« 一連の幼少回顧を終えて | トップページ | 131億年前の宇宙の姿 »

時の話題(7)

 横浜の姉妹都市・米サンディエゴ市に、新しい「赤い靴はいてた女の子の像」がー

 つい先日の『父と妹の死のこと』記事のれいこ様コメントの中で、山下公園内の「赤い靴の像」のことが触れられていました。私はその返信で、「近いうち会いに行ってくるつもりです」と述べました。それからほどない2008年4月1日の夕方にお約束を果たしました。その時の印象などは『「赤い靴はいてた女の子の像」実見記』として当ブログに収めてあります。「うた物語」の『赤い靴』経由で同記事をご訪問になる方が、今でも時折りおられます。

 今回は、その「赤い靴はいてた女の子の像」(以下「赤い靴の女の子の像」)に関する新情報です。
 横浜市と姉妹都市の米カリフォルニア州サンディエゴ市に、新しい「赤い靴の女の子の像」が建てられることになったと、山下公園内の同像を管理する“赤い靴記念文化事業団”が発表しました。除幕式は今年6月27日の予定だそうです。
 同事業団の前身である「童謡・赤い靴を愛する市民の会」が1979年に山下公園に像を建ててから、昨年で30周年を迎えたことを記念して企画したもののようです。それを受けてサンディエゴ市でも、山下公園に似た海辺のシェルターアイランドという公園を建設場所として提供してくれたということです。

 山下公園の像は,女の子がひざの上で手を組んで座っているものですが、サ市に建てる像は高さ105cmの立像です。両市とも港町ということで、女の子はセーラー服を身につけ、手には両市の花のバラとカーネーションを持っている姿のようです。
 私は以来山下公園の像を3回ほどみましたが、写真で見る限りサンディエゴ市の像は同像とはだいぶイメージが違うようです。あるいは向こうでなじみやすいように、米国流にアレンジした像ということなのでしょうか。

 いい機会ですから、以下に童謡『赤い靴』にまつわる話を述べてみたいと思います。
 童謡『赤い靴』は大正10年(1921年)野口雨情の作詞になるものです。翌大正11年に本居長世が曲をつけました。ご存知の方もおられるかと思いますが、この童謡にはモデルがいたのです。「岩崎きみ」という少女です。
 岩崎きみは明治35年(1902年)7月15日、日本平の麓の静岡県不二見村(現静岡市清水区)で生まれました。きみは赤ちゃんの時、いろいろな事情により母親岩崎かよに連れられて北海道に移りました。そこで母親に再婚話が持ち上がり、かよは夫となる鈴木士郎と開拓農場(現北海道留寿都村)に入村することになりました。
 当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく3歳のきみをアメリカ人の宣教師チャールズ・ヒュエット夫妻の養女に出します。かよと鈴木士郎は開拓農場で懸命に働きますが、努力のかいなく開拓はうまくいかず、明治40年失意のうちに札幌に引き上げました。

 その後夫の鈴木士郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃同新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。なお明治41年(1908年)小樽日報に移った士郎は、北海道時代の石川啄木とも親交を持ちました。
 ところで野口雨情は、明治41年に長女を生後わずか7日で亡くしています。そんな折り、かよは雨情との世間話の中で、お腹を痛めた女の子(きみ)を外国人の養女に出したことを話したものと思われます。この薄幸で数奇な少女きみちゃんにわずか7日間だけの命だった長女が結びつき、詩人野口雨情の中に「赤い靴の女の子」のイメージが着想され、『赤い靴』が生まれたのかもしれません。

   赤い靴はいてた 女の子
   異人さんに つれられて行っちゃった
 あまりにも有名な、1番の歌詞です。母かよは死ぬまできみちゃんがヒュエット夫妻に伴われてアメリカに渡り、かの地で元気に暮らしていると信じていたそうです。また「赤い靴はいてた女の子…」とよく口ずさんでいたといいます。
 
 しかし実は岩崎きみは、異人さんにつれられてはいなかったのです。というのも、ヒュエット夫妻が日本での仕事を終えて帰国する際、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれていた結核に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト派の孤児院に預けられたのです。
 そして投薬治療などのかいなく、明治44年(1911年)9月15日、同院で一人寂しくわずか9歳の生涯を閉じたのです。きみちゃんは、青山墓地にある鳥居坂教会のお墓に埋葬されました。

   横浜のはとばから 船に乗って
   異人さんにつれられて いっちゃった
 薄幸の少女岩崎きみは、実際はアメリカに渡っていなかった。しかしきみちゃんをモチーフとした童謡『赤い靴』はその後日本全国で歌われ、「異人さんに連れられていった、赤い靴の女の子」のイメージは多くの日本人の心にしっかり定着していくことになります。
 それとともに、2番の歌詞のゆかりから、横浜港に接した山下公園にその像が建てられることになったのです。そして今度は、とうとう海を渡った米国サンディエゴ市にその像が建つ運びになったわけです。

 (大場光太郎・記)

|

« 一連の幼少回顧を終えて | トップページ | 131億年前の宇宙の姿 »

日常」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。