麗しき春の七曜
山口 誓子
麗しき春の七曜またはじまる
…… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
山口誓子(やまぐち・せいし) 略歴については『赤き鉄鎖』参照のこと
今年の春はどこかでこの句を取り上げようと、その頃合を見計らっていました。しかし今年に限っては、雨がち、曇りがちの日が続き、春とは思えないほどの寒さがぶり返したり、その上時ならぬ強風が襲いかかったりと、これまでずい分天候不順気味でなかなかその機会がありませんでした。
しかしさすがにゴールデンウィークともなると違います。4月29日の“昭和の日”を境に、やっと例年通りの「麗しき春」が到来しました。一歩外に出ようものなら、至る所に柿若葉などの溢れるばかりの萌黄若葉、新緑が陽に映えてまぶしいほどです。
また畑や家々や小花壇などには、菜の花や連翹(れんぎょう)などの黄なる色、チューリップの赤い色、マーガレットの純白の色、藤の花の紫の色、さつきの赤や白などとりどりの色…。本当に彩り豊かな草花やみどりしたたる木々に、心弾む季節の到来です。
麗しき春の七曜またはじまる
この句は、まさに今の季節を詠んだ句です。平明な句ですから、何の解釈もいらない「春の賛歌」そのもののような句だと思います。例年ならば、何もゴールデンウィークだけではなく、4月上旬頃から「麗しき春の七曜」は実感されます。そのため、「また始まる」という心弾む期待感で、春の一週間を何度も迎えることができるというものです。
この季節誰でも感じる想いを、かくも簡潔にとらえた誓子には脱帽です。
そもそも「麗しき春」は、豊かな自然に恵まれた我が国の風土の賜物であるわけです。メリハリの効いた四季の巡りあるこの国。分けても春のこの季節は、自然万物の甦り(死と再生)の確かさを目の当たりに見せてくれます。
かつて『風土』という名著の中で和辻哲郎(哲学者)は、「日本人の精神性の深いところには、豊かな自然に対する“信仰”がある」というような意味のことを述べていたと記憶しています。我が国には、縄文時代からアニミズム的な自然信仰が連綿として深く息づいてきたのです。
そこが、例えばユダヤ教、キリスト教、イスラム教(この三教は皆「旧約聖書」を原典としている)という、不毛の大地で生まれた「砂漠の宗教」と大きく異なる点です。片や我が国の精神風土は、すべてのものを包み込む多神教的おおらかな考え方。片やかの地の宗教は、排他的、攻撃的な一神教原理です。「愛」を説きながら時に「戦う宗教」として牙をむくという、自己矛盾をはらんでいるのです。拠って立つ風土の違いによるものなのでしょう。
俳句という文芸自体そうですが、山口誓子のこの句も、かかる我が国古来の汎神論的な自然観を当然の前提として詠まれたものとみることができます。この「麗しき春」の季節。私たち日本人の「信仰のよりどころ」である「豊かな自然」を、大切に守り育てていきたいという思いを新たに致します。
(大場光太郎・記)
| 固定リンク
「名句鑑賞」カテゴリの記事
- 雪の原の犬(2013.02.09)
- 街灯は何のためにある?(2012.10.27)
- 秋の字に永久に棲む火(2012.08.18)
- ものの種(2012.03.25)
- 寒や母(2012.02.18)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
先週末の激しい雨と風によって、今年の桜はすっかり散ってしまいました。しかし代わって、新緑や春の花々が辺りを豊かに彩る、うららかな盛春の到来でもあります。
当居住地付近でも、すぐ近くの公園の(遊具が設置されているスペースの中ほどの)大きな一本のケヤキの木がもうかなり豊かな新しい葉を繁らせています。つい2週間ほど前、枝々からほんの小さな葉が芽吹き初めたばかりなのに・・・。
また近所の何箇所かの柿の木は、萌黄色のやわらかな若葉をつけ、日にあたってまぶしいほどだし。自然の復元力の確かさには、励まされもし、また嬉しくもなります。
なお本日からブログ背景を『若葉』に替えました。これは開設時から使用してきたもので、今年で6回目、還るたびに初心の頃の懐かしさを感じてしまいます。
投稿: 時遊人 | 2013年4月 8日 (月) 07時34分