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ほうたるの窓辺に寄れば

               黛まどか

  ほうたるの窓辺に寄れば君も寄る

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《私の鑑賞ノート》
 黛まどか(まゆずみ・まどか) 1962年(昭和37年)7月31日神奈川県足柄下郡箱根町生まれ。本名は黛円(読み方は俳号と同じ)。父は俳人の黛執(まゆずみ・しゅう)。1983年(昭和58年)フェリス女子短期大学卒業。富士銀行勤務時代に杉田久女を知り俳句の世界に魅了される。1990年(平成2年)俳句結社「河」に入会し、吉田鴻司に師事。1994年(平成6年)「B面の夏」50句で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞、初の句集『B面の夏』を出版。同年女性のみの俳句結社「東京ヘップバーン」を立ち上げる。1996年(平成8年)女性会員による俳誌『月刊ヘップバーン』を創刊、代表となる(同俳誌は100号で廃刊)。2001年(平成14年)句集『京都の恋』で山本健吉文学賞を受賞。  (フリー百科事典『ウィキペディア』より)

 短歌界の超新星が俵万智ならば、俳句界の超新星は黛まどかです。黛は略歴にあるとおり、平成6年『B面の夏』によって、新進の女流俳人として鮮烈デビューを果たしました。偶然にも俵と黛は、同じ昭和37年生まれ。歌壇と俳壇は近接しており、黛には俵に対する対抗意識が多分にあったことでしょう。

 黛まどかはその時32歳。「美人俳人」という俳句本来の評価とはまったく別の要素でも注目され、テレビなどで盛んに取り上げられ、当時はタレント並みの扱いでした。

 今日の俳句人口は大変裾野が広く、全国で何百万人もが何らかの作句活動に携わっていると言われています。しかしテレビマスコミで“俳人”がクローズアップされるのはまず皆無です。
 そんな中にあって黛まどかは例外中の例外。黛の出現によって俳句人口はその裾野をさらに広げたことを思えば、その功績は大いに評価すべきものと思われます。

   ほうたるの窓辺に寄れば君も寄る
 黛まどかの句として、私はこの句くらいしか知りません。そこでこの句が果たして黛の代表句なのかどうかは分かりませんが、少なくとも私に限って言えばそうなるわけです。
 
 俳句という制約の多い超短詩型で男女の機微を描くことは意外と難しく、そのせいか「恋愛句」というのはそれほど多くはないようです。また近代俳句の在りようを決定づけた高浜虚子の「花鳥諷詠」という、俳句は四季折々の自然の事物と向き合い詠み込んでいくべきものという方向性も、恋愛というテーマを遠ざけてきたと言えそうです。

 それからすればこの句は「恋愛句」として立派に成立していて、その点では画期的な作品と見ることができます。シャレた現代的感性による句とも言えそうです。まるで今風の恋愛ドラマのワンシーンを見るようです。洋館風の一室にいる、セレブな一組の男女の姿が思い浮かびます。

 機密性の高い窓サッシで完全に仕切られた内と外。何気なく外を見ると蛍がふわふわ飛んできた。それに気がついた男は、反射的に窓辺に寄っていった。それを見ていた女は、そんな男をより好ましく思って、少し遅れて同じく寄っていって、二人並んで蛍のようすをしばし見ていた。……

 しかしこの句は実は、平安朝以降の日本的美意識に深く根ざしているとも言えるのです。

 例えば、
  蛍の窓辺に寄りしを見給ひて源氏の君も寄り給ひける
とでも言い替えれば、それはもう平安朝絵巻の一場面です。すなわち、藤壺や夕顔といった愛人との“逢ひびき”の窓辺に蛍が飛んできた、光源氏がその光につられて窓の方に寄っていったというような絵柄の。

 ですからこの句は少し辛辣なことを言えば、表現的に「擬“現”調」を装ってはいても、古来からの伝統的な美意識から一歩も脱け出していないとも言えるのです。
 その点では、俵万智の『サラダ記念日』の中の作品群のような「革新性」に比して、幾分評価を下げざるを得ないのかな?と感じるところはあります。

 (大場光太郎・記) 

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