春の夕べ
深尾 須磨子
まっさおな春の夕べ、
とぼしきれぬ心の灯を、
たった一つのランプに点(つ)けて、
木の葉のやうにふるへます。
何かしらよいことの、
何かしらおもふことの、
怖ろしいほどの愛撫の手に、
どうしやうかと私はつつぷします。
堪(た)へることのよさ、
堪へることの切なさ、
堪へることの切なさに、
うちまかせた心の苦しさ。
さはらないで下さい、
糸が切れます、
張り切った糸が、
一寸(ちょっと)でも、ああ、一寸でもさはったら。
真っ青な春の夕べ、
とぼしきれぬ心の灯を、
たった一つのランプに点けて、
木の葉のやうにふるへます。
…… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
深尾須磨子(ふかお・すまこ) 大正、昭和期の詩人。明治21年(1888年)兵庫県北部の氷上郡生まれ。生家の荻野家は没落士族で7人兄弟の末っ子。元の名前は「志げの」。7歳の時父を亡くし、翌年親戚のもとに養子に預けられる。15歳で京都師範学校に入学するも奔放な言動により退学処分となり、菊花高等女学校に転校し明治40年(1907年)卒業。
明治44年(1911年)「須磨子」と改名。24歳の翌大正元年(1912年)、京都帝国大学卒で鉄道技師の深野贇之丞(ひろのすけ)と結婚。深野は文学や芸術にも造詣が深かったが、大正9年(1920年)病死。須磨子は夫の遺稿に彼女自身の詩を合わせ、『天の鍵』を出版、与謝野晶子に認められ、以後詩集を立て続けに刊行し詩人として名が知られるようになる。
大正13年(1924年)~昭和3年(1928年)渡仏しパリで暮らす。昭和14年(1939年)には外務省派遣の文化使節として渡欧、ムッソリーニとも会見した。戦時中は戦争賛美の詩を作り、戦後その反省から平和運動、婦人運動にも積極的に加わった。昭和49年(1974年)85歳で没。
私が深尾須磨子という女流詩人とこの詩を知ったのは、ほんの2、3年前のことです。当然のことながら、私などの知らない隠れた名詩人、隠れた名詩が世の中にはまだまだ埋もれているわけです。
この事実はさらに、この世には、至らない私などには「隠されている美」が数限りなくあるということを示唆してくれます。
一概に「春の夕べ」とは言っても、各人の感性やその時の気分次第で、感じ方は人それぞれです。なべて季節の推移などにはあまり関心を向けない現代にあっては、微妙な季節の襞(ひだ)を味わうことにはさほど重きを置きません。
しかしこの詩で深尾須磨子は、「春の夕べ」を独特の詩的叙情性で描いています。
「まっさおな春の夕べ、/とぼしきれぬ心の灯を、/たった一つのランプに点けて、/木の葉のやうにふるへます。」
「まっさお」なのは春の夕べの色だけだろうか?詩人の心そのものが「まっさお」(現代流に言えば「ブルー」)なのではあるまいか?ブルー(憂鬱)であるからこその「とぼしきれぬ心の灯」。
そんな心の灯を点けるには、今の時代にあっては骨董品となってしまった「たった一つのランプ」を点すに限ります。現代の明るすぎる電気照明では、かそけき心の襞は悉く消失してしまいますから。
「何かしらよいことの、/何かしらおもふことの、/怖ろしい愛撫の手に、/どうしやうかと私はつつぷします。」
直接には現われてはいませんが、詩の底流にあるのはやはり「恋情」だと思われます。それは亡夫へか、他の誰かかは分からないものの。春の夕べであるのに、心をまっさおにさせるような、「切ない恋」「叶わぬ恋」。
略歴では述べられませんでしたが、昭和初期前後3年間のパリ在住中深尾須磨子は、著名なフルート奏者マルセル・モイーズのレッスンを受け、「性の解放」を叫んだ女流作家のシドニー・コレットから短編小説の手ほどきを教わっています。さらにはパリ大学のトゥルーズから性科学も学んでいます。
この聯からは、深尾須磨子の「モガ(モダンガール)」としての悩ましい官能性がほの見えてきそうです。
「堪へることのよさ、/堪へることの切なさ、/堪へることの切なさに、/うちまかせた心の苦しさ。」
この一聯が、この詩の核心部分だと思います。何事もスピードアップ、加速化のこの時代。男と女のコミュニケーションツールはもっぱらケイタイメール。いとも簡単に互いの想いを瞬時に伝え合えます。「恋文(ラブレター)」などはとうの昔に死語となってしまっています。また「出会い系サイト」などは、手っ取り早く「性の出会い」をセッティングしてくれます。
このような時代にあって私たちは、「堪えることベタ」になっていないでしょうか?「堪えること」による心の熟成、心の深化などは忘れ去られ、ともすれば薄っぺらい即物的な「恋愛ごっこ」に陥りがちなのではないでしょうか?
(注記)本詩はまだ著作権法による保護期間(作者没後50年間)にあります。しかしこのたびどうしてもご紹介したく、当ブログにて公開致しました。もしご関係の方がお読みでしたら、どうぞご寛恕ください。
(大場光太郎・記)
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