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とんがっているものほど安らぐ

 『こころの遺伝子-あなたがいたから-』-一青窈編

 先週のNHK総合『こころの遺伝子』のゲストは、一青窈(ひととよう)でした。そして一青窈にとっての「人生を変えた一言」を言ってくれた恩人とは、今は亡き作詞家の阿久悠(あく・ゆう)。その一言とは、「とんがっているものほど安らぐ」でした。

 一青窈という女性シンガーについては、今まで名前くらいしか知りませんでした。何せその漢字名も「ひととよう」という読み方も大変変わっているわけですから、『ひょっとして中国出身?』くらいの興味の範囲でしかありませんでした。
 今回紹介された生い立ちで、少し詳しく一青窈のことが分かりました。確かに彼女は、台湾の出身だったのです。1976年首都台北市で、台湾人の父と日本人の母との間に生まれました。一青窈の「窈」は特に難しい字です。これは「窈窕(ようちょう)」などとして詩文にも用いられるように「窈」とは、「奥ゆかしくたおやかなさま」を意味し、そのような娘に育ってほしいという願いを込めて父親がつけた名前だそうです。

 台北市の一青窈の家は、言語的に国際色豊かな家庭だったといいます。食事や団欒などの際、北京語、関東語、英語、日本語などさまざまな言語が飛び交っていたそうです。そんなユニークな家庭に育つうち彼女は、幼い頃から「言葉の面白さ」に魅せられていったといいます。一つの感情を表わすのにも、多くの言語表現があることに気づいていったのです。
 これが後に日本で歌手活動をするにあたって、大きな意味を持ってくることになります。

 一青窈にとって大きな転機が訪れます。父親が娘たちを日本で学ばせたいと考えたのです。こうして5歳の時、父親だけ台北市に残り彼女と妹は母親と共に日本に移住してきたのです。1985年一人母国に残った父親が他界してしまいます。また彼女が中学生の時、今度は母親が病死します。
 父母の相次ぐ死による深い悲しみを、彼女はノートに詩として書き連ねていきます。どんどん書いてはいっても、どこにも発表できるような内容ではありません。そのため感情がうまく流れてくれないもどかしさを感じながら綴っていったのでした。

 しかし幼少期のそれらの体験によって、一青窈の詩的才能が育まれていくことになりました。やがて彼女は、想いを発表する場として歌手を目指すこととなったのです。
 彼女の歌詞は、第一線のプロデューサーにも「力」を感じさせるものでした。こうして彼女は、2002年自身の作詞になる『もらい泣き』によって華麗なデビューをすることになります。意表をつき、情景が浮かび上がる歌詞、新しさの中にどこか懐かしさを感じさせるこの曲は45万枚という大ヒットとなり、たちまち一青窈はトップアーティストの仲間入りを果たしていきます。

 その後一青窈はデビュー曲のイメージから、「癒しの歌姫」という称号を与えられます。しかしそのような周囲の期待によって、彼女は『人間は多面体。固定化したイメージを持ってほしくない』『自分が本当に作りたい歌が作れない』といったジレンマに、人知れず悩むことになります。
 一人悶々としていたある時、一青窈をメーンとした雑誌の対談連載企画が作られます。その最初のゲストは、彼女のたっての希望で阿久悠に決まりました。

 というのも、彼女は幼時から作詞家・阿久悠の歌詞に魅せられていたからです。阿久悠も一青窈を密かに注目しており、対談の中で「あなたの言葉はレイアウトがいいんですよ。詩とはレイアウトだからね」と誉めてくれたそうです。
 実はその頃阿久悠も、今の歌謡界に違和感を感じていたのです。阿久独特の表現によれば、歌謡曲全盛の70年代の歌は「興奮剤」だった、しかし当節の歌は「鎮静剤」になってしまった。『どうも違うんじゃないの?』と感じていたというのです。

 そして同対談の中で、一青窈が阿久悠から「こころの遺伝子」にダイレクトに受け継いでいくことになる、鮮烈な言葉を聞くことになります。
   とんがっているものほど安らぐ
 普通は「とんがっているものはざわつく」であり、「とんがっているものほど安らぐ」というのは二律背反のように思われます。しかしそれは阿久悠という戦後最大の作詞家の、時代に流されない生き方を端的に示す、現風潮へのアンチテーゼの言葉でもあったわけです。

 阿久悠のこの言葉は、それまで歌の方向性、もっといえば生き方そのものを自分一人で模索するしかなかった悩める一青窈に、パーッと光を射し込んでくれるような言葉となりました。それは歌の実作にもヒントを与えてくれ、それ以後「とんがっていて(しかも)安らぐ歌」という、ちょっと常識を破った歌詞作りを目指すことになります。
 こうして生まれたのが、対談翌年に発表した『ハナミズキ』という名曲で、この歌は『もらい泣き』と共にその後彼女の代表曲と呼ばれることになります。

 2007年8月11日阿久悠死去。恩師の死に一青窈は衝撃を受け、一時は絶望的になったといいます。そのショックから立ち直った今日、彼女は今でも 「阿久先生は“時代”をつくるような人でした。偉大な作詞家を亡くした」という想いはあるものの、しかし同時に「誰かがその遺志を受け継がなければならない」「この私が受け継ぐんだという自信はある」と言い切ります。
 
 思えば「とんがったものほど安らぐ」と簡単には言っても、それを作詞であれ何であれ実際に表現するとなると、なかなか難しい面があるように思われます。特に今日のようなガチガチの「管理社会」にあっては。70年代のように、ただ世の中の上昇が無条件で信じられ、活力に溢れ、ある程度羽目をはずしてもあまり文句を言われなかった社会状況ではなくなっています。
 一言で言えば「冷たい社会」、無個性、没個性的な均質社会です。そんな中では、例えば小沢一郎のようにとんがった(突出した)存在は徹底的に叩かれ、ややもすれば排除しようとする力学が働きます。しかしこんな息苦しい社会で良いのか。やはりとんがった誰かが、こんな重苦しい空気を変えなければならないのではあるまいか。

 私は、阿久悠という人については、『そういばスポニチで高校野球のことをよく詩にしてたな』くらいの記憶しかありませんでした。しかし今回一青窈に伝えたこの言葉から、阿久悠という人はどこかに「大いなる反骨精神」を潜ませていた人だったんだなと認識を新たにしました。

 一青窈よ。どうぞ阿久悠の衣鉢を継いでください。そしてこれからも「時代のカンフル剤」としての「とんがっていて(しかも)安らぐ歌」作りにチャレンジし続けてください。

 (大場光太郎・記)

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