一連の幼少回顧を終えて
当ブログ、私が生きてきた半生の集大成にするつもりです。そのため今回は『父と妹の死の頃』として、「二木紘三のうた物語」の『赤い靴』拙文を転載させていただきました。私が「太郎村」で過ごしたのは、わずかに7歳の途中までにすぎません。
夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午(ひる)さがりの林道を
いつかご紹介した、立原道造の名詩『のちのおもひに』の一節です。しかし思えば太郎村での出来事は、私の半生における原体験的出来事であったように思われるのです。
また「積善の家には必ず余慶(よけい)有り、積不善の家には必ず余殃(よおう)有り」とは、『易経』坤、文言伝中の一節です。半世紀以上前、我が家にあれほどの「余殃」があったということは、我が一族にいずれの時か「積不善」があったためと謙虚にとらえるべきなのでしょう。
あの頃我が家の余殃は、極端な「貧(ひん)」となって現われました。一連の哀しい出来事により、我が一族の負債(余殃)はかなり減殺(げんさい)されたとみるべきです。その意味でも父親、母親、菊子の、この世での大変なご苦労には本当に感謝です。
どなたもそうであるとおり、私は我が一族のタイムカプセルの出口であり、我が一族の現在における代表者であるわけです。ならば今日の私は完全に貧を脱して、我が一族の負債がきれいさっぱり無くなったと、晴れて世間様に証明出来得る状態に至っているだろうか?
残念ながらまだまだです。幼児のあれほどの「貧体験」というものは、相当深刻なダメージを心の奥深くに残すもののようです。怖いことに「ダメ意識」が心の深部に突き刺さり、貧であることが習い性になってしまうのです。そのため半生の中で、我が家系には相当根深いものがあることをいやというほど痛感してきました。ものの道理の分からない若い頃は、『何でオレだけがこんな目に』と、母や早く死んだ父を恨んだりしたこともありました。しかこういう家系に生まれ落ちたことは「相応の理(そうおうのり)」というもので、他の誰の責任でもない私自身の業(カルマ)の深さでもあるわけです。
地球全体が光に向かいつつある「今この時」、業や闇など重たいものは「光の世界」には一切持っていけません。何しろ全体が天国的精妙世界に移行するのですから当然です。よって私にまつわる諸々の重たいものは、他の誰でもない私自身が、「今この時」に適宜何とか処理していくべき課題であるのです。内なる闇を直視して、それを光に転換していく絶えざる努力が必要です。
その作業を「世界人類が平和でありますように」の祈りの提唱者・五井昌久先生は、「観(かん)の転換」と言っておられました。良いことも悪いことも、身の回りに現われる元となるのは自らの「想い」です。ですから闇(病み)の想いを光の想いに。「祈り心で想いを転換しなさい」との優れた教えです。
「光の世界へ」というとやたら難しそうで、初めからギブアップしたくなりそうです。しかし自分自身が光に向かっているかどうかを知るのは実は簡単なようです。いついかなる状況でも心の底から「喜び」「豊かさ」が実感でき、その状況に無条件で感謝できているかどうか?また「共時的現象(シンクロニシティ)」が起きやすくなり、願望実現が早くなるといいます。これらをバロメーターにしていけばいいようです。
私は最近「清貧」などに誇れるものは何もない、目指すべきは「清冨」なのだとやっと分かってきました。世界救世教・岡田茂吉明主は、「神の子が目指すべきは、“健和富”だ」と唱えたそうです。30代の頃それを知って、私は『何だ、ずい分俗っぽい教えだな』と反感を持ちました。そしてあえて真逆な「貧病争災」の道を選んでしまった私は、以来さんざん痛い目に遭ってきました。その結果、今なら『全くそのとおり』と素直に共感できるのです。
折角私は両親から、「光」の一字を名前につけてもらいました。これは私に対する、我が一族の先祖、祖先の期待の表れととらえ、一族の中で「光を宿す者」としての働きをすることが、父、母、菊子、ご先祖様へのせめてもの恩返しかなと思います。
「大きな場所に“光る”太郎」などと、そんな大きな働きなど出来る器ではありません。しかし世の中の一隅で「“光る”太郎」つまり「光る男」くらいではありたいと思います。改めて今ここから「喜び」と「豊かさ」と共にー。
(大場光太郎・記)
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