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父と妹の死の頃

 今回の一文は、2008年3月「二木紘三のうた物語」の『赤い靴』コメントに寄せたものを、冒頭部分を省略した以下の本文をそのまま転載したものです。なお本文に続くれいこ様のコメント、それに対する私の返信も今となっては思い出深いものですので、そのまま載せることに致しました。
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 昭和31年、もう半世紀以上前のことです。この年、私の家は零落の極みでした。
 山形県内陸部の山あいの「太郎村」という戸数数十戸ほどの寒村に私の家はありました。(この部落名に「光」をつけて、私の名前になりました。)最上川の一上流である吉野川そばの、借地上のあばら家でした。畑のみの小作農、貧農でした。2年ほど前から家で病床にあった父と、母と、私と、すぐ下の妹と、二番目の妹の5人家族。父に代わって母が、畑仕事をして私たちを養ってくれていました。主食は、アワ、イモ、大根のたぐい。「白いおまま(ごはん)」は食べられませんでした。

 その年の4月半ば過ぎ、私が小学校に入って間もなく、父逝去。享年35歳。若すぎる死でした。
 父の野辺の送りも終わって、参列してくれた親族や村人らがほぼ帰った頃。福島県K市から来ていた父の姉(叔母さん)が、当時三つだった二番目の妹を「養子にもらい受けたい」と切り出したそうです。叔母家には子供がいなかったのです。叔母はどうも初めからその腹づもりだったようで、当家では出せない葬儀費用一切をこの叔母が出してくれたのだそうです。母は「それだけはダメだ」と強硬に拒みました。(母にとってその妹は一番お気に入りの「めんごいおぼご(可愛い子供)」だったようです。)しかし叔母は最後は、ひったくるようにして抱きかかえながら、その妹を連れていきました。
 
 妹は、手足をばたばたさせながら泣きじゃくって、見えなくなるまで母の姿を求めていた。その姿が忘れられないとは、母のずっと後年の談です。
 また、すぐ下の妹は、村から三里ほど奥に行った山の中の七軒部落の母の実家に預けられました。こうして我が家は、あっという間に、母と長男である私の2人だけになってしまいました。

 その年の9月。電報が届きました。「キクコ シス スグ コイ」というような内容の。キクコ(菊子)はもらわれていった妹の名前です。
 母に連れられて、K市の叔母家まで、初めての汽車の旅をしました。今では新幹線ですぐですが、当時は鈍行のうえ県境の板谷峠がスイッチバック方式で、けっこう時間がかかりました。米沢あたりから同席になったよその小父さんが、我が家の身の上に同情し、親切にしてくださいました。
 叔母の家は、K市の外れの、わりと大きな農家でした。途中竹林が多く、ざわざわ風にそよいでおりました。
 叔母の話では、妹は疫痢(えきり)という流行病にかかって、あっけなく死んでしまったのだそうです。それで、連絡が遅くなってしまった。流行病だから急ぎ葬儀を済ませ、既に荼毘に付してしまった…。
 
 その晩叔母が、母と私のもとに妹の骨壷を持ってきてくれました。大人のよりだいぶ小さい、赤い色の壷だったと思います。蓋を取って、中を見せてくれました。
 菊子は、ほんの小さな何片かの骨になっていました。真っ白い可愛らしい骨でした。

 妹が死んだ翌10月、「女手で畑仕事を続けていくのは無理だべ」という村の有力者のご配慮で、母と私は、町の「母子寮」にお世話になることになりました。ようやく「白いおまま」にありつけました。(翌年、母の実家に預けられていたすぐ下の妹も戻ってきました。)

 母にとって、最愛の子の死は相当のショックだったらしく、それ以降乳房が引っ込んで、男の胸のように真っ平らになってしまいました。
 その後、母は死んだ妹の話はあまりしませんでした。しかし平成9年初夏、母が脳梗塞で倒れ入院し、私が病院を訪ねたある日。母はうわごとで「きぐこ、どさえった?(菊子どこに行った)」と、私の背広の腕のすそをつかみながら聞くのです。「どさもえってねえ。げんきにすてっから、しんぱえねえ。(どこにも行ってない。元気にしてるから心配ない)」と、私は答えました。

 お読みいただき、ありがとうございました。

 投稿 大場光太郎│2008年3月2日(日)19時09分

大場様、涙を流しながらコメントを読ませて頂きました。
昭和31年は、もう私は結婚しておりました。この時代に
こんな生活をしておられる人がいることを知らないで過ごした
時代でした。お母様のお心の中に最後まで一緒におられた妹さん
きっと今はあの大空の中で、楽しい語らいをなさっていらっしゃる
ことでしょうね。横浜の山下公園の中にある「赤い靴の像」の
小さな女の子の姿が目に浮かびます。私もこの歌は大好きで
こども時代から口ずさんでおりました。一つの歌中には、人
それぞれの思い出があることを、改めて痛感しております。
お母様、妹さんを思い出すたびに、大場様のご長寿を祈って
いらっしゃることでしょう。

 投稿 れいこ│2008年3月3日(月)08時19分

れいこ様

 お読みいただいたうえ、暖かいご感想までたまわり、まことにありがとうございました。
 本日たまたま「ひなまつり」です。お蔭様で、半世紀余り経ってようやく、妹・菊子への良い手向けができた思いです。(妹は、私の中では今でも3歳のままです。)
 私は業務の関係で、月に一、二度は神奈川県庁にまいります。今度余裕をもって出て、県庁から近いですから、山下公園まで足をのばして、「赤い靴の像」に会ってこようかなと考えております。
 れいこ様。どうぞご健勝でお過ごしくださいませ。

 投稿 大場光太郎│2008年3月3日(月)15時29分    

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コメント

 ひなまつりの日によせた大場さんの文を「うた物語(二木さん)」もふくめて読んでおおいに心をゆさぶられました。
 昭和30年代の日本はまだまだ貧しく、そこから派生する貧しさゆえの苦労も多かったですね。程度の差こそあれ、みんな死にもの狂いで生きていたように思います。しかしモノを大切にし、モノがあることに感謝していました。そして人々の感性は今の時代よりも豊かだったと思います。こどもの目は好奇心と希望に満ちて、生き生きと輝いていた記憶があります。 三島由紀夫は、人間は逆説的存在であるといいましたが、たしかに豊かになればそれと引きかえに精神的な美風を失っていくのかという思いをもってしまいます。年を取った証左かもしれませんが・・。
 私自身の昭和30年代、小学生の頃を思い浮かべて大場さんの文を何度も読み返しました。お母様が入院生活をされていた時、「菊子はどこへ行った?」と聞く所は本当にせつないですね。妹さんが亡くなったのは、誰が悪いわけでもないと思いますが、いまわのきわに傍にいてやれなかったことが母親として残念で、その思いが一生続いたのでしょう。その思いは読む者に伝わってきます。 

 この大場さんの妹さんへの鎮魂の文章に対し感動した人は千人、万人いたでしょう。しかしあまりにも苦難に満ちた内容と赤裸々にして勇気ある体験談にコメントを書くに書けなかった人も多かったのではないでしょうか。あるいは最近の風潮、他人のプライバシーには立ち入るまいという刷り込み、小利口な処世術のせいかもしれません。その点、れい子様は一歩踏み出すその勇気をお持ちの方だったと思います。一歩踏み出す勇気はきわめて大事だと思います。私もその勇気にならってコメントを書こうと思いました。
 人が生きていくとはたやすい事ではないけれども、明るく面白く生きていこうというこころがけは最も大事だーーと私なりに思いを新たにしました。

投稿: 秋山 小兵衛 | 2013年3月 3日 (日) 13時44分

 どうもありがとうございます。『うた物語』の拙文も含めて丁寧にお読みいただいたようであわせて感謝申し上げます。
 当家は特別としても、昭和30年代前半頃はおしなべて「貧しい社会」でしたね。しかし映画『三丁目の夕日』ではないけれど、人と人との付き合いは濃密、親密で、今よりずっと潤い、温かみがありました。
 その貧しさから抜け出すため、当時の人たちは必死でしたよね。その民族的エネルギーが、日本をして世界第2位の経済大国に押し上げる原動力になったと言っても過言ではないのだろうと思います。それ自体はまっとうなことであり、非難されるべきものではありません。
 ただいかんせん「モノ、カネの豊かさ」第一主義で突っ走ったため、肝心な「心の豊かさ」を忘れ、失っていたきらいがあります。上から下々に至るまで、それによる「負の遺産」に今苦しめられているわけです。
 おっしゃるとおり、この一文は菊子への「鎮魂の文章」のつもりで書きました。当初の一文を掲載させていただいた『うた物語』の二木先生には感謝です。その時は『今の豊かな時代に果たしてご理解いただけるだろうか?』という懸念もありましたが、存外多くの人がお読みになり、「何か」を感じてくださったとしたら大変幸甚に思います。

投稿: 時遊人 | 2013年3月 3日 (日) 20時38分

 今回『フォレスタの「赤い靴」』を公開し、我が家に関するこの物語についても述べさせていただきました。切角の機会ですので、トップ面に再掲載しました。

投稿: 時遊人 | 2013年10月28日 (月) 06時00分

 本記事は2010年4月10日公開でしたが、今回トップ面に再掲載します。
 記事冒頭でも述べましたが、この文の初出は(国民的音楽サイト)「二木紘三のうた物語」の『赤い靴』コメントでした。今からちょうど10年前、つまり2008年3月2日にコメント公開したのです(れいこ様とのコメントやり取りは3月3日)。
(少しややこしいかもしれませんが)同コメント主要部分を記事として公開した本記事に対し、「うた物語」ファンでもある秋山小兵衛様が、「(『赤い靴』コメントの)この大場さんの妹さんへの鎮魂の文章に対し感動した人は千人、万人いたでしょう」と、過分なるお褒めのお言葉をいただきました。
 この体験は、常日頃意識しているいないにかかわらず、今に至るも、私にとっての「原体験」になっているように思われるのです。 (2018年3月3日午前1時30分・記)

投稿: 時遊人 | 2018年3月 3日 (土) 23時56分

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