲哉逮捕、草なぎ剛逮捕、酒井法子事件、押尾学事件、木嶋佳苗事件、小沢一郎事件、朝青龍暴行事件などなど。そのたびに訪問者がぐんと増えていきました。以前書きましたが、特に『朝青龍が暴行した相手』記事は、各マスコミが明かそうとしない相手の川奈毅の名前と素性のあらましを述べたからか、1日訪問者が1300人以上という当ブログとしては驚異的な数字をはじき出しました。
 またそれらの記事を通して「お気に入り」に入れてくださり、以後定期的にご訪問になる方が増えてきたことも大変嬉しいことです。

 ただ記事によりましては、訪問者の減少をもたらす場合もあります。例えば自分の考えなどをストレートに語り過ぎた記事、宗教的・オカルト的な記事、それに政治的な記事などです。
 年初以来「小沢捜査」関連記事を、総力特集的に続けてきました。これは国の根幹に関わる重大事と思ったからです。それらの記事に共鳴してくださり、多くの方からご支持もいただきました。ただ残念なのは、小沢関連記事以降特に、開設間もなくから毎日のようにご訪問くださっていた2人の方の訪問が、ばったり途絶えてしまったことです。

 小沢問題では、今は小沢氏自身と民主党が最も逆風の中にある時です。だからと言って、“マスコミ世論”に迎合して、「小沢は実は悪でした」「民主党はダメでした」などと論調を変えようとは思いません。これは例えば、仮に小沢氏逮捕というような事態に立ち至っても変わらないと思います。
 前にも述べましたように、そんなことで変節、転向したら、「(自称)ネット言論人」の名がすたるというものです。大げさながら、「顧みて我が心の直くんば、千万人といえども我行かん」という孟子の気概を少しは見習いたいものです。『万物備乎我』シリーズで述べましたように、「万物我に備はる」という同じ孟子の言葉は、我が母校の校訓なものですから。

 考えてみれば、記事数761というのは大変な数字です。もう十分言いたいことを言わせていただいたかなという思いがあります。反面まだまだ書き足りていないなという思いもあります。
 相半ばしますが、以後は少し「ゆったり更新」でいかせていただこうかなと考えます。業務上のこともあります。精神的充電も必要です。それより何より、「来るべき時」に対する備えも、しっかりしていかなければなりません。すなわち、私自身の諸体の「光の保有率」を増やしていかなければならないということです。

 そういうわけで、今後は「毎日更新」にはとらわれないことに致します。書くべきこと、時間的余裕のある時にはもちろん更新を続けます。ただ時によっては、何日も更新しない時もあるかもしれません。その時はどうぞご寛恕賜りたいと存じます。(そういう時は、過去の記事をお読みいただければ幸甚です。)

 また次の一年に向かってー。どうぞ当ブログよろしくお願い申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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激震 ! 検審「小沢起訴相当」

 検察審査会の議決は、検察・マスコミ旧勢力合同による「民主党潰し」の結果だ

 当ブログでは年初以来の政治謀略的な「小沢捜査」に関して、再三記事にしてきました。今回の東京第五検察審査会の動きについても、先日の『怪しい検察審査会の動き』 『検察審査会「起訴相当」答申?』記事で、おそらく今回のような処分が下されるだろうと予想してきました。先週火曜日に出されるはずでしたが、ちょうど1週間ずれたものの予想通りの結果となったわけです。
 まず今回の検察審査会の議決について、『asahi.com(朝日新聞社)』記事を転載します。
                        *
 -小沢一郎氏「起訴相当」議決 陸山会事件で検察審査会-
 小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地取引事件で、東京第五検察審査会は27日、政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で告発された小沢氏を東京地検特捜部が不起訴(嫌疑不十分)とした処分について、「起訴相当」とする議決をし、公表した。特捜部は今後、再捜査して再び処分を出す。昨年5月に施行された改正検察審査会法では、再捜査の末に再び不起訴としても、それに対して審査会が2度目の「起訴すべきだ」とする議決をすれば、裁判所が指定した弁護士によって強制的に起訴されることになる。

 特捜部は2月、小沢氏の元秘書で陸山会の事務担当者だった衆院議員・石川知裕被告(36)ら3人を同法違反罪で起訴した。その一方で、小沢氏については「虚偽記載を具体的に指示、了承するなどした証拠が不十分で、共謀は認定できない」として不起訴にしていた。これに対して小沢氏を告発した東京都内の市民団体が「証拠の評価が国民目線とずれている」として、「起訴相当」の議決を求めて審査会に審査を申し立てていた。

 石川議員らの起訴内容は、2004年に小沢氏からの借入金4億円で東京都世田谷区の宅地を約3億5千万円で買い、07年に小沢氏に4億円を返済するなどした収支を政治資金収支報告書に記載しなかったとするもの。特捜部は4億円にはゼネコン側からの裏金が含まれるとみているが、小沢氏側は「個人資産」と否定している。-2010年4月27日15時37分- (以上転載終わり)
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 問題は今回の検察審査会(以下「検審」)の答申を受けて、東京地検特捜部がどのような動きをみせるかです。『検察審査会「起訴相当」答申?』で紹介したジャーナリストの歳川隆雄氏のネット記事では、検審の「起訴相当」答申が出たら地検特捜は「小沢幹事長を即日“在宅起訴”するだろう」というものでした。しかし今のところ地検にそのような動きはみられないようです。
 これは当然です。なぜなら地検特捜は、一連の小沢問題について一年以上も執拗に捜査し続け、今回問題の世田谷区内の土地購入をめぐる小沢幹事長の関与について、2月4日「嫌疑不十分で不起訴処分」としたのです。それを覆して、一般市民からなる素人集団・第五検審が「市民目線から許されない」から「起訴相当」と結論づけたとしても、十分過ぎるほど捜査を尽くしてきたプロ集団がその答申にひょいひょい乗っかるようでは、東京地検の存在意義が問われかねないからです。

 日本における暗黒捜査機関・東京地検も、諸事情を考慮して、スケジュール通りまずは「再捜査」そして本日から3ヶ月以内の「起訴」「不起訴」処分決定という段階を踏むのでしょうか?そして今回の検審答申を陰で操っていたと見られる大鶴基成次席検事以下は、次回(参院選直前頃)間違いなく「起訴処分」の決定を下すことでしょう。
 今回の件は見る人が見れば、今夏の参院選を控えて、民主党勝利を阻むための検察・メディアによる悪徳ペンタゴン旧勢力による、「小沢潰し」「民主党潰し」目的の政治的謀略以外の何ものでもないわけです。特に新聞・テレビは一斉に鬼の首でも取ったかのように、「小沢一郎は責任を取れ」「幹事長を辞任せよ」などと、今後連日沸騰報道しまくることでしょう。

 それに呼応して、渡部恒三、前原誠司ら反小沢、反党分子らも、民主党内で「小沢辞任」を求めて種々画策し出すことでしょう。それに対して、前日自身の偽装献金問題では検審から「不起訴相当」答申を受けたばかりの鳩山首相は、「コメントは差し控えたい」と当面は静観の構えですが、いよいよになってどういう方針を下すかです。この問題の対処法を誤れば、それこそ自身の進退問題に直結し、かつ党内が四分五裂しかねない重大局面です。今こそ鳩山首相の強いリーダーシップが求められます。

 政治的謀略の色濃い地検特捜の一連の小沢捜査、大メディアによる連日の小沢バッシング報道により形成されていった「小沢幹事長辞任」の世論の流れ。その延長線上にある今回の検審議決。あくまでも私個人の見解としては、今回の件で小沢一郎は幹事長職を辞める必要などないと思います。
 ただ、下がり続ける政権・与党の支持率などから判断するに、いずれ小沢氏が幹事長を辞任するか、鳩山首相が決断を迫られる局面もあり得ます。その時首相が、マスコミ世論に迎合して自らが小沢氏を切り、反小沢、反党分子の一人である仙谷国家戦略相などを幹事長に充てるようだと、今夏の参院選での民主党の勝利の目はなくなり、政権自体が立ち行かなくなるのは必至でしょう。

 民主党内も、昨年政権交代を支持した国民有権者も、ここは冷静な判断が求められます。今回異例のスピード議決した検審は、それよりずっと前に申し立てられていてたなざらし状態の、「森田健作公職選挙法違反容疑問題」の議決を一体いつするのか?東京地検は、大阪の市民団体が告発した前内閣による2.5億円もの「機密費持ち逃げ事件」の捜査に、一体いつ着手するのか?
 私たち国民はもうこれ以上、検察・マスコミなどの悪徳権益守りたさの、旧勢力の政治的謀略に引っかかっていてはいけません。

 (大場光太郎・記)

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続・日本の民主主義は「12歳」?

 「12歳の少年」かどうかは別にして、かなり低い民度であるのは間違いないだろう

 GHQアメリカ様は、数年間の日本直接統治から間接統治に切り換えました。そしてそのための布石として用意していったのが、後の東京地検特捜部であり、自由民主党であり、日米安保による日本各地の米軍基地なのでした。
 それと同時に、彼らはもう一つ重要な布石も行っています。日本の言論機関への介入です。第二次大戦後の世界は、マスメディアの影響がますます強くなることが予想され、これへの善後策もきちんとしておかなければならなかったのです。

 そこは謀略国家・アメリカ、ゆめ怠りありません。この分野では、A級戦犯だった正力松太郎を設立間もないCIAの日本におけるエージェントの一人に指名します。正力にはPODAMというCIAコードネームを与え、当時の我が国世論を「“親米、反共産”に誘導すべし」との命令を与えます。
 読売新聞のドンだった正力は、早速ニューメディアであるテレビに進出し日本テレビという親米テレビ局を開設します。こうして読売、日本テレビは、我が国でも突出した親戦争屋・親CIAメディアとして他の新聞社、テレビ局に対して隠然たる影響力を有し、今日の読売のドン渡邉恒雄に至っているものとみられます。

 戦後先進国がこぞって力を入れて開発したのが、テレビジョン放送でした。新聞などの活字メディアと比べて、映像によって圧倒的な情報量を瞬時に伝え得る画期的なメディアだったからです。これを他国に先駆けて研究開発してきたアメリカが、国民の意識向上などの目的に使うはずがありません。何しろG・ワシントン以来の「フリーメーソン国家・アメリカ」なのです。ということは、建国以来の最終目標は、人類を一元的に管理・コントロールする「世界政府の樹立」です。それが隠された目的である以上、自分たちのコントロールを超えるレベルまで、大衆に賢くなられては困るのです。

 戦後間もない日本は、彼らにとって格好の「実験国家」でした。私たちが思いも及ばぬような、GHQ占領政策という名目の多くの社会実験がなされたに違いないのです。
 その中の一つとして、当時「3S政策」というのが話題となりました。3Sとは、「Sport、Sex、Screen」の最初の「S」を取ったものです。要は占領相手である日本人を徹底的に愚民化するために、「スポーツ、セックス、スクリーン」による刹那的快楽、娯楽主義を徹底して与えよ。そしてつまりは、「奴ら(ジャップ)をまともにモノが考えられない愚民とせよ」ということのようです。
 占領当時、このような政策が本当に実行されたかどうかは不明です。しかしその後の我が国の歩みをつぶさに振り返る時、私たち日本国民は知らず知らずに「愚民化」の方向に誘導されてきた感が否めません。

 特にそれ抜きでは戦後日本の歩みを語れないほど、「テレビ」は社会の隅々、各人の心の中にまで深い影響を及ぼしてきました。各家庭にまだテレビが十分普及し始める以前の昭和30年代半ば頃、ジャーナリストの草分け的存在である大宅壮一がその害毒を見抜き、「一億総白痴化」という流行語を生み出し話題となりました。
 視聴者はテレビ画面をポカンと口をあけて見ていれば、受動的に映像なり音声なりが勝手に飛び込んできます。その受身性、膨大量の情報伝達性…。テレビくらい「マインドコントロール装置」として適している機器は他にないのです。

 ある人は、新聞・テレビ報道を真実として疑わない人たちのことを「B級大衆」と呼んでいます。この層には、『IQ84』の最新作が書店で発売されている。『ならば私も流行に後れないよう買わなきゃ』というような人たちも含まれます。私ならさらにその下に、新聞や本など活字はほとんど読まない、情報源はもっぱらテレビのみというような人たちを「C級大衆」と呼びたいと思います。まあ申し訳ありませんが、新聞・テレビに好いようにマインドコントロールされている方々は、本当に救いがたいと思います。
 こういう人たちは、自分たちがマインドコントロールされているなどとは、ゆめ思っていないことでしょう。そして「無党派層」などと適当な呼ばれ方をして、すっかり悦に入っているのです。その上さらに始末が悪いのは、こういう人たちが国民世論の圧倒的多数を占めていることです。

 新聞・テレビなど大メディアは、今も昔も、世論を誘導するのにそんなに苦労していないはずです。一定のパターンに当てはめて、例えば最近の例では小沢幹事長や民主党のネガティヴキャンペーンを流し続ければ、とにかくそれで効果てき面なのですから。思惑どおり、「小沢一郎は幹事長を辞任せよ…80%」「鳩山政権支持する…25%(発足時の70%台から急降下)」と、お望みの結果が得られるわけです。
 マスコミ上層部は「国民はバカだから、連中を騙すのはわけないよ」と、陰で舌をペロッと出しているに違いないのです。

 そうして各マスコミから騙しに騙されて、彼らの好いように世論誘導され、後で泣きをみるのは結局国民自身なのです。例の小泉改革、郵政民営化がまさにそうだったではないですか。あの時マスコミに煽られて、熱狂的に小泉政権を支持し、結果どうだったのか?デタラメ構造改革、デタラメ郵政民営化によって、今日の社会はその大変なツケを払わされているではないですか。
 それもこれも、新聞・テレビの報道を真に受けすぎるからなのです。なるほど私たち国民の多くは、かつてマッカーサーが喝破したように、今でも「この国の民主主義は、12歳の少年」のレベルなのではないでしょうか?この一文をお読みの方は、ご自分でマスコミ報道の良し悪しがきちんと識別できる、テレビコメンテーターなどの浅薄な言説には簡単に同調しない、数少ない「A級大衆」の方々と推察致します。  - 完 -

 (大場光太郎・記)

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日本の民主主義は「12歳」?

 そう言ったのは、GHQ占領のドン・マッカーサー元帥だった。今はどうなのか?

 日本が「フリーメーソン連合国」に対して、負けを認め無条件降伏したのが昭和20年(1945年)8月15日のことでした。ほどなくこの国は米国GHQの占領下に置かれることになります。以後数年間のGHQ統治の最高責任者またフリーメーソン最高位階の一員として、「メーソン占領政策」を指示、実行し続けたのがD・マッカーサーでした。日本国民はGHQの「民主的統治」という美名のもと、その“悪魔的な本質”が分からず、統治時代はもとより日本を去ってからも長い間ありがたがり、マッカーサーを大ヒーローとして祭りあげてきました。(なお我が国最初に「メーソン思想」にかぶれたのが、今話題の坂本龍馬です。)

 そのマッカーサー御大が統治時代、我が国の民主主義を「アメリカはもう40代なのに、日本は12歳の少年だ」と言ったというのです。そう言われた国民は腹を立てて当然の侮辱的発言です。しかしGHQによる占領政策がこの国に浸透していくにつれ、それまでの天皇中心の神国思想は180度ひっくり返り、アメリカ様の民主主義でなければ夜も日も明けぬ状況になっていきました。各マスコミ・言論機関をはじめとして、この言葉に誰も批判を加えず金科玉条のごとくうけたまわり、その後長く各方面で引用される言葉となっていきました。

 アメリカは、東京など日本全国の大都市に、無差別爆撃を雨あられと浴びせかけ、無数の非戦闘員国民を殺戮しました。沖縄戦ではやはり無辜の沖縄県民の多くを死に追いやりました。そして極めつけは、広島・長崎への原爆投下です。この2発の原爆により、20万人以上もの両市民を死亡させています。
 さすがは「40代の民主主義国家」ともなると、「正義(ジャスティス)」の尺度が違います。「人道的」とはどういうことなのか、「民主主義が成熟する」とはどういうことなのか、先の戦争あるいはイラク侵攻時は身をもってお手本を示してくださったわけです。

 アメリカGHQ様は、「12歳の未熟な国だから、何とかレベルを向上させてあげよう」などという親切心から、占領政策を進めてくれたのでしょうか?そしていつの日か、日本が我がアメリカと対等に付き合える「40代の民主主義国家」に引き上げてやろうなどと?そんなことはまずあり得ないわけです。あろうことか「ジャップ」(日本人への蔑称)の奴らは、おらがアメリカ様に戦いを挑んできた。金輪際許すことはできません。
 もう二度とアメリカ様に戦争などしかけない国に、徹底的に教育、洗脳し直さなければなりません。GHQ占領政策とは、一にかかってそこに大主眼があったわけです。

 そうした日本占領から数年後、日本に「メーソン政策」が完璧に根付き、骨抜きとなったこの国は我が米国に戦争を仕掛けてくることは二度とないと確信し、以後は何かと難儀な直接統治から間接統治に切り替えることになりました。
 自分たちが日本から離れる以上、日本人の中に忠実な彼らの番犬や組織を育て、それらが彼らの代わりをするようにしておかなければなりません。一つは旧日本軍の隠退蔵物資摘発のための組織を、アメリカ様の方針に背く政治的大物の取り締まり、逮捕、失脚させる目的で残すことにしました。これが今日の東京地検特捜部の前身となったのでした。また隠退蔵物資を米本国で売却したところ、(現在価格)数十兆円もの資産が得られました。これを元手に、GHQの一分野を独立させ「CIA」という、後に9・11を自作自演するような悪魔的謀略機関も設立させました。

 また新設されたCIAは、元はと言えば旧日本軍の所有であった隠退蔵物資売却資産の一部を、自民党設立資金として還元しました。これはもちろん日本政界の要所要所で、アメリカCIA様がコントロールするのが目的なのでした。
 また1950年に勃発した朝鮮動乱によって、半永久的に非武装化させるはずだった日本に、ソ連や中国の共産党勢力からアメリカと自由主義国家を守るための極東における橋頭堡としての役割を期待せざるを得なくなりました。その時利用されたのが、A級戦犯を解かれた岸信介です。おそらく当該米公文書が公表されれば、岸がCIAエージェントであったことを示す同コードネームが明らかになることでしょう。

 命拾いした岸は、以後アメリカ様のために嬉々として忠勤を尽くします。忠犬ぶりが評価された岸は、A級戦犯だったにも関わらずCIAの庇護のもと総理大臣にまで上りつめます。そして岸は、「日米安保条約」を何としても締結にこぎつけるようアメリカ様から命令されます。有事の際は米軍が日本をしっかり守ってやる(という単なる口約束)、その代わり日本は全国各地に米軍基地を恒常的に駐在させ、世界に類を見ないほど応分以上の負担をしなければならない。そのくせ基地に対する要らざる口出しは認めない。また「核」はいつでも無条件で持ち込ませなければならないなどという、決定的な不平等条約です。
 我が国の米国属国化を決定づけた日米安保は、昭和35年(1960年)に締結されました。以後半世紀この国を米国隷従状態に呪縛してきたのです。

 今問題になっている、普天間など沖縄に集中している基地移転の問題は、そもそもそこに原因があるわけです。ですからジャーナリストの高野孟氏が指摘しているように、本来なら「普天間基地をどこに移転するのか?」という以前に、そもそも「日米安保とは何だったのか?」「日米安保は本当に必要なのか?」「今後の健全な日米関係はどうあるべきか?」といったことを、まずきちんと時間をかけて国内や両国間でじっくり議論し、それから移転の結論を出すべきなのです。
 しかしそういう根本的議論はさせない、とにかく無条件で「日米安保は堅持すべきだ」、この問題では気に食わない民主党案には徹底的にケチをつけてやろうというのが、CIAや“日米安保マフィア”息がかりの、我が国新聞・テレビの一貫した立場です。「初めに日米安保ありき」。彼らはこの問題に対して、最初から言論機関としての責任を放棄しているのです。  (以下「続」につづく)

 (大場光太郎・記)

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故郷を離るる歌

 昭和30年代半ば過ぎまで、私の田舎では出征兵士を見送る遺風が残っていました。当時私は、山形の田舎町の母子寮にお世話になっている小学生でした。寮の先輩の多くは、中学を卒業して就職のため上京していきました。その見送りに私も、毎年のようにかり出されました。
 地元の駅頭で、先輩は、見送りの者らと中学の応援団員らに囲まれて、応援団長のかけ声で始まる中学校の校歌や応援歌などに送られて、列車に乗って行ったものでした。

 しかし私が就職のため首都圏にやってきた昭和43年には、もうそんなことも行われず、一人寂しく故郷を後にしました。気の合う級友らとは(高校)卒業式終了後、N市内のコーヒー店でお別れ会をし、親戚や知人には前日から当日に挨拶を済ませていましたし。
 夜10時過ぎの上野行きの夜行列車だったと思います。駅の周辺には、雪がはだらに残っていました。汽車を待つ間、それまでの故郷での思い出のあれこれが、浮かんでは消えたり、ただボーッとしていたり。気になっていた、同じクラスだった女生徒の白い顔がパッと浮かんだり…。

 でもそんなことよりも、これから先の未知の土地での生活の不安感の方が、圧倒的でした。逆説でも何でもなく、まるで山形から首都圏への「都落ち」の心境でした。出来れば故郷を離れたくはなかった。いつまでも住み続けたかった…。
 地元での就職の失敗が、そんなささやかな望みを打ち砕きました。歯車が狂い、故郷を押し出されるようにして、首都圏へ。

 夜汽車に乗り込み、外は真っ暗ですからそのうちぐっすり寝込みました。あくる日の午前3時頃、ググッとブレーキをくれて停まり、それで目が覚めました。見ると宇都宮駅。しばらく停車していました。車窓の遠方に目をやると、宇都宮市街は、まだ未明の暗さの底に沈んでおりました。建て混んだ家並みの上空に、下弦の赤い月が大きく浮かんでいました。心細い身にはこたえる、異郷の不気味な光景でした。
 『オレは、ホントに一人ぼっちなんだな。』
                         *
    虫の夜故郷喪失して久し   (拙句)
 以来、首都圏何千万人かのうちの平凡な無名の一人として、悲喜交々をいっぱい(どちらかというと「悲」の方を多く)味わいながら生きてきました。
 今でもあの時の赤い月が、ふっと甦ってくる時があります。たいがいはピンチの時です。ハッとなって思うのです。『何もなしでこっちに来たんじゃないか。失うものなんて何もないじゃないか。出来るだけのことは、やってみろよ』。すると、たいがいの窮地は切り抜けられます。
 幾十星霜。覇気のなかった私も、この激動の時代の荒波を多少なりともかぶって、精神的に少しはタフになったのでしょう。

 (注記)本記事は、「二木紘三のうた物語」の『故郷を離るる歌』への2008年3月11日付けコメントを転載したものです。

 (大場光太郎・記)

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ぱっとしない桝添新党

 「総理にしたい」候補NO.1の桝添の新党がこれではどうしようもないだろう

 さんざん谷垣総裁をはじめ自民党現執行部批判を繰り返し、時には「離党」を口にしながら、その実『狙うは総裁のイス一つ』と、今まで党内に居座ってきた桝添要一でした。しかしそんな桝添の姿勢を、若手の後藤田正純議員からは「オオカミ中年」とヤユされる始末です。他の多くの自民党員も桝添をまともに相手にせず、「出て行くんだったら、とっとと出ていきなよ」と冷ややかで、党内ではますます孤立感を深めるばかりでした。
 さすがの「デルデル詐欺男」も、ことここに至ってはやむなく成り行きで飛び出したようなかっこうのようです。

 離党直前には、橋下大阪府知事や東国原宮崎県知事という、一応華のある人物に政党加入を呼びかけました。しかしそれも大々的なテレビ向けパフォーマンスに過ぎなかったようで、両知事から軽くソデにされてしまいました。
 そんな矢先の離党ですから、桝添を取り巻く連中はロクなメンバーではありません。桝添と一緒に離党した矢野哲郎参院議員は、名前も実績もまったく不明に近い人物です。そして桝添が乗っ取る形になる改革クラブも、『あヽそういえばそんな名前の党があったなあ』くらいの忘れられた小党です。こうして俄かに引っついたメンバーのうち、桝添を除いた渡部秀央、荒井広幸など全員が今夏の参院選の改選組です。要はみんな選挙にヤバイ連中ばかり、それで“桝添効果”にすがって議員としての身分を守りたい連中なのです。
 そして桝添自身、「新党ブーム」の今飛び出したからには新党をつくらなければシャレにならず、かといって一からメンバーを集めるだけの資金も人望もなし。そこで苦し紛れに改革クラブと野合して、「新党改革」と看板をすりかえたというのが真相でしょうか。

 ところで桝添要一という男が、世間にデビューすることになった当時のことが思い出されます。それは今を去る20年近く前のことでした。『朝まで生テレビ』というテレビ朝日系の、月一度の深夜討論番組があります。もうかれこれ四半世紀以上続いている名物番組です。私は、大島渚と野坂昭如の二枚看板の最初の頃から、ずっと見続けてきました。その間当然さまざまなハプニングもあったわけで、その辺のことは『田母神論文をめぐって(1)』記事でその一端をご紹介しました。
 さまざまなハプニングのうちには、桝添要一の同番組登場もそれに加えられるかもしれません。ある時の討論で、スタジオ内客席から突如「言いたいことがある」と申し出た者がいました。今となってはその時のテーマが何であったか、まったく覚えていません。また主だった出席討論者も、野坂昭如、栗本慎一郎、高野孟、猪瀬直樹あたりだったでしょうか?
 司会の田原総一朗が発言を許し、客席から一席ぶち始めたのが当時無名に近かった桝添要一だったのです。

 無名とはいっても、当時の肩書きは「東大助教授」です。それだけでもかなり名誉な肩書きと言わなければなりません。しかし桝添は、それでは満足できなかったようです。そこでもっと世に出るチャンスをうかがっていて、「朝生で一席ぶつ」ということを思いついたのでしょう。
 客席にコメントを求めることはそれまでもありました。しかしさすがは東大助教授です、桝添の話は大向こうをうならせるものでした。そんなことが2、3度続き、いつの間にか客席ではなく、レギュラーの討論席を射止めていたのです。そして肩書きは「国際政治学者」そして間もなく「東大教授」の肩書きも手に入れていました。
 こうして私は以後同番組で、どうも反りが合いそうにない桝添の討論を聞かさせられることになったのです。当時を振り返った桝添の人となりや言説に対する私の感想は、「上昇志向が人の何倍も強い男」「弱肉強食の強者」「高圧的」「成り上がり者」「鼻持ちならぬ奴」…といったところでした。

 『朝生』デビューがそうだったように、桝添という男の行動は悉くしたたかな「計算づく」で固められているようです。マスコミに美談調で取り上げられた実母介護も、それが功を奏して参院選での大量得票につながったことを考えれば、実母の病すらも己の社会的地位の上昇に利用したと言えなくもありません。
 また桝添は、常に「一番」でないと気がすまない男のようです。今回の「冴えない新党結成」の先にあるのは、あわよくば石原慎太郎の後釜の東京都知事、そしてゆくゆくは総理大臣のポスト狙いということなのでしょう。桝添はマキュアベリ的に手段を選ばず、その目的に向かって邁進することでしょう。こうしてかなり前から桝添を見続けてきた私からすると、もし桝添が一国のトップリーダーにでもなると仮定すると「怖いな」と思います。間違いなく、戦後最も強権的で独裁的なリーダーになりかねないからです。

 そんな桝添に対して、「誰が総理にふさわしいか」という世論調査では、「桝添要一…10数%」と現在トップだそうです。しかしこの調査では「分からない…60数%」もあることから、これは絶対視できるような数値ではありません。
 東大法学部の少し先輩でもある平沢勝栄衆院議員は、某テレビ番組で「桝添さんは確かに優秀な人だ。しかし今回自身が呼びかけた“経済政策研究会”からは誰もついていかなかった。そこに彼の限界を見ますね」と述べていました。

 そして集ったのは、自民党から次の参院選公認を得られなかった2人の参院議員、そしてこれも次回参院選改選組で目立つ旗印が欲しかった「改革クラブ」のメンバーですから。「たちあがれ日本」もそうでしたが、やはり「次の参院選目当て」「政党助成金目当て」だけの野合と言われても仕方ないと思います。
 出発がこんなメンバーで、果たして「新党改革」が名前倒れに終わらないのだろうか、望むような最終ポストを得ることが出来るのか?「政界ねずみ男」の異名をもつ桝添要一の今後が見ものです。

 (大場光太郎・記)

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民主党内の反党不満分子は離党せよ

 渡部、前原らは民主党の政策とは相容れない。「第三極」新党に合流したらどうだ

 新聞・テレビによる連日連夜の民主党、小沢幹事長バッシング報道にすっかり勢いを得ているのが、民主党の老害・渡部恒三(77)以下、その息がかかった“七奉行”と呼ばれる連中です。中でもひどいのが前原誠司国交相です。今回小沢幹事長が参院選での勝利を視野に入れた、高速道路料金問題への打開策として「値上げ見直し」を鳩山首相に打診し、首相がそれを了承し受け入れる旨記者会見で発表しました。にも関わらず、前原は官邸に乗り込んでいちゃもんをつける始末です。

 前原は、鳩山首相から国交相を任命された一閣僚にすぎません。それが首相の「迷走ぶり」をさらに印象づけるような閣内不一致的振る舞いには、「アンタ一体何様のつもりだ」と言いたくなります。それに前原の政権や党内に不和をもたらす言動は、何も今に始まったことではありません。
 バッシング報道により、鳩山政権と民主党への支持率下落が止まらない今、政府要職にある者ならば、政府内、党内に不協和音を出さず、一致協力してこの難局打開に精魂傾けるべき時のはずなのにです。

 前原国交相は、『鳩山首相や小沢幹事長よりオレの方が上だ』とでも思っているのでしょうか?勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。古くは5年前の小泉政権下、前原が民主党代表だった時、故永田寿康議員による「偽メール事件」が国会で大問題となりました。その時代表として決定的に対応を誤り、結局代表辞任に追い込まれたのが前原です。彼の政治的力量は、しょせん一党の代表など務まらないレベルなのです。
 同問題では、自民党からさんざん揺さぶられ党内がガタガタになった時、その後を受けて党代表を引き継ぎ見事再生させ、昨年悲願の政権交代を成し遂げたのが小沢一郎でした。

 小沢一郎と前原誠司では、政治的力量は月とスッポンほどの差があります。前原は己の力量不足を謙虚に認め、例えば海江田万里や細野豪志のように小沢幹事長を師と仰ぎ、その優れた面をどんどん吸収して力を蓄えるべき指導者見習いの丁稚期間であるはずです。
 しかし松下政経塾という、名前だけが先行している空理空論塾出身の秀才か何か知らないけれど、とにかく前原の「オレが、オレが」ぶりには見苦しささえ感じます。確かに就任早々、「八ッ場ダム建設中止」を大々的にぶち上げ、現地視察のパフォーマンスをしたまでは格好よかったけれど、その後はどうでしょうか。中止に大きく前進しているでしょうか?ご存知のとおり、事実は全く逆で、その後建設推進派の国交省官僚に取り込まれ、今では前原自身が建設推進に傾きつつあります。日本航空の再建問題でも、言うことが二転、三転。挙句の果ては、新聞や週刊誌で「お坊ちゃま大臣」とヤユされる始末です。

 政権発足後7、8ヶ月が経過しました。いつかきちんと検証したいと思いますが、マスコミが「ダメだ、迷走だ」と騒ぎ立てているだけで、政権交代後の鳩山政権はしっかり仕事をしています。一番難しい新年度予算だって、きっちり成立させたではありませんか。
 そんな中にあって、今や使える大臣、使えない大臣の色分けがはっきりしてきました。それからすれば、前原国交相ははっきり言って「使えない大臣」の部類です。もし今後現政権に大幅改造があるとすれば、前原などは真っ先に首にすべきです。今国民が求めているのは、「仕事師大臣」なのであって「人気取り大臣」など不要です。
 
 なのに前原は、悪徳ペンタゴン・マスコミに同調し、渡部老人と共に事あるごとに小沢幹事長批判の急先鋒役を務めています。前原は、自分より出来る馬渕澄夫国交副大臣に嫉妬心を抱いていて、表に出させないよう画策しているそうです。了見の狭い人物なのです。かつての小沢代表(当時)が、自分がガタガタにした党を立派に立て直した事に、相当の嫉妬心と対抗心を抱いているのでしょう。

 それに前原誠司は以前から、親米・親戦争屋一派であり、敵方である小泉・竹中の市場原理主義に密かに共鳴し、その「デタラメ構造改革」の隠れ支持者でした。これは渡部恒三以下、“七奉行”と言われる一派にも共通するスタンスです。
 小泉デタラメ改革が間違いだったからこそ、それ以後日本社会はその膨大な負の遺産に苦しんでいるわけです。昨年の政権交代は、そのチェンジを強く望んだ国民の民意でもあったのです。このようなことから、小沢、鳩山、菅らが進めようとしている民主党による日本大改革には、渡部、前原をはじめとした反党分子の存在は大きな障害になるだけです。

 漏れ聞くところでは、先日「立ちあがれ日本」の二番煎じを演じた、「日本創新党」の山田宏、中田宏らと前原は、松下政経塾で一緒、かつての日本新党でも行動を共にしていたといいます。のみならず、同新党結成以前前原は極秘で彼らと会談していたというのです。ならば前原は、大臣辞職のみならず民主党も離れ、彼らと一緒に「第三極」の形成に力をそそぐべきです。その方が誰が見てもすっきりします。
 本当に渡部、前原のような「獅子身中の虫」は、マスコミを喜ばせるだけ、今後とも党内に害を及ぼすだけです。“オオカミ中年”桝添要一ですら遂に離党しました。「離党ブーム」の自民党にならうわけではないけれど、渡部、前原らの民主党からの離党を強く求めるものです。

 (大場光太郎・記)

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絶品 ! 草刈民代ヌード

 「すべてをさらけ出さなければ、人を感動させることは、できない」

 20日の朝日新聞を開いて、ブッタマゲタ人も多かったようです。何と日頃「お堅い」ことで知られる朝日の5面に、デカデカとヌード写真が掲載されたからです。そしてこれが、朝日読者の枠を越えて、大きな関心を集めているようです。
 ヌードの被写体は、バレリーナ出身で去年女優に転身したばかりの草刈民代(44)です。写真集『BALLERINE』(幻冬舎)の全面広告で、問題のヌードは草刈が全裸でバレエのポーズを決めている写真です。

 最近の新聞各紙の常軌を逸した、民主党や小沢幹事長、鳩山首相バッシングを見せつけられると、『そもそも新聞には“倫理”なんてものがあるのか?』と思ってしまいます。報道する内容については無くても、「新聞広告」については倫理性などの審査が厳しいらしく、ヌードが掲載されることは異例のことです。
 しかも今回の写真は、乳首がバッチリ写っています。朝日新聞のその辺の広告審査基準はどうなっているのでしょうか?「過去には、91年10月14日付朝日新聞に掲載された写真集『Santa Fe』(宮沢りえ)の広告などがあります。今回、掲載にあたっては弊社広告基準にそって審査しています」と、朝日新聞広報部では答えています。ではその「基準」とやらをもう少し突っ込んで聞こうとしても、「これ以上のことはお答えできません」と言うことのようです。

 ある広告代理店の新聞担当者は、「草刈さんのヌード広告が掲載されたのは、朝日新聞の東京版だけですが、全面広告なら1000万円はくだらない。写真集のターゲットは女性の知識層だと聞いていますし、ヌード写真といっても芸術性が高いので、倫理基準も何とかクリアできたのでしょう。広告不況にあえぐ新聞社にとって、このご時世に全面広告を出してくれるなんてありがたい話は、なかなかありませんから」と語っています。

 このヌード写真は、あくまでも私の感想ながら、とても44歳とは思えないほどの究極の“女体美”を表現していると思います。一方ではミロのヴィーナス的な端正な古典美を感じさせ、また一方ではこういう写真には不可欠な要素である、熟女ならではの妖艶なエロスも十分漂っているのです。
 被写体は私たちと同時代を共に生きている、草刈民代という生身の女性です。しかしながら、そんな卑小な時間を超越した普遍化された“女性美”、神々しいほどの“女神性”すら感じられます。
 それと共に、草刈が30数年没頭してきたトップバレリーナとして、全身にくまなく張りめぐらされた美意識が生み出した、最高の女体の表現だとも思います。「エロス」と「タナトス」が同居しているような、不思議な芸術作品であるように思われます。

 ところで、「すべてをさらけ出さなければ、人を感動させることは、できない」というのは、このヌード広告上部に掲げられたキャッチコピーです。タイトルが「BALLERINE」(バレリーナ)であるとおり、草刈民代自身にもバレリーナ人生の集大成としての意味合いが、この写真集出版にはあったものと推測されます。
 バレリーナも女優も、自身の体をまるごと「さらけ出す」仕事です。仕事の主要部分が身体的パフォーマンスですから、必然的にそうならざるを得ないわけです。観客の突き刺すような視線を、体の全細胞で受け止めなければならないのです。逃げれば負けの厳しい世界です。その意味でこの言葉は、今女優として新たな道を歩み出している草刈自身の、強い決意表明であるようにも思います。

 「すべてをさらけ出さなければ、人を感動させることは、できない」は、文字どおり真実の言葉です。しかしかと言って、この写真のように不特定多数の目に触れる形で、自分の裸体をさらけ出せる人が一体どのくらいいるものでしょうか?仮にさらし得たとして、万人から絶賛されるでしょうか?
 このキャッチコピーはつまるところ、バレエを通して長年鍛錬してきた身体への、草刈民代の強い自信と覚悟の言葉に他ならないことでしょう。

 (追記)21日写真集が発売されました。さすがに大新聞での全面広告の効果はてき面で話題性抜群、初日にして初版12000部が完売し至急増版予定ということのようです。当ブログで取り上げた関係上、他人事ながら大変嬉しく思います。草刈民代さんには、今後ともさらに磨きのかかった艶っぽい女優としての演技を見せてもらいたいものです。

 (大場光太郎・記)

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つましい灯(ひ)

   黄昏に我が家の灯 窓にうつりしとき
   わが子帰る日祈る 老いし母の姿
   谷間灯ともしごろ いつも夢にみるは
   あの日あの窓こいし ふるさとの我が家
   谷間灯ともしごろ いつも夢にみるは
   なつかしき母のまつ ふるさとの我が家
   (繰り返す)
          (アメリカ民謡『谷間のともしび』
                日本語詞:西原武三)

 アメリカの歌なのに、我が国の昔からの歌のような懐かしさがあります。郷愁めいた遠く過ぎ去った日々のことを、やさしく思い出させてくれます。『谷間のともしび』。中学三年の時に習いました。そしてこの歌に結びつく思い出も、その頃のことです。

 当時私は、山形の田舎町(東置賜郡宮内町・現南陽市宮内)に住んでいました。家が貧しかったものですから、「お母さんの生計を助けなさい」という担任の先生のご助言で、学校が終わってから夜の九時頃まで(中学一年から)アルバイトをしていました。
 その頃は、町なかの酒屋さんのアルバイトでした。店番、店内の掃除や商品の並べ替え、配達…。
 仲秋のある夕方、ビールか何かの配達で荷物を自転車の後ろに乗っけて、町外れのあるお宅に伺いました。私の知っている、二、三歳年上の先輩の家でした。
 「お晩でーす」。「はーい」。玄関の両開きのガラス戸の片側をがらがらと開けて、中に二、三歩入らせてもらいました。
 すると私が立っているやや広い土間より、一段高くなったすぐの間(ま)で、くだんの先輩と、やや年老いた感じのその母親と思しき人が、ちょうど夕食をとっているところでした。先輩は私を見て、『やあ』というように少し頭を動かし、またすぐ食事の態勢に戻りました。
 ちゃぶ台をはさんで、互いに向かい合った黙々とした夕餉。ちょうど真上あたりに、丸くてうす汚れたカサをかぶった裸電球が、二人をほの暗く照らしていました。
 私はそれを見て、『あヽいいなあ』と思いました。半分はほほえましいなあというのと、もう半分はうらやましいなあというのが、入り混じった想いの…。

 (その後どのように商品を置き、勘定をもらったのか…。まるで覚えていないのに。)
 たったそれだけの光景を、今でもたまに思い出すことがあります。
 昭和30年代のつましいともしび。その下(もと)での、親子二人のつましい夕餉の光景を。

 (注記)本記事は、2008年4月17日「二木紘三のうた物語」の『谷間のともしび』コメントを転載したものです。

 (大場光太郎・記)

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検察審査会「起訴相当」答申?

 もしそうなら、政治的謀略組織・検察は戦時中の暗黒捜査機関と全く同じだ

 先日の『怪しい検察審査会の動き』記事で述べましたように、検察審査会(以下「検審」)は、怪しげな市民団体が申し立てた小沢事件だけを、なぜか2ヶ月余という異例のスピードで審議しています。それ自体が異常なことなのに、何と本日20日にも検審による“判決”が出されるとの情報が広がり、政界・永田町が一気に緊迫しているというのです。

 検審の審議は、一般の有権者からクジで選ばれた11人の審査員によって行われます。ところで小沢幹事長の案件を審議している審査会は、4月末に11人中6人の任期が切れてしまいます。5月に入ると、また6人の新しいメンバーが加わって一から審議することになります。そこで4月中に結論を出すとみられるのです。審議は通常火曜日に行われるため、20日が大本命となっているのです。
 検審の審議の結果、11人中8人以上が「刑事責任を問うべきだ」と考えれば「起訴相当」、過半数が「もっと捜査を尽くすべきだ」と考えれば「不起訴不当」、いずれも満たさなければ「不起訴相当」となる仕組みです。

 小沢幹事長の案件は、地検特捜部が威信を賭けて念入りに捜査し、2月4日「嫌疑不十分で不起訴」としたものです。常識では「不起訴相当」の答申となるケースです。しかし審査員がマスコミ報道に左右されやすい一般人のため、今回の小沢案件については「起訴相当」や「不起訴不当」となる可能性が十分あり得るのです。

 それを裏づけるような怪情報が注目を集めています。政治評論家の歳川隆雄氏がネット情報誌『現代ビジネス』で、「“起訴相当”の答申が出る」と書いているのです。そして東京地検はもし仮にそうなったら、即日「在宅起訴」に持ち込む構えだとしています。
 そもそも検審は、会議内容はもとより、開催時期すら明かされない完全非公開の会議です。ある司法関係者は、「検審は事件を扱う組織だけに、警察、検察など捜査機関と同様の“秘匿性”が求められます。仮に審査員が会議情報をペラペラ話せば、当事者の証拠隠滅や逃亡の可能性もあるし、審査員を逆恨みして襲われる危険性すら出てきます。だから検察審査会法は、会議の非公開や審査員への罰則付きの守秘義務を課しているのです」と語っています。

 今回の場合、歳川氏に会議情報を漏らしたのが審査員とは考えられません。検審に「起訴相当」答申を出すよう仕向けさせ、それを大義名分として小沢幹事長を「起訴」に持っていきたい、地検幹部による情報リークであることは明らかです。年初以来小沢捜査情報をリークしまくった、地検幹部による「国家公務員法違反事件」と同じ手口です。
 おそらく今回の件でも暗躍しているのは、3月に地検次席検事に着任したばかりの大鶴基成検事であるのは間違いないでしょう。「自分の保身・栄達」しか眼中にない大鶴ら狡猾な地検幹部は、検審の「検察官が独占する起訴の権限(公訴権)行使に民意を反映させる」という本来の役割を逆手にとって利用しているのです。

 もし仮に「小沢起訴」となれば、年初来の小沢捜査時以上に各マスコミが騒ぎ立てるのは明らかです。歳川隆雄氏は、もしそういう事態になったら鳩山首相はこれを奇貨として、小沢幹事長更迭を決断すると予測しています。同時に決着できそうにない「普天間問題」の実質的責任者である平野博文官房長官と、女性スキャンダルを騒がれた中井国家公安委員長など、一部内閣改造を断行し、支持率低下に歯止めをかけるもようだとしています。
 後任の幹事長には、菅直人副総理兼財務相あるいは今鳩山首相が最も頼りにしているという仙谷由人国家戦略相などが候補だろうといいます。新官房長官には岡田克也外相を、新外相には前原誠司国交相を、新財務相には野田佳彦を充てる考えだろうと予測しています。

 こうなると党内は一気に「脱小沢色人事」となり、仙谷、前原、岡田、枝野、野田ら、老害・渡部恒三と気脈を通じた、民主党内の親米派・親戦争屋の“獅子身中の虫”を重用することになります。第一この連中は、昨夏の衆院選での功績はゼロでした。それに支持率低下の大きな要因の一つは、普天間問題に顕著なように鳩山首相自身の「リーダーシップの欠如」にあります。
 こんなことで鳩山政権は再浮上できるのでしょうか?小沢一郎抜きで、党内の結束が保たれるのでしょうか?「小沢は辞めたぞ。同じような問題を抱えている首相、アンタはどうなんだ」という、マスコミや自民党の厳しい追及をうまくかわせるのでしょうか?それよりなにより、今夏の「最終決戦」参院選に勝利することができるのでしょうか?

 小沢は自ら「辞任カード」を切ることによって、自分に近い海江田万里選対委員長代理か細野豪志副幹事長を後継幹事長に指名するという見方もあります。
 いずれにしても、もし仮に小沢失脚という事態になれば、何やら十数年前短命に終わった細川政権と同じパターンをたどるような気がしてなりません。折角国民が勝ち取った政権交代という「無血革命」が、検察の政治的陰謀と新聞・テレビの執拗な世論誘導によって、今や風前のともし火です。

 小沢幹事長は18日、地元岩手県奥州市の水沢体育館で開かれた「父母をしのぶ会」に参列し、2千人以上集まった支持者を前にして、「仏さんにカンベンしてもらって、政権を取ってからという思いで今日まできた。念願の政権交代ができ、やっと報告と供養ができる」と挨拶し、「最後の総仕上げ、ご奉公のつもりで、日本に民主主義を定着させなければいけない。そのため私の残りの人生を頑張っていきたい」と“鬼の目”に涙をにじませながら締めくくりました。
 またまた「政治生命」を奪われかねない今、小沢幹事長には何か取って置きの“秘策”があるのでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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水引マック周辺随想記

 以前も述べましたように、今年の春はどうも天候不順気味です。その記事でおととしの春とパターンが似ているといいましたが、どうも同年よりもっと不順傾向は強いようです。
 そんな中当地の桜はとうの昔に終わってしまいました。どうやら桜のピークは今月上旬だったらしいのですが、今年は寒くて雨や曇りの日が続き、たまたま晴れて気温が上昇した日を見計らって、桜はその日一気に満開になってしまったもののようです。そんな具合で、今年に限っては満開の時期をじっくり味わうことなく、気がついたらいつの間にかすっかり散っていたという、甚だ欲求不満気味な桜模様となりました。

 数日ぶりの“春うらら”の晴れの一日となった18日、午後から厚木市内のマクドナルド店を利用しました。同マック店は国道246号線沿いにあります。ドライブスルータイプの店です。ご存知かとは思いますが、車で来店したお客が車を降りずとも、指定エリアで待っていると注文の品が受け取れるシステムです。久しぶりの晴天の春の休日、行楽帰りなのか、遠い地方のナンバーなどもしょっちゅうスルーし、大賑わいです。
 同店南側駐車場に接して、246号に直交する東西に走る道路があり、そこは大きな交差点となります。その道路を挟んだ、マックと同じ並びは神奈川県警厚木署です。

 厚木署は10年ほど前署内での暴力事件が明るみに出て、その出来事によって3階建ての同署正面映像が、何度か全国的に流されました。同署建物は、私が当地にやって来た昭和43年以前から変わらずの古い建物です。
 かと思ったら、次は神奈川県警本部そのものの不祥事、そして全国各地の都道府県警察の不祥事が次々に暴露報道される事態となりました。国民視聴者に「もう警察は信用できんぞ」というきっかけとなったのが、厚木署の古い庁舎だったわけです。

 そんな不名誉なことはともかく。確かに私がやって来た当時から、厚木警察署とさらに南隣の神奈川県厚木北合同庁舎の建物はありました。しかし当時は、厚木市街の端を南北に走る現在の国道246号がちょうど建設中でした。
 その頃の旧246号は、小田原、伊勢原方面から厚木市役所前など市街地の中を走り、相模川に架かる相模大橋を経て、海老名市、大和市、横浜市そして渋谷に到るルートでした。

 その頃現在マックがある辺り一帯には田園が広がっていました。当時からあったのは、厚木警察署、県の厚木北合同庁舎、そこから2、300m北の厚木市農業協同組合(現JAあつぎ)ビル、その東側対面の県立病院(現厚木市民病院)など主に公共の建物がぽつりぽつりとあっただけ。今ではびっしり建て混んでいますが、当時はずっと北向こうまで広々と見通せたのです。
 この付近は「厚木市水引」という地名が示すとおり、昔々は1キロ以上東側に南北に縦貫して流れる相模川が氾濫でもすると、この付近一帯まで同川の水が押し寄せてきたといいます。土地の古老の話では、マックや警察署からさらに数百メートル西までがいざとなると水に浸かったようです。

 それから先はガクンと切り立った崖となり、戸室地区以西の高台となり、緑ヶ丘、温水(ぬるみず)、飯山などの丘陵地帯が広がっていくわけです。高台の入り口にあるのが、神奈川県でも名門高校の1つと言われる厚木高校です。実際幾多の有為の人材を輩出してきたようです。
 この水引マックにも、夕方など学校帰りの厚高生たちがグループで利用し、わいわい興じている姿を目にすることがあります。ふざけ合っていても、さすが見るからに皆賢そうです。能力といい、若さといい、彼らの未来は本当に羨ましいほどの無限の可能性が広がっているわけです。

 昭和43年山形の高校を卒業して当地にやってきた頃は、私も彼らとそう違わない年頃でした。私はたまたま工事中の現246付近の土地の測量に従事し、この近くを走り回っていました。
 厚木警察から少し南寄りに大きな陸橋が架かっています。今いる水引マックの2階からも、ひっきりなしに車が行き交う陸橋のさまを眺めることができます。当時はそれがちょうど建設工事中だったのです。もう陸橋としてのアーチ型の姿は造られていましたが、まだ未舗装の砂利道で所々に建設資材が積まれているような状態でした。

 たまたま私は測量道具か何かを持ちながら、工事中の陸橋を北から南へ越えようとしていたのです。するとその途中で、同橋の土木作業中の知らないアンちゃんが、私をしげしげと見つめながら、「おたく、いい男だねえ」と言ったのです。思いがけない言葉に、私は照れ笑いを浮べながら一瞬立ち止まりました。見れば、私より2、3歳ほど年上の人のようです。そして一言も返さず、そそくさとその場を歩き去りました。
 山形から当地にやってきた頃、当地での仕事、生活、対人関係になじめず、悩み苦しんでいる最中でした。ですからそんな言葉をかけられても、それで苦しい現実が変わるわけじゃなし。密かに芸能人になる夢があったのならまだしも、そんなことを考えたこともない身には、何の足しにもならない言葉でしかなかったのです。

 その頃コンプレックスの塊りだった私は、自分自身をまるで信じることが出来ないまま、気がついたら40余年が過ぎていました。当時7万人にも満たなかった当市の人口は、今では21万人を超えています。旧市街地は年々装いを新たにしていき、郊外部はどんどん宅地化され新市街地へと変貌していきました。
 すべてのものが変化の渦中にある中で、ただ独り私のみは変わらずに変化から取り残されてきたようです。いえ、その時見知らぬ人が「いい男だねえ」と言ってくれた容貌だけは、容赦なく変わってしまいましたが…。

 少しはものの道理が解りはじめ、何とか自分の自信を取り戻しつつある昨今です。そろそろ私も、本当により良く変わっていかなければならないと感じる今日この頃です。

  -4月19日。我が61歳の誕生日に-

 (大場光太郎・記)

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「初音ミク」って誰だ?

 これをお読みの方の中には、「初音ミクなんてとうに知ってるよ」という人も多いかもしれません。日頃「年寄り」という言葉は禁句にしている私ですが、さすがに間もなく61歳になんなんとする身にはそういう情報が疎くなるのか、初音ミクという名前を今回初めて知りました。ですからご存知の方はそのつもりで、以下の文をお読みください。

 卒業式シーズンの3月中、『今「仰げば尊し」は歌われない?』から始まって、『「蛍の光」あれこれ』そして『「蛍の光」は1万2千年前の歌?』シリーズまで、『蛍の光』をずい分取り上げてきました。これは当初から、『蛍の光』(Auld Lang Syne-オールド ラング サイン)が、1万2千年前レムリアが海中に没する際、神官・女性神官たちによって「遠い未来の再会を約して」歌われた歌だった、ということを述べるための伏線であったわけです。

 そのくらいですから、関連記事をすべて書き終えてからも、『蛍の光』はますます愛着の深い歌になっていきました。そこで同歌を今でも聴いていますが、“YouTube”には同じ『蛍の光』でもさまざまなバージョンがあります。当初は『゜蛍の光」あれこれ』末尾で述べたように、「猫声バージョン」と「女児合唱バージョン」をもっぱら聴いていました。
 特に「猫声バージョン」の方は、気分が落ち込んだ時に、動画で映される5匹の猫が可愛くて、そのユーモラスなしぐさにげらげら笑ってしまい、ストレス発散に十分でした。アクセスもけっこう多いようですが、本当に傑作です。この動画を作成した人の“遊び心”と映像技術の高さには心より感服します。

 そのうち4月になりますと、YouTube上に新しいバージョンが右サイドに紹介されるようになりました。その中に「蛍の光【初音ミク】」というのがありました。
 えっ?初音ミクって誰だ?
 どこかで聞いたことがあるような、ないような。今売り出し中の女性ボーカリストかな?と思い、とにかく聴いてみることにしました。

 いざ聴いてみると、これが歌唱力抜群の聴き応えのある歌声なのです。歌声から判断するに、いたって若い、ひょっとして小学校高学年から中学1年くらいかな?と思いました。その時2、3度繰り返し聴いてすっか聴きほれてしまい、早速「お気に入り」に入れました。
 『蛍の光』の歌の味わいを実によく引き出している歌声だと思います。以来機会あるごとに聴いてきました。
 当初はさして気にならなかったものの、少し経つうちにやっぱり『初音ミクって誰だ?』と気になり、本当に誰なのか知りたくなりました。ちなみにYouTubeに動画を提供している「kamarin0430」さんは、
 「蛍の光」(原題:Auld Lang Syne スコットランド民謡)をVOCALOIDの初音ミクさんに歌っていただきました。
と紹介しています。私は浅はかにも、『“ボーカロイド”というグループで歌っている女の子か?』と思ってしまいました。

 ある時手っ取り早く「グーグル検索」をかけてみました。その結果驚きました。初音ミクは、「この世の者ではない」というのです。例えば『フリー百科事典「ウィキペディア」』では、
 初音ミクとは、2007年8月31日にクリンプトン・フューチャー・メディアから発売された音声合成・デスクトップミュージック(DTM)ソフトウエアの製品名、及びキャラクターとしての名称である。
 ヤマハの開発した音声合成システム『VOCALOID2』を採用したボーカル音源の1つで、メロディと歌詞を入力することで、合成音声によるボーカルパートやバックコーラスをパソコン上で作成することができる。また声に身体を与えることで、より声にリアリティを増すという観点から女性のバーチャルアイドルのキャラクターが設定されている。
 名前の由来は、未来から初めての音がやって来るという意味で、「初めての音」から「初音」、「未来」から「ミク」。
というように説明されています。

 また発売元クリンプトンの『VOCLOID2特集「初音ミク」』ページでは、
  年齢  16歳    得意ジャンル     アイドルポップス/ダンス系ポップス
  身長  158cm  得意な曲のテンポ  70~150BPM
  体重  48㎏    得意な音域      A3~E5
などと、キャラクターがかなり具体的に紹介されています。(非営利であれば、キャラクター画像の利用はほぼ自由。)
 発売以来というべきかデビュー以来というべきか、とにかく凄まじい人気のようです。それを物語るように『ウィキペディア』では、初音ミクの「キャラクター」「プロフィール」「主な受賞歴」「インターネットでの反応」「初音ミクとネギ」「みっくみく」「同人文化としての初音ミク」など、何と32ページにもわたって紹介されています。
 これは私が調べた「有名人」の中では、去年6月急死したマイケル・ジャクソンの38ページに次いで多いページ数です。そもそも初音ミクは、架空の「VOCLOID」であることを考えると驚異的なことだと思われます。

 言われてみればー。初音ミクバージョン『蛍の光』は、聴いていて『あれっ?』と思うような個所が幾つかありました。しかしそれは、編曲上のことと見做してしまえばさほど気にならず、人工的合成音とは夢思いませんでした。クリンプトンの設定では16歳とのことですが、『蛍の光』を歌っている“ミクちゃん”はやはりそれより幼い声に感じます。
 しかし澄んだ伸びのある本当に良い歌声で、聴くたびに癒されます。(他に初音ミク版『仰げば尊し』『軍艦行進曲』などがありますが、これらははっきり人工音と分かります。)

 余談ながら、『「蛍の光」あれこれ』で引用しました、映画『哀愁』の有名なシーンをダイジェスト的に編集した、感動的『Auld Lang Syne』もYouTube動画に登場しました。

 (大場光太郎・記)

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怪しい検察審査会の動き

 どうも変だぞ。超スピードで進む鳩山・小沢事件の検察審査会

 最近鳩山首相の元公設秘書が在宅起訴された虚偽記入事件で、首相の不起訴処分の当否を審査中と報じられました。また民主党の小沢幹事長の資金管理団体をめぐる収支報告書虚偽記載事件でも、東京第5検察審査会が6日東京地検の検事から意見聴取したとも報じられました。
 極秘であるはずの検察審査会(以下「検審」)の内容が、両事件とも記者に漏れているのです。これは年初の小沢捜査情報が土石流的に報道されたのと軌を一にするものです。またぞろ検察関係者からの意図的リークによるものとみるべきです。

 また異常なのは、両事件が異様な早さで審査が進んでいることです。鳩山首相の事件は1月、小沢幹事長の事件は2月に、それぞれ検審が申し立てを受理したものです。なのに共同通信や日経新聞によれば、「今月にも議決される見通し」というのです。
 もしこれが本当ならば、検審が審査に費やす期間はたったの2~3ヶ月ということになり、とにかくこれは極めて異常な事態なのです。

 別の事件と比べてみるとよく分かります。例えば、自民党支部長でありながら「完全無所属」を名乗って千葉県知事選挙に当選した森田健作の、公職選挙法違反容疑の告発です。千葉地検の不起訴処分を不服とした市民団体が、昨年12月に検審に申し立てを行いましたが、4ヶ月経っても何ら進展していないのです。
 告発した「森田健作氏を告発する会」の代理人弁護士は、「こちらの申し立ては、検審でいつ議決されるのか、会議がいつ開かれているのか全く分かりません。(鳩山首相などの検審の状況に比べて)不思議な扱いだと思います」と語っています。

 また1月の『東京地検は、こちらも直ちに捜査せよ !』記事でも述べましたが、「公金の違法な使用をただす会」という市民団体によって1月18日に告発された、前内閣による2、5億円にも上る「機密費持ち逃げ疑惑」は、3ヶ月が経過した現在でも棚上げ状態、捜査に踏み切ったという情報は一切ありません。同事件は、悪質性において小沢事件の比ではないのです。もし地検が本当に「正義の砦」であるのなら、河村建夫前官房長官を即逮捕、起訴すべき大事件です。
 なのにこちらは一切捜査せず、鳩山、小沢を告発した、樋渡検事総長もその一員である「日本版CIAネットワーク」関連の怪しい市民団体のものは、「待ってました」とばかりに直ちに捜査開始したのです。

 今回の件に戻ります。さて検審はそんな早さで議決できるのだろうか?ある司法ジャーナリストは小沢事件について、「そもそも検察が1年以上かけて捜査して集めた資料は膨大です。検審事務局が要点をまとめるとはいえ、くじで選ばれた一般国民の審査員は、慣れない法律用語を読むだけで大変だし、資料を理解するのに時間がかかる。今回、検事から意見聴取と報道されたが、審査員が事件の概要をどこまで理解して質問したのか疑問です」と語っています。

 本来ならば東京地検特捜部が、小沢関連をしらみつぶしに捜査して「嫌疑不十分で不起訴」としたのですから、検審の結論も「不起訴相当」となるのが当然です。もし仮に「起訴相当」や「不起訴不当」と議決されれば、地検特捜の「不起訴処分は一体何だったのか」と、東京地検の権威が根底から揺らぎかねないからです。
 しかし旧勢力「悪徳ペンタゴン」の一角である検察幹部らにとって、今は彼らの官僚生命がかかった大一番の時です。もはやなりふりかまっていられないのです。「検察モンスター」とでもいうべき東京地検は、息がかかっている検審に「起訴相当」あるいは「不起訴不当」の議決をさせ、特捜部が再捜査する方針であるのは明らかです。この者が手掛けた捜査では「必ず自殺者が出る」と言われる、大鶴基成の地検次席検事着任もその兼ね合いからでしょう。

 蛇蝎の如き東京地検の狙いは、「小沢幹事長の失脚」であり「民主党政権崩壊」です。そのため、支持率下落が止まらない今こそ最大のチャンスととらえているのです。事件の詳細などさっぱり分からない一般国民から選ばれた審査員も、今なら少なくとも「不起訴不当」には諸手を挙げて賛同してくれるだろうというわけです。
 鳩山政権、民主党への支持率下落は、年初以来の新聞・テレビとの絶妙な連係プレーのなせる技です。彼ら悪徳ペンタゴン連中は、今夏の参院選こそ「最終決戦」と位置づけ、シャカリキに民主党政権潰しにかかっているのです。もし民社党が勝利するようなことになれば、その後の容赦ない「検察改革」「マスコミ改革」によって、彼らが長年吸い続けてきた悪徳権益はジ・エンドですから、死に物狂いなわけです。

 残念ながら、新聞・テレビだけが唯一の情報源の国民多数には、こういう構図がまるで見えていません。その結果、大メディアにいいように“マインドコントロール”されるだけです。これで「国民主権」などと言えるでしょうか?
 「モンスター検察」「モンスターマスコミ」を、これ以上野放しにしてはいけません。「草の根ネット民主主義」の広がりが、今後ますます強く求められるゆえんです。

 (大場光太郎・記)

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続・自分に賭けてみなさい

 アンジェラ・アキメッセージ-「夢を捨てずに、追い続けてください」

 大学卒業後、昼はオフィスで、夜はバーやライヴハウスで歌うという二重生活に疲れ、落ち込んでいたアンジェラ・アキに光明を射し込んでくれたのは、会社の上司ボプ・ビンガムさんの、「Take a chance on you」(自分に賭けてみなさい)という言葉でした。
 ボブさんは、なお踏ん切りがつけられないアンジェラに、「三角形の目標設定法」も伝授しました。これはピラミッド形の三角形を三等分し、上から短期、中期、長期の目標を設定するというものでした。

 アンジェラ・アキは会社を辞め、プロのミュージシャンを目指す決意を固めます。そんな頃東京でのCMの仕事が舞い込み、何度かワシントンDCと東京を行き来します。アンジェラは初めて訪れた東京に、何とも言えない懐かしさを感じたといいます。そして何度か行き来するうち、東京を去り難く感じている自分に気がついたというのです。
 アンジェラ・アキは、ミュージシャンとしての活動の場を母国日本にする決心を固めます。こうしてアメリカを離れ東京に移り住んだのが2003年12月、彼女が26歳の時のことでした。

 しかしいざ東京での活動をスタートしようとしても、プロミュージシャンへの道のりは厳しく険しいものでした。当時の日本の音楽業界には「ハーフは売れない」という定説のようなものがあり、その言葉を聞いて彼女の少女時代の“ハーフコンプレックス”がまたもやフラッシュバックされ、傷つき落ち込んだといいます。
 また26歳という年齢もネックとなり、「うちは23歳以下でないと採らないから」などと、足を棒にして売り込みをかけても軒並み断られ続けたそうです。

 そんな折り、当時人気絶頂だった椎名林檎の日本武道館のコンサートを聴く機会がありました。そこでアンジェラは、椎名の強烈な個性に強い衝撃を受けながら、何の見通しもないのに『よし。3年以内に私もこの武道館でコンサートを開いてみせるわ』と心の中で誓ったというのです。これが彼女にとっての新しい目標となります。「期限を決めて、具体的な目標を紙に書き込め」というボブさんの教えに従って、彼女は早速その目標を書き出し部屋の壁に貼付け、毎日見続けたそうです。
 こうして具体的な目標を設定し、期限を設けて自分を追い込むことによって、甘えを排し、困難に前向きに立ち向かう力を得ていったのです。

 「信じる時、夢は必ず実現する」とは、ウォルト・ディズニーの名言です。夢を信じてあきらめないアンジェラが東京のとあるライヴ店で歌っていた時、チャンスが訪れます。彼女の歌が、たまたまその店に来ていたあるレコード会社のプロデューサーの心をとらえたのです。
 プロデューサー氏はその時、『何といっても歌詞が素晴らしい。これはリスナーの心に届く』と確信したといいます。こうして2005年9月アンジェラ・アキはプロデビューを果たしたのです。デビュー曲『HOME』は60万枚の大ヒットを記録します。

 CDやコンサート活動などによって着実にファンを増やし、名前を浸透させていったアンジェラは、2006年12月遂に念願の日本武道館でのコンサートを開くことができたのです。これは武道館では初めての弾き語りライヴショーとなりました。
 当日武道館には1万4千人もの観客が詰めかけ、アンジェラは16曲を熱唱し、たった一台のピアノと歌だけで観客の心を揺さぶり続け大喝采を浴びました。
 こうしてアンジェラは、見事に夢を実現させたのです。

 サラ・マクラクランに影響を受けた彼女は、自分の少女時代からのコンプレックスなどを何のてらいもなく歌詞にし、歌い込んでいます。それが同じような苦しさ、寂しさを感じている若い女性たちの共感を得ている大きな理由だといいます。実際彼女のコンサート会場では、両の目から涙をボロボロ流して彼女の歌に聴き入っている女性がけっこう多いのです。
 若い女性ならずとも、彼女の歌は、聴く者をぐいと引き込み、心を打つ力がありそうです。『音楽の力は凄いな』と思わせられます。

 さて番組では、アンジェラ・アキ(32)の大恩人であるボブ・ビンガムさん(55)もアメリカから駆けつけました。ボブさんもその後会社を辞め、ボルチモアで牧師としての活動を始めているそうです。アンジェラに対してそうだったように、ボブさんは強い感化力を持ってるようで、牧師の仕事は彼にとって天職かもしれません。
 久しぶりの2人の再会も大変感動的でした。

 しかし考えみれば、たとえボブさんが「自分に賭けてみなさい」と的確な言葉を与え、取っておきの目標設定法を授けても、それをどう生かすかは当人次第です。番組の中でアンジェラは、「出会いは不思議。必要としているタイミングに出会えるようになっている」という発言をしていました。
 ボブさんのその時の一つ一つの助言を“天の声”のように聞き従い、どんな困難にあっても当初立てた目標から心をそらさず、遂に大きな目標を達成させたアンジェラ・アキはとにかく非凡です。

 なお「三角形目標達成法」には、ピラミッドの頂点に“冠石”があるように三角形の突端部があり、それは「日々の行い」だそうです。「今日やることが目標につながっていなければならない」というのです。つまり日々の行いを、短期(半年~2年)、中期(2年~5年)、長期(5年~10年)に向けている自覚が必要だということです。
 アンジェラはある時、「あなたの歌詞は15歳の時のままね」とある人に言われたそうです。中学卒業と同時に日本を離れアメリカに渡ったのですから、なるほどそのとおりなわけです。しかしアンジェラはこの言葉に発奮し、以来漢字の書き取りをしたり週2冊は日本語の本を読み通すことにしているそうです。大きな目標から目をそらさず、しかも地道な努力も怠らないのです。

 『こころの遺伝子』番組でアンジェラ・アキが歌っているテーマソングは、『輝く人』です。彼女に言わせれば、「どんな人の中にも“輝く人”は必ずいるはず」とのことです。
 それを引き出すためにも、「夢を持て」「夢を捨てるな」「夢を追い続けよ」。そして「皆さんも目標を紙に書き出して、毎日見続けてみてください」とも言っています。
 そんな素敵なアンジェラ・アキの次なる目標は?何とずばり「グラミー賞を取ること」だそうです。しかし『彼女ならそのうち達成するかもな』と思えてきます。

 (大場光太郎・記) 

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自分に賭けてみなさい

 NHK『こころの遺伝子-あなたがいたから-』第3回は感動的だった !

 4月の番組編成により、各テレビ局とも新番組が続々登場していることでしょう。その中の一つ、NHKの『こころの遺伝子』という新番組をたまたま観てみました。といっても、14日深夜午前0時15分からの再放送でしたが。
 西田敏行と局アナの黒崎めぐみアナの進行で、毎回違うゲストを迎え、ゲストにとっての忘れがたい出会い、そしてその人から言われた一生を変えた言葉などを、ゲストへのインタビューを交えてながら、その人生を再現していく企画のようです。

 今回のゲストは、アンジェラ・アキという女性シンガー。私は初めて聞く名前で、どんなシンガーなのかもまるで知りませんでした。
 冒頭で彼女のライヴステージのもようが紹介されていました。ステージにはピアノが一台置かれていて、自身が作った歌を、彼女が弾きかつ歌うのです。それは躍動感とパワー溢れるオンステージでした。曲もさることながら、歌詞に強いメッセージ性が込められていてインパクトがありました。
 観客はおおむね若い女性ながら、皆総立ち状態で一緒に歌ったり右手を振り上げたりしながら、アンジェラと共にコンサートを共同創造しているような印象を受けました。中には涙をボロボロこぼしながら、それをぬぐおうともせず歌に聴き入っている女性もいます。

 そもそもアンジェラ・アキが同番組のテーマソングを歌い、今回ゲストとして呼ばれるくらいですから、現在ではミュージシャンとして十分過ぎるくらい成功をおさめていることは明らかです。
 しかしそれが、今日の我が国の芸能界の“二世現象”のように、さほど苦労もなくやすやすと成功していたのならとても興味など湧かず、途中で観るのを止めていたことでしょう。しかし実際は最後まで集中して観続けることになりました。何度も熱いものが込み上げてくるのを抑えきれずに。久しぶりに「良い番組」を観せてもらったな、という感想です。NHKだろうと何局だろうと、「良い番組は良い」と率直に言います。ただ同局をはじめとした、偏向した報道情報番組だけはいただけません。

 ゲストのアンジェラ・アキは、1977年(昭和52年)徳島県生まれです。父親が日本人、母親がアメリカ人の“ハーフ”です。彼女が生まれ育った徳島の小さな町では、ハーフの子供は珍しく、当時近所の人や学校の友だちから奇異な目で見られ、ずい分コンプレックスを感じながら育ったといいます。
 そんな中アンジェラを救ったのは、母親に勧められて3歳から始めたピアノだったといいます。だんだんピアノの腕前が上達するにつれて、友だちから「ピアノのアキちゃん」と呼ばれるようになっていきます。こうしてピアノを弾いている時だけは、唯一“本当の自分”を取り戻せる時間だったようです。

 中学卒業後アンジェラはアメリカに渡りハワイの高校を卒業し、ワシントンDCにあるジョージ・ワシントン大学に進学します。その頃クラスメートから誘われて、カナダを代表するシンガーソングライター、サラ・マクラクランのライヴを聴きに行き、深い感銘を受けます。 サラ・マクラクランは後に、音楽界の最高賞である“グラミー賞”を受賞し、今回のバンクーバー五輪では開会式の歌を歌ったほどの実力者です。
 アンジェラが特に感銘を受けたのは、サラの「歌詞」でした。サラの詞は人生の明るさや華やかさだけのキレイ事を歌ったものではなく、ネガティヴな想いや苦しみをストレートに表現していたのです。サラは、悩みを抱えていた彼女自身の代弁者のように感じたといいます。

 その時のサラ・マクラクランから強い影響を受け、アンジェラは「シンガーソングライターになろう !」と心の中で決意します。こうして大学卒業後、昼間は福祉関係の会社に勤め、夜はバーやライヴハウスで歌うという“二重生活”を続けていくことになりました。
 しかしライヴの客の主目的は酒を飲むことであり、アンジェラの歌など二の次、三の次。歌っていながら虚しい気分に襲われ『これでは落ちこぼれミュージシャンだわ』と思ったといいます。そして次第に、肉体的にも精神的にも疲労が蓄積されていきます。

 そんな時、アンジェラに「自分が本当にやりたい道に進みなさい」とアドバイスしてくれたのが、会社の上司のボブ・ビンガムさんでした。彼女のライヴを見て、オフィスでは見られない輝きを発見し、彼女の情熱と才能を確信したボブさんは、
  「Take a chance on you 」(自分に賭けてみなさい)
とアドバイスしてくれたのです。

 なおもためらっているアンジェラに、ボブさんは「三角形の目標設定」を勧めます。これはピラミッド形の三角形に二本の線を引き三等分して、上から短期、中期、長期の目標を書き出すというものです。短期は半年から2年、中期は2年から5年、長期は5年から10年で達成可能な目標です。
 ボブさんはまず「目標を設定する」ことが重要で、その達成に期限を設ければ成果は10倍に上がる、これを紙に書いて毎日見るようにすれば効果はさらに上がると説いたそうです。  (以下「続」につづく)

 (大場光太郎・記)

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長江濁る

 
            山口 青邨

  たんぽヽや長江濁るとこしなへ

 …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 山口青邨(やまぐち・せいそん) 略歴は『夏の名句(1)』参照のこと

 最近の海外での「HAIKU(俳句)ブーム」とは別に、海外旅行が日常茶飯事になった近年、名だたる俳人が海外に出かけて世界各地でかの地ならではの風物を詠むということも少なくないようです。
 しかし青邨のこの句は、戦時中の昭和17年刊句集『雪国』に収録されているもの。いつ作られた句なのかは分かりませんが、その頃青邨は40代半ばに達していましたから、中国大陸に兵士として出征したということでもないようです。時局から推察するに、昭和10年代初め中国を旅行した折りに詠まれた句とするのが妥当なところではないでしょうか。いわば青邨は今日の海外吟行の走りのような俳人だったと思われます。

 この句で詠まれている「長江(ちょうこう)」は、チベット高原を水源地帯とし中国大陸の華中地域を流れ、東シナ海へと注ぐ川です。全長は6,300kmで、中華人民共和国及びアジアでは最長、世界でも第3位です。我が国では、最下流部の異称である「揚子江(ようすこう)」の名でよく知られています。

 「長江文明」「黄河文明」という呼び方もされますが、数千年前の殷(いん)、周(しゅう)以来、中国文明は両大河川に挟まれた“中原(ちゅうげん)の地”で治乱興亡が繰り返されてきたわけです。その南部地帯に当たる長江流域では、盛唐の詩人・杜甫が
   呉楚 東南に圻(さ)け
   乾坤(けんこん) 日夜浮かぶ
と『登岳陽楼』で洞庭湖のさまを雄渾に詠んだように、呉と楚両国の長年の対立がありました。また秦帝国の次の覇権をめぐって、項羽と劉邦(漢の高祖)との間で熾烈な争いもありました。さらには三国時代、南征してきた魏の曹操の大軍に対して、呉の孫権と荊州の劉備連合軍が赤壁で迎え撃ち、魏軍を徹底壊滅させた「赤壁の戦い」もありました。

 俳人であり、また東大教授として当時の知識人の一人でもあった山口青邨が、そんな中国の歴史を知らなかったはずはありません。深い造詣は奥に隠して、
   たんぽヽや長江濁るとこしなへ
 悠久の歴史を秘めながら滔々と濁り流れ続ける長江に対するに、「たんぽヽや」とは。いやあ、参りましたという感じです。そのほとりにひっそりと咲いていたであろうたんぽヽは、雄大な長江あるいは中国興亡史と等価なものとして対置されているのです。

 それは何かしら、「野の花を見よ。…ソロモン王の栄華とて、この花の一つの装いだにも適わなかった」と説いた、イエスの“山上の垂訓”の一節を髣髴とさせます。
 時あたかも、日中関係にただならぬ暗雲が漂いはじめた時期でもありました。この句における「たんぽヽ」は、栄枯盛衰や抗争を繰り返す文明と人の世の哀しさを、かえって引き立たせてくれていて余韻の深い句です。

 (大場光太郎・記)

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131億年前の宇宙の姿

 4月11日(日)夜9時からのNHKスペシャル『ハップル宇宙望遠鏡 宇宙の始まりに挑む』はなかなか見ごたえがありました。大沢親分の愛孫の大沢あかねとの新婚ほやほやで、自身も子供の頃からの宇宙好きという“劇団ひとり”の、のりのりのナビゲーターぶりはさておき。何しろ景気低迷の昨今、日々の生活にあくせくしている私たち一般庶民を尻目に、「宇宙の謎」に挑み続けている最優秀頭脳たちは、今や宇宙の起源にまで限りなく迫ろうとしているというのです。

 そのための最新鋭秘密兵器は、「ハップル宇宙望遠鏡」です。既にこれをスペースシャトルで打ち上げており、現在大気のゆらぎで映像が遮られないような遥か地球上空を超スピードで飛び続けています。NASA(米航空宇宙局)の管制室からの指令により、宇宙空間の観測したい地点にピタッと照準を合わせ続けられるといいます。つい先年さらに最新鋭の設備にリニューアルしたことにより、映した画像の解析精度が一段とアップし、今や130億光年彼方の宇宙まで見ることが出来るということです。

 ところで宇宙の始まりは、何もない虚無からある時“ビッグバン”という宇宙的大爆発によって起こったとする「ビッグバン理論」が今日では定説です。いつぞやの当ブログ『星の界への憧れ』シリーズで触れましたように、私が高校生だった昭和40年代前半頃は、当時の宇宙物理学者ガモフらによって、ビッグバンは約150億光年前とされていました。
 しかしその後の日進月歩の宇宙物理学の成果により、今ではそれが起きたのは「137億光年前」とかなり正確に特定できるようになりました。ビックバン以来この宇宙は膨張を続けており、遠くの天体ほど遠ざかるスピードが速くなることが分かり、ドップラー効果に基づく赤色変移解析などからそう特定されたのだったでしょうか?
 今回のNスペでは、そのビッグバンが起きた137億光年前に、人類の英知はどれだけ迫り得ているか、その最新の成果を見せてくれるものでした。

 より遠くの天体や銀河を見るということは、より昔の宇宙の姿を知るということとイコールです。つまり10億光年彼方の銀河は10億年前の銀河であり、100億光年彼方の銀河であれば100億年前の銀河であるわけです。
 こうして今回、ハップル宇宙望遠鏡が送ってきた画像により、137億年に一段と近づいた131億年前の原始宇宙の姿が明らかになりました。

 一方それを超難解な数式などを駆使して、最新鋭のコンピュータ解析により理論的に解明しようという試みをした学者がいます。それが何とこの日本に。東大の吉田直紀准教授です。吉田准教授は、宇宙の始まりには何が存在したのか、銀河か、星か、それともブラックホールか?それを知るため、アインシュタインの数式とか何だかんだの、私などは見るだけで頭が痛くなるような100以上もの数式をコンピュータに入力し、ビッグバン直後の宇宙の姿にアプローチしようとしたのです。
 それはもしかしたら、科学者として一生を棒に振りかねない無謀な試みだったといいます。しかし入力後7年経って、原始宇宙の姿の解明に成功し、その成果論文を何年か前世界的科学誌『サイエンス』に発表、国際的に高い評価を得たのです。

 吉田理論によりますと、137億年前のビッグバンから3億年くらいはただの真っ暗な空間だけが広がる世界が続いたそうです。それが3億年を過ぎた頃から、水素、ヘリウム、暗黒物質(ダークマター)が発生し、ガス状のもやもやしたものが宇宙空間に漂い始めた。そしてさらに経過すると、それら水素、ヘリウム、ダークマターからなるガス状のもやもやが、突如一点に凝縮され強い光を放ち始めた。すなわちこの宇宙に最初に出現したのは、銀河でもブラックホールでもなく「一個の星」だったのです。それも太陽の100万倍もの明るさを有する超高温の巨大な「青い星」。吉田准教授は、これを宇宙最初の星ということで「ファーストスター」と命名しました。
 そしてさらに宇宙的時間が経過するにつれて、今度はファーストスターの周りに、同じような青い星が次々に生まれて輝き始めたとしています。

 余談ながらこの仮説から、『創世記』冒頭の「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光りあれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた」という有名な冒頭の一節が想起されました。

 さて本題のハップル宇宙望遠鏡では、131億光年前の宇宙の姿までアプローチできました。つまりビッグバンから6億年後くらいの宇宙の姿ということです。吉田准教授の仮説から2億年ほど後の宇宙の姿ということになります。
 その結果何が解ってきたでしょうか?ファーストスターのような星ではなく、現在全宇宙に1千億くらいあるといわれている渦巻状銀河でもない、いびつな形の銀河が認められたのです。我が太陽系が属する「天の川銀河」の直径は約10万光年ですが、その20分の1ほどの5千光年くらいのいたって小ぶりな原始銀河です。しかし驚いたことに色は「青色」、つまり吉田准教授が唱えたファーストスターと同じ色です。
 ビックバンから6億年ほど経過すると、次々に生まれた青い星々が無数に集まってこのような原始銀河を形成していったとみることができるわけです。こうして吉田准教授の仮説は、ハップル宇宙望遠鏡からの画像解析によって、その正しさが証明された形です。

 現歴史が「2012年の壁」を超えられたと仮定して、2013年にはハップルよりさらに性能がグレードアップした「ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡」を打ち上げる計画とのことです。そうなるとさらに何歩も137億光年に近づくことでしょう。
 こうして近未来、人類の英知はビッグバンそのものの謎を解明してしまうかもしれません。おそらくその時、多くの銀河同胞がそうであるように「時空間旅行の鍵」を手に入れるものと思われます。

 以上、「宇宙は広大無辺なり。日々のちっぽくさいことで何をあくせく」というような壮大なお話でした。

 (大場光太郎・記) 

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時の話題(7)

 横浜の姉妹都市・米サンディエゴ市に、新しい「赤い靴はいてた女の子の像」がー

 つい先日の『父と妹の死のこと』記事のれいこ様コメントの中で、山下公園内の「赤い靴の像」のことが触れられていました。私はその返信で、「近いうち会いに行ってくるつもりです」と述べました。それからほどない2008年4月1日の夕方にお約束を果たしました。その時の印象などは『「赤い靴はいてた女の子の像」実見記』として当ブログに収めてあります。「うた物語」の『赤い靴』経由で同記事をご訪問になる方が、今でも時折りおられます。

 今回は、その「赤い靴はいてた女の子の像」(以下「赤い靴の女の子の像」)に関する新情報です。
 横浜市と姉妹都市の米カリフォルニア州サンディエゴ市に、新しい「赤い靴の女の子の像」が建てられることになったと、山下公園内の同像を管理する“赤い靴記念文化事業団”が発表しました。除幕式は今年6月27日の予定だそうです。
 同事業団の前身である「童謡・赤い靴を愛する市民の会」が1979年に山下公園に像を建ててから、昨年で30周年を迎えたことを記念して企画したもののようです。それを受けてサンディエゴ市でも、山下公園に似た海辺のシェルターアイランドという公園を建設場所として提供してくれたということです。

 山下公園の像は,女の子がひざの上で手を組んで座っているものですが、サ市に建てる像は高さ105cmの立像です。両市とも港町ということで、女の子はセーラー服を身につけ、手には両市の花のバラとカーネーションを持っている姿のようです。
 私は以来山下公園の像を3回ほどみましたが、写真で見る限りサンディエゴ市の像は同像とはだいぶイメージが違うようです。あるいは向こうでなじみやすいように、米国流にアレンジした像ということなのでしょうか。

 いい機会ですから、以下に童謡『赤い靴』にまつわる話を述べてみたいと思います。
 童謡『赤い靴』は大正10年(1921年)野口雨情の作詞になるものです。翌大正11年に本居長世が曲をつけました。ご存知の方もおられるかと思いますが、この童謡にはモデルがいたのです。「岩崎きみ」という少女です。
 岩崎きみは明治35年(1902年)7月15日、日本平の麓の静岡県不二見村(現静岡市清水区)で生まれました。きみは赤ちゃんの時、いろいろな事情により母親岩崎かよに連れられて北海道に移りました。そこで母親に再婚話が持ち上がり、かよは夫となる鈴木士郎と開拓農場(現北海道留寿都村)に入村することになりました。
 当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく3歳のきみをアメリカ人の宣教師チャールズ・ヒュエット夫妻の養女に出します。かよと鈴木士郎は開拓農場で懸命に働きますが、努力のかいなく開拓はうまくいかず、明治40年失意のうちに札幌に引き上げました。

 その後夫の鈴木士郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃同新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。なお明治41年(1908年)小樽日報に移った士郎は、北海道時代の石川啄木とも親交を持ちました。
 ところで野口雨情は、明治41年に長女を生後わずか7日で亡くしています。そんな折り、かよは雨情との世間話の中で、お腹を痛めた女の子(きみ)を外国人の養女に出したことを話したものと思われます。この薄幸で数奇な少女きみちゃんにわずか7日間だけの命だった長女が結びつき、詩人野口雨情の中に「赤い靴の女の子」のイメージが着想され、『赤い靴』が生まれたのかもしれません。

   赤い靴はいてた 女の子
   異人さんに つれられて行っちゃった
 あまりにも有名な、1番の歌詞です。母かよは死ぬまできみちゃんがヒュエット夫妻に伴われてアメリカに渡り、かの地で元気に暮らしていると信じていたそうです。また「赤い靴はいてた女の子…」とよく口ずさんでいたといいます。
 
 しかし実は岩崎きみは、異人さんにつれられてはいなかったのです。というのも、ヒュエット夫妻が日本での仕事を終えて帰国する際、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれていた結核に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト派の孤児院に預けられたのです。
 そして投薬治療などのかいなく、明治44年(1911年)9月15日、同院で一人寂しくわずか9歳の生涯を閉じたのです。きみちゃんは、青山墓地にある鳥居坂教会のお墓に埋葬されました。

   横浜のはとばから 船に乗って
   異人さんにつれられて いっちゃった
 薄幸の少女岩崎きみは、実際はアメリカに渡っていなかった。しかしきみちゃんをモチーフとした童謡『赤い靴』はその後日本全国で歌われ、「異人さんに連れられていった、赤い靴の女の子」のイメージは多くの日本人の心にしっかり定着していくことになります。
 それとともに、2番の歌詞のゆかりから、横浜港に接した山下公園にその像が建てられることになったのです。そして今度は、とうとう海を渡った米国サンディエゴ市にその像が建つ運びになったわけです。

 (大場光太郎・記)

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一連の幼少回顧を終えて

 当ブログ、私が生きてきた半生の集大成にするつもりです。そのため今回は『父と妹の死の頃』として、「二木紘三のうた物語」の『赤い靴』拙文を転載させていただきました。私が「太郎村」で過ごしたのは、わずかに7歳の途中までにすぎません。
   夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
   水引草に風が立ち
   草ひばりのうたひやまない
   しづまりかへった午(ひる)さがりの林道を
 いつかご紹介した、立原道造の名詩『のちのおもひに』の一節です。しかし思えば太郎村での出来事は、私の半生における原体験的出来事であったように思われるのです。

 また「積善の家には必ず余慶(よけい)有り、積不善の家には必ず余殃(よおう)有り」とは、『易経』坤、文言伝中の一節です。半世紀以上前、我が家にあれほどの「余殃」があったということは、我が一族にいずれの時か「積不善」があったためと謙虚にとらえるべきなのでしょう。
 あの頃我が家の余殃は、極端な「貧(ひん)」となって現われました。一連の哀しい出来事により、我が一族の負債(余殃)はかなり減殺(げんさい)されたとみるべきです。その意味でも父親、母親、菊子の、この世での大変なご苦労には本当に感謝です。

 どなたもそうであるとおり、私は我が一族のタイムカプセルの出口であり、我が一族の現在における代表者であるわけです。ならば今日の私は完全に貧を脱して、我が一族の負債がきれいさっぱり無くなったと、晴れて世間様に証明出来得る状態に至っているだろうか?
 残念ながらまだまだです。幼児のあれほどの「貧体験」というものは、相当深刻なダメージを心の奥深くに残すもののようです。怖いことに「ダメ意識」が心の深部に突き刺さり、貧であることが習い性になってしまうのです。そのため半生の中で、我が家系には相当根深いものがあることをいやというほど痛感してきました。ものの道理の分からない若い頃は、『何でオレだけがこんな目に』と、母や早く死んだ父を恨んだりしたこともありました。しかこういう家系に生まれ落ちたことは「相応の理(そうおうのり)」というもので、他の誰の責任でもない私自身の業(カルマ)の深さでもあるわけです。

 地球全体が光に向かいつつある「今この時」、業や闇など重たいものは「光の世界」には一切持っていけません。何しろ全体が天国的精妙世界に移行するのですから当然です。よって私にまつわる諸々の重たいものは、他の誰でもない私自身が、「今この時」に適宜何とか処理していくべき課題であるのです。内なる闇を直視して、それを光に転換していく絶えざる努力が必要です。
 その作業を「世界人類が平和でありますように」の祈りの提唱者・五井昌久先生は、「観(かん)の転換」と言っておられました。良いことも悪いことも、身の回りに現われる元となるのは自らの「想い」です。ですから闇(病み)の想いを光の想いに。「祈り心で想いを転換しなさい」との優れた教えです。

 「光の世界へ」というとやたら難しそうで、初めからギブアップしたくなりそうです。しかし自分自身が光に向かっているかどうかを知るのは実は簡単なようです。いついかなる状況でも心の底から「喜び」「豊かさ」が実感でき、その状況に無条件で感謝できているかどうか?また「共時的現象(シンクロニシティ)」が起きやすくなり、願望実現が早くなるといいます。これらをバロメーターにしていけばいいようです。

 私は最近「清貧」などに誇れるものは何もない、目指すべきは「清冨」なのだとやっと分かってきました。世界救世教・岡田茂吉明主は、「神の子が目指すべきは、“健和富”だ」と唱えたそうです。30代の頃それを知って、私は『何だ、ずい分俗っぽい教えだな』と反感を持ちました。そしてあえて真逆な「貧病争災」の道を選んでしまった私は、以来さんざん痛い目に遭ってきました。その結果、今なら『全くそのとおり』と素直に共感できるのです。

 折角私は両親から、「光」の一字を名前につけてもらいました。これは私に対する、我が一族の先祖、祖先の期待の表れととらえ、一族の中で「光を宿す者」としての働きをすることが、父、母、菊子、ご先祖様へのせめてもの恩返しかなと思います。
 「大きな場所に“光る”太郎」などと、そんな大きな働きなど出来る器ではありません。しかし世の中の一隅で「“光る”太郎」つまり「光る男」くらいではありたいと思います。改めて今ここから「喜び」と「豊かさ」と共にー。

 (大場光太郎・記)

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父と妹の死の頃

 今回の一文は、2008年3月「二木紘三のうた物語」の『赤い靴』コメントに寄せたものを、冒頭部分を省略した以下の本文をそのまま転載したものです。なお本文に続くれいこ様のコメント、それに対する私の返信も今となっては思い出深いものですので、そのまま載せることに致しました。
                       *
 昭和31年、もう半世紀以上前のことです。この年、私の家は零落の極みでした。
 山形県内陸部の山あいの「太郎村」という戸数数十戸ほどの寒村に私の家はありました。(この部落名に「光」をつけて、私の名前になりました。)最上川の一上流である吉野川そばの、借地上のあばら家でした。畑のみの小作農、貧農でした。2年ほど前から家で病床にあった父と、母と、私と、すぐ下の妹と、二番目の妹の5人家族。父に代わって母が、畑仕事をして私たちを養ってくれていました。主食は、アワ、イモ、大根のたぐい。「白いおまま(ごはん)」は食べられませんでした。

 その年の4月半ば過ぎ、私が小学校に入って間もなく、父逝去。享年35歳。若すぎる死でした。
 父の野辺の送りも終わって、参列してくれた親族や村人らがほぼ帰った頃。福島県K市から来ていた父の姉(叔母さん)が、当時三つだった二番目の妹を「養子にもらい受けたい」と切り出したそうです。叔母家には子供がいなかったのです。叔母はどうも初めからその腹づもりだったようで、当家では出せない葬儀費用一切をこの叔母が出してくれたのだそうです。母は「それだけはダメだ」と強硬に拒みました。(母にとってその妹は一番お気に入りの「めんごいおぼご(可愛い子供)」だったようです。)しかし叔母は最後は、ひったくるようにして抱きかかえながら、その妹を連れていきました。
 
 妹は、手足をばたばたさせながら泣きじゃくって、見えなくなるまで母の姿を求めていた。その姿が忘れられないとは、母のずっと後年の談です。
 また、すぐ下の妹は、村から三里ほど奥に行った山の中の七軒部落の母の実家に預けられました。こうして我が家は、あっという間に、母と長男である私の2人だけになってしまいました。

 その年の9月。電報が届きました。「キクコ シス スグ コイ」というような内容の。キクコ(菊子)はもらわれていった妹の名前です。
 母に連れられて、K市の叔母家まで、初めての汽車の旅をしました。今では新幹線ですぐですが、当時は鈍行のうえ県境の板谷峠がスイッチバック方式で、けっこう時間がかかりました。米沢あたりから同席になったよその小父さんが、我が家の身の上に同情し、親切にしてくださいました。
 叔母の家は、K市の外れの、わりと大きな農家でした。途中竹林が多く、ざわざわ風にそよいでおりました。
 叔母の話では、妹は疫痢(えきり)という流行病にかかって、あっけなく死んでしまったのだそうです。それで、連絡が遅くなってしまった。流行病だから急ぎ葬儀を済ませ、既に荼毘に付してしまった…。
 
 その晩叔母が、母と私のもとに妹の骨壷を持ってきてくれました。大人のよりだいぶ小さい、赤い色の壷だったと思います。蓋を取って、中を見せてくれました。
 菊子は、ほんの小さな何片かの骨になっていました。真っ白い可愛らしい骨でした。

 妹が死んだ翌10月、「女手で畑仕事を続けていくのは無理だべ」という村の有力者のご配慮で、母と私は、町の「母子寮」にお世話になることになりました。ようやく「白いおまま」にありつけました。(翌年、母の実家に預けられていたすぐ下の妹も戻ってきました。)

 母にとって、最愛の子の死は相当のショックだったらしく、それ以降乳房が引っ込んで、男の胸のように真っ平らになってしまいました。
 その後、母は死んだ妹の話はあまりしませんでした。しかし平成9年初夏、母が脳梗塞で倒れ入院し、私が病院を訪ねたある日。母はうわごとで「きぐこ、どさえった?(菊子どこに行った)」と、私の背広の腕のすそをつかみながら聞くのです。「どさもえってねえ。げんきにすてっから、しんぱえねえ。(どこにも行ってない。元気にしてるから心配ない)」と、私は答えました。

 お読みいただき、ありがとうございました。

 投稿 大場光太郎│2008年3月2日(日)19時09分

大場様、涙を流しながらコメントを読ませて頂きました。
昭和31年は、もう私は結婚しておりました。この時代に
こんな生活をしておられる人がいることを知らないで過ごした
時代でした。お母様のお心の中に最後まで一緒におられた妹さん
きっと今はあの大空の中で、楽しい語らいをなさっていらっしゃる
ことでしょうね。横浜の山下公園の中にある「赤い靴の像」の
小さな女の子の姿が目に浮かびます。私もこの歌は大好きで
こども時代から口ずさんでおりました。一つの歌中には、人
それぞれの思い出があることを、改めて痛感しております。
お母様、妹さんを思い出すたびに、大場様のご長寿を祈って
いらっしゃることでしょう。

 投稿 れいこ│2008年3月3日(月)08時19分

れいこ様

 お読みいただいたうえ、暖かいご感想までたまわり、まことにありがとうございました。
 本日たまたま「ひなまつり」です。お蔭様で、半世紀余り経ってようやく、妹・菊子への良い手向けができた思いです。(妹は、私の中では今でも3歳のままです。)
 私は業務の関係で、月に一、二度は神奈川県庁にまいります。今度余裕をもって出て、県庁から近いですから、山下公園まで足をのばして、「赤い靴の像」に会ってこようかなと考えております。
 れいこ様。どうぞご健勝でお過ごしくださいませ。

 投稿 大場光太郎│2008年3月3日(月)15時29分    

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続・吉野川-雪解頃の思い出

 雪解けの吉野川で、土手下の福寿草を採ろうと下に降りていって川にはまり、必死で助けを呼んで母に助けられ九死に一生を得たのが、確か昭和30年春のことでした。
 今回の思い出ははっきり覚えています。というのも、我が家にとって多事多難の年となった昭和31年のきっかけとなるような出来事だったからです。

 季節も同じ春先の、4月10日すぎくらいのことでした。その年私は小学校1年生になったばかりでした。さすがにその頃になりますと、前年溺れかけた時よりだいぶ水かさは引いていました。それでもいつもより水量が多かったのはもちろんです。
 そんなある日の早朝、私たち家族は部落の誰かの大きな声でたたき起こされました。何でも我が家の近くの川原に人が流れ着いている、つまり“土左衛門”が発見されたというのです。その一報があってからというもの、近所中が大騒ぎでした。私はこわごわだったか、興味津々だったかは忘れましたが、母の後ろについていったのです。

 その季節もう途中の土手から川に下りられました。その場所は我が家から数十メートルほど下流の、川が左に大きく曲がる地点でした。一旦流れが緩やかになるため、上から流れてきた死体はそこで止まって浮いていたものと思われます。
 遠くで見ますと、水際の川原の所に7、8人ほどの村人が集まっていました。近づいていきますと、なるほど村人たちの輪の中に一人の人が仰向けに横たわっているのが見えました。既に誰かが水の中から引き上げて、そこに寝かせたのだと思います。

 なおも近づいて、死体というものを生まれて初めてしげしげと見ることができました。当の土左衛門は男性です。これまで見かけたこともない人のようです。今にして思えば、年の頃は30代といったところだったでしょうか。
 もう服装などの詳細な記憶はないものの、やはり顔などの印象は鮮烈です。とにかく顔全体が水膨れに膨れあがった紫色で、途中岩場にでもぶつかったものか、アザや傷だらでした。昨年春、もし私が“子ども土左衛門”となっていたなら、きっとあんな感じだったことでしょう。

 問題は当の土左衛門がどこの誰かということです。部落の人も誰れも知らない人のようでした。後で母から聞いたところでは、川の上流の下荻、上荻、小滝などの部落の人でもなかったのです。
 何でも「土左衛門が出た」と聞いた村人の中には、とっさに『力兄にゃではねえべが?』と思った人もいたそうです。「力兄にゃ(ちからあんにゃ)」とは、私の父親の常平生の呼び名です。父が病気を悲観して、吉野川に身を投げたと思ったというのです。
 しかし私の父が亡くなるのは、それからわずか10日後くらいのことです。もうその頃では、病状は末期的で家の中で寝たきりの状態、自分で起きて歩くことなどとても出来なくなっていたのです。

 さて吉野川のかなり上流に、「吉野鉱山」という日本鉱業系列の鉱山がありました。同鉱山は江戸時代以前からの長い歴史があり、金、銀、鉛、亜鉛、石膏などを産出していました。“タイガーボード”のテレビCMでおなじみの吉野石膏(株)は、(私たちがこの年の秋から移り住むことになる)宮内町出身の須藤一族が、1901年(明治34年)吉野鉱山で産出された石膏を原料として、製品を製造し創業した会社です。
 また宮内の隣町の東置賜郡小松町(現川西町)出身の作家、井上ひさしの作品『月なきみそらの天坊一座』が今から20年ほど前、NHKでドラマ化されたことがあります。そのドラマでは、吉野鉱山や宮内町も舞台となっていました。

 同鉱山は昭和40代半ば頃、吉野川へのカドミュウム流出の鉱害問題を引き起こし、昭和49年(1979年)閉山となりました。しかし昭和30年代はまだ意気盛んで、鉱山関係者が住む一帯を“緑ヶ丘”などとハイカラな地名にするなど、なかなか活気があったのです。そんな中で、何人もの“朝鮮人”が鉱山従事者として働いていたようなのです。
 その時流されてきた土左衛門は、その中の一人だったのです。

 後で母が語っていたところでは、そこに流れ着いた朝鮮の人は、前の晩仕事を終えてから同じ朝鮮人仲間と鉱山近くの飲み屋で一杯引っ掛けていたといいます。そして飲み屋を後にして仲間と連れ立ってほろ酔い機嫌で、宿舎に帰ろうとして、吉野川に架かるとある橋にやってきました。
 その橋というのが、木橋なのか石橋なのかは分からないものの、おそらく欄干などついていない橋だったらしく、当時のことで橋のたもとに薄暗い裸電球くらいはあったでしょうが、ほろ酔いなどではなく泥酔に近かったものなのか、橋から足を踏み外し川に転落してしまったらしいのです。
 もちろん連れの仲間は酔いがいっぺんに覚め、何とか助けようとしたようです。しかし季節柄水量が多く流れも早く、落ちた当人はあっという間に下流に流されてしまったというのです。そして翌早朝、そこから何キロも離れた私の家のすく下流に流れ着いたというわけです。

 “朝鮮人”とはいっても既にその頃では、昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮動乱により、朝鮮半島は大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とに分断されていました。だから韓国の人なのか北朝鮮の人なのか。どうして日本の鉱山に朝鮮の人がいたのか。あるいは戦時中我が国の朝鮮政策により、母国から無理やり日本兵として日本に連れてこられ、戦後行き場を失って同鉱山にたどり着いた人たちの一人だったのだろうか。
 詳しいことは何も分かりません。とにかく日本海を隔てた異国の地で、厳しい労働に日々従事しながら、挙句の果てに哀しい骸(むくろ)となって吉野川原に横たわっていたのでした。

 (大場光太郎・記)

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吉野川-雪解頃の思い出

 もう何度も述べてきましたように、小学校1年の秋まで私は山形県(旧)東置賜郡の「太郎」という山間の部落で過ごしました。
 私の家は貧しい小作農だったため、当家で耕す畑地は当然のように高台の“檀那衆”(だんなす-お金持ちの家の意)から借りたもの、その上住んでいる家もどこかの家から借地した、何とか雨露をしのぐだけのあばら家でした。

 いくつの年の春先のことだったでしょうか。当家が劇的な変化に見舞われることになる昭和31年、すなわち私が小学校に上がった年でなかったことだけは確かです。今の記憶では、その前の年私が6歳になる少し前のことだったと思います。

 我が家は吉野川のすぐ側にありました。吉野川は、私の母の実家があり私自身が生まれた山の中の7軒部落「水林」(みずばやし)を水源とする、最上川の一上流です。
 同川の東側の少し高くなった所が真っ平らになっていて、そこに3軒の家があり、また少しばかりの田んぼや畑もありました。少し広いその土地のすぐ崖上に、南の宮内町方面から北の下荻、上荻、小滝方面を行き来できる村で唯一の街道が通っていました。我が家はその街道から坂を下りてすぐの入り口、街道の崖下の所にありました。

 その時の吉野川のようすからして3月下旬頃のことだったと思います。川のようすというのは、ちょうど雪解けの季節で、川の水が大幅に増水している状況だったのです。豪雪地帯とて、冬中は根雪にすっぽりと覆われ、家のこちら側と言わず、川中と言わず、川の向こうの小山の斜面と言わず、すべてが真っ白い雪世界です。
 その季節ではさすがにもう雪は解けていましたが、上流から雪解け水が川に集められ、普段ならば穏やかで細い流れの吉野川もこの季節ばかりは、様相が一変し数メートルの川幅いっぱいに膨れ上がって、水かさを増した黄濁した川の色となって、ゴーゴー音を立てながら急な流れになっていたのです。

 そんな時ちびっ子の私は、とある曇った夕方近く、家から少し下流側の土手の上を歩いていました。その辺は一応当家の小さな畑になっていましたから、まあ歩き回るのも当然なのです。私は土手の上から土手下をのぞいてみました。
 すると水かさを増して土手を浸している水際に、幾株かの福寿草を発見したのです。確か記憶では、蕾から開いて間もないような小さな真っ黄色の可憐な福寿草です。私は無性にその花が欲しくなったのです。

 そこで土手を下りて、福寿草を採ろうと思いたちました。もちろん子どもながらに、川のようすが常ならぬものであることぐらい分かっていたつもりです。だから身を土手に添わせるように斜めにして、そろりそろりと花のある所まで下りていったのです。あと少しで花に手が届きそうな所まで下りました。しかし肝心な一番下の所がなぜか湿っていたらしく、つるんと足を滑らせてしまい、あっという間に大増水している川にドボンと入り込んでしまったのです。

 しかし子どもでも、人間の「生きよう」という無意識的な意思は凄いものです。つるんとすべって川に浸かったと同時くらいに、私は水際に生えていた枯れ萱(かや)か何かの少し丈が長い草を咄嗟に掴んでいたのです。
 急流に流されまいと枯れ草に必死にしがみつきながら、次の瞬間あらん限りの声をふりしぼって「オカチャー、助けでけろーっ」と、10メートルくらい上手の家の中にいる母を呼び続けたのです。父も家の中にいましたが、もうその頃は病で臥せっきりになっていましたから、誰を呼べばいいかちゃんと分かっていたわけです。

 間もなく私のただならぬ叫び声を聞きつけて、母が駆けつけてくれました。母は私のようすを見て顔をこわばらせたものの、「ええが、コタロ。そのままじっとすてろよ」と言いながら、より慎重にそろりそろりと土手を下り、私を救い上げてくれたのでした。
 もしあの時母が助けに来てくれなければ、私はそのうち力尽きてしがみついていた草から手を離し、そのまま濁流に飲み込まれ遠く下流に流されていたことでしょう。そうなれば私の命はそこでおしまいになっていたはずで、今回こうして当時の思い出話を書くこともなかったわけです。

 父は結局その翌年の春に亡くなりました。ですから以来私は母に育てられたのです。母こそは私にとっての生みの親でありますと共に、その時の命の恩人、諸々の恩人でもあります。しかし「のど元過ぎれば何とやら」は実際のことで、私はこの出来事をずっと忘れていたのです。そのくらいですから、母には孝行どころか親不孝の限りを尽くしてしまいました。
 そんな母が脳梗塞で倒れ緊急入院したのが、平成9年の6月のことです。その頃になってやっと、『あヽそういえばあんなことがあったなぁ』とその時のことを思い出したのです。馬鹿には本当につける薬がありませんね。

 (大場光太郎・記)

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中国、日本人死刑囚の刑執行

 中国遼寧省大連で6日、麻薬密輸罪で死刑判決が確定していた赤野光信死刑囚(65)に対する刑が執行されたと、国営新華社通信が同省最高級人民法院(高裁に相当)の発表として伝えました。中国で日本人に対して死刑が執行されたのは、1972年の日中国交正常化以降初めてのことです。
 赤野死刑囚は、2006年8月、約2,5㎏の覚せい剤を日本に密輸しようとした疑いで大連の空港で逮捕され、中国で裁判を受け死刑が確定していました。

 今回の中国の死刑執行については、「薬物犯罪で死刑は厳しすぎる」という日本国内の声が圧倒的です。確かに日本での薬物事犯での最高刑は、覚せい剤を営利目的で密輸した場合でも「無期懲役」であり、死刑という極刑はありません。
 しかしアムネイティによりますと、アジア地域では薬物に関連する犯罪で最高刑に「死刑」を設けている国は多いといいます。今回の中国をはじめタイ、マレーシア、シンガポールなど16ヶ国が、薬物犯罪の最高刑を「死刑」としており、今回の例のように自国民だけでなく外国人にも死刑が執行されるケースも少なくないようです。

 日中外交的には、日本政府が中国側に「懸念」を伝えていたにも関わらず刑が執行されたことになります。「死刑問題で対日関係を大きく損なうことはない」という、一定の自信が中国側にあったのだろうという観測もあります。
 ただ中国側は、6日の赤野死刑囚に続き8日にも日本人死刑囚3人の刑を執行する見通しで、日本政府は相次ぐ日本人への死刑執行が国民の対中感情に悪影響を及ぼしかねないとの危惧も抱いているようです。

 3日に訪中した菅直人副総理兼財務相も、温家宝首相との会談でこの問題を取り上げ、「日本の基準からすると、罰則が厳しいという感覚を持つ日本人は多い」と指摘したといいます。これに対して温首相は、「覚せい剤密輸は重大な犯罪。(死刑は)法律に基づくものだ」と理解を求めたそうです。
 今年は日中外交が活発で、5月以降上海万博のほか、温首相の訪日や鳩山首相の訪中が予定されています。そんな中中国側はこの問題で「日本側に理性的な対応を希望する」声明を発表すると共に、「日本国内の世論を細かく分析し、説明不足な点はすぐに補う」という対日配慮の姿勢も示しています。

 一方の鳩山首相は刑の執行を受けた6日夕方の記者団の質問に、「日中関係にいろんな亀裂が入らないよう、出来る限り政府としても努力する。影響が出ないように国民にも冷静につとめてもらいたい」と述べました。死刑は厳しすぎるとの声があることについては、「それぞれの国にそれぞれの司法制度がある。判断に対して内政干渉になることを申し上げるべきではない」と明確な見解は避けたものの、世論への配慮からか「残念であると前から申し上げているとおりだ」とも付け加えました。

 自身の慶大4年留年中(昭和42年3月)に起こした婦女暴行事件、また92年6月の愛人芸者「小はん」首絞め過失致死事件などの弱みを、CIAに握られていた小泉純一郎元総理は、毒を食らわば皿までで、アフガン、イラク侵攻追随、市場原理主義導入など、9・11を自作自演したブッシュのアメリカ様に卑屈なほど徹底した忠犬ポチ公ぶりでした。
 しかし同時にアメリカ様のご威光を笠にきて、甚だ外交的バランス感覚を欠いていた小泉は、中国に対しては高飛車で、靖国参拝問題などでいらざる国家間トラブルを引き起こし、ために当時の日中関係は戦後最悪になりました。

 小泉の跡目を継いだ、CIAエージェント岸信介の孫として本来は「親米反中」であるはずの安倍晋三元総理も、さすがにこれ以上日中関係が険悪になっては国益を大きく損なうと判断し、関係修復にこれ努めました。以後福田、麻生両総理も安倍の方針を踏襲し、今日の鳩山民主党政権に受け継がれています。
 鳩山首相も小沢幹事長も、元は日中国交を回復させた田中角栄の経世会出身ですから、「親中」は何の違和感もないわけです。それのみか鳩山首相は、中国、韓国との事前の根回しがなかったのは拙速にすぎたとはいえ、歴代自民党首相の誰も唱えなかった「東アジア共同体構想」にまで踏み込んでいます。

 それが今回都合4人もの日本人が一挙に死刑執行されるとなると、それでなくても民主党バッシングの機会を鵜の目鷹の目で狙っている新聞・テレビのこと。それに我が国メディアは根っからの「親米・親戦争屋」であるわけですから、この時をとらえて「中国の外国人への死刑執行は行き過ぎで、国際人道上問題だ」などとキャンペーンを張り、鳩山政権と中国政府との間にくさびを打ち込みかねません。
 もしそうなったら国民世論がどう反応するかです。まさか小泉時代のような険悪なムードにはならないとは思いますが、国力が低下した分それに反比例するようにナショナリズムが高まっている昨今です。若干の懸念はされるところです。

 また今回の中国の死刑は厳しすぎるものの、では我が日本はどうなのか?薬物事犯への取り締まりや処罰が大甘すぎて、今日では「薬物天国・ニッポン」になっているのではないでしょうか?
 そのことについては、もう少し詳しく別の機会に述べてみたいと思います。

 (大場光太郎・記)

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与謝野・平沼新党のこと

 週末世論調査-「期待する…27%」「期待しない…65%」、新党厳しい船出へ

 3日自民党に離党届を出した与謝野元財務相と無所属の平沼元経産相らは5日夕方、新党旗揚げに向けた詰めの調整を行いました。8日(木)発足を目指し、基本政策や参加者、党名について都内のレストランで協議したもようです。

 同会合には、5日自民党に離党届を出した園田博之元幹事長代理や離党を検討中の藤井孝男元運輸相も出席しました。そこに新党構想を支援する立場から、石原慎太郎東京都知事も加わったというから驚きです。
 現在確実なのは4名ですが、政党要件を満たす5人目の国会議員が誰れになるかも焦点になります。そこで平沼氏は自民党を3月に離党した鳩山邦夫元総務相(61)とも今後の連携をめぐって6日協議する予定です。ただ平沼氏は、鳩山氏は発足当初のメンバーには加わらないとの見通しを示しています。

 ご存知のとおり、前年末までに政党として届けないと当年分の“政党助成金”は交付されません。そこでカネがない与謝野・平沼新党は、政界一の大金持ちの鳩山(邦)氏の参加がどうしても必要です。でないと当面の政党活動はもとより、7月の参院選もロクに戦えないわけですから。
 鳩山(邦)はそれを見越して、新党には自分の存在価値を最大限高く売りつけるつもりでしょう。当面はロートルの与謝野、平沼を前面に立てても、いずれは「この党のオーナーはオレだ」という立場になっていくことでしょう。

 当面鳩山(邦)抜きとしても、8日新党旗揚げとなれば後一人の国会議員の加入がどうしても必要です。そこで名前が上がっているのが、自民党参院議員の鴻池祥肇(こうのいけ・よしただ)元防災担当相です。
 予想通り鴻池氏もすっかりそのつもりのようで、近く離党する意向であることを同党幹部に伝えていたことが、5日明らかになりました。ただ執行部は波及を恐れ、同氏を懸命に慰留しているもようです。しかし与謝野氏に続いて園田氏も離党、藤井氏の離党も確実です。3人も4人も一緒じゃん。もうこうなったら、執行部は腹をくくって、方針に従えない不満分子はこの際全部出て行ってもらった方がいいのではないでしょうか?

 仮に発足メンバーを与謝野馨(71)、平沼赳夫(70)、園田博之(68)、藤井孝男(67)、鴻池祥肇(69)としますと、もう間もなく“後期高齢者”となるメンツばかりです。唯一の共通項が「老人」というだけで、思想信条はバラバラです。
 ある政界関係者は、「なぜこの顔ぶれなのか、誰も説明がつかない。昔からの“仲間”が集まったという感じです。与謝野と平沼は麻布高校の同級生。与謝野と園田は盟友関係。平沼と藤井は同じ郵政造反組です。共通点は、年齢を考えるともう後がないこと」と語っています。

 「与謝野・平沼新党」の致命傷は、新党としてのセールスポイントも基礎票もないことです。例えば「みんなの党」には、公務員改革という一枚看板があったし、亀井静香が率いる「国民新党」には、50万票という郵政票の基盤がありました。しかし今回の新党にはそういうものが何もないのです。
 その上、7月の参院選に出馬するとみられる候補者たちは、無党派層が逃げ出しかねない連中ばかりのようです。何と驚くことに、比例の目玉として、「日本が侵略国家だったことは一度もない」というトンデモ言説で大いに物議をかもした、田母神俊雄(61)の名前が浮上しているというのです。さらにはウルトラ右寄りの中山成彬(66)、昨年急死した中川昭一の郁子未亡人(51)の名前も取りざたされているようです。また鳩山(邦)が加われば、長男の太郎(36)も比例区から立候補するとみられています。

 しかも今回の新党の陰の仕掛け人が、あの石原都知事(77)ですよ。「老人政党」だけならまだしも、これではまるで「極右老人政党」ではないですか。
 リベラル派の与謝野氏が、晩節を汚すことにならなければよいのですが…。

 今回の新党話に絡んで、もう一人述べておかなればならない人物がいます。桝添要一前厚労相(61)です。桝添は今回の件で、「結局アンタはどうするの?」と党内で冷ややかに見られているというのです。これまでさんざん谷垣総裁や執行部批判を繰り返してきたのですから、当然といえば当然です。
 一時は離党もほのめかしながら、こちらは一向に動く気配が見えません。やっぱり狙いは「自民党総裁」のようです。第一党を出ようにも、資金なし、人望がなくついて来る子分なしの、ないないずくしなのです。仕方なく、青木幹雄、森喜朗、安倍晋三という「自民党砦の三悪人」だろうと誰だろうと、自分を担いでくれるのを待っている状態なのです。

 「誰が総理にふさわしいか?」という世論調査では、「桝添要一…17%」と1位になっています。それとてもわずか10%台ですから威張れるほどのことでもありません。
 桝添は厚労相時代、「消えた年金問題」で言ったことをさっぱり実行せず、“ヤルヤル詐欺大臣”とヤユされたことがありました。今回も「(党を)出る出る」と言いながら、結局出ずじまい。こんな「デルデル詐欺男」に騙されてないよう、お互い気をつけましょうね。

 (大場光太郎・記)

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雪解川(ゆきげがわ)

           前田 普羅

  雪解川名山けづる響きかな

…… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 前田普羅(まえだ・ふら) 明治17年、東京生まれ。早稲田大学中退。新聞記者となり、大正13年から報知新聞富山支局長をつとめた。昭和4年に退社。「辛夷(こぶし)」の主宰として俳句に専念。大正元年「ホトトギス」に投句、たちまち鋭峰を顕わし、鬼城・蛇笏・石鼎と並ぶ虚子門四天王となった。『普羅句集』『春寒浅間山』『飛騨紬』『能登青し』などの句集がある。昭和29年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 いかにも大正、昭和初期の俳人らしい、堂々とした風格を備えた大景の句だなという感想を持ちます。幼少期を雪国の川側の家で過ごした私には、この句の意味するものがよく分かります。普段の季節だったら細く穏やかに流れる川も、雪解けの頃は様相が一変し、何倍にも水かさを増した大濁流となって、ゴーッ、ゴーッと大きな音を立てながら流れていくのです。

 私の郷里の村の上流は、いずれも小高い山が川の両側、西東にせり出して連なるばかり、名山などは一つもありませんでした。しかし前田普羅が目のあたりにしている雪解川は、略歴から推測するに富山県内にある名峰なのか浅間山なのかあるいは飛騨の名峰なのか、仔細には分からないものの、とにかくさる名山を一気に駆け下ってきた奔流であることでしょう。

 「雪解川……響きかな」は普通の俳人でも思いつくかもしれません。しかしこの句で何といっても秀逸なのは、中七の「名山けづる」です。凡百の者が同じ光景を通り一遍に眺めただけでは、とてもこういう卓抜な表現は思いつきません。今現前している雪解川に深く入り込んでいるうちに、『これほどまでに激しい流れなら、あの名山の岩肌も抉り取るばりの勢いで下ってきたのに違いない』と、心の深いところで着想した表現だったのではないでしょうか。

 私たちは映像によって、名山が文字通りけづり取られていくシーンを見てきました。今から19年前の1998年長崎県の雲仙普賢岳の噴火に伴う“火砕流”の発生です。同年6月3日発生した火砕流により、報道関係者、火山学者、消防団員、警察官、農作業中の地元住民など、死者行方不明者43名という大きな人的被害に見舞われました。また火砕流が流下した水無川及び島原市千本木地区に大きな被害をもたらしました。
 それ以外にも、近年の異常気象による集中豪雨などで、全国各地で突如土石流(山津波)が発生し、渓流が根こそぎけづり取られると共にふもとの地区をも一挙に飲み込んだ惨状を報道で知ることもあります。

  いずれも「雪解(ゆきげ)」の時期とは異なりますが、そのくらい深刻な事態ともなれば、さすがに「名山けづる」も生々しく実感されることでしょう。しかしそれはおよそシャレにもならぬ事態であり、とても優雅に句など詠めるものではありません。

 この句を詠んだ前田普羅はおそらく、昨今の火砕流や土石流被害など思いを致すこともなかったことでしょう。それに雪解川がいかに大増水して大音響と共に流下していても、実際のところ「名山けづる」というような事態は引き起こさないのではないでしょうか。
 小学校も3、4年頃になりますと、(その頃には町場に越していましたが)母に言いつけられたものか、近くの雪解けの山に分け入ってよく薪(たきぎ)を拾い集めたものでした。昭和30年代前半頃は、田舎町には都市ガスもLPガスもなく、炊事の煮炊きにはまだ薪を使っていたのです。
 山の表面の所々に斑ら(はだら)に残っている雪は、日に当たって表面から解け出し端っこの方からチョロチョロしずくとなって滴り、落葉で覆われた山肌を流れていくのみです。それは静かな山の雪解けのようすでした。それが方々の沢や渓流から一本の大きな川に集まると、大音響の大濁流になってしまうのです。

 よって「名山けづる」は、前田普羅という俳人のイメージの中にのみ存在し、表現された事態だったものと思われます。
 ただ名山というからにはかなりな高山であるに違いありません。そうすると岩肌むき出しの山の斜面で突如雪崩が発生し、「名山けづる」という状況が実際に生まれた。それが今前田普羅が見ている雪解川に流れ込んできているのだ、という可能性も否定はできません。
 
 (大場光太郎・記)

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キム・ヨナ最新情報

 世界で最も影響力のある人物の一人として、キム・ヨナの名前が挙がっているらしい

 何だかんだいってキム・ヨナ記事は視聴率(?)が取れます。つまり手堅い訪問者が得られるのです。それが証拠に、当ブログではたいがいココログの複数カテゴリーに各記事を公開していますが、過去のキム・ヨナ関連記事はいずれも、「日常」「日々のこと」カテゴリーで、ディリー(日集計)ランキング1位になりました。
 『キム・ヨナ金メダル剥奪?』はとりわけ関心が高く、同じく「日常」「日々のこと」のマンスリー(月集計)で、それまで1ヵ月くらい続いていた当ブログ記事『朝青龍が暴行した相手』の1位を抜きました。以来現在に到るまで両カテゴリーマンスリー1位を独走中です(笑)。

 また『キム・ヨナvs浅田真央』では、私の書いた内容に異を唱えられた“ぬかづけさん”から辛辣なコメントを頂戴し、私もすかさずそれに反論する形で『ぬかづけvsキムチ』記事を公開するという、思わぬ展開にもなりました。
 さらに当ブログのキム・ヨナ関連記事はお隣韓国でも読まれているらしく、『キム・ヨナvs浅田真央』と『キム・ヨナ金メダル剥奪?』が、韓国某サイトですべてハングルに翻訳されて紹介されていました。また『キム・ヨナvs浅田真央』記事について、“韓国のオーサさん”より、日本海を越えた向こうのお国から日本語でコメントも頂戴しました。

 私は当初から「キム・ヨナファン」を公言し、ファン心理としてキム・ヨナについてはおおむね好意的に書いてきましたが、当然ライバルの浅田真央を有する我が国国民としてはそういう方は少ないことでしょう。
 その表れが“2ちゃんねる”での、五輪をぶっちぎりの大会最高得点で優勝したキム・ヨナへの、非難、中傷の書き込みになったわけです。それに対して韓国のネットユーザーたちからの同サイトへの「サイバー攻撃」という大騒動になってしまいました。またキムをめぐる日韓バトルはそれだけで終わらず、今度は五輪中にキム・ヨナが身につけていたイヤリング(これが問題の“王冠型”?)をめぐって、「五輪憲章違反で、金メダル剥奪だ」「いや何の問題もない」という新たなバトルにも発展していったのでした。

 しかしこれらはすべて、キム・ヨナの「スーパースター性」を証明するもののように思われます。
 3月下旬にトリノで行われた選手権大会では、キム・ヨナはミスによりSP7位スタートと大きく出遅れ、浅田真央がバンクーバー五輪の雪辱を果たして優勝、キムは結局2位に終わりました。まさか「五輪のキムは八百長だ」「金メダル剥奪だ」という多くの日本人の声が気になったわけでもないでしょうが…。もちろんそんなことではなく、試合後キム・ヨナ自身が、「五輪は人生における最大の目標だった。金メダルを取った後はこれ以上何もないと思ったが、トリノに来ることができて嬉しかった。五輪の後は精神的にも肉体的にも難しかった」と語っています。どうやら敗因は、一時的な「金メダルシンドローム」にかかったことにあったようです。

 トリノでは敗れはしましたが、そんなことでキム・ヨナのスーパースター性は揺るがないようです。というのも、4月2日米国の時事週刊誌『タイム』が、同誌ホームページ上で発表した「2010タイム誌選定の世界で最も影響力がある100人」の候補201人に、キム・ヨナもノミネートされているからです。
 4月2日午前9時現在、1917票のキムは全体順位で10位につけています。ヒラリー・クリントン米国務長官が12位だというのですから、改めてキム・ヨナの国際的な知名度と人気の高さが裏づけられた形です。
 ちなみに米国大統領のバラク・オバマは1988票の8位で、1位は米トークショーの司会者コナン・オブライエンで、これは図抜けた1万144票だそうです。

 タイム誌は「韓国初のフィギュアスケート五輪メダリスト。バンクーバー五輪では優雅な演技で世界最高点をマークし金メダルを獲得した。ゴルフが好まれる韓国でフィギュアブームを起こした」と論評しています。
 キム・ヨナはインターネット投票ではスポーツスターの中では最も順位が高く、以下米ショートトラック選手のアポロ・アントン・オーノ、下半身スキャンダルの渦中にあるゴルフ界のスーパースター、タイガー・ウッズ、サッカーのカカ選手らを抑えているとのことです。

 キム・ヨナは、将来については「休んでから考えたい」とコメントしているといいます。今の時点では、現役続行とも引退してプロ選手転向とも表明していないわけです。
 それに対して、世界選手権で見事優勝した浅田真央は、「ジュニアの頃からずっと一緒に試合に出てきて、同じように自分も頑張らなければいけないといつも思っています。自分もそれで成長できたと思うので、これからも頑張らないといけないと思います。チャレンジ精神があったから今の私がある」と語り、これからもキム・ヨナからモチベーションを得たいと、キムの現役続行を望んでいるようです。

 (大場光太郎・記)

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当世大学生就活事情

 “早苗買い”は企業のエゴ、学生も日本経済もダメにする。直ちに改めるべきだ。

   温暖化 なのに就活 氷河期へ   (金魚姫)
 今年の“サラリーマン川柳”では深刻な「就活」に関する悲哀を詠んだ句も多く、引用したのはそれをテーマに優秀作にノミネートされた作品です。そんな“就活氷河期”の実情を表わすように、厚労省と文科省の発表によりますと、今春就職予定の大学生の就職内定率は、2月1日時点で80.0%と、前年同期よりも6.3ポイント低下しているようです。
 これは今年だけの傾向かというと、どうも来春の採用計画も低調らしいのです。朝日新聞の調べでは、主要100社のうち48社が「前年並み」、21社が「減らす」と回答しているといいます。

 ところで昔なら大学4年の春に就活を始めるのが一般的でした。それが最近では3年で企業を訪問するケースがほとんどだというのです。年々就活の時期が早まってきているわけです。
 こうした事態に財界の大物も声を上げ始めています。例えば伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長は、3月8日の東京新聞夕刊のコラムに「企業側が狭い採用枠の中で優秀な学生を求める結果、“就活”時期はどんどん前倒しされている」「3年生から就職活動を始めてしまうと、専門科目の勉強ができるのは実質的にゼロになってしまう」と指摘しています。

 丹羽会長は早まる就活のせいで、日本の最大の資産であるマンパワーとしての「教育と技術」がおろそかになると懸念を示しながら、「“知”の力が落ちる日本の将来は暗い」と、大学生の知的レベルの低下に警鐘を鳴らしているのです。
 必ずしもこれだけが要因ではないとしても、国際的に見た日本の大学レベルは年々低評価されていく一方のようです。我が国トップの東京大学ですら、国際的なランキングでは19位、同評価がシンガポール国立大学です。アジアでは北京大学が14位に食い込んでいます。以下京都大学が29位、大阪大学が70位。100位以内は我が国ではこの3校のみです。ちなみに世界ベスト5は、ハーバード大学(米国)、ケンブリッジ大学(英国)、オックスフォード大学(英国)、マサチューセッツ工科大学(米国)、イェール大学(米国)の順となっています。(06年“THES調査結果”より)

 大学の就活に詳しいジャーナリストの石渡嶺司氏は、「20年前は“青田買い”でしたが、今は“早苗買い”です」としながら、「日本経団連は03年に学生の選考は4年生の4月1日以降にしようと倫理憲章を出した。でもこれは全くのザル法で、企業は3年生を対象に会社説明会を行っています。その時期も早まる一方で、3年生になるとすぐに企業側からのアプローチを受ける。不景気のため、企業が少しでも優秀な人材を確保しようと焦っているからです」と続けます。
 その結果、3年生が説明会を駆け回り、4年生の4月から6月にはもう内々定を受けるという現象が起きているというのです。

 特に大学側との協定を無視し出す企業が急増したのがバブル全盛の頃だといいます。1990年代の半ばには協定自体が廃止され、今日の無残な姿に到ってしまったのです。
 この問題については、国会でも何度となく取り上げられてきました。昨年2月には当時の塩谷文科相が就職協定を復活させたい意向を示し、文科省もそれなりの動きをしたものの実態は改善されなかったようです。
 大学の教員や職員も「これでは学生が学業に専念できない」として、08年に就活の是正を求める要望書を経団連に提出しましたが効果はありませんでした。さらには大卒の求人を撤回する企業が出てきたことも、大学生を不安にしているといいます。

 いずれにしても“早苗買い”の横行は、長い目で見れば日本経済にとってもマイナスでしかないはずです。人材コンサルタントの菅野宏三氏は「文系も理系も3年生は専門知識を身につけ、自分の研究分野を決める時期。就活に専念していたら、学生は一般教養を学んだだけで社会に放り出されてしまいます。また自分の方向性を熟考する前に就職先を決めるため、新卒者の3人に1人が就職後3年以内に離職してしまう。これは日本経済にとってデメリットです」と訴えています。

 すべては企業側の身勝手さが招いた問題です。こういうところにも「企業エゴ」が露骨に現われているのです。今頃になって「どうやらこういうエゴが自分たちの首を締めかねないぞ」と悟って、今回財界の大御所・丹羽伊藤忠会長の提言となったというわけです。
 いささか遅きに失した感は否めませんが、企業側から初めて改善の意思表示がなされました。これで事態が大幅に改善され、大学生たちは安心して4年間みっちり専門分野の勉強、学問の習得ができ、日本の各大学が世界ランキングのトップテンに幾つも名を連ねる環境が再び整えられることを願うばかりです。

 (注記)本記事は3月11日付「日刊ゲンダイ」記事などをもとにまとめました。

 (大場光太郎・記)

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ブログ背景変えました(2)

  三月も尽きにし街の夕間暮れ   (拙句)

 今年も早や3月が終わりました。先日の『三月の雨-横浜寸描』でも触れましたが、とにかく今年の春3月は雨がち、曇りがちで、あまり日照時間には恵まれない月でした。締めの31日も終日の曇り、ただこの日はさほど風もなくそんなに寒くなかったのが救いでした。その前の2日ばかり、晴れたものの風が強く寒い日が続きましたから。

 俗に「暑さ寒さも彼岸まで」の春彼岸はとうに過ぎたというのに、いっこうに暖かくなる気配が感じられないようです。特にここ2日くらい、2月上旬のこれから立春を迎えようかという頃の寒さのように体感されました。
 29日などは、夕方西の大山を遠く眺めましたら、何と全山薄く雪化粧しているではありませんか。ほのかな夕明かりに照らされて、薄墨色に山襞もくっきりと見渡せました。寒々とはしていますが、何か常ならぬ神々しい感じさえする大山の姿でした。
 
 ただそんな中でも、おらが町周辺の植物界は敏感な四季のセンサーというもの。少し車を走らせても、あちこちの木々が芽吹き初め、中にはとりどりの花を咲かせている木もあります。畑やレンタル農園などには、菜の花や菜の花もどきの黄なる花が咲きそろい、目にまぶしいほどです。
 また紫色の花大根の花が群生しているのを見かけることもあります。空き地や旧道の道端の草も、以前より少し丈を伸ばした若草の勢い、草花は徐々に春の装いとなって、通る者の目を楽しませてくれる季節です。

 肝心の桜はというと、連日の時ならぬ寒さとはいえ、固体ごとに若干の違いはあるものの、三分から五分咲きといったところでしょうか。
 しかし桜の木全体として眺めるに、まだくすんだ花の色合いです。当地(厚木市)の見頃は、今週末は無理あるいは来週末頃といったところでしょうか。

 さて月も4月に変わったことをもって、当ブログ背景も変えてみました。とはいっても、おととし4月末に開設した時のものを今回もまた採用しただけですが。
 @niftyココログでは、何百種類ものテンプレートを用意しています。ですから次々に目新しいものに変えていけばよさそうなものですが、いざ使うつもりで同テンプレートを物色しても、『これだ ! 』というものがなかなか見つからないのです。そこでつい以前使用したものを、ある程度季節を考慮しながらまた用いるということになりがちです。

 ただ今回変えました「若葉」、これで3度目となりますが、何しろ開設時に使用したものだけに私としても愛着のある背景です。『あヽまた何とかこの背景に戻れたなぁ』と何となく安堵の気持ちもあるのです。
 
 「緑」という色はとにかく落ち着く色ですよね。いきなり話は飛びますが、人間には「7つのチャクラ」という、目には見えない霊的器官があるとされます。その中間の4番目の心臓部に位置しているのが、「ハートチャクラ」です。通常ハートマークは「ラブ、ラブ」のピンクで描かれることが多いものです。ハートの意味からすれば、ピンクは「愛の光線」ですからあながち間違いとはいえません。
 が、ハートチャクラの本来の色は「緑」であるようです。平和、調和、安らぎの色ですね。自然界の多くがこの緑色であることは、決して偶然ではなく、自然界の色こそが「平和、調和、安らぎ」を私たちに黙示してくれているように思います。
 最近ではさすがにそのことに少しは気がつき始めましたが、それでも一度やり出した“自然破壊”は急には止まりません。とにかく緑したたる自然界をどんどん狭めていくような文明形態は異常ですね。いずれ自分たちにもろにそのつけが返ってくるわけですからね。

 今他のチャクラはもちろんのこと、ハートチャクラを開くことの重要性があちこちで力説されています。もう「マインド(頭)の時代」ではなく、ハートで感じてハートの促しによって行動する、「ハート(心)の時代」なのですね。ハートから行動すれば、おそらく自然との共生がいかに重要なものであるか、理屈ではなくハートで直に感じられることでしょう。
 「ブログ背景変えました」とは何の関係もないことに話が及んでしまいました。「チャクラ」に関しては、私自身もっとしっかり理解して、各チャクラの意義などについていつかきちんとお伝えできればと思います。

 20代後半頃、S&G(サイモン&ガーファンクル)にはまっていた時期がありました。S&Gのどの曲も聴き応えがありました。(以前述べたことがありますが)その中でも比較的マイナーな『四月になれば彼女は』という曲がとりわけ好きで、何度も繰り返し聴きました。ポール・サイモンがソロで歌っていたのだったと思います。S&Gの楽譜集を求めて、ギター片手に下手なアルペジオで、この歌を弾いて歌っては一人悦に入っていたものでした。
 この歌と共に、確か『木の葉は緑』という曲もあったと思います。こちらも印象深い曲でした。緑麗しい4月、久しぶり懐かしのデュオ・S&Gの両曲をまたじっくり聴いてみたくなりました。

 (大場光太郎・記)

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