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続・吉野川-雪解頃の思い出

 雪解けの吉野川で、土手下の福寿草を採ろうと下に降りていって川にはまり、必死で助けを呼んで母に助けられ九死に一生を得たのが、確か昭和30年春のことでした。
 今回の思い出ははっきり覚えています。というのも、我が家にとって多事多難の年となった昭和31年のきっかけとなるような出来事だったからです。

 季節も同じ春先の、4月10日すぎくらいのことでした。その年私は小学校1年生になったばかりでした。さすがにその頃になりますと、前年溺れかけた時よりだいぶ水かさは引いていました。それでもいつもより水量が多かったのはもちろんです。
 そんなある日の早朝、私たち家族は部落の誰かの大きな声でたたき起こされました。何でも我が家の近くの川原に人が流れ着いている、つまり“土左衛門”が発見されたというのです。その一報があってからというもの、近所中が大騒ぎでした。私はこわごわだったか、興味津々だったかは忘れましたが、母の後ろについていったのです。

 その季節もう途中の土手から川に下りられました。その場所は我が家から数十メートルほど下流の、川が左に大きく曲がる地点でした。一旦流れが緩やかになるため、上から流れてきた死体はそこで止まって浮いていたものと思われます。
 遠くで見ますと、水際の川原の所に7、8人ほどの村人が集まっていました。近づいていきますと、なるほど村人たちの輪の中に一人の人が仰向けに横たわっているのが見えました。既に誰かが水の中から引き上げて、そこに寝かせたのだと思います。

 なおも近づいて、死体というものを生まれて初めてしげしげと見ることができました。当の土左衛門は男性です。これまで見かけたこともない人のようです。今にして思えば、年の頃は30代といったところだったでしょうか。
 もう服装などの詳細な記憶はないものの、やはり顔などの印象は鮮烈です。とにかく顔全体が水膨れに膨れあがった紫色で、途中岩場にでもぶつかったものか、アザや傷だらでした。昨年春、もし私が“子ども土左衛門”となっていたなら、きっとあんな感じだったことでしょう。

 問題は当の土左衛門がどこの誰かということです。部落の人も誰れも知らない人のようでした。後で母から聞いたところでは、川の上流の下荻、上荻、小滝などの部落の人でもなかったのです。
 何でも「土左衛門が出た」と聞いた村人の中には、とっさに『力兄にゃではねえべが?』と思った人もいたそうです。「力兄にゃ(ちからあんにゃ)」とは、私の父親の常平生の呼び名です。父が病気を悲観して、吉野川に身を投げたと思ったというのです。
 しかし私の父が亡くなるのは、それからわずか10日後くらいのことです。もうその頃では、病状は末期的で家の中で寝たきりの状態、自分で起きて歩くことなどとても出来なくなっていたのです。

 さて吉野川のかなり上流に、「吉野鉱山」という日本鉱業系列の鉱山がありました。同鉱山は江戸時代以前からの長い歴史があり、金、銀、鉛、亜鉛、石膏などを産出していました。“タイガーボード”のテレビCMでおなじみの吉野石膏(株)は、(私たちがこの年の秋から移り住むことになる)宮内町出身の須藤一族が、1901年(明治34年)吉野鉱山で産出された石膏を原料として、製品を製造し創業した会社です。
 また宮内の隣町の東置賜郡小松町(現川西町)出身の作家、井上ひさしの作品『月なきみそらの天坊一座』が今から20年ほど前、NHKでドラマ化されたことがあります。そのドラマでは、吉野鉱山や宮内町も舞台となっていました。

 同鉱山は昭和40代半ば頃、吉野川へのカドミュウム流出の鉱害問題を引き起こし、昭和49年(1979年)閉山となりました。しかし昭和30年代はまだ意気盛んで、鉱山関係者が住む一帯を“緑ヶ丘”などとハイカラな地名にするなど、なかなか活気があったのです。そんな中で、何人もの“朝鮮人”が鉱山従事者として働いていたようなのです。
 その時流されてきた土左衛門は、その中の一人だったのです。

 後で母が語っていたところでは、そこに流れ着いた朝鮮の人は、前の晩仕事を終えてから同じ朝鮮人仲間と鉱山近くの飲み屋で一杯引っ掛けていたといいます。そして飲み屋を後にして仲間と連れ立ってほろ酔い機嫌で、宿舎に帰ろうとして、吉野川に架かるとある橋にやってきました。
 その橋というのが、木橋なのか石橋なのかは分からないものの、おそらく欄干などついていない橋だったらしく、当時のことで橋のたもとに薄暗い裸電球くらいはあったでしょうが、ほろ酔いなどではなく泥酔に近かったものなのか、橋から足を踏み外し川に転落してしまったらしいのです。
 もちろん連れの仲間は酔いがいっぺんに覚め、何とか助けようとしたようです。しかし季節柄水量が多く流れも早く、落ちた当人はあっという間に下流に流されてしまったというのです。そして翌早朝、そこから何キロも離れた私の家のすく下流に流れ着いたというわけです。

 “朝鮮人”とはいっても既にその頃では、昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮動乱により、朝鮮半島は大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とに分断されていました。だから韓国の人なのか北朝鮮の人なのか。どうして日本の鉱山に朝鮮の人がいたのか。あるいは戦時中我が国の朝鮮政策により、母国から無理やり日本兵として日本に連れてこられ、戦後行き場を失って同鉱山にたどり着いた人たちの一人だったのだろうか。
 詳しいことは何も分かりません。とにかく日本海を隔てた異国の地で、厳しい労働に日々従事しながら、挙句の果てに哀しい骸(むくろ)となって吉野川原に横たわっていたのでした。

 (大場光太郎・記)

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