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『世界青春詩集』

 - 今では信じられないことに、昭和40年代は一種の「詩集ブーム」でもあった -

 ここに一冊の詩集があります。タイトルは『世界青春詩集』。今となっては少し(大いに)気恥ずかしさを覚えるタイトルです。
 書籍の場合何版と言うのかよく分かりませんが、文庫本より一回り大きなサイズです。元々は確か箱入りだったかと思います。さらに詩集本体は厚くて透明なビニールでカバーされています。かなり昔ながら、なかなか美麗な詩集です。

 表紙をめくって直ぐの右片面は余白、左片面に暗灰色で少し古めかしいヨーロッパの街並みが描かれています。さらにめくると、4ページ分カラー写真となっていて、それぞれに詩集中の詩の一節が紹介されています。
 全部で82篇の世界的に有名な詩人たちの詩が収録してあり、ページ数は250ページほど。

 最後の方の「奥付」を見ますと、発行所は三笠書房、編者は藤原定(ふじわら・さだむ)、1970年1月31日発行で、定価は¥450となっています。奥付の次、つまり裏表紙の直ぐ前のページは、右片面にやはり街並みが描かれ、左片面は余白です。その余白の左下に青いボールペンの縦書きで、
 「一九七〇年七月二日(木)」「我弐壱歳也」「大場光太郎」
の書き込みがあります。そして名前の下にはご丁寧にも少し大きなハンコまで押してあります。

 それにしても「我弐壱歳也(我21歳なり)」とは、何と大仰(おおぎょう)なのでしょう。これには少し理由があります。
 当時私は現居住市内の某測量事務所に勤務していました。同事務所は、土地家屋調査士業務が大半を占めていました。同業務の主要なものに、土地・建物表示登記申請があります。法務局の出先機関に提出する同申請書類には、所在地番、地積(土地の面積)、建物の床面積などを表記するのに、当時は「壱、弐、参…拾」という特殊でいかめしい漢数字を使う決めになっていたのです。ですからその表記は、多分に当時の仕事の影響があったわけです。

 ところで1970年といえば「70年安保闘争」「全共闘学生運動」の真っ只中、大激動の年でした。
 同年3月31日には「よど号ハイジャック事件」が起き、同事件の一部始終がテレビ中継され世間を震撼させました。また11月25日には「三島事件」が起き、よど号事件以上の強い衝撃を当時の社会に与えました。
 
 身近なところでも、昨年の『成人式の思い出(1)(2)』で述べましたように、この年の1月厚木中学体育館で行われた私たちの成人式では、成人代表として登壇した早大生のО君が、挨拶途中突如「この式を新成人による対話集会に切り替えることを要求する !」と言い放ちました。壇上来賓席のI市長が慌ててかけ寄り、しばらく両者が激しくやり合う前代未聞の成人式となりました。

 そんな世の喧騒とは別に、昭和40年代は意外なことに「詩集ブーム」でもあったのです。今となっては信じられないことでしょうが、町の書店には日本そして世界の著名な詩人たちの各種詩集が溢れるように並んでいました。各出版社が競って、とりどりの詩集を出し合っているような状況でした。

 私らより一世代前の昭和30年代は、ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』やマルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』などの世界文学を読むことが、知的な若者たちのステータスの一つであったようです。それが私たちの世代では、詩集を読むことがそれと同じことを意味していたのかもしれません。
 作家・小説家と同じく詩人も、ある種の「畏怖の念」をもって受け止められていた、そんな時代だったように思われます。

 当時の仲間の中には、本式に詩作している人もいました。私より1歳年上の人でしたが、ある時その人の下宿を訪ねたことがあります。その若さで、一室に大きな書棚がズラッと並び、日本と世界の文学全集とともに、同じく大判の詩集がこれまたズラッと並んでいました。
 その人が果たしてそれらを全部読破していたかどうかは不明です。当ブログでも高校あたりからの下手くそな詩を載せていますが、当時私はもう少し詩がうまくなりたくて、その人を訪ねたのです。しかし私は『世界青春詩集』を含めて、詩集はちょぼちょぼしか持っていませんでした。
 その書籍群の壮観さに『いやあ、これは適わん』と、私はスッカリ気圧(けお)されてしまいました。

 この『世界青春詩集』が当時どれだけ読まれたのか、私は知る由もありません。しかし私のみは、当時繰り返し読み、40年後の今もこうして持ち続けてきたわけです。
 レールモントフの『雲』、シュトルムの『町』など。13篇の詩には、しっかりと「レ点(チェック)」を入れています。それらの詩を私は特に気に入って繰り返し読んだのです。

 「たかが詩、されど詩」。今詩は特別な人以外は見向きもされません。スッカリ「無用の長物」になってしまった感があります。 しかし人生には「無用の用」というのも、またあるものです。
 例に挙げては何ですが。かつて『パンツをはいたサル』で一世を風靡した栗本慎一郎は、バブル全盛の頃「私の時間単価はウン万円だ」などと豪語していたことがあります。このようにすべてを「カネ」に置き換えしまう価値観では、まさに詩などクソの役にも立たないものでしょう。
 しかし学者ですら「時間単価」を言い出す社会とは、本当にまともな社会なのでしょうか?ちなみに栗本慎一郎は、その後脳梗塞で倒れだいぶリハビリできたものの、以前ほどのパワフルさは戻っていないようです。

 詩は金銭的欲求は充たせなくても、「魂の欲求」は充たすのです。
 何十年かぶりで『世界青春詩集』を手に取り、時折りその中の一詩を読んだりしながら、自身の時間単価を意識しまた意識せざるを得ない社会とは、「ホント、困った世の中だ」と思ったりします。

 (大場光太郎・記)

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