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「60年安保」から半世紀(3)

 - 闘争最っ只中悲劇が起きた。東大生の“聖少女”樺美智子が死亡す -

 1960年(昭和35年)6月15日。この日のストには全国で580万人が参加したと言われています。全商連(全国商店連合会)は、全国3万店で閉店ストを行いました。

 首都東京では11万人が国会議事堂を包囲。「第18次統一行動」として、「国民会議」「都労連」「新安保反対キリスト者会議」「安保改定阻止新劇人会議」などが参加しました。さらにこれに同調した全学連反主流波も抗議デモを敢行しました。
 また全学連主流派も各地の大学へ呼びかけ、「国会正門前に7500人を動員する」と主張し、気勢をあげていました。これに対して、衆参両院議長は警察に派出要請、当日は約1万人の警官が警備に当たりました。議事堂周辺を守るのは3400人ほどの機動隊、方面警察隊でした。

 午後1時半頃から、全学連主流派の東大、中大、明大を中心とした約6000人の学生が集まり始め、午後3時半頃には約7300人に膨れ上がり抗議集会を行いました。
 国会はデモ隊に包囲される形となり、参院側から衆院南通用門の方へ行進していきました。デモ隊が衆院第二通用門交差点に差しかかった頃、平河町から歩いてきた右翼グループと遭遇し大乱闘となり、双方に多数の負傷者を出しました。

 全学連主流派はスクラムを組んで通用門に体当たりし、有刺鉄線などをペンチで切断し始めます。午後5時40分、学生らは門扉にロープを巻いて引き倒し、門内の阻止の車両にも火を放ちました。
 これに対して警官隊は放水し押し戻そうとしましたが、抑えきれずに学生らはどんどんと構内に乱入し、規制しようとした警官隊と衝突しました。
 騒乱真っ只中の午後7時過ぎ、東大生・樺美智子(22)が転倒したところ、人雪崩的に転倒した学生らの下敷きになり圧死するという、悲劇的事件が起きたのです。

 樺美智子(かんば・みちこ)。1937年(昭和12年)東京生まれ。父は東京外語大学教授などを歴任した、社会学者の樺俊雄。当時は東京大学文学部の4年生でした。
 東大に入学した樺美智子は、学生運動家として活動を始めます。6月15日当日は、自治会副委員として先頭に立って国会突入を図ったのです。
 控えめながら芯の強い女性だったといいます。読書と集会に明け暮れる日々で、家の勉強部屋には卒業論文用の『明治維新史研究講座 第4巻』が開かれたままだったそうです。「死に顔はほほえんでいるようだった」とは、肉親の手記の一節です。

 『樺美智子 聖少女伝説』(文芸春秋)を著した江刺昭子氏は、日本人の意識と生活は、皇太子妃(現皇后)と樺さんの「二人の美智子」から変わったという論を展開しています。一人(樺美智子)は、命を捨てて時代の重い扉を開いたのだと。
 樺美智子さんのデモ中の死は、山形の小さな町の小学校5年生だった私の耳にもほどなく届き、忘れることのできない名前として刻まれることになりました。
 多磨墓地には、彼女の墓と碑があるそうです。

 …国会構内ではその後も一進一退の衝突が続き、午後8時半頃に3500人ほどの学生が中庭でシュプレヒコールや阻止車両破壊を始めます。警官隊が学生たちを門外へ排除できたのは午後10時11分のことでした。
 学生らの多くは折りからの降雨のため帰っていきましたが、それでも1500人ほどの学生たちは国会周辺でデモ行進を行い、それはいつしか3000人にもなりました。国会正門前の車両を横転させ次々と放火、計18台が全半焼しました。

 この暴動に対して、警視庁は機動隊を投入して排除する方針を決定。投石などで抵抗し続けていた学生たちを力づくで排除しました。
 結局この日、学生193人を含む232人が検挙されました。警察側の負傷者は721人。それまでの闘争警備において最大の被害を出しました。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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