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「60年安保」から半世紀(1)

 -例えば普天間基地移設問題。あの時締結された同条約が、半世紀もの長きにわたってこの国を大きく規定してきた。「今後どうするのか?」。今こそ国民間の真剣な議論、検証が必要だろう。-

 うっかりやり過ごすところでした。ちょうど50年前の梅雨時6月半ば頃から、首都東京は史上空前の規模の騒乱状態に陥ったのでした。後に「60年安保闘争」と呼ばれることになる、国会周辺での学生、労働者、市民たちによる反政府、反米闘争が連日続いたのです。

 当時この安保闘争が全国民にどれほどの影響を及ぼしたのか、まだ子どもだった私には知る由もありません。しかしその一端を知る手がかりとして、例えば一方の当事者である岸信介元総理の孫である安倍晋三元総理は、(当時晋三5歳)祖父である岸の前で「アンポ、はんたい !」を連呼して、岸に「そんなことを言ってはいけない !」と厳しく叱られたそうです。

  私のことも話します。私は当時山形県内陸部の町の小学校5年生でした。だから「安保」の意味などサッパリ分かりませんでした。しかしその頃この国でただならぬことが起きていることは察知していたようです。
 多分騒動の最中のある日のことだったと思います。その日の授業が始まる朝のことだったかと思いますが、私は担任の先生に「シェンシェ(先生)、日本で戦争が起ぎんなだべが?」と質問したのです。当時私の席は前から3列目中ほどでしたが、多分クラスの誰もが気になっていることを、代表して先生に質問した形でした。

 クラスの誰かから聞くように促されたのか、それとも母ら大人たちがその件を大騒ぎで話しているのを小耳にはさみ、それで気になって自発的に質問したものか、今となっては定かではありません。いずれにしてもテレビ、新聞ともままならぬ当時としては、“先生”に尋ねるのが一番の方法だったわけです。
 担任の先生はKという、少し肥満気味の30代半ば過ぎの女の先生でした。K先生は私のぶしつけな質問に丁寧に答えてくれたと記憶しています。その内容はほとんど忘れてしまいましたが、「戦争など起ぎねがら、心配すっこどねえ」というような最後の言葉に、何となく安堵感を持ったことだけは覚えています。

 そもそも旧安保条約は、1951年(昭和26年)9月8日、日本の独立を定めたサンフランシスコ平和条約と同時に締結されています。その後の米ソ両国を頂点とする東西冷戦構造の激化に伴い、米国が同条約改定を我が国に迫ってきたものです。それまでの単に米軍に基地を提供するための条約から、新条約は「日米共同防衛」を義務づけた一段とシビアな内容となっています。
 日本が西側諸国の一員として、防衛面でもしっかり組み込まれることを意味する内容だったのです。

 改定交渉に当たったのが、自由民主党の岸内閣でした。前年からの下交渉を経て、問題の1960年(昭和35年)1月には岸以下全権団が訪米し、時の米国大統領アイゼンハワーと会談、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意しています。
 岸らの帰国後、新条約をめぐる国会審議が行われるや、安保廃棄を掲げる日本社会党の抵抗により国会は紛糾します。また前年から既に、改定により「日本が戦争に巻き込まれる危険性が増す」などの懸念により、反対運動が高まりをみせてもいたのです。 (以下次回につづく)

  呑み屋出て音吐(おど)挙げてをり夏至の月   (拙句)

 (大場光太郎・記) 

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