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永き日のにはとり

             芝 不器男

  永き日のにはとり柵を越えにけり

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《私の鑑賞ノート》
 芝不器男(しば・ふきお) 明治36年、愛媛県明治村生まれ。東大林学科、東北大機械工学科中退。長谷川零余子の「枯野」句会にさそわれて俳句を始め、のち吉岡禅寺門の「天の川」に投句、巻頭を占めた。「ホトトギス」にも投句を始めるが、26歳の短命で、彗星のように駆け抜けた人。独特の語感をもち、古語をまじえて、幽艶な調べを作り出す。時間空間の捉え方も個性的だった。死後2種類の全句集が出た。昭和5年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 まずこの句とは直接関係のないことからー。「芝不器男」とは一風変わった俳号です。そこで私は、芝は自身が常日頃「自分は生き方がヘタな不器用者だ」それで「不器男」という俳号にしたのかなと思いました。
 しかし調べますと、これは本名だったのです。名のいわれは、論語の中の「子曰、君子不器」(読み下し)「子(し)曰く(のたまわく)、君子は器(うつわ)ならず」から取られたものだそうです。概略の意味は、「孔子は言った。出来た人物というのは、用途の限られた器のようなものではない」となります。器物のような人は人から言われたことしかできない。それでは小人物である。君子のような大人物は、言われなくても出来る人でなければならないということのようです。

   永き日のにはとり柵を越えにけり

 ある春の昼下がり、芝不器男がとある農家かどこかに立ち寄った際、その庭を見ればちょうど1羽の鶏(にわとり)が柵を越えたところだというのです。たったそれだけの光景が、芝不器男の心を強くとらえたのです。だからこそ不器男は、この句を残すことになったわけです。
 
 「永き日」は「日永(ひなが)」「永日(えいじつ)」などと共に、春の季語です。「春分から少しずつ日が伸び始める。日中ゆとりもでき、心持ちものびやかになる。暦の上で最も日の長いのは夏至の前後であるが、春は冬の短日をかこった後なので日が長くなったという心持ちが強い」(角川文庫版『俳句歳時記・春の部』より)
 永き日と同じような季語として「長閑(のどか)」や「遅日(ちじつ)」という季語もあります。

 これらの季語から感じられるニュアンスは、春の日は遅々として暮れかねる時間的経過のもどかしさ、それゆえのアンニュイ(倦怠)の気分です。身も心も忙しく動き回りがちな若者の心は、永き日には特にそういう気分を強く感じるはずです。

 そこに一つの事件が起きたのです。にわとりが突如羽をバタバタさせて柵を飛び越え、囲いの外に出てしまった。ごくありふれたにわとりは、その時「永き日のにはとり」という、ある特別の意味合いを帯びて不器男には感受されることになります。

 その時颯(さっ)と柵を飛び越えたにわとりは、永き日にただならぬ変化を及ぼすシンボリックな生き物に姿を変えたということです。どろんとよどんでのろのろ過ぎていく時間の、それを打ち破るような跳躍。それはまた、不器男の中の倦怠をも一気に打ち破る出来事でもあったと考えられます。

 現代の「ニューエイジ思想」の説くところでは、外界で起きる事象は皆ことごとく心内の動きとシンクロしていると捉えます。偶然は何もない、何事も起こるべくして起きているということです。それゆえこの時のにわとりの跳躍は、不器男自身にとって意味のある出来事だったのです。

 この場合、「にはとり柵を越えられず」ではなく「にはとり柵を越えにけり」であったことは重要です。つまり囲いの外に飛越したにわとりは、「制限」「限界」を飛び越えて自由になったことを象徴しているわけです。
 この時まさに、不器男とにわとりは同化した一体のものとみなすことができます。ゆえに「永き日のにはとり」は、不器男の内なる制限や限界を脱け出して開放された、心的にステージアップしたことを意味すると思われます。

 芝不器男は、「ホトトギス」投句時高浜虚子による名鑑賞を受け注目を浴びます。また26歳での死去の後、横山白虹という俳人からは「彗星(コメット)の如く俳壇の空を通過した」という賛辞を贈られています。
 この句で暗示されている限界を打ち破る意識が、夭折したとはいえ芝不器男の輝かしい俳句的業績を可能にしたとはいえないでしょうか。もしそうであるのなら、この句は芝不器男にとって記念碑的な「青春の一句」であったといえそうです。

 (大場光太郎・記)

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コメント

 本記事は2010年5月16日公開でしたが、今回トップ面に再掲載します。
 本文末尾で私は「この句は記念碑的な『青春の一句』」と名づけました。その意味をご理解いただいた上、たまたまこの再掲載の句をお読みになった10代、20代の人たちで「我と思わん人」はこの句を凌ぐような「青春の句」にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。俳句は五・七・五の十七音だけのもっともお手軽な文芸ですから、誰でも作る気さえあれば作れます。ただ「奥は深い」ですよ。
 最近少し俳句から離れていますが、若い世代の作る俳句はとにかく斬新で、シャープで、瑞々しく、感性豊かです。これをきっかけに、芝不器男と肩を並べ、超えるような逸材が生まれてくれれば!(とりあえず「芝不器男俳句新人賞」というのがあります。)
 なお今回、芝不器男画像を新たに挿入しました。

※「芝不器男俳句新人賞」公式サイト
http://fukiosho.org/

投稿: 時遊人 | 2018年3月17日 (土) 02時42分

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