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「60年安保」から半世紀(2)

 - 5月20日の強硬採決により、安保闘争は倒閣・反米闘争へと変わっていった-

 激動の1960年(昭和35年)は、第二次世界大戦の敗戦(1945年-昭和20年8月15日)の傷跡生々しく、国民の間に「戦争」に対する拒否感が強い時代でした。さらに戦争遂行内閣であった東條英機内閣の閣僚として、A級戦犯にも指定された岸信介本人への反発も強いものがありました。
 「新安保は日本を“アメリカの戦争”に巻き込むものだ」という世論が高まり、全学連(全日本学生自治会総連合)など学生運動家だけではなく、一般市民や労働者をも巻き込む一大闘争へと発展していったのです。 

 5月20日衆院安保特別委員会で新条約案が強行採決されました。世論が決定的に動き出したのはこの日からでした。「民主主義の破壊である」として一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争は次第に激化の一途をたどっていことになります。
 岸内閣の強硬な姿勢に、当初の「安保改定反対」は次第に倒閣運動、反政府・反米闘争の色合いを濃くしていったのです。

 対して岸信介総理は、警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、同じA級戦犯でありCIAエージェント仲間でもある児玉誉士夫(こだま・よしお)を頼り、松葉会、稲川会、住吉会などの親分衆に働きかけ、さらには三つの右翼連合組織にも行動部隊となるよう要請しています。
 こうして激化するデモ隊の鎮圧のため、暴力団員、博徒、テキヤ、恐喝屋、暗黒街のボスなどが総結集したのです。最終的にその筋の連中が3万人以上動員され、彼らには岸内閣から(当時のカネで)約8億円が支給されたと言われています。
 これが腐れ縁となって、岸個人と安倍晋太郎、晋三親子、そして自民党と暴力団との癒着が後々まで続くことになったのです。

 そんな中岸総理は野球観戦に行き、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつものとおりだ。私には『声なき声』が聞こえる」と、いけしゃあしゃあと言ってのけました。しかし東久邇、片山、石橋の3人の元総理経験者が引退勧告をするに及び、事態はさらに深刻化することになります。

 6月3日、第17次統一行動。6月4日、総評は時限ゼネストを指令。全国で460万人以上もの労働者がストに参加しました。

 6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日した大統領補佐官ジェイムズ・ハガディが、空港周辺に詰めかけたデモ隊に包囲され、米海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件(ハガチー事件)が発生しました。
 ただハガディ補佐官は同夜記者会見し、「これにより大統領の訪日の方針が変わることはない」と話しました。

 こうして同闘争は、それまで共産党や労働組合とは距離を置いていた人々にも広がっていったのです。その意味で「60年安保闘争」とは、まさに“市民による闘争”だったと言えます。この闘争が、後の「70年安保闘争」などの学生運動と違う点は、実に市民らが一体となって参加していたことにあるのです。
 「物言わぬ小市民」ばかりになってしまった、今日のおとなしい社会からはとても想像もできませんが。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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