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2010年8月

小沢氏出馬取りやめ !?

 - 悪(わる)しぶとい菅直人は、今までさんざん喧嘩を吹っかけておいて、旗色が悪くなると「小菅会談を」だと。小沢氏は出来れば出馬してもらいたい -

 「政界は一寸先は闇」は本当です。ついこの前までは、小沢一郎vs菅直人による代表選一騎打ちだと思われていました。しかし党の分裂を恐れ、挙党態勢を最優先に考える鳩山由紀夫氏がロシア訪問から帰国した29日午前から、事態は急転回しだしました。
 その間菅氏と小沢氏の仲介役を買って出ている鳩山氏の動きは活発で、菅総理や小沢氏と個別に会談を重ね、事態の収拾を模索してきました。

 その結果31日にも、対立が激化していた菅氏と小沢氏が会談する運びとなったというのです。これは甚だ理解しがたい事態です。それまでは全面対決の様相だったはずの両氏が、闘いの最中に一旦矛を収めて、話し合いのテーブルにつこうじゃないかというのですから。
 しかし裏を返せば今回の菅直人vs小沢一郎の対立構図は、どちらが勝っても負けても、民主党が本当に分裂しかねない危機的状況にあったのだろうと思われます。

 今回は小沢氏、菅氏の仲介役となっている、鳩山前首相の動きが目立っています。見方によっては、つい先日「小沢氏全面支持」を表明したばかりなのに、「鳩山はまた迷走か?」となりそうです。しかし今回の一連の調整は、鳩山氏個人や鳩山グループあるいは菅支持派というよりも、党内外からの分裂回避の声に後押しされて動いている側面があるようです。
 例えば民主党最大の支持母体である連合の古賀伸明会長は、「このままいけば連合も真っ二つに分裂する可能性がある」との懸念を表明しています。

 マスコミは「両陣営とも熾烈な選挙戦を展開しており、どちらが優勢かは予断を許さない」というような報道をしています。しかし実際は、小沢陣営が菅陣営を大きくリード゜しており、このまま代表選に突入すれば小沢氏の勝利は確実とみられています。
 それに今の今まで菅総理自身が、頑なに「反小沢」の姿勢を崩さなかったわけです。そのためやむなく立候補表明した小沢氏にしてみれば、「今さら振り上げたこぶしを下ろせるか」となって当然です。しかしそんな小沢氏も、菅氏との会談を受け入れるもようです。

 連合の古賀会長の要請には「菅総理がこちらの(挙党態勢の)申し入れを聞かないんだ」と突っぱねた小沢氏でした。それが会談受け入れに傾いた背景には、小沢氏とも親密な民社党の応援団長格の稲盛京セラ名誉会長が、事態収拾に乗り出したことがあったのでしょうか?

 小菅会談予定を受けて各マスコミは、「小沢氏出馬断念の方向。菅氏無投票再選か」と嬉しそうに報道しています。もしこのとおりに推移するとなると、小沢氏は党の置かれた諸状況を勘案し、「勝てる戦(いくさ)」を自ら放棄してまで立候補断念することになります。
 菅直人はそんな小沢氏の意向を汲んで、真の意味での挙党態勢を作っていくつもりがあるのかどうか。菅直人はこの3ヶ月の経過から、とにかく信用ならないマキュアベリスト、自己保身、政権延命のためなら何でもする冷酷な一面があることが明らかになりました。
 そんな菅の「今後は元のトロイカ体制で」という口約束を本当に真に受けていいのでしょうか?何しろ先の代表選後、「今後はノーサイドだ」と言った舌の根も乾かないうちに、しれっとして露骨な「小沢排除」をしてきた人間です。今回も窮余の一策なのではないでしょうか?

 それに菅総理は、小沢氏を重用するとは言いながら、肝心の「ポストの話はしていない」としています。また菅氏は30日夜、「人事権とカネ」つまり幹事長などのポストを小沢氏側に渡す考えのないことを周辺に伝えたともいいます。
 また25日の鳩山氏との会談では、「最高顧問でどうだ」と小沢氏をおちょくるような発言をしたといいます。
 今検討されているのは「代表代行」職らしいですが、いずれにしても菅氏の「挙党態勢」は名ばかりで、小沢氏や同グループを重要な政策決定の場に参加させる気はないのではなかろうかと思われてきます。

 小沢氏が目下優位な選挙戦を展開している状況からすれば、菅直人の方こそ政権の大政奉還をすべきはずです。そんな「弱(ヨワ)菅」総理の力の源は、「菅氏の代表選勝利が望ましい…70%前後」という世論調査だけです。まこと怖ろしいマスコミ各社の世論調詐というべきです。
 これらの諸状況を勘案した場合、小沢氏が立候補断念していいのだろうかと思われてきます。それにみすみす断念すれば、小沢氏は悪代菅の軍門に下ったようなかっこうとなり、小沢氏支持派は失望し、小沢氏の求心力は今後急速に低下していくことも考えられます。

 31日小菅会談は行われるのか、もし行われた場合小沢氏は本当に出馬断念するのだろうか?目の離せない一日となりそうです。

 (大場光太郎・記)

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映画『魔法使いの弟子』

 「神こそが究極の魔術師である」 (マーリン・メッセージ-『時を超える聖伝説』より)

 28日(土)午後横浜市の顧客に伺った帰り、海老名駅で降り、いつもの映画館「ワーナー・マイカル・シネマズ海老名」(海老名サティ2F)に入りました。
 前から観たい映画があったのです。それは今評判の『借りぐらしのアリエッティ』や『ハナミズキ』ではなく、ニコラス・ケイジ主演の『魔法使いの弟子』です。いつもはハリウッド映画をくさしてばかりの私ですが、以前テレビの最新シネマコーナーで同映画が紹介され、『おっ。これは面白そうだぞ !』と思ったのです。

 何せ当ブログプロフィールで「森羅万象探求者」を自称している私としては、当然のことながら不思議大好き、怪奇現象大好き人間です。その延長線上で「魔法」「魔術」という言葉を聞いただけで、条件反射的に『観たい !』となってしまうのです。
 もし私にまつわる諸々(もろもろ)の制限、制約がすべて取り払われたとして、一番なりたいものは?それは「魔術師」であるかもしれません。ただしタネも仕掛けもあるショー的なトリックスターではなく、かのマーリンのような正真正銘の魔術師に。

 とは申しましても、私の知識はすべて「広く浅く」ですから、こと「魔法」について一家言(いっかげん)があるわけではありません。実際はそんな知識はゼロに近いのです。そこで今回の映画を「魔術師の弟子の弟子のそのまた入門者」のつもりで観てみようというわけです。

 夕方6時25分から予告編上映となりました。そしたら何とそのスタートが、魔法ファンタジーの最高峰である『ハリーポッター』ではありませんか。早いもので同シリーズもいよいよ完結編なのだそうです。そういえば第一作『賢者の石』ではまだ幼い感じだったハリーポッター役のダニエル・ラドクリフも、今ではすっかり大人びて、そろそろ「魔法が消え失せる年頃」、同シリーズの終了もむべなるかなという気がします。
 ハリーポッター完結編は二部作だそうです。前編の日本公開は11月26日から、後編は来年夏公開予定のようです。

 『魔法使いの弟子』本編は、伝説の王・アーサー王の時代がプロローグです。同王統治の末期らしく、この物語にはアーサー王もランスロットら円卓の騎士も登場しません。しかしアーサー王、魔法とくれば、何といっても魔術師マーリンです。
 物語では、この時代マーリンと史上最強の魔女モルガナ・ル・フェイの「魔術大戦争」が熾烈を極め、プロローグでマーリンは最期の時を迎えている設定です。マーリンには3人の弟子がおり、そのうちの一人はモルガナに寝返ってしまい、マーリンは後継者を見つけ出すよう後事を弟子のバルサザール(ニコラス・ケイジ)に託して息を引き取ります。

 舞台は800年の時を超えて、いきなりニューヨークに移ります。現代に甦ったバルサザールは、頼りなげな物理学オタクの大学生ディヴを見つけ出し、彼こそがマーリンの後継者であることを突き止め、弟子のとして修行を始めさせます。
 そこに魔女モルガナに降ったもう一人のかつての仲間が現われ、バルサザールと弟子のディヴの行く先々に現われては執拗に妨害を企てます。両者は魔法の限りを尽くした死闘を繰り広げます。NYを舞台に、CGテクノロジーを駆使した息詰まる魔法合戦は、一観客である私自身が異次元的な魔法体験をしている感覚にとらわれます。

 これ以上ストーリーを述べるべきではないと思いますが、この映画も結局ハリウッド映画お得意の、「善と悪の戦い」に単純化されたストーリーといえます。ただやはり現代ではよほどの物好きでなければ関心を示さない「魔法」を、大真面目で取り上げているのが大異色です。
 なるほど円形の魔方陣、ペンタゴン(五芒星)の防御の図形など、魔術の基本に則った考証はしっかり描かれています。それにバルサザール役のニコラス・ケイジの魔法使いぶりはさすが堂に入ったものです。今後私が魔術師を思い出す際は、この映画の中のニコラス・ケイジを思い浮かべることになるかもしれません。

 思えば「魔法」は古代にあっては、錬金術や占星学とともに、最高の科学、テクノロジー、知の体系であったわけです。しかしそれは例えば原子力がそうであるように、誤用、悪用、乱用される危険性が常にありました。
 マーリンvsモルガナのような、白魔術(ホワイトマジック)と黒魔術(ブラックマジック)の闘いは、アトランティスの昔からいつの時代にも存在したのです。現代においても、「フリーメーソン」がホワイトメーソンとブラックメーソンに分かれて、ハルマゲドンの熾烈な闘いをしているように…。
 本来「魔法都市」であるNYがこの映画の舞台であるのは意味深です。

 「夢見る頃を過ぎても」なお夢を見続ける昔の少年・少女たちは、世知に長けた普通人が心の奥深くに閉じ込めている「インナーチャイルド」を、かなり解き放っている人といえます。そういう人はまた「魔法を信じる心」もお持ちのことでしょう。インナーチャイルドとは、別の言い方をすれば「マジカルチャイルド」に他ならないからです。
 この映画によって、私の内なるマジカルチャイルドが解き放たれたかのように、しばし常ならぬ開放感が味わえました。

 ピュアな少年の心を持った、マーリンのような老賢人がこの世のどこかに存在するとしたら。何と素敵なことではないでしょうか !

 (大場光太郎・記)

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「代表選」メディア狂騒曲第1楽章

 -代表選は、みんなの党渡辺代表の言う、小沢一郎対マスコミの「ハルマゲドン(最終決戦)」の様相を呈してきた。真の有権者はこの戦い負けるわけにいかない !-

 案の定というべきか、小沢前幹事長が民主党代表選への立候補を表明した途端、新聞・テレビがこぞって猛烈なバッシングを始めています。
 例えば27日付朝日新聞社説は、「小沢氏出馬へ-あいた口がふさがらない」です。 はぁっ?参院選後に「菅総理続投へ-あいた口がふさがらない」だったのなら分かるけれども。天下の朝日の社説のタイトルが、この暴言ですからまるで「あいた口がふさが」りません。
 同社説本文は、「どうしてここまで民意とかけはなれたことができるのか。多くの国民があぜんとしているに違いない」で始まります。

 ここでの「民意」とは、やはり小沢氏立候補直後に実施した緊急世論調査で、「小沢氏の立候補を支持しない…70%以上」と出たことを踏まえているのでしょう。その前提となる大メディアの世論調査そのものが常に誘導尋問的であり、正確に「民意」が反映されていない可能性があることをまず指摘しなければなりません。
 ちなみに大メディアがお手本としている報道先進国アメリカでは、そのような懸念を払拭するためメディア自体は行わず、ギャロップ社など専門の調査会社が実施しているのは周知のとおりです。それに米国では、日本のように週末毎回というようにのべつ幕なしには実施せず、2、3ヶ月に一度くらいのもののようです。

 そういうことを考慮すれば、何で小沢一郎という候補者が立候補表明した段階でわざわざ世論調査する必要があったのだろうか?という疑問が湧きます。今まで自民党政権下でも度々総裁選が行われてきましたが、ある特定の候補者が名乗りを挙げるとともに実施したことが一度でもあったでしょうか?寡聞にして私は知りません。
 それに新聞・テレビは、二言目には「民意、民意」というけれど。ここでいう民意とは、年初来の検察の小沢捜査の土石流的報道によるところが多分にあります。1月中旬の産経では「小沢一郎容疑者」とまで誤報しました。このようなメディア倫理を大きく逸脱した小沢一郎「推定有罪」報道によって、真実を何も知らない多くの国民に、「小沢一郎 = 悪人」というダーティイメージが刷り込まれてしまったのです。

 ですから今回の「小沢氏出馬不支持…70%以上」の民意は、ほぼ100%メディアが作り上げた「偽りの民意」です。「顧みて我が心の直くんば、千万人と言えども我行かん」(孟子)。こんな誤てるポプュリズムは無視して、己の信ずる大道を歩むのが真の為政者というものです。

 朝日の同社説は続けて小沢氏出馬への疑問点として、(1)政治とカネの問題で3ヶ月前に幹事長を辞任したばかり、(2)検察審査会の議決を待つ身であること、(3)小沢首相になれば1年で3人目の首相交代になる、の3点を指摘しています。
 (1)については小沢氏が幹事長を辞任したのは、何も「政治とカネ」問題だけではなく、鳩山前首相を各マスコミが普天間問題で追い込んでいったことで、鳩山氏が辞任せざるを得なくなり、小沢氏も共に辞任したというのが最大の要因です。「政治とカネ」は検察の2度の「不起訴処分」で決着がついており、また幹事長辞任により小沢氏はけじめをつけたと見るべきです。

 (2)検察審査会は当ブログでも何度か述べましたが、本来は不要かつ有害な“盲腸”のような制度です。大朝日の論説主幹さんは、天下一の捜査機関より、11人のくじ引きで決められた素人審査員たちの議決の方を有難がるお方なのか?東京第五検審の「起訴相当」全員一致ファッシズム議決は、審査補助員を務めた米澤某“ヤメ検”弁護士の誘導だったことを知らないのか?そもそもこれを申し立てた、偽装市民団体の桜井誠なるものの氏素性を知らないのか?
 (3)はまさに「ためにする」屁理屈です。1年間で3人はダメ、じゃあ2人ならいいの?その根拠は?それにこの屁理屈からすれば、たとえ「ダメ菅」総理によってこの先地獄の二段目、三段目に落とされても、国民の皆さんじっと辛抱して2、3年支持し続けましょうね、と受け取られます。(アーァ、バカバカしいったらありゃしない。)

 今回は朝日社説だけを取り上げましたが、どの新聞・テレビも似たり寄ったりの報道に終始しています。
 こうしてみると、先日小沢氏が講演の中で述べた「日本全体の劣化」の最たるものは、「メディア界の劣化」なのではないだろうかと思えてきます。そしてメディア劣化は、性質(たち)の悪いことに日本社会全体に拡散し、多くの国民をますます劣化させていくから始末が悪いのです。
 はっきりいって、劣化したメディアによって「劣化した民意」が形成されていくのです。まさに劣化の負のスパイラルです。

 ところで植草一秀氏の『知られざる真実』の、『代表選ネット調査が主権者国民の真実を反映』(8月28日付)では、大メディアによる上記「劣化民意」とは真逆の民意が取り上げられています。
 それによりますと、一部メディアが代表選の「ネット調査」を実施しているというのです。その結果例えば、スポニチ公式サイト「スポニチ・アネックス」の緊急アンケートでは、1676人から回答があり、「菅首相より小沢新首相…約80%」(1336人)という結果が得られたというのです。その他「YOMIURI ONLINE」やライブドアのネット調査でも同じような結果だったようです。

 これは以前から申し上げているとおり、ネット読者は劣化民意からは脱け出している方々ですから、当然そういう結果になるわけです。こちらが「真の民意」なのです。「世論調詐」によって劣化民意を作り出しているメディア改革のためにも、小沢新首相の誕生が強く望まれます。

 (大場光太郎・記)

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虫の音

  リンリンと虫鳴かしむる真暗闇(まくらやみ)   (拙句)

 もう8月も終わりに近いというのに、相変わらず厳しい残暑が続いています。“残暑”などという生やさしいものではなく、暑さのために(?)少々イカレ気味の我が頭は、『これから本式の夏が始まる』と錯覚させられるような容赦ない暑さです。
 恨めし気に空を見上げてもむしろ抜けるように青く、低い空の一部に申し訳程度の白雲が浮いているばかりです。そのわずかばかりの雲さえも、真夏を思わせるニョキニョキ入道雲なのですから。ただその側に、秋雲の気配のよこすじ雲がうっすらと認められるのが救いといえば救いです。

 例年ならばお盆過ぎには、風も秋の風の趣き、海には逆白波めく土用波も立ち、暑さはだいぶ緩むものです。しかし今年に限っては、その兆しすら見えないようです。これは先刻ご承知のとおり、超強力な太平洋高気圧が炎帝(えんてい)さながら列島全体をすっぽり覆っていて、いつ退却するとも知れず占拠し続けているためです。この炎帝が遣わす無数の熱兵が列島各地に熱風を送り込んでいる按配です。
 過去暑かった年として平成6年(1994年)が上げられますが、今年はその年の暑さの指標を軒並み全国各地で既に抜いているようです。お盆過ぎでダメなら、次はやはり「暑さ寒さも彼岸まで」の9月下旬の秋彼岸までということなのでしょうか。

 そんな具合ですから、この時分になっても昼日なか蝉が盛んに鳴くのは致し方ないところです。本日(27日)日盛り道を歩いていましたら、すぐ近くの木立の方から、ミーン、ミーンとつんざくようなミンミン蝉の声がしきりに聞こえていました。暑さで少々苛つく気持ちをさらに尖らせるようなけたたましい鳴き声です。
 夏の季語として「夜蝉」(よぜみ、よるぜみ)があるように、蝉は夜でも鳴き通しの時期があります。今から半月くらい前まではそうでした。深夜でも外より何度も高い熱帯夜確実の我が家を避けて、深夜涼みで外に出ることがあります。
 近所で木立でもあろうものなら、そこでは昼にも勝る蝉の大合唱だったのです。

 よくは分かりませんが、蝉にはある一定以上の外温を感知すると鳴き出すセンサーのようなものを持っているのでしょうか。連続熱帯夜ですから蝉たちは、深夜12時過ぎでもジージージージー委細構わず鳴いているのです。
 木立に近接した住居の方々は、ただでさえ寝苦しいのにその上蝉の大合唱では、とても安眠どころの話ではないでしょう。

 さすがに最近は夜蝉の声は聞かれなくなりました。日中は思い切り暑くても、夜はだいぶ涼しくなってきましたし、吹く風は秋の夜風といった感がしないでもありません。
 蝉に代わって夕方から聞こえてくるのは、虫の声です。空き地やレンタル農園など、方々の草むらの陰で鳴いています。「虫」は秋の季語ですから、その鳴き音(ね)は季節が確実に秋に向かいつつあることの何よりの告知といえます。

 ところで虫の音(ね)は、西洋人と日本人では聞き方が違うそうです。仔細に記憶しているわけではありませんが、西洋人は右の耳で聞いて左脳に入れている、対して日本人は左の耳で聞いて右脳に入れているというようなことだったかと思います。
 つまり西洋人は、虫の音を単なる雑音としか聞いていないのです。私たちのように虫の音によって秋の寂しさを感受したり、詩的情趣を抱いたり、故郷の追憶に駆られたりということはないわけです。

 日本人の特殊な虫の音の聞き分けにより、古来虫の名歌、虫の名句は数多くあるはずです。また江戸時代の名僧・白隠禅師は、それまでいくら座禅観法しても悟ることが出来なかった。しかしある秋の夜、庭で鳴いている蟋蟀(こおろぎ)の音によって豁然大悟(かつぜんたいご)したというのです。御仏の慈悲が命の深いところで解ったのだそうです。
 我が国でノーベル文学賞を初めて授賞した川端康成の、その授賞講演は『美しい日本の私』というタイトルでした。「雪月花(せつげっか)」それに虫の音。私たちはつくづく「日本人で良かった」と思うべきなのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

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小沢氏代表選出馬表明

 - 勝てば挙党態勢で政権発足時の原点へ。負ければ離党。単純明快だ !-

 小沢一郎前幹事長が26日午前、民主党代表選への出馬を表明しました。またまた急転直下の展開です。昨夜の時点では、小沢氏出馬の可能性は低いものと見られていました。
 それが一夜明けての出馬表明となったのは、同日午前の鳩山・小沢会談で、鳩山由紀夫氏が最終的に「小沢氏全面支持」を打ち出したことが大きいと見られています。鳩山前首相は会談後記者団に「私の一存で小沢先生には民主党に入っていただいた。その経緯からして、私としては応援する、それが大義だ」と話しました。
 
 まったくそのとおりです。前日夕方の菅総理との会談で挙党態勢を強く迫っても、菅総理はそれを頑なに拒んだのです。巨額の私財を投じて立ち上げた民主党のオーナーとしての自負のある鳩山氏にしてみれば、菅直人の背後にいる仙谷由人、枝野幸男らの「党分裂の策謀」は断じて許しがたかったはずです。
 鳩山前首相の今回の小沢氏支持の決断は、30余年前の自民党の椎名裁定にも比すべき、後世に残る立派な「大義ある決断」と評価します。

 小沢一郎自身にも、今回の代表選には密かに期するものがあったようです。6月初旬「小沢外し」でスタートした菅「クーデター」政権直後の、民主党岩手県連に当てたビデオメッセージ、あるいは今月12日のメールマガジンでのメッセージしかり。
 昨日の小沢氏主宰の政治塾会場にも、「このままでは、日本が危ない」という小沢氏の心情を代弁するようなポスターが貼られていたといいます。それが「私どもの政界におきましても、官界におきましても、社会全体も、精神的な荒廃、日本人の劣化が急速に進んでいるように思えて、その点が心配でなりません」という講演となったものと思われます。

 以前の『面白くなってきた代表選』でも述べましたが、小沢一郎vs菅直人という一騎打ちは極めて分かりやすい対立構図です。
 (1)政権交代時の国民との約束であるマニフェストを守るのか、反故にするのか
 (2)「国民の生活第一」でいくのか、官僚主導による「国民の生活破壊」でいくのか
 (3)脱官僚、霞ヶ関改革を断行するのか、官僚言いなりの政治に逆戻りするのか
 (4)日本の「真の独立」のため日米対等を模索するのか、対米隷属を続けるのか
 (5)「米官業」の悪しき影響力を脱け出せるのか、それに取り込まれたままなのか
 等々、小沢vs菅という構図には、このような重要な争点が浮かび上がってきます。どちらの候補がどちらに該当するかは、もう改めて言うまでもないことでしょう。

 小沢前幹事長が出馬表明した途端、各テレビ局などは識者や町の人の声を使って、「経済が厳しい最中長丁場の内輪の抗争もないだろう」「しょせんコップの中の争いだ」「政治とカネの問題を引きずった人が代表選に出ていいの?」など、またぞろ小沢首相誕生阻止に向けた策動を開始しています。
 
 しかしこの代表選は、民主党の党規約に基づいて定期的に行うべき選挙戦です。国内外の状況がどうあれ、規約に則り粛々と行うべきもの。また小沢土地問題は当ブログでもたびたび検討しましたように、最終的に無罪相当となるべきもの。小沢政権となった暁に、党内に「小沢捜査検証委員会」を設け、その調査結果を国民に明らかにすれば国民の疑問はかなり払拭されることでしょう。よって小沢氏立候補には何の障害にもなりません。
 それに争点の違いを明らかにし、党活性化を図る上でも、複数候補が立候補して政策論争を戦わすのは大いにけっこうなことです。
 マスコミはただ単に「小沢潰し」のためにする、つまらない繰り言を言っているにすぎないのです。

 思えば民主党はこれまで、今回のような党を二分しかねない激しい代表選を経てきませんでした。分裂を憂慮する声があることは分かります。しかし昨年ようやく政権を手放した自民党は、半世紀にも及び何度も凄まじい党内抗争、権力闘争をしてきたのです。それが今日的政治風土になじむかどうかは別として、それによって党全体が鍛えられ、活性化してさらに強い政党に脱皮してきた側面は否めません。

 政権交代してからまだ1年も経たないのに、今の政策実行力に乏しい「政権後退」菅民主党には、多くの国民が本当に失望しています。
 これまでのヤワな民主党から、政権政党として国内外のどんな難局をも乗り越えられる、力量と責任ある民主党への脱皮。今回の代表選はそのためのまたとないチャンスともいえるのです。

 私は言わずと知れた、強固な「小沢一郎支持派」です。小沢氏のこと、「勝てる」と読み切ったからこそ一世一代の大勝負に出たとは思いますが、代表選当日まではまだ3週間もあります。マスコミもこぞって「小沢首相阻止」に動いている以上、決して予断を許しません。
 何しろ民主党のみならず、日本の進路を左右しかねない重要な代表選です。マスコミは「内部抗争」「コップの中の争い」などと、つまらない「劣化報道」をしないでいただきたい。
 代表選については、今後また新たな動きがあり次第述べていきたいと思います。

 
 (大場光太郎・記)

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小沢氏、出るの?出ないの?

 -すべての政局を決める「マスコミ世論」。小沢待望論は急速にしぼんだ?-

 「政界は一寸先は闇」というのが常識です。これが文字どおりの真実であることを痛感させられるのが民主党代表選の行方です。先週19日は、軽井沢の鳩山別荘での「小沢決起集会」に総勢160人もの両議員が集結し、これで小沢氏出馬は決定的かと思われました。
 ところが先週末から今週にかけて、その状況が一変しつつあるようです。反小沢グループすなわち菅支持派が急速に勢いを盛り返しつつあるのです。23日からの総理と新人議員たちとの意見交換会では、「3年後ダブル選」という大バカ発言を口走って自ら解散権を封じてしまった「弱(ヨワ)菅」総理でしたが、衆参新人157名のうち3日間で100名ほどが参加したとみられています。

 対して小沢氏は、25日午前都内で開かれた自らが主宰する「小沢一郎政治塾」で講演し、「為替が円高に振れると、外需に頼り過ぎの日本経済は大きな打撃を受ける。政治・経済は不透明で不安定な状況になることは間違いない」と経済への危機感を表明し、「本来の日本人の精神力と知恵と力を持ってさえすれば、これぐらいの困難を克服するのは容易に可能だ。私は自立した日本人を、そして日本人の集合体である日本国を、と言っている」などと展望を述べました。
 講演は一般塾生向けでしたが、小沢グループの働きかけで議員50人が講演を傍聴、このうち新人議員は30人余りだったようです。ただ同講演では、「この政治塾は下世話な政局の話をする場ではない」として代表選への言及はありませんでした。

 そんな25日夕、小沢前幹事長を支持する議員らが小沢氏と会い、立候補を要請しました。要請したのは小沢氏側近の山岡賢次副代表が主宰する勉強会の30人と小沢グループの当選1回の議員約20人です。
 これに対して小沢氏は、「自問自答するところも残っているので、しばし時間をいただきながら、皆さんのご好意だけは自分の胸に書き込んで結論を出したい」と即答を避けました。

 ここにきて意外な反応を示しているのが、50人を擁し代表選の鍵を握る鳩山グループです。あくまで「挙党一致」にこだわる鳩山前首相は、24日に小沢氏、25日は菅氏と会談し対立を深める両氏の調停役となっています。小沢氏との会談で鳩山氏は、「現時点では菅総理を支える」意向を示しました。
 また小沢擁立の急先鋒の一人だったはずの鳩山氏側近の中山義活氏らは、25日山岡氏と会い、小沢氏に出馬要請しないよう求めたというのです。19日夕の鳩山別荘での「小沢決起集会」は一体何だったのかと思われるほどの急変です。
 またも肝心な時に、鳩山由紀夫氏の「迷走」が始まった感じです。結局鳩山氏にとっては、自身がオーナーである民主党が分裂する事態だけは何としても避けたい、それが回避できるのなら小沢氏でも菅氏でもどちらでもいい。ただ最近は菅総理側に風が吹きつつあるから、菅支持になびいておこうということなのでしょう。

 奸智に長けた仙谷官房長官ら菅支持派の急速な巻き返しといい、鳩山グループの変節といい。この変わり目となったのは、先週末に行われたマスコミ各社の「代表選緊急世論調査」だったのではないかと思われます。
 調査結果は各社平均で、「菅氏の再選を支持する…60%以上」「小沢氏の代表選出馬不支持…70%以上」。案の定菅支持派が大喜びするような数字となったのです。
 これを受けて民主党内は、一気に「菅総理再選」のムードになっていったのではないでしょうか?

 しかしこれは再三述べますとおり、「小沢嫌い」マスコミによって意図的に誘導された「マスコミ世論」です。マスコミ有志による反小沢秘密結社「三宝会」結成以来、小沢vsマスコミは「十五年戦争」の様相です。特に小沢代表(当時)下での政権交代が現実味を帯び出した昨年からの小沢バッシングは凄まじいの一言です。西松建設での大久保元秘書冤罪事件、今年の小沢土地無罪事件の「推定有罪報道」等々。捏造、歪曲、謀略何でもありです。
 このような核心を知らない民度の低い多くの“B層大衆”が、「小沢一郎 = ダーティ」を刷り込む新聞・テレビ報道を真に受けて、こういうバカバカしい調査結果を出してくるのです。

 許せないのは、こういう対立構図を百も承知で党内の「小沢排除」に蠢(うごめ)く、菅直人以下仙谷由人、岡田克也、前原誠司、渡部恒三、枝野幸男、野田佳彦、玄葉光一郎、蓮舫、小宮山洋子ら薄汚い「党内クーデター」連中です。
 しかし小沢一郎は本当に大器量人です。この者たちにいくら執拗に攻撃されても、言い返すことをしません。またマスコミに政治生命を危うくされても、ほとんど反論をせずじっと耐えているのみです。並みの議員なら、息巻いて「名誉毀損の訴え」を連発していてもおかしくないケースです。

 大人(たいじん)小沢一郎は25日の講演の中で、「私どもの政界におきましても、官界におきましても、社会全体も、精神的な荒廃、日本人の劣化が急速に進んでいるように思えて、その点が心配でなりません」との心情を吐露しました。
 そこには私憤など微塵もなく、あるのは大乗的な公憤と憂国の情のみ。またどこぞのおバカ総理のような度重なる不注意発言もありません。彼我の優劣の差は歴然なのではないでしょうか?

 それとも「国民は自分の身の丈に合った政治家しか得られない」という真実を今回も踏襲し、自らの生活をますますどん底に追い込む政治屋グループを支持するのでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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えっ?「3年後ダブル選」 !?

 -3年後も菅政権?新米の大宰相は「伝家の鈍刀(なまくら)」を抜いちゃった !-

 菅総理が23日、当選1回議員との“面談”を開始しました。同日午前と午後合せて約40人の新人議員を衆院議員会館の自室に招き、代表選での再選支援を訴えたのです。
 これは先日衆参1年生議員140余名に出した、「十分お話しする機会が持てなかったと反省しております。一緒にやっていきましょう」という、菅直人直々の“ラブレター”を受けて行われたものです。

 新人議員は全民主党議員の約4割を占めるそうです。党内基盤の弱い菅支持派としては、小沢系が多いといわれる新人たちの切り崩し作戦に出たわけです。小沢氏が開催する『小沢一郎政治塾』と重複する日程で新人議員との意見交換会をセットするなど、肝心の政権運営では「成果マイナス」なのに、こと権力維持、権力闘争となるとやることが姑息です。

 こうして行われた新人議員との意見交換会で菅総理は、衆院解散の時期について、「3年後に(参議院との)ダブル選挙でやればいい」と、仰天発言をしました。
 さすがは菅大宰相。就任以来2ヶ月半の見るも無残な「政治停滞」「政権後退」など何のその。9・14代表選再選などはとうの昔に織り込み済み、その上少なくとも今後3年間は「自分の内閣が続く」ことを内外に宣言したわけです。「一寸先は闇」が常識の政界にあって、菅直人こそは稀に見る不世出の大政治家、否恐るべき透徹した千里眼の持ち主と言うべきです。

 と言うのはもちろん冗談で、菅直人にそんな仏眼(ぶつがん)、法眼(ほうがん)があるわけではなく、すべては現政権のスーパーブレーン(?)である、仙谷官房長官、岡田外相、前原国交相、枝野幹事長らの差し金によるもののようです。
 なるほど新人議員は「解散、総選挙」を大変恐れています。仮に小沢首相が誕生した場合、国民の低支持からスタートしなければならない、そのため小沢政権はほどなく解散総選挙に打って出て国民の信を問うことになるぞ、それでもいいのか。それに引き換え菅再選を支持してくれさえすれば、御身らの身分は3年間保証する。さあ、どうする、どうする。と「空手形」の踏み絵を迫っている格好です。
 さすが暗いクーデター首謀者らが一同に会して出した策だけあって、陰険、卑怯、狡猾な新人議員たちへのブラフです。

 一見新人議員取り込みには有効策にも思われる「3年後ダブル選」。実は参院選中の消費税発言に続いて、またまた「大バカ発言」で、菅政権には「致命傷」になるという見方があります。以下、8月25日付「日刊ゲンダイ」3面記事に沿って、その辺のところを探っていきたいと思います。

 まず「この“政治カン”のなさは致命的」として、政治アナリストの伊藤惇夫氏は、次のように述べています。
 「総理大臣が3年後の衆参ダブル選に言及するなんて、とんでもない話。しばらく選挙はないと安心させることで、地盤が不安定な新人議員の支持を取り付ける狙いでしょうが、あまりにも姑息なやり方です。自らの政治哲学やビジョンを語って支持を訴えるのなら分かります。しかし、菅総理には“これをやりたい”という理念もない。目先の代表選のことしか考えていないから、こういう軽率なことを言ってしまう。一国のリーダーの器として、どうかと思います。解散権は、総理大臣にとって唯一最大の武器。それなのに、3年先の解散を明言するなんて、自らの解散権を封じてしまったも同然です」

 言われてみれば。解散権は、首相の専権事項とされる「伝家の宝刀」です。これがあるからこそ、求心力を維持することができると言えます。いつ抜くか分からないから怖いのであって、解散日時を口にした途端、リーダーシップは急速に失われるのは常識です。
 ところが菅総理は、この伝家の宝刀をちらつかせる前に、サヤから抜いて「実は見かけ倒しの模造刀でした」と明かしてしまったようなものです。

 第一、3年間は解散がないなんて、これを聞いた新人議員をはじめ誰も思ってはいないことでしょう。
 自民党をはじめとする野党は、代表選で菅が再選を果たせば、あらゆる手段を使って菅降ろしに動くとみられています。秋の臨時国会では「衆参ダブル」発言について追及すると息巻いているそうです。そこで消費税増税の時のような「ブレ菅」ぶりを発揮するようだと、さらに攻め立てることになります。対して解散権を封じた菅総理には、野党との駆け引きカードは何もないわけです。

 「ねじれ国会」での参院での問責決議案。野党の審議拒否。予算審議が進まず、国会空転。円高株安にさらに拍車がかかり、景気は深刻化。その頃には、菅の頼みの綱の“マスコミ世論”もさすがにそっぽを向くことでしょう。
 こうして、自ら解散権を放棄した菅直人が仮に再選されれば、皮肉にもかえって年内解散の可能性が濃厚になってくるというのです。

 (大場光太郎・記)

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「こころづかい」「思いやり」

  「こころ」は
  だれにも見えないけれど
  「こころづかい」は
  見える
  
  「思い」は
  見えないけれど
  「思いやり」は
  だれにも見える    (宮澤章二『行為の意味』より)

 最近某紙第何面かの下段広告に、社団法人「ACジャパン」(旧称:日本広告機構)の上記一文を含む広告が載っていました。ACジャパンの広告といえば、昨年10月にも『あなたは、あなたでいいのだ』を記事にしました。
 これはマンガ家の赤塚不二夫(故人)の「これでいいのだ」から取られた、同広告の一文なのでした。根強い赤塚不二夫人気からか、あるいは同文が人の心を打つからなのか。今でもアクセスが絶えません。

 さてこの一文とともに、広告のほぼ全面に及ぶ写真が大変印象的です。それはある雨の日の街の中の一コマのようです。中央部の2人の女性に目がいきます。右方に女子高生、左方には赤ちゃんを抱いた若い女性。女子高生は傘を持っていますが、若いお母さんは持っていません。
 そこで女子高生がそちらに歩み寄り、右手で少し高く白っぽい傘を掲げながら、「よろしかったら、この傘お使いください」と、そのお母さんに差し出そうとしているシーンです。

 いや、若いお母さんは赤ちゃんを両手で抱くのに手一杯ですから、傘が使いたくても使えないのかもしれません。そこで女子高生は、「私の傘の中にお入りください。方向が同じですから、一緒に行きましょう」と言っているのかもしれません。
 若いお母さんは女子高生の方を向いて、「どうもすみません」と言っているように見えます。この2人のようすを、女子高生の2人の級友が右の少し離れた所で見守っている、そんなシーンです。

 中央の2人の右側に、冒頭の「こころ」は…の一文が、左側に「思い」は…の一文が掲げられています。ごくありふれた日常の何気ない一瞬を切り取った写真そして一文。それでいて何となく「こころ」に残ります。

 この文のように、「こころ」があることをだれもが疑わないものの、だれも「こころ」を直接見ることはできません。しかしこのシーンのような“小さな親切”の元になるのが「こころ」です。体自体に意思はなく、そのような行為をするよう「こころ」が動いたからこそ、女子高生は近寄って傘を差し出すという行動を取ったわけです。 
 良くも悪しくも「こころ」は、私たちの一つ一つの行いによって見えてくると言ってもよさそうです。
 「思い」もまたそのとおりでやはり目には見えません。しかしこのような「思いやり」のある行為によって、形となって見えてくるわけです。

 今の社会の合せ鏡と見るべきですが、当今の若者たちの凄まじいモラルハザードが問題にされることがあります。しかしこのような小さな親切をさり気なく示す若者だって、現実にいるものです。そのたび『あヽ世の中捨てたもんじゃないな』と、ちよっぴり嬉しい気持ちにさせられます。

 以前述べたことがありますが、「隣人愛」における「隣人」の本当の意味は、「自分が日々出会うすべての人たち」のことだそうです。
 この女子高生の場合、「こころ」無くも、雨に濡れて行く赤ちゃんを抱いた女性を見て見ぬふりして、友達としゃべりながら通り過ぎることもできました。
 しかし「こころ」有る彼女は、とっさに歩み寄って傘を差し出したのです。

 「愛」とは何ぞや?などと論議し出すと神学的な袋小路に陥り、実際の愛行為とはどんどんかけ離れたところに迷い込んでしまいそうです。
 しかし実際は簡単で、「愛 = こころづかい = 思いやり」と言ってもいいと思います。
 「こころづかい」「思いやり」のある、傘を差し出すという行為によって、差し出された女性ももちろん嬉しいだろうし、側で見ている級友たちも嬉しいことでしょう。しかし差し出した当人の「こころ」が一番喜んでいるはずです。
 私たちはすべて本源的大生命の親様から生まれ出た「共通的生命」なのですもの。

 ちょっとした「こころづかい」「思いやり」が、周りの人の「こころ」に、ほのぼのとした光りを灯(とも)すのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

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反党的閣僚たちに物申す

 -小沢氏を批判する閣僚たちは、今の立場の「正当性」を考えたことがあるのか?-

 年初以来の検察の小沢謀略捜査、大メディアの土石流的小沢バッシング報道。そして鳩山前政権を退陣に追い込んだ普天間基地問題。昨年政権交代したばかりの民主党にとって、今年は本当に「大受難の年」でした。
 大難を与えたのは言わずと知れた、検察に代表される霞ヶ関官僚群、そして新聞・テレビという悪徳旧勢力です。

 この一連の受難劇によって、浮き彫りになったことがあります。それはその過程で、現民主党内でリーダーと目される者たちの人間性が、徐々に露(あら)わになってきたことです。
 ある者は狙っていたポストに就けなかった逆恨みから、テレビ局に魂を売って「偽黄門」として、入歯もごもごの老醜を公衆の面前に曝し続けました。またある者はテレビに媚びて、ことある毎にテレビ画面に映りたがり、まるで行動の伴わない“男芸者”パフォーマンスを繰り返し、“テレビの威“を借りて特定人の批判を続けました。
 さらにある者はそれまでの国民の「改革の期待」を裏切り、日を追うごとに権力亡者の醜悪な姿を見せ始めています。

 それは19日軽井沢で行われた鳩山グループの研修会での、鳩山前首相の「今こそ私心を捨て、挙党一致の態勢をどう作り上げていくか、大きな未来を切り開いていく活動の原点に立ち返ることが何より大切だ」発言に対する、閣僚たちの反論にもはっきり現われています。
 元はと言えば「6・2クーデター」によって現在の地位を得ている身のほども知らず、鳩山前首相の「挙党一致」提言に異を唱えているのです。ならば私も、それに重ねて異を唱えさせていただきます。
                       *
【菅総理】
 「鳩山前首相とは、今後とも良い関係を続けていきたいと思っています」。鳩山別荘におる「小沢決起集会」に、160人もの両議員が集結したことに内心の動揺ありあり、目は宙(ちゅう)をさ迷い、それだけ言うのが精一杯。肝心の小沢一郎については触れずじまいでした。
 菅直人さん。あなたは年初小沢私邸での新年会に、飛び入りでご挨拶に出向いたそうですね。それがタナボタで政権が転がり込んだ途端、手の平返しで「小沢さんに静かにしていただくのが、この国の政治のためになる」。我が耳を疑って、早速当ブログでどうしてそういう論理が成り立つのか、もっと詳しく説明してくれるよう求めました。がご説明、今に至るもまだのようですね。
 
 鳩山前政権で副総理だったにも関らず、あなたはマスコミの小沢批判に何の反論もせず、普天間問題でも「ダマ菅」を決め込みました。その後政権をむしり取ってからの「改革後退」の非道(ひど)い政権運営は、心ある有権者ならとうに了解済みでとうてい見過ごすわけには参りません。
 でもあなたの政治的命脈が尽きるのもそう遠くはないでしょうから、“武士の情け”でこれ以上の追及は止めにしますね。
 PS 代表選後は、やり残した四国八十八ヵ所お遍路巡り、完了させてくださいね。

【仙谷官房長官】
 「私自身は現時点でも、皆さん挙党態勢で、しかるべき部署で頑張っていただいているなあと思っています」。よくもまあ、イケシャアシャアと。老獪というべきか、阿波の古狸というべきか、狡猾な策士というべきか。この者が一番手に負えないね。仙谷由人こそ、一連の受難劇で民主党を分裂に追い込んだ元凶じゃないですかね。
 こんな奸智に長けた者が今では政権の実権を握っており、この政権は実質的に「仙谷政権」の様相だそうです。この者には、本当に政治生命を絶つくらいの厳しい処断を下さなければなりません。

【蓮舫行政刷新相】
 「“政治とカネ”の問題をこれ以上起こしてほしくないという思いが、昨年の政権交代につながったと思いますので、その国民の声を、私は無視できないと思っています」。枝野幸男の“妹分”の口先女が、出しゃばりおって。
 人様の「政治とカネ」を批判する前に、以前疑惑の目が向けられたアンタの「事務所経費問題」はどうした?未決着だろうが。行革相として、まず自らの問題を国民の前できちんと明らかにする説明責任を負っているんじゃないのか?
 それに参院選中に発覚した、アンタの元秘書(30代男性)の「痴漢事件」はどうした?本人は罪を認めているぞ。なのにアンタはうやむや釈明でお茶を濁した。この問題がマスコミに大きく取り上げられていたなら、アンタの東京選挙区トップ当選はなかった。なのにマスコミは、この問題をスルーしてほとんど取り上げなかった。マスコミは「この人気先行の口先女、今後とも使い道があるぞ」と踏んだからだ。
 案の定、こういうところで悪徳権益擁護発言を繰り返しているわけだ。こんな者は取り上げるのもバカバカしいが。放っておけばそのうち自滅だろう。

【岡田外相】
 「起訴される可能性のある方が代表あるいは首相になることに、私自身は違和感を覚えている」。言うまでもなく、10月にも出される東京第五検察審査会の、小沢前幹事長への再議決での「起訴相当」の可能性について触れ、小沢氏代表選擁立を牽制しているわけです。
 これは岡田克也のみならず、他の主要閣僚、党の要職にある者全員に言えることですが、民主党全体として一連の「小沢捜査」をきちんと精査したのでしょうか?もし精査済みであるのなら、検察の同捜査の謀略性は明らかなはずであり、全党挙げてその不当性を国民に訴え「検察改革」に着手すべきです。
 まして検察審査会制度そのものに矛盾があるうえ、東京第五検察審査会の同案件を申し立てた偽装市民団体と代表人に違法性の疑義すら出てきています。重要閣僚なら、軽々な物言いをすべきではありません。

 いずれにしてもこのような発言が重要閣僚から出てくることは問題です。今では一市井人でも知っている、捜査の不当性が見抜けなければ政治家失格。もし承知で党内政争の為に言っているとしたら、岡田氏の品格が疑われます。
 私はいつかは「岡田克也首相」誕生をと期待しているところがあります。しかしそれには昨年の早い時期から、鳩山前首相に「解決策は辺野古沖しかありませんよ」と進言していたという「対米隷属」の姿勢を改めていただかなければなりません。それが、あなたの政治家としての姿勢を狂わせている大要因ですから。
 旧田中派、経世会出身のあなたには、日米対等、アジア外交重視の血脈が流れているでしょうに。「原理主義者」のあなたが宗旨替えでは困りますよ。

 (大場光太郎・記)

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「代表選」メディア狂騒曲序曲

 - また始まった小沢過熱報道。今度は幹事長辞任の二の舞にしてはいけない ! -

 この記事をお読みになるくらいですから先刻ご承知かとは思いますが、我が国の新聞・テレビは年初以来の東京地検特捜部による小沢土地捜査を、先を争って連日連夜報道しまくりました。こうして多くの国民に、「小沢一郎 = 悪人」というダーティイメージがしっかり刷り込まれ、「小沢氏は幹事長を辞任すべきだ…80%以上」という世論を形成することにまんまと成功したのです。
 その結果小沢一郎は5月末、普天間問題で退陣に追い込まれた鳩山由紀夫前首相とともに、幹事長を辞任することになりました。

 小沢氏をめぐる「政治とカネ」追及がいかに愚挙、暴挙であるか、当ブログでも再三にわたって記事にしてきました。
 かつてご自身が二度にわたって冤罪事件に巻き込まれた植草一秀元早大教授は、ご自身のブログ『知られざる真実』の8月16日付『小沢一郎氏周辺の刑事問題に関する五つの真実』において、昨年の大久保隆則元秘書逮捕の不当性から、現在進行形の東京第五検察審査会に対する申し立ての違法性までを五項目にまとめて論じておられます。
 同論冒頭と結論部で植草氏は、「(大メディアが報道しない以上)ネットを通して小沢氏に関する五つの真実をすべての国民に周知させてゆく必要がある」旨を訴えておられます。まだお読みでない方は、同論文をお読みになるようお奨めします。

 さて19日夕方軽井沢町の鳩山別荘における、鳩山グループ懇親会に小沢一郎が姿を見せたことにより、9・14代表選をにらんで、またぞろメディア報道が過熱しそうな気配です。
 「小沢前幹事長出席」をいち早くキャッチした各メディアは19日、軽井沢に殺到しました。TVクルーは研修会が行われた軽井沢プリンスホテルと、懇親会が行われた鳩山別荘に別々に待機させる力の入れようだったようです。その数、一社平均50人。新聞も含めれば何百人もの報道陣が軽井沢に集結しました。あるTV局のスタッフは、「今年最高だね」と言ったそうです。

 つい先頃は「報道の暴力」により世論を誘導し、鳩山前首相とともに小沢前幹事長を辞任に追い込んだくせに。今度は一転「小沢氏代表選に意欲」とはやし立ててお祭り騒動を繰り広げる節操のなさです。
 いくら悪徳旧勢力に忠誠を尽くしているとは言え、円高株安による「二番底」が懸念される当今菅政権ではいくら何でも頼りない、ここはやっぱり「小沢新首相の誕生に期待するか」と、マスコミ各社が一斉に方針転換したのならいいのですが。
 本質的に「政官業外電」悪徳ペンタゴンの一翼を担う、新聞・テレビがそう簡単に宗旨替えするとも思えません。結局何だかんだ言って「小沢報道」は視聴者の関心が高く、視聴率が取れるということなのでしょう。

 小沢一郎は鳩山懇親会に160人もの両院議員が集結し、「小沢決起集会」さながらだったことで相当の手応えを感じたことでしょう。しかし小沢氏は自身が確実に勝てる見込みがつくまでなお慎重に党内の状況分析を重ね、立候補表明は今月末になる見込みのようです。
 全国の党員サポーターは現時点でも、軽く過半数以上確保していると見られています。問題は413名の民主党衆参両議院の動向です。小沢氏はここで250名以上の支持が得られることを立候補の条件にしているといいます。250名/413名でちょうど全議員の6割を超えることになります。

 反小沢グループの頭目たちは、「鳩山別荘に160人集結」ニュースに真っ青でしょう。菅総理から面談要請を請けた一年生議員たちも二の足を踏むことでしょう。
 敵は菅直人、仙谷由人、前原誠司、渡部恒三、枝野幸男といった、天下一品の“悪(わる)しぶとい”反党不満分子連中です。中途半端な勝ちではいけません。「どうだ参ったか !」というような勝ちっぷりを見せつけないと、代表選後の政権運営でまたぞろ小沢批判やクーデターが起きかねないのです。

 小沢一郎にとって敵は、党内の反小沢派だけではありません。最大の敵は新聞・テレビといっても過言ではないくらいです。既に出始めていますが、「政治とカネ」や「検察審査会再議決」を持ち出して小沢出馬の動きを牽制し始めています。このようなメディアの策動は今後ますます激しさを増していくことでしょう。
 「世論に逆らってまで出馬すべきではない」?しかしそれは連日の小沢バッシング報道によって誘導された「B層世論」に過ぎぬでしょう。真実をしっかり把握している「ネット世論」では真逆の結果になっていますよ。こんな「マスコミ世論」、絶対視すべきなのですか?
 そんな世論は意に介さず、小沢一郎は代表選に堂々と立候補すべきです。

 (大場光太郎・記)

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面白くなってきた代表選

 -民主党代表選は小沢vs菅の一騎打ちで。負けた方の幹部達は離党すべきだ !-

 9月14日の民主党代表選を占う上で重要な出来事がありました。鳩山グループが19日、長野県軽井沢町で研修会を開いたのです。同グループのみならず、小沢系グループや一年生議員など衆参合わせて160人もが参加する大イベントとなりました。
 2週間ほど公の場に姿を見せなかった小沢一郎前幹事長も、夕方鳩山由紀夫前首相の別荘での懇親会に出席しました。
 小沢グループはもとより、鳩山グループからも、菅総理の対抗馬として小沢氏の立候補を求める声が強まっています。研修会でも「小沢待望論」が相次いだようです。

 鳩山氏は「今こそ私心を捨て、挙党一致の態勢をどう作り上げていくか、大きな未来を切り開いていく活動の原点に立ち返ることが何より大切だ」と語りました。また小沢氏も「お互い力を合わせて一生懸命頑張り、国民の期待に応えられるようやりましょう」と訴えました。
 小沢氏の立候補について、鳩山氏側近の松野頼久前官房副長官は記者団に「出ていただきたい」と表明。また小沢氏側近の松木謙公国対副委員長は、「これだけの人が集まって健闘を誓い合ったのは大きいこと」と語り、参加者の多くが小沢氏出馬に賛同しているとの見方を示しました。さらに小沢グループの山岡賢次副代表は、「代表選には(小沢氏を)必ず出馬させる」と言い切ったといいます。

 常日頃「菅総理を引き続き支えていく」と言ってきた鳩山氏は、今回改めて菅総理らに「挙党一致態勢をつくるよう」厳しく迫ったかたちです。
 しかし菅執行部は、もはや鳩山前首相の要求を呑むわけにはいかないことでしょう。というのも、菅政権はここに来て一段と小沢氏との対決色を強めているからです。例えば先日の朝日新聞は、菅総理は「自分が代表選で再選されても、小沢氏を幹事長に起用しない方針を固めた」と報じています。「脱小沢」路線を鮮明にすることで、党内の反小沢一派の結束を図る狙いがあるものと見られています。また一年生議員たちに踏み絵を踏ませるような文書も送付して、民主党内が騒然としています。
 このようなシナリオを作っているのは、今や菅総理をも上回る権力者にのし上がった感のある仙谷官房長官、その弟分の枝野幹事長だと見られています。とにかく権力亡者の菅一派としても、今さら後には引けないのです。

 小沢一郎vs菅直人という対決構図は極めて分かりやすいし、この構図に現時点の民主党の抱える問題が収斂(しゅうれん)されていくように思われます。
 
 政権交代時の国民との約束であるマニフェストを守るのか、反故(ほご)にするのか。「国民の生活第一」でいくのか、官僚主導による「国民の生活破壊」でいくのか。脱官僚を貫き霞ヶ関改革を断行するのか、官僚言いなりの政治に逆戻りするのか。日米対等を模索するのか、従前の対米隷属をさらに続けるのか。普天間問題の辺野古沖案を見直すのか、同案で突き進むのか。「政官業外電」の悪しき影響力を排除するのか、それに取り込まれたままなのか。小泉似非(えせ)改革を否定するのか、小泉亜流を継承していくのか……。
 小沢vs反小沢という構図は、ざっと見ただけでもこれだけの争点が浮かび上がってくるのです。

 民主党は、これだけ路線が大きく違うグループが今まで一緒にやってきました。野党時代は共通の敵が自公政権だったから、何とかやってこられたのです。しかし政権与党になったことにより、党内対立が尖鋭化してしまいました。
 むしろいい機会です。今代表選で、今後民主党はどちらの路線を選択するのか、明確にできるチャンスなのです。中途半端ではいけません。それを続ける限り、小鳩体制の足を引っ張り続けた仙谷、前原、枝野、玄葉らのような反党不満分子は存在し続けます。

 今回は衆参全議員どちらの陣営につくのか、一人ひとりが旗幟闡明(きしせんめい)にすべきです。そして両陣営とも死力を尽くして戦うべきです。昭和54年の自民党「四十日抗争」のように、後々の語り草になるような代表選にするのです。
 その結果敗れた方の将たちは、潔く党を割って出て行くべきです。そのくらいの激しい修羅場をくぐり抜けてこなかったから、今のような「ダラ菅」執行部にいいように牛耳られてしまうのです。
 真の意味での改革政党に生まれ変わらなければ、本当に国民から見放されてしまうことでしょう。

 反小沢グループの総大将として、菅総理が早々と立候補の名乗りを挙げています。ならば当然小沢グループも総大将の小沢一郎が統一候補になるべきです。おそらくそれ以外のどの候補、どの組み合わせでも、僅差までは迫っても「ダメ菅」直人の再選を許すことになります。総大将同士の一騎打ちが強く望まれます。

 もちろん小沢氏はそんなこと百も承知のことでしょう。12日付のメールマガジンで小沢氏は、「民主党は原点に戻り、『国民の生活が第一』の政策を一つ一つ実行する」と踏み込んだ心情を吐露しています。「実行すべきだ」ではなく「実行する」。
 まだ正式な立候補宣言はないものの、小沢一郎はこの頃既に『いよいよオレが出るしかないな』と肚(はら)を決めたものと思われます。

 (大場光太郎・記)

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続・寒戸の婆

  盆荒れのたびに山姥現わるる   (拙句)

 先日『遠野物語』中の神隠し譚の代表例として、「寒戸の婆」を取り上げました。そうしましたら、ある人が「寒戸の婆」という検索フレーズでアクセスしてこられました。『えっ?』。まさかこんな一説話中のマイナーな(と思われる)名前で?と意外でした。
 そこで興味を持ち、グーグルからのようでしたので、私もそれをたどってみることにしました。

 その結果グーグルでの「寒戸の婆」、何と7万項目以上もあったのです。普段人名検索をしている人ならご存知でしょうが、今をときめく著名人でもこの数字を越えることはそう多くはありません。「寒戸の婆」はかくも“有名人”だったのです。
 また同検索項目のトップ面の何番目かに、早くも当ブログ『寒戸の婆』が載っていました。それを知った私は、『こりゃ大変だ』と思いました。前回記事は世間にあまり知られていないことを前提に、よく調べもせずに私の勝手な推測で書いてしまったからです。

 グーグル同項目トップ面には、『寒戸の婆-Wikipedia』というものまであります。寒戸の婆さまは、かのウィキペディアでも取り上げるほどメジャーな名前だったとは。
 そこで遅ればせながらウィキペディアや他の2、3のサイトをのぞいて読んでみました。その結果『これは少し補足しておく必要があるな』と思い、今回『続・寒戸の婆』として再度取り上げることにしました。

 今回は紙面の関係で、『ウィキペディア』による解説のみ参考に述べていきます。
 いきなりですが、遠野地方に「寒戸(さむと)」という地名は存在しないそうです。その代わり「登戸(のぼと)」という地名ならあり、柳田國男に元ネタを提供した遠野出身の民話蒐集家の佐々木喜善は、当初から「登戸」と柳田に伝えていた可能性があります。
 というのも、佐々木自身が後に著した『東奥異聞』にこれと酷似した話を載せ、そこでは「ノボト」という地名を用いているからです。参考までその一文を以下にご紹介します。前回の『寒戸の婆』で掲げた『遠野物語』中の一文と比較してみてください。

<松崎村のノボトの茂助という家の娘が、梨の木の下に草履を残して消息を絶った。何年か経った嵐の日に娘が帰ってきたが、その姿は山姥(やまんば)のように奇怪な老婆に成り果てていた。老婆はその夜は村に一泊したのみだが、それから毎年やって来て、そのたびに暴風雨が起きた。村人たちは困り果て、老婆が来ないように巫女(みこ)や山伏に頼み、村境を封じる石塔を建てたことで、老婆は来なくなったという。>

 「ノボト(登戸)」という地名が上閉伊郡松崎村に実在することから、こちらの話が原話だったと考えられます。この話を聞いた柳田國男の聞き違いか、あるいは別の意図があって「寒戸」に変えたものと思われます。
 また実際登戸のある旧家では、明治初期に茂助という当主の娘が消息を絶ち、数十年後に山姥のような姿に成り果てて村に現われたと伝えられており、これが伝説のモデルといわれているようです。

 実際この伝説により現地では「モンスケ婆」と恐れられ、強風が吹く日などは「モンスケ婆が村に姿を現わす」といわれたり、上閉伊郡土淵村(現・遠野市)では泣き喚く子供を「モンスケ婆様来るぞ」といって叱りつけたりもしていたそうです。
 ですから本来ならば「登戸(ノボト)の婆」または「モンスケ婆」であるべきですが、『遠野物語』が有名になったことにより、「寒戸の婆」の名で遠野の伝承として定着していったもののようです。

 読み比べてみますと、『遠野物語』と『東奥異聞』の二つの文には、それ以外にも違っているところがあります。
 大きな違いは、『遠野物語』では消息を絶った女は、「風の烈しく吹く日」に30余年ぶりで一度村に帰ってきただけです。ところが『東奥異聞』では女は、「嵐の日」に帰ってきてその日は村に一泊したことになっています。それのみか、毎年のようにやってきたというのです。
 これは老婆出現の劇的効果を高めるために、柳田國男が「一度きり」ということに改変したのだと考えられます。ただ佐々木喜善の、老婆はその後も毎年のようにやってきてそのたびに決まって暴風雨が起きた、困った村人たちは祈祷を頼み、村境を封じる石塔を建てたことで老婆はやって来なくなったという話には、より土俗的な物語性が感じられ、こちらもなかなか捨てがたいように思われます。

 その他何十年かぶりで現われた老婆を、『遠野物語』では「きわめて老いさらぼえて」としているのに対して、『東奥異聞』ではズバリ「山姥のように奇怪な老婆」としています。先の村人たちの伝承などからも、こちらの方が現われた老婆のよりリアルな表現だったのでしょうか。
 「山姥」は多義なとらえ方のできる存在です。またいずれ『山姥考』といった一文をと考えますが、いずれにしても山の奥に棲むことに変わりありません。その点で、「山人にさらわれた」という私の推測もあながち間違いではないようです。

 すべて一つのエポックメーキングな出来事というものは、「核(コア)」の部分はそのまま残るとしても、当事者や目撃者、その聞き取り、伝聞の過程で尾ひれがついて流布され、さまざまなヴァリアントを持つ伝承、伝説、説話となって伝播されていくのだろうと思わせられます。
 そしてそれらを読み比べることもまた、昔話や民話探求の楽しみの一つでもあるわけです。

 (大場光太郎・記)

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ハーモニック・コンバージェンス

 -私たちの知らないところで、「地球進化プログラム」は着実に進行している !?-

 突然ですが、1987年(昭和62年)8月16日~17日、皆様はどこで何をしておられたでしょうか?1987年といえばもう23年も前のことです。かくいう私でさえ、正確に答えることはできそうにありません。
 ずっと後で知ったところでは、この期間に「ハーモニック・コンバージェンス」という極めて重要なイベントが世界各地で行われたのです。

 ハーモニック・コンバージェンスとは、「調和の収束」「調波の収束」「預言の収束」などという意味になるようです。少し前の『宇宙の暦は13ヵ月』記事で触れました、「13ヵ月の暦」の提唱者のホゼ・アグエイアス博士が、長年のマヤ暦研究の結果この期間の重要性を知り、世界中の心ある人々に呼びかけて行われたものです。
 このハーモニック・コンバージェンスの意義については、『スピリチュアル・ライフ』というブログに的確と思われる解説がありますので、以下に引用してみます。

 - ケツァルコアトルの預言「13の天国と9つの地獄」をひも解くと、マヤの暦の計算法で10番目のパクトゥンが完了した西暦830年から、さらに13年後の843年に、この預言の周期が回転を始める。
 ひとつのサイクルを13年×4=52年と数えて、預言の周期が始まってから13サイクル(52年×13サイクル=676年)のあいだ天国が続く。
 「13の天国」が終わったのは西暦1519年(843年+676年)、スペインの征服者であるコルテスが、中米の地に上陸した。その時から「9つの地獄」が始まる。
 9サイクル(52年×9サイクル=468年)を経た、西暦1987年(1519年+468年)8月16日~17日。預言によるとハーモニック・コンバージェンスと呼ばれるその日に、14万4000人が集まることができれば、「9つの地獄」の周期を閉じることになるといわれていた。実際その時には14万4000人をはるかに超える人びとが集まり、2012年の最終的な日付が宣告された。
 ハーモニック・コンバージェンスは預言の成就であると同時に、26000年サイクルの最後の26年の幕開けでもある。 (以上引用終わり)

 ホゼ・アグエイアス博士の呼びかけに応えて、当期間マヤのピラミッド神殿や米合衆国のシャスタ山、エジプトのギザのピラミッドなど世界的聖地に人々が続々と集まったようです。なおこの時点では、博士は「13ヶ月の暦」を作ってはおらず、このイベントで得た啓示などを元に、その後体系化していくことになったようです。
 上記の「ケツァルコアトル」については説明が必要でしょう。ケツァルコアトルは古代マヤ神話中最も有名な神の名前で、「羽毛の蛇神(翼を持った蛇)」として知られています。キリスト教のイエスキリスト、東洋の弥勒(マイトレーヤ)のような救世主としてのイメージを有する神です。

 上記解説を読むと、『何だ、中米のローカルな預言じゃないか』とも思われます。しかし「13の天国」の終焉となる、1519年のスペイン人のコルテス上陸によって「9つの地獄」が始まったことを考えれば、同預言は一気に近代の歴史に関わってくることが見てとれます。
 この時初めてマヤ文明の流れを汲むメキシコ原住民は、キリスト教文明を根底に持つスペイン人と出会うのです。いやメキシコ人たちにとって、出会うなどという生やさしいものではありませんでした。コルテスたちは殺戮と略奪をほしいままにし、それまでの伝統的な信仰体系は破壊され、強制的にキリスト教に改宗させられたのです。まさにその後468年続く「9つの地獄」の始まりそのものです。(大航海時代以降の、西洋式植民地化の一つのプロトタイプといえます。)

 キリスト教でも、特に旧約聖書の全編そして新約聖書の『ヨハネの黙示録』は「預言書」といわれます。いわばユダヤ教、キリスト教は「預言」宗教であるのです。ですからその時、あい異なる二つの預言体系が衝突したともいえます。
 しかし二つの預言大系は大きく違うところがあります。それは「時間のとらえ方」です。方やキリスト教では、冒頭の「神の天地創造」にはじまる『創世記』から、凄まじいカタストロフィー(大破局)を経て新しいエルサレムが創られるとする、最終章の『黙示録』まで直線的時間軸で展開されていきます。ですからカトリック教会がグレゴリオ暦を制定したのは当然なのです。

 一方のマヤ暦では時間をそのようにはとらえていません。あたかも己の尻尾をくわえる“ウロボロスの蛇”のように、時間を円還的、循環的、曲線的にとらえていたのです。その特質は新しい「13ヶ月の暦」にも基調としてしっかり取り入れられています。
 古代マヤ人は、実は人類最初の暦の作り手だったのです。そしてマヤ人は悪魔的勢力の侵略によって長い「地獄」が始まることを、数千年前「いつそれが始まるか」まで明らかに見通していたのです。古代マヤ人の「預言力」の確かさを、私たちは大いに評価すべきです。

 私たちにとって、1987年8月は「大過去」でもはや取り戻すことはできません。ですから未来に目を向けるべきです。すると上記解説にも示された「2012年」が緊急の問題として視野に入ってくるはずです。
 当ブログでも既に『2012年12月22日』『続・2012年12月22日』記事を出していますが、この日が近くなったせいか、ここのところ毎日のように何人かの方からのアクセスがあります。2年強と迫ったこの日、やはり想像を絶する事態が起こるのか、それとも何も起こらないのか。私たちは各人の「自己責任」で、しっかり見極めていく必要がありそうです。

 (大場光太郎・記)

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『遠野物語』発刊100周年

 -「この書を外国に在る人に呈す」という冒頭の献辞には深く考えさせられる-

 先日の『寒戸の婆』作成の過程で気がついたのですが、『遠野物語』が刊行されてから、今年はちょうど100周年だそうです。

 『遠野物語』は、民俗学者の柳田國男が発表した説話集です。岩手県遠野地方出身の小説家、民話蒐集家だった佐々木鏡石(本名:喜善)によって語られた、遠野盆地、遠野街道にまつわる民話を、柳田が筆記・編纂した初期の代表作です。
 その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪にまつわるもの、マヨイガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらにはオシラサマなど祀られる神様、そして行事など多岐にわたっています。文語体で最初に発表された『遠野物語』本編は119話、後に口語体で発表された『遠野物語拾遺』には299話が収録されています。

 『遠野物語』の初版発行は明治43年(1910年)、わずか350部あまりの自費出版でした。比較的好評で半年ほどで印刷費用を回収できたそうです。ただし200部は柳田が買い取り、知人に寄贈したといいます。
 寄贈した中でも、島崎藤村、田山花袋、泉鏡花らが積極的な書評を書きました。また同物語購読者には芥川龍之介や南方熊楠(みなかた・くまぐす)、言語学者のニコライ・ネフスキーらがいました。特に当時19歳だった芥川は、同書を激賞する旨の書簡を親友に宛てて出しています。
 当時『遠野物語』は、奇異な物語を詩的散文で綴った文学作品として受け入れられていたようです。

 著者の柳田國男(やなぎた・くにお)は、明治8年(1875年)7月31日兵庫県福崎町で、松岡操の六男として生まれました。幼少期から非凡な記憶力を持ち、11歳の時旧家の三木家に預けられ、そこの膨大な蔵書を乱読したそうです。19歳にして第一高等学校に進学しました。
 兄の井上通泰の紹介で森鴎外と親交を持ち、一高時代は『文学界』『国民之友』『帝国文学』などに投稿。明治30年(1897年)には田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版しました。

 しかし柳田家の養子に入った國男は文学を捨て、官界を目指して東京帝国大学に入学。東大では農政学を学び、農商務省のエリート官僚となっていきます。講演旅行などで地方の実情に触れるうちに、次第に民俗的なものへの関心を深めていったようです。また当時欧米で流行していた心霊主義(スピリチュアリズム)の影響を受けました。
 これらが後の『遠野物語』誕生の素地となっていくのです。

 さて『遠野物語』が発刊された、明治43年とはどんな年だったのでしょう。簡単に見てみましょう。
 この年の8月「日韓併合条約」が締結され、以来35年間朝鮮半島は日本の統治下に置かれることになりました。また明治天皇の暗殺を企てたとして、幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)ら数百名の社会主義者、無政府主義者らが逮捕された「大逆事件」が起きたのもこの年です。またこの年の1月23日には、鎌倉の七里ガ浜で逗子開成中学ボート部の13名が強風にあおられ転覆、全員溺死するという事故が起きました。これを悼んで作られた『真白き富士の嶺』(『七里ガ浜の哀歌』)が大流行しました。

 「明治の御代」も終わりにさしかかった明治43年は、明治37年の日露戦争などを経て欧米列強の仲間入りを果たすなど、明治維新以来創り上げてきた「この国のかたち」がだいぶ見えてきた時代だったといえます。
 その頃に柳田國男が『遠野物語』を上梓した意義とはどこにあったのでしょうか。『遠野物語』はその後、民俗学の原典的テキストと位置づけられ、後の民俗学者たちによって幾多の優れた論考が積み重ねられてきました。今さら私ごとき者が大上段に論ずべきものでもありませんし、そんな力量もありません。

 私はここで的を絞って指摘しておきたいと思います。それは「この書を外国に在る人に呈す」という、冒頭の柳田自身の献辞です。
 さて当時どれだけの日本人が、外国に居住していたのでしょうか。日韓併合により渡朝した人々、各国の大使館に勤務する外交官や駐在武官、英仏などへの留学生…。確かに「外国に在る」人々は、当時も少なからずいたのでしょうが、まさか今日ほどでもなかったことでしょう。果たして柳田のこの献辞は、それらの人に向けられたものだったのでしょうか。

 私はむしろ、日米戦争末期から岡本天明師に降ろされた『日月神示』の中の、「顔は日本人でも心は外国人沢山いるぞ」という神示に共通する想いが、柳田の本心としてあったように思われてならないのです。

 これは夏目漱石にも共通しますが、明治政府が強力に推し進めてきた近代化政策に、柳田は大いなる違和感と危うさを感じていたのではないでしょうか。それとともに、日本人としての「アイディンティティ喪失」の危機もひしひしと。
 ですから柳田國男が創始した民俗学もこの書も、「日本とは何か」「日本人とは何か」を問い直す試みだったのであり、同時に欧米式近代化へのアンチテーゼでもあったと思われるのです。

 民俗学で扱う全国各地の民話や伝承は、明治政府が強大な中央集権国家建設のよすがとした、天孫降臨など万世一系の華々しい神話ではあり得ません。むしろ縄文時代から全国各地に脈々と受け継がれできた、庶民たちの血と汗と涙と笑いが結晶化した、伝承であり民話だったのです。
 そこに息づいている、権力側から押し付けられたのではない、「真の庶民史」としての民俗学が興ったことの意義は極めて大きい。その原点としての『遠野物語』の価値は今日でもいささかも揺らいでいない。私はそう考えます。

 (注記)本記事前半は、フリー百科事典『ウィキペディア』を参考にまとめました。

 (大場光太郎・記) 

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やっぱり火を吹いた?首相談話

 -実力もないのに首相談話など出すから。それに円高。重大局面どう打開する?-

 案の定「日韓併合100年首相談話」が、各方面で本当に困ったことになりそうな雲行きです。今回はまたこの問題を中心に述べてみたいと思います。

 まずは「謝罪談話」を出された韓国の反応です。韓国マスコミは同談話を評価するものと反論と相半ばしていると見られています。しかし11日の韓国聯合ニュースでは、100年前に両国の指導者が日本が韓国を併合した時に調印した資料を示し、これは「日韓併合条約」が国際法に従っていない証明として十分だと指摘し、日韓併合そのものの無効性を訴えています。

 また在日本韓国大使は同日、談話で触れられた「朝鮮王室儀軌」を返還するだけではなく、「すべての朝鮮半島の文化財」を返還するよう要求しています。
 ちなみに韓国文化財庁の2010年2月の集計では、日本全国250ヶ所以上の自治体や個人が所蔵している韓国の文化財は6万点以上に上り、そのうち宮内庁所管だけで700点以上に上るそうです。しかし日本はすべての返還を承諾しておらず、韓国の文化財部門や民間の韓国文化研究所は、「朝鮮王室儀軌を返還するだけなら断固として反対する」としています。
 菅首相以下は、一点だけを返還すれば、必ずこういう要求が続けて起こることを予測できなかったのでしょうか?

 韓国では同じ11日に、ソウル市内の日本大使館前で、「首相談話の中には慰安婦問題の賠償が含まれていない」として、7名の元慰安婦が参加して集会が開かれました。その中では同談話を評価する李明博大統領への批判もありました。同日台湾でも同問題についての集会が開かれています。
 また韓国メディアの中には、「独島(ドクト-竹島)問題こそが日韓関係の火種であるのに、首相談話の中にそのことに言及していないのは問題だ」とする論評もあります。
 さらに韓国の独立運動団体「光復会」は、首相談話に反発し、「日本総理の偽りの謝罪より、日本の天皇の率直で具体的な謝罪を促す」と極めつけの声明を発表し、多くの韓国メディアが報道しました。

 反発は韓国だけではなく中国にも広がっています。菅首相の韓国への「お詫び」のニュースは、当然インターネットで中国全土にすぐに広まり、中国の環球時報が実施したオンライン調査では、98%のネット利用者が、「日本は中国の侵略で中国の国民に正式に謝罪して詫びるべきだ」と考えていることが分かったとしています。
 また中国の国際問題研究家の中には、韓国への謝罪会見を受けて「日本は中国に対して“反省”を表明したことはあるが、“お詫び”という言葉を使ったことはない」と話しています。
 さらにはこの問題で遂に北朝鮮も参戦し、10日夜のピョンヤン放送を通じて、日本の植民地統治を厳しく非難し、日本には謝罪と賠償を求めるとしています。

 以上のように近隣諸国からの反発だけでも大変な状況です。加えて国内に目を転じてみても、自民党や立ちあがれ日本は首相談話に「待ってました」と批判を強めています。
 12日には「日韓併合百年『首相談話』を許さない緊急国民集会」が東京・永田町の憲政記念会館で開かれました。これには城内実衆院議員(無所属)など国会議員、地方議員、有識者、市民ら250人が参加。「朝鮮統治時代を正しく認識していない談話の廃棄のために活動する」旨の決議を採択しました。

 その他ネットの2ちゃんねるでは、首相談話は厄介なことを引き起こすと非難する意見で溢れ返っているようです。「ネット上の意見など正式な世論ではない」と無視を決め込むこともできますが、反論は肝心の民主党内からも噴き上がってきているのです。そして実は9月の党代表選を見越した場合、菅政権にとってこれが一番厄介な問題になりそうなのです。
 例えば民主党の保守系議員が12日夜、勉強会を立ち上げました。同会合は松原仁国対副委員長が呼びかけ、約20人の中堅、若手議員などの保守系グループが参加しました。党内最大の小沢グループのほか、鳩山、前原、野田、旧民社党系などが横断的に参加しています。

 同勉強会では首相談話を批判する意見が噴出したようです。「中身にも手続きにも問題がある」「なぜ建設的な談話にならなかったのか」などと批判が相次いだのです。その上で同会として談話に対する考え方をまとめ、菅首相らに近く申し入れる方針を決めました。
 そして今後とも一致結束して行動することとし、注目すべきは9・14代表選にあたっては、候補者に首相談話に対する評価を問いただすことを確認したのです。菅総理の対応次第では再選反対に回る可能性も示唆しました。

 国外、国内、党内からこれほどの異論、反論が出ることを菅総理らはどれだけ織り込んでいたのでしょうか?政権基盤がいかに脆弱なものであるかの認識に乏しく、「歴史に名を残したい」「代表選に向けてポイントを稼ぎたい」、そんな姑息な思惑のもと、ロクな党内論議もせずに閣議決定をしてしまったのではないでしょうか?
 消費税発言の時もそうでした。十分に党内外の「影響評価」が出来ない、その上今回は近隣外交への深い洞察もない。このことが今回より鮮明に分かってきました。それはこの政権が国家的危機に直面した場合、有効なリスクマネジメントが取れないことを意味します。

 今米国や欧州の通貨不安が、日本にも円高、株安のダブルパンチとなって押し寄せています。米国、欧州、中国など主要各国は、経済防衛のための有効な手を既に打ち始めています。各国とも円高容認で一致しているのです。一番困るのが輸出頼みの我が国です。この先の「景気の二番底」が公然と語られ始めています。なのにひとり日本のみは、有効な打開策が打ち出せていないのです。
 あろうことか新米の菅総理は、“十年早い”軽井沢での避暑だそうです(ただし14日まで)。こんな能天気総理に、この先のこの国の舵取りは任せられないことがますますはっきりしてきました。

 (大場光太郎・記)

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65回目の終戦記念日に

 -今回は難しいことを抜きにして小学生の頃の思い出など。でも最後はやはり…-

 おととしそして昨年と、8月15日の終戦記念日に、それに対しての所感らしきものを述べてきました。1年の行事としては、元旦とともに異例のことです。もちろん私は昭和24年生まれの「戦争を知らない世代」です。しかし普段は格別意識していなくても、「先の戦争」「終戦」「戦後復興」などは、私にも深いところで少なからず影響を及ぼしているということだろうと思います。
 前回までの『終戦記念日に思うこと』『64回目の終戦記念日』の所感とは違って、今回は私が小学生だった頃の思い出をたどってみたいと思います。

 これは当ブログ記事で何度か書いてきたことですが、私が小学生だった昭和30年代前半頃は、まだまだ戦争の影が色濃く残っている時代でした。
 例えば以前の『少年時代のトリックスター』記事の、ある人のコメントへの返信でも述べたことですが、あの頃の郷里の町の夏祭りや秋祭りなどでもそういった光景が見られました。

 我が郷里町の山形県東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)では、「おぐまんさま」と呼ばれている熊野神社の参道にあたる通りが、同町で一番の大通りでした。そこは夏真っ盛りの頃と、文化の日をピークとする晩秋の頃の2回のお祭りが催されていました。お祭りの期間は、その大通りの両側に所狭しとさまざまな出店が立ち並び、近隣近郷からも人が押し寄せけっこう賑やかでした。
 出店も尽きる“おぐまんさま”の大鳥居の前辺りに、決まって毎年白装束の一団が集まっていました。自称「傷痍軍人」たちだということでした。

 なるほど、ある人は戦争で片足をもがれたとばかりに松葉杖をつき、またある人は片腕を失ったと言いたげにそちらの袖は真下に垂れ下がっていました。中には五体満足そうな人もいて、そういう人は肩からアコーディオンを吊り下げて、妙にノスタルジックな何かの調べを奏でて道行く人を立ち止まらせていました。
 戦後10余年経っても、それらの人を受容するメンタリティが、当時の社会にはまだあったのです。ですから白装束の一団はお祭になるとどこからともなく現われて、そうしてたむろしていたのです。その前にはしっかり“募金箱”が置かれていました。

 また大通りにびっしり出店が立ち並んでいる中には、定番の綿菓子店や金魚すくい店などに混じって、「取れたての」万年筆を売る店もありました。その店というのは、真ん中にデンと長方形の木箱が置いてあり、その向こうに男が座っているのです。箱の中には砂がいっぱい敷き詰めてあり、その中にとりどりの万年筆を無造作に砂に突き刺して立ててあるのです。
 人が一定数集まるとその男は『頃合やよし』と、やおらそのうちの一本をぐいと取り出してお客の前にかざしながら、「これは先の戦争での東京の空襲の折り、焼けてしまったあるお屋敷跡から取り出された万年筆だ。そのお屋敷から特別に安く分けていただいたのが、ここにこうしてある万年筆だ。そんじょそこらでは手に入らない、書き味なめらかな万年筆だよ。さあさあ、この機会を逃したら二度と手に入らないよ」てな口上をよどみなくしゃべり出します。

 これなども冷静に考えれば、『てなわけないだろう !』となりそうです。有名な東京大空襲は昭和20年3月10日。当時でも十何年も前の出来事です。それが何で今頃?そしてその立派なお屋敷はまさか万年筆製造工場でもあるまいし、どうしてそんなに“万年筆持ち”だったのかしら?
 しかし実際は、砂に万年筆が突き立ててあるリアルさとうまい口上に乗せられて、そこそこ買っていく人がいたのでしょう。だからこそ当時そんな商売が成り立っていたわけです。私など貧乏小せがれは、お祭でも何十円かしか持たせられません。ですから確かうん百円だったその万年筆を、物欲しげにじっと見ているばかりでした。
 ちなみに「二度と手に入らない」と言っていた万年筆屋は、その後何度も出店しては同じ口上をくり返していました。

 私たち家族が当時お世話になっていた「母子寮」そのものが、今考えてみますと、そもそもは戦争未亡人の救済事業として全国各地に建てられたものと思われます。それが昭和30年代にもなるとさすがに同未亡人はいなくなり、代わって我が家のように病気などで一家の大黒柱を亡くして未亡人となった家庭にも、間口を広げて受け入れてくれたものなのでしょう。
 我が「宮内町立母子寮」がいつ建てられたのか分かりません。ただ昭和30年代前半でも、既に古めかしく感じられる、瓦葺で木造平屋建のおおむね“コの字型”の大きな建物でした。寮の側面を覆う壁は、何枚も重ねて張り合わせられた板壁でした。山形の小さな田舎町とて、あまり寮費にかける予算も取れなかったらしく、濃茶色のペンキはかなり色あせて変色していました。そのことからもずい分前に立てられたものであることは、子供ながらに分かりました。

 今考えますと、同母子寮は戦後間もなく建てられたものでしょう。同寮は以前述べましたように、その社会的使命を終えて昭和50年代に取り壊されました。変化著しい戦後日本の歩みの中で、全国各地の戦争の記憶につながる建造物はこのようにどんどん姿を消していったものと思われます。そして今日では、広島の原爆ドームのような、特別な戦争モニュメントのみがわずかに残されているわけです。
 しかしいつまでも戦争を引きずっていても仕方ありません。ですからそれは、「まっさらな新社会」建設のためにはやむを得ないことだったとも言えます。

 では私たちは、先の戦争で犠牲になられた300万人以上(戦闘員、非戦闘員を含む)の方々に、「見てください。お陰様で私たちは、こんな立派な社会を創ることができました」と胸を張って言えるでしょうか?

 (大場光太郎・記) 

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塀の内に落ちたハマコー

 - ハマコー先生。出所後は「ムショのことを話すだう !」と、是非ツイッターで !-

 ハマコーこと浜田幸一容疑者(81)が、平成18年3月から4月にかけて2億円の担保株券を不正に売却し、千葉市内の産廃処理会社に損害を与えたとして、千葉県警捜査2課に背任の疑いで逮捕されました。

 今回の逮捕に対して、本人は「答えるつもりはない」と供述を拒否しているもようです。ただ浜田容疑者は逮捕前、支持者に「自分は破産宣告を受けたので借金はチャラだ」となどと話していたといいます。確かにハマコーは昨年1月千葉地裁から破産宣告を受けていたのは事実のようです。それを盾に取って「差し出した株も無効になった。騙し取ったのではなく、自分の元に引き上げただけだ」などと都合のいいことを話したそうです。

 破産宣告によってそれまでの借金は“チャラ”にはなります。しかし一旦差し入れた担保株券を差し戻して一方的に売却し、会社が返済を求めるたびに「モンゴルの開発事業でカネが入る」などと繰り返し、結局返済しなかったとなると刑法上の犯罪(背任)であり、こちらは時効を迎えるまでは犯罪要件が成立しています。
 普段から天下国家を論じていたハマコー先生ともあろうお方が、それくらいのことは先刻ご承知のはずでしょうに。
 千葉県警は12日午前、浜田容疑者を千葉地検に送検しました。

 ハマコーが「モンゴル開発事業」に投資していたのは事実のようです。開発事業とは金山開発のようです。モンゴルは鉱物資源が豊富なことで知られています。金も1200~1300トンの埋蔵量が見込まれ、世界的に注目されています。
 それだけにうさんくさいもうけ話がウヨウヨあり、数年前からいろんな人が被害に遭っているといいます。
 ハマコーといえば、かつてラスベガスのカジノで4億6千万円ほどの大金を一晩ですったことに、国民は唖然とさせられたことがありました。その時は政商・小佐野賢治に用立ててもらいました。用立てたカネは、ロッキード社から小佐野に流れたカネだったのでは?ということでも大騒ぎになりました。ともかくその時のハマコーは、何年かかけて全額返済したようです。

 しかし平成5年に政界を引退してからは、小佐野のような強力なバックもいなくなりました。しかしハマコーの一攫千金を狙う山師的性分は直らず、それは「投資」に名を変えて続いていたようです。
 金融関係者の間では、ハマコーは投資家として有名だったそうです。日本はもちろん米国のベンチャー企業への出資話でも頻繁に顔を出し、多額のカネを動かしていたといいます。しかしある政界関係者によりますと、「実情は火の車で、こっちから引っ張ったカネを向こうに返すという自転車操業だった」ということです。
 その揚げ句に危ない橋を渡り、怪しげなモンゴル話に手を出して墓穴を掘ることになったようなのです。

 「オレは元ヤクザだ」と公言していたとおり、若い頃から恐いもの知らず、自民党の衆院議員時代は「政界の暴れん坊」の異名を取りました。
 何といってもハマコーを一躍有名にしたのは、昭和54年の自民党史上最大の危機といわれた「四十日抗争」の時、党内の反主流派が築いたバリケードを強行突破し、両院議員総会の開催に導き事なきを得た一件でした。
 バリケードの山に単身乗り込んだハマコーの姿は、今でもテレビでたまに流されることがあります。

 しかし私にとって強烈だったのは、ハマコーが衆院予算委員長を務めていた時の「ミヤザワケンジ君(「宮本顕治君」の誤り)は人殺しじゃないか !」発言です。時は昭和63年(1988年)2月6日の衆院予算委員会。私はその時、自営の営業で大和市内を車で回っていてカーラジオでそのもようを聴いていました。
 この発言は、共産党の正森成二議員とのやりとりの途中で飛び出したものです。ラジオを通しても、異常なほど騒然となっていく議場のようすが伝わってきました。

 ハマコーが問題にしたのは、戦前の(今でいう内ゲバによる)ある共産党員の死亡に、若き日の宮本顕治共産党議長(当時)が関与していたのではないか?ということのようでした。突然そんなことを言い出された正森議員は、「何言ってんだ。今の言葉取り消せ !」となったのは当然です。
 確信犯的発言で、ハマコーは予算委員長のイスをあっさり退きます。後に正森議員と国会内廊下ですれ違った際、ハマコーは「オレの首を取りやがって」とは言ったものの、目は笑っていたそうです。

 その他日本社会党の某議員には、「黙れ ! 強姦野郎 !」と強烈なヤジを飛ばしたこともありました。しかしヤジったハマコーは処分されず、相手の社会党の議員は次の衆院選で公認されず政界を追われる結果となりました。
 また平成4年(1992年)5月に起きた、小泉純一郎による愛人芸者小はんへの(港区内の小はん自宅マンションでの性行為中の)首絞め過失致死事件に対して、ハマコーは自党議員の会合で、後に戦後の名宰相の一人と讃えら れる(?)小泉に面と向かって、「この芸者殺し野郎 !」と罵倒したのです。
 なおこの事件をもみ消して事故死に偽装したのが、後の総理補佐官となる飯島勲でした。

 政界引退後ハマコーは連続ドラマに主演し、その素人演技と内容の突飛さが意外にも大受けし、「かわいい」と女子高生の人気を集めたそうです。確かにハマコーには、どこか憎めないチャーミングなところがありました。
 今年からハマコーは、81歳というのに「ツイッター」にチャレンジし、「なさけなう ! 政治がなう !! だう !」といった破天荒なつぶやきが「なんだか元気が出る」と人気急上昇し、逮捕直前にはフォロワー(登録利用者)数が20万人を突破し、逮捕後も伸び続けているそうです。ちなみに逮捕直前のつぶやきは、「熱帯夜、熱帯魚、熱帯雨林、渡り廊下走り隊」。
 
 山師的性分は直らないとしても、今回の件はしっかり反省していただいて。保釈後はムショの中での心境などを、ツイッターで大いにつぶやいてもらいたいものだなう。

 (大場光太郎・記)

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寒戸の婆

  盆荒れや寒戸の婆はまだ来ぬか   (拙句)

 「寒戸の婆」(さむとのばば)と聞いてすぐピンと来た人はかなりの通(つう)です。何の通か?柳田國男の『遠野物語』の。そうなのです。寒戸の婆は『遠野物語』に登場する人物なのです。

 『遠野物語』は岩手県遠野地方に伝わる民話を、柳田國男が遠野出身者から聴き取って、流麗な文語体としてまとめたものです。その後の我が国民俗学の嚆矢(こうし)となった記念碑的作品です。
 各民話は120近くの短章として語られています。その中で「寒戸の婆」の話は、八番目に出てきます。短いですから、全文を以下にご紹介してみます。

八 黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履(ぞうり)を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまりすぎたりしに、或(あ)る日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失(う)せたり。その日は風の烈(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷(とおのごう)の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。  (岩波文庫版『遠野物語』より)

 これはいわゆる「神隠し」についてのお話です。神隠しといえば近年、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』がハリウッドでも高く評価されるなど大評判でした。このアニメ映画のように、何かしらスリリングな怪異さを感じさせるのが神隠しです。
 しかしこれは柳田が一文で触れているとおり、昔々はどの国々(地方)でもあった現象のようです。

 この物語では、ある日の夕方急に姿を消した“若き娘”が、30年余後にひょっこり“老いさらぼえて”帰ってきたことが述べられています。姿を消したきり所在が分からない、一方通行の行方不明譚が神隠しの本旨であることを思えば、遠野郷で以前あったことを伝え聞いてまとめられた、この話などは極めて珍しいことと言わねばなりません。
 ともかく女はどこかでしっかり生きていたのです。いったいどこでどうやって?親類知音や読者が最も知りたいことは語られません。女はその後の身の上話を一切しなかったのです。「会いたいから帰ってきたのだ」とばかり言って、寒戸の婆は再び姿を消してしまいます。その日は怪異譚を盛り上げるには好都合なことに、風の烈しく吹く日だったというのです。

 この場合「神隠し」とは言っても、若い娘を本当に神が隠したのではありません。長年月が経過して老婆となって帰ってきたわけですから、女は元々の村落に比較的近接したどこかで生活してきたと見てさしつかえなさそうです。
 それではその場所とはどこだったのか?あくまでも推測ですが、この物語の他の個所でも述べられている「山人の世界」だったのではないだろうかと考えられます。「サンカ」や「マタギ」と呼ばれ、山奥で動物の狩猟などで生活している人々の世界です。それは「皮はぎ」などとして蔑まれた、被差別の民の世界でもありました。

 山奥の彼らの居住区は、里の村落とは隔絶した世界です。村落の村はずれの墓地の向こう、川向こう、山のたもとから先の山の中などは、当時の村落共同体から見れば、十分「異界」だったのです。ですから村人にとっては、山中でたまに姿を見かける山の民は災いをもたらす「異人」として怖れられたのです。

 ところで山の民は、古来役の行者(えんのぎょうじゃ)以降の修験者ネットワークとも関わりがありました。がなにぶん山奥ということもあり、通常の場合家族単位で通常世間とは没交渉的に生活しています。その一家族の息子に嫁が必要になったのです。とは言っても嫁候補はおいそれとは見つかりません。
 そこで家長は『里のどこかの家の娘を…』と考えます。普段里とは交流などないのですから、非合法的にかっさらってくるしかないわけです。そこで目をつけられたのが、くだんの娘だったのです。

 こうしてその日の黄昏時、計画は実行に移されます。村人に知られぬよう、家長や息子など何人かが松崎村に忍び入って、家の外に出ていた娘を力づくで拉致したのでしょう。山の民の仕業と怪しまれぬよう、娘の草履を脱がせて梨の樹に置き、さも忽然と姿を消したように偽装工作もしました。

 哀れを誘うのは、30年余後に「きわめて老いさらぼえて」帰ってきた女です。その姿は元の貧村以上に過酷な生活だったことを物語っています。しかし「女三界に家なし」という昔の言い伝えどおり、一旦異界に入った者にとって、生まれ育った村といえども既にわが身が安らげる場所ではなくなっているのです。
 だから寒戸の婆は多くを語らず、山の住まいに戻って行ったのです。一陣の烈しい風とともに去りぬ、です。

 この物語では「季節がいつか」は述べられていません。烈しい風の吹くさまから、あるいは早春の春一番の頃かな、とも思われます。しかしかなり前にこれを読んだ時から、私はなぜか旧盆の頃なのではと思い込んだのです。『死んだはずの老婆がひょっこり現われたからには、きっとお盆だろう』と、短絡的に考えたのかもしれません。
 それに都合のいいことに、俳句にも「盆荒れ」という季語があるように、旧盆の頃にわかに強い風が吹いて荒れることがあるようです。冒頭の句は、俳句を始めたての10余年前に作った句です。   - 旧盆の中日に

 (大場光太郎・記)

関連記事
『続・寒戸の婆』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3290.html
『「遠野物語]発刊100周年』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-8193.html

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日韓併合100年首相談話

 -「首相談話」によって歴史に名を残すつもりが各方面に波紋を広げているらしい-

 菅直人首相は10日、今月29日に控えた「日韓併合100年」にあたり首相談話を発表しました。過去の朝鮮半島の植民地支配に関し、「多大の損害と苦痛に対し、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを」表明し、李氏王朝時代の儀典書「朝鮮王室儀軌(ぎき)」など朝鮮半島由来の図書を韓国に「お渡ししたい」と明言しました。
 首相談話は、戦後50周年の「村山談話」(平成7年8月)、戦後60周年の「小泉談話」(平成17年8月)などがあります。両談話のお詫びの対象は「アジア諸国の人々」でしたが、今回は韓国のみを対象としています。

 同談話に対して肝心の韓国はおおむね好意的ではあるものの、必ずしも「歓迎ムード一色」ということでもないようです。韓国政府論評(外交通商省スポークスマン)に「歓迎」の言葉はなく、単に「注目」し今後の両国関係の発展を「希望する」としているにすぎません。ただ旧朝鮮王室の図書返還についてだけは「評価」するとしています。
 また韓国マスコミも、日本政府が依然、日韓併合条約そのものの無効、不法を認めず、過去補償も不十分だとし、過去清算は「未完」で「期待に及ばない」と相変わらず批判的な論評です。

 同談話には中国も敏感に反応し、11日中国各紙では「植民地支配や侵略を受けたのは韓国だけにとどまらない」「お詫びをしなければならないのは韓国だけではない」として、「北朝鮮のほか中国、東南アジア諸国も同様に日本帝国主義の苦しみを味わった」と指摘し、「日本は中国にも謝罪してくれるのか」と問題提起しています。
 ただ中国各紙は同時に、「民主党政権下で脱右傾化している」「菅内閣の全閣僚が終戦記念日に靖国参拝しない」ことも伝えています。

 国内では、社民党や公明党が同談話に対して一定の評価をしました。それに対して自民党は10日夕に外交部会を緊急開催し、「菅政権になって土下座外交が目立つ」「台湾やパラオなどにも(謝罪談話を)出さなければならなくなる。北朝鮮にも謝罪するのか」「拙速よりも拙劣だ」というような批判が相次ぎました。

 今年NHK総合では「日韓併合特集」を何回かで放映しています。私は2回ほどしか見ていませんが、いかに戦前の同併合について何も知らなかったかと痛感させられました。従軍慰安婦の問題はもとより、創氏改姓、日本語教育、皇民化政策、朝鮮各地への神社創建、同参拝強要などなど。
 当時の列強諸国とのパワーゲームで起こったこととは言え、当時の日本が朝鮮半島で行ったことのプラスとマイナスを天秤にかけた場合、確かに後世の今日「謝罪談話」を出さざるを得ないものがあると思われます。
 ですから菅政権については一貫して否定的な私も、同談話は一定の評価をすべきものと考えます。

 ただ国内外から批判が多いことにおじ気づいたか、菅首相も仙谷官房長官も先の消費税増税の時のように、またぞろ逃げ腰の発言に終始しているようです。この場合菅首相らの念頭にあったのは、やはり9月14日の党代表選のことでしょう。少し支持率が回復した今、さらに支持率アップを図り、菅代表再選に向けた流れを少しでも優位なものにしたいという思惑があったものと思われます。
 動機が不純な上、例によって党内外への根回し不十分で唐突なため、自民党に付け入るスキを与え、また民主党内にも異論が出ているのです。玄葉光一郎や野田佳彦など「対米隷属」閣僚からは、「聞いてないよ」とイチャモンをつけられる始末です。

 そのことについて政治評論家の浅川博忠氏が、12日付「日刊ゲンダイ」で鮮やかな分析をしています。
 「首相談話は国家ビジョンに関わる問題ですから、普通なら、弱体化した内閣が押し切るべきものではない。実は金賢姫の来日とバーターではないかと勘ぐる向きもあります。しかし、金賢姫来日の成果はゼロ。揚げ句に今回の談話は、自民党など野党に攻撃材料を与えるだけでなく、与党内からも批判が噴出する始末。民主党には右から左まで、さまざまな価値観の持ち主がいるのだから、こういう問題では党内の根回しが必須です。消費税問題と同じで、そういう基本的なことができていない。菅首相は、もともと外交には強くないといわれますが、またしても政治オンチぶりを露呈してしまいました」。

 また同じく政治評論家の有馬晴海氏は、「この問題は代表選に影響してきますよ。95年の村山談話、05年の小泉談話に続く10年の菅談話で歴史に名を残したかったのかもしれませんが、結果的にマイナスが大きすぎた」と述べています。
 代表選再選に向けて、社会党出身の「阿波狸」官房長官あたりが知恵をつけたのでしょう。しかしまたしてもオウンゴール気味、自ら火種をまく結果となりそうな気配です。

 (大場光太郎・記)

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森裕喜の早すぎる保釈

 -ろくな取調べもせず保釈した石川県警は法治国家の捜査機関と言えるのか !?-

 7日道路交通法違反(酒気帯び)の疑いで逮捕された森祐喜(45)は、8日夕方保釈されました。『おいおい、それにしてもちょっと早すぎはしないか』と思ったのは私だけでしょうか?
 所轄の石川県警小松署が保釈の理由としたのは、「逃亡の恐れがないこと」「証拠隠滅の恐れがないこと」という常套的な文句でです。

 そもそも7日午前10時過ぎに、小松市内のコンビニ「ポプラ小松大島店」に白いワンボックスカーでやってきて、同店入り口付近のガラスが粉々に砕けるほどの衝撃で車を突っ込んだのです。それを見た店員は、「事故を起こした男の様子がおかしい」と110番通報しているほど、森祐喜は異様な状態だったといいます。
 小松署員が駆けつけてみると、口はロレツが回らず、足もふらつく状態。誰が見ても泥酔状態の「飲酒運転」そのものなのに、「酒気帯び運転」という小松署の判定そのものがおかしいのです。

 もし本当に「酒気帯び」で口はロレロレ、足元フラフラだったのなら、プロの捜査機関なら別の要因に思い当たらなければウソです。すなわち「この者はひょっとして“薬物”をやってたんじゃないのか?」。第一もう昼に近いというのに、飲酒というのもおかしな話なのではないでしょうか?
 小松署は有無を言わせず、車内の調査、森祐喜容疑者の尿検査、そして自宅の家宅捜索まで行うべきケースです。「公平中立」な法治国家の捜査機関としては、「県会議員だから、森元総理の長男だから」というような私情は一切挟むべきではありません。

 それでなくても近年、悪質な飲酒運転による痛ましい犠牲者が後を絶たず、最近では厳罰の「危険運転致死罪」が適用されるケースも珍しくありません。それやこれやを勘案すれば、今回の事件は数日ないし1週間くらいは拘留して、慎重に捜査し結論を出すべきでした。
 当ブログでは以前「森祐喜のようなロクでもない県会議員に対して、石川県民はリコール運動を起こすべきだ」と述べたことがあります。こんな者を2期にわたって県議に選出した石川県民、そしてロクに捜査もしないで次の日は保釈にしてしまう石川県警。失礼な物言いながら、石川県は民度の低い「治外法県」か?と思ってしまいます。

 いずれにしてもこの事件はもうこれで一件落着でしょう。しかし一定の効果はありました。第一に森祐喜という、トラブルを起こしてばかりの問題議員が辞職したことです。また全国的に悪名を知らしめた効果もありました。
 それに押尾事件では、田中香織さん(当時30)にMDMAを飲ませ、暴行セックスの上、田中さんの顔がバンバンにはれ上がるくらい凄まじいDVを加えて死亡させた首謀者は森祐喜なのでは?と当初から言われ続けてきました。押尾学はタニマチであるパチンコ業界のドンを介して森側から2億円の身代わり代をもらい、むりやり身代わり出頭させられたのではないか?と。

 当然そこには、父親である森喜朗元総理も一枚加わっているわけです。おそらくこれらは警視庁内部の良識派からのリークだと思われますが、これも当初から森元総理の同事件への「裕喜もみ消し」疑惑が消えないのです。
 これぞ「親バカ」の極みと言うべきですが、そこまでして「永田町の3バカ息子」の代表格の裕喜を、森喜朗は自身の後継者にしたかったのです。しかしそれも今回の事件で完全にパーになったと見られています。

 地元の「北國新聞」が8日付朝刊1面トップで、「森議員 酒気帯びで逮捕」とデカデカと報道。「いつかこんなことになるんじゃないかと…」というような同僚議員の声まで紹介して、裕喜をこきおろしたのです。
 北國新聞といえばかつては、森喜朗の“後援会新聞”のようなものでした。平成17年に石川県内で発生した、森元総理自身が同乗していた車の人身死亡事故を一切報道せず、石川県警ともども同事件を闇に葬ったのです。
 森元総理の、地元での地盤沈下を物語るような北國新聞の“変節”です。
 
 地盤沈下は何も地元だけではありません。かつて「キングメーカー」として権勢をふるってきた森元総理でしたが、今回の愚息の事件によってその凋落ぶりがさらに示されたのです。
 何しろ元総理の後継と目された人物が、これだけ世間的ニュースになれば、普通なら永田町は大騒ぎです。親父である森喜朗の進退問題に発展してもおかしくはないのです。それが今回は、「あっ、そう」という受け止め方だというのです。
 いくら国会閉会中で、森元総理自身大好きなラグビー観戦を兼ねてニュージーランド訪問中とはいえ、仮に森元総理が今でも政界に隠然たる影響力を持っていたなら、党内外、マスコミから激しく追及されていたことでしょう。
 
 力の源泉だった派閥「清和会」は形骸化し、早大雄弁会からの盟友・青木幹雄も引退、もう森元総理を頼る議員は皆無だというのです。すべては昨年の衆院選石川2区選挙区で、「美女のサメ退治」として送り込まれた、“小沢チルドレン”の田中美絵子衆院議員(34)にわずか4,500票差まで追い詰められたのが原因だったといいます。
 「あれで森の政治生命は終わった」と、ある政界関係者は言っています。本来なら自身の選挙を棚上げして、裕喜の「押尾事件もみ消し」に奔走する余裕などなかったのです。一蓮托生の親子ながら、裕喜の“愚息ぶり”が際立ちます。

 「この親にしてこの子あり」と言うべきか、とにかく森元総理はこれ以上晩節を汚すことなく、静かに政治の表舞台から消えていっていただきたいものです。

 (大場光太郎・記)

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今も鳴り響く「長崎の鐘」

   こよなく晴れた 青空を        召されて妻は 天国へ
   悲しと思う せつなさよ         別れて一人 旅立ちぬ
   
  (『長崎の鐘』作詞:サトーハチロー、作曲:古関祐而)

 9日は「長崎原爆の日」でした。1945年(昭和20年)8月9日長崎に原爆が投下されてから65年目。この日爆心地にほど近い長崎平和公園で平和祈念式典が行われました。
 式典の詳細は省くとして、原爆が投下された午前11時2分参列者全員による、犠牲になられた方々への黙祷が捧げられました。

 私はそのようすをたまたまテレビで見ていました。黙祷に合わせて、同公園内に設置された鐘が鳴り響きました。画面に鐘が大きく映し出されます。前と後ろに振られるとともに、カァーン、カァーンと鳴る仕組みです。
 鐘本体の上部に縦書きで何やら書いてあります。よく見てみますと、それは「長崎の鐘」と読めました。

 「長崎の鐘」。そうなのです。それは、長崎原爆を語る上で欠かせない、シンボリックなものだったのです。ご存知の方も多いかと思いますが、その謂れはー。
 元々の「長崎の鐘」は「アンジェラスの鐘」とも呼ばれ、爆心地直近の浦上天主堂の鐘楼にあったものです。その鐘は原爆によって天主堂そのものと共に吹き飛ばされ、翌年30m離れた瓦礫の山の中から発見されたのです。それは長崎原爆の象徴として、以後現地で保存されてきました。
 ですから式典で聴いた鐘は、そのレプリカということになります。

 鐘が発見された直後、そのことに深い感銘を覚え、随筆の題名を『長崎の鐘』として発刊した人がいます。永井隆(ながい・たかし)です。
 永井隆は、原爆投下以前から長崎医科大学(現長崎大学医学部)の放射線科医師でした。永井博士は、我が国放射線研究の先駆者の一人だったのです。それが何の因果か、同大学はやはり爆心地直近。灼熱の熱風、猛烈な爆風と衝撃波。大学は凄まじい破壊をこうむり、永井博士も被爆してしまいます。

 永井博士自身も重症の身でした。しかし妻の勧めでカトリック信者となっていた博士は、そんなわが身を顧みず、次々に大学病院に運び込まれる、ケロイドで皮膚がはがれたような凄惨な被爆者たちの治療に没頭する日々でした。
 一段落して、ふと妻のことが思われました。急ぎ帰ってみると、浦上の我が家は跡形もありません。妻の姿も見当たらず、探し回った果てに台所跡付近で見たものは、妻がいつも身につけていたロザリオと、わずかばかりの骨と黒い塊りになった変わり果てた妻の姿だったのです。

 その後被爆による白血病が重くなった永井隆は、大学を退職せざるを得なくなり、旧宅近くに「如己堂(にょこどう)」というささやかな住まいを造り、疎開先から呼び寄せた二人のこどもと住むことになりました。住居の由来は、「己の如くに隣人を愛せよ」というイエスの教えから取られたものです。
 如己堂で重くなりゆく病と闘いながら、博士は原爆の悲惨さと平和の尊さを後世に残すために、執筆に打ち込みます。その第一作目が『長崎の鐘』だったのです。以後『この子を残して』『ロザリオの鎖』『生命の河』などを世に送り出します。

 随筆『長崎の鐘』は1949年(昭和24年)1月に出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなりました。この年の4月には同名の歌が作られ、藤山一郎が歌って大ヒットとなりました。(冒頭の歌詞は、その1、2番)
 また翌年には、この歌を主題歌とする『長崎の鐘』が映画化されました。

 永井隆は、その過程で昭和天皇にお会いしたり、ローマ教皇の特使の枢機卿が見舞いに来たり、長崎名誉市民の称号を授けられたりします。しかし病状は重篤化していき、1951年(昭和26年)5月1日長崎大学附属病院にて永眠しました。享年43歳でした。

 平和祈念式典会場に鳴り響いた「長崎の鐘」は、どんな言葉より雄弁に「平和の尊さ」を訴えているようでした。

 (大場光太郎・記) 

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森祐喜逮捕

 - 今回別件で逮捕され、押尾事件では出なかった森祐喜の悪名が遂に出た -

 森元総理(73)の長男で石川県議の森祐喜(45)が7日逮捕されました。とは言っても森祐喜の「本件」である、昨年8月の田中香織さん(当時30)死亡事件の主犯としてではありません。

 石川県警小松署は7日、酒を飲んで車を運転してコンビニエンスストアに突っ込んだとして、道路交通法違反(酒気帯び運転)の疑いで、森祐喜=能美市下ノ江町=を逮捕しました。森祐喜容疑者は同日、県議会議長に対し秘書を通じて議員辞職願を提出し、受理されました。
 小松署によりますと、森容疑者は7日午前10時10分頃、酒気帯びの状態でワンボックスカーを運転し、石川県小松市大島町のコンビニ「ポプラ小松大島店」に突っ込んだ疑いです。同容疑者は「飲酒運転し、事故を起こしたことに間違いない」と容疑を認めているといいます。けが人や目だった商品類の破損などはなかったもようです。

 もう少し詳しい事件の様子はー。同時刻コンビニに白いワンボックスカーが前から店入り口付近のガラスに激突。ガチャーンという音とともに、粉々にぶち破ったのです。コンビニ店員の「事故を起こした男の様子がおかしい」との110番通報により、小松署員が現地に直行したものです。
 森容疑者が酒に酔ったような話し方でろれつが回らない状態だったため、署員が「酒を飲んだのか?」と問い詰めると「飲んだ」と認めたとも、署員がまた「森県議ですか?」と尋ねると「そうだ」と冷静に応えたともいいます。

 またコンビニ店員によりますと、事故後森容疑者サイドのスタッフが現場に来て、謝罪するなどの対応をしたもようです。ただ本人は動揺していたのかその場では謝罪しなかったようです。当時店内には7、8人の客がいました。
 森容疑者は、呼気1リットルから0.15ミリリットル以上のアルコールが検出され、「酒気帯び」判定となったものです。
 当時森容疑者は自宅を出て数分の距離にある同コンビニに来たといいます。車にはある女性が同乗していたとの情報もあります。数年以上前、森の激しいDVにより元妻とは離婚していることから、同女性とはどんな関係だったのか関心が持たれています。

 今回の事件は父である森喜朗元総理が、ニュージーランドに出張ないしは豪遊中に起きました。その辺が森祐喜が以前から「永田町の三バカ息子」の一人と言われるゆえんです。さすがに打つ手のない森元総理は7日夜、事務所を通じて「心からお詫びします。本人の議員辞職は当然で、このような不祥事を起こし慙愧にたえない」とコメントしています。

 森元総理には平成17年に石川県内で引き起こした、自身が同乗中の人身事故のもみ消し、また森祐喜の岐阜県における引き逃げのもみ消しと、過去にはもっと凄い事件をもみ消してきた実績があるといいます。
 しかしこの度の森祐喜の事件が明るみに出てしまったのは、目撃者多数の現行犯であること、森元総理が海外出張中であったこと、そして何より政権交代したことが背景にあるものと見られています。

 石川2区内の同地は、森元総理の父と祖父はいずれも根上町長を務めています。そんな中森祐喜は森元総理の長男として、東海大を中退し米国の某大学で学んだ後帰国し、1990年から父の森元総理の秘書となり、「森一族」の強固な地盤を背景に、06年の石川県議補選で初当選。現在2期目で自民党会派に所属していました。
 しかし今回の逮捕によって、悪行三昧の「森一族」もジ・エンドでしょう。これで森祐喜の森元総理の後継者の目は完全になくなり、森元総理も持っても今の衆院議員の任期いっぱいまで、その後の政治生命にピリオドが打たれることでしょう。

 ところで民主党の小沢一郎前幹事長は、参院選前後しばらく公の前に姿を現わしませんでした。その間小沢氏は森元総理ら自民党の長老格の何人かと秘密の会談を持ったという情報も流れています。参院選の民主党敗北による「衆参ねじれ」を受けて、将来の政界再編などについて意見が交わされたものと見られています。
 しかし今回の裕喜「バカ息子」の事件によって、小沢構想は根本から見直さざるを得なくなることでしょう。私などは、いくらなんでも「旧自民党の悪しき見本」連中と手を組むよりはその方が良かったのでは?と思ってしまいます。

 (追記)「森祐喜逮捕」のニュースが流されたのは、7日の夕方からだったのでしょうか?というのも、それ以降当ブログの昨年『薬物汚染の拡がりを憂う』シリーズの特定(森関連)記事へのアクセスが急増したからです。
 その結果8日の「検索フレーズランキング」では、1位から10位までを森祐喜関連で独占しました。こんなことは初めてのケースです。悪徳旧勢力のマスコミは、例の押尾学の事件の関係者として、森祐喜や、六本木ヒルズレジデンス“やり部屋”の借主のPJの野口美佳の名前を一度も公表していません。しかし賢明なネット読者は、とうの昔に同事件の核心を掴んでいて、今もって真相究明への関心が高いことの証明だと思われます。
 今回は同事件については触れることができませんでした。また引き続き関連記事を出していきたいと思います。

 なお森祐喜元県議は8日、保釈されました。所轄の石川県警小松署は任意捜査に切り替え、書類送検する方針です。

 (大場光太郎・記)

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厚木の花火大会

  暗く暑く大群衆と花火待つ   西東三鬼

 猛暑の今年、その中でも2、3日前2度目のピークがあり、観測史上最高となる全国で猛暑日地点が記録されたそうです。それからは雲が多かったり、やや強い風が吹き渡ったりして幾分暑さは和らいだ気配があります。とは言っても、30℃以上の真夏日であることは確実です。
 7日(土)は暦の上では立秋だというのに、今年に限ってはこの暑さはいつまで続くのだろうと、げんなりさせられます。
 そんな中皆様はいかがお過ごしでしょうか?

 7日午後から横浜市内に所用で向かいました。バスと電車の乗継ぎです。
 普段ならこの時刻、当居住地付近バス停から本厚木駅に向かうバスはそんなに混まないものです。たいがい二人用座席を独り占めして座れます。ところがこの日ばかりは座席はいっぱい、通路で立っている乗客もけっこういるありさまです。
 それもそのはずです。きょうとあしたは、厚木市主催の「あゆ祭」が行われるのです。特に7日の夜は同祭のメーンイベントである、恒例の相模川での「花火大会」が行われます。

 花火大会は例年8月の第一土曜日に行う決めのようです。今年はちょうど7日がその日に当たるわけです。花火大会は厚木市制が発足した昭和30年代初頭から始まったようです。私が当市にやって来た昭和40年代前半も、毎回ドカーン、ドカーンと華々しくやっていました。
 近年はさほど興味なく見に行きませんが、季節柄雨というのは少なかったと思います。私の記憶では、『この雨では今夜の花火大会はダメだな』というのは、かなり前の一度だけです。

 バス停ごとに小さな子供連れや若いカップルなどがどんどん乗り込み、車中は混み合ってきます。それらの人たちが目指すのは、やはり本厚木駅経由の相模川であることでしょう。
 当市から海老名市に通じる、相模大橋の上流数百メートルの、広々とした中州が花火が行われる場所です。当ブログ以前からの読者の方には、亡母の「最後の花道」となった、厚木運動公園沿いの桜並木道を川に下りる坂道下の中州一帯と言った方が分かりやすいかも知れません。

 とにかくこういう催しでは格別指定席のようなものはないわけで、日盛りであろうが何であろうが、少しでも早く目指すコンクリート堤防に駆けつけて、より格好のポジションを得たいのが人情というものです。花火が始まるのは夜の7時からですが、そのためこんなに早くに遠くから繰り出しているわけなのです。
 本厚木駅に近づくにつれて、通りは一挙に賑やかになっています。夏のお祭りに一番似合うのは、何といっても若者たちです。そのためかきょうばかりは、通りを歩く人たちの中でも、涼し気な浴衣姿の娘さんたちがやたら目につきます。

 隅田川の大花火大会とまではいかずとも。厚木市の花火大会もけっこう有名であるようです。そのため花火を見ようと、方々から相模川入りするのです。行きはもとより、所用を済ませて同駅に帰ってきた6時過ぎ頃は、同駅でどっと降りて自動改札付近といわず通路といわず北口広場といわず、通常の何倍もの人でごった返していました。
 そのため警官や警備員らしき人たちが、拡声器を使ったりして人込みの整理誘導におおわらわです。

 そういえば30代のいつの頃か、暗くなりかけた頃私は、屋台が立ち並ぶ人込みをぬって、堤防のそこそこの位置を確保して花火を見たことがあります。
 7時から9時までの2時間、間を置かず花火は次から次へと打ち上げられていきます。我が国で打揚げ花火が始まったのは江戸時代からのようですが、今日ではその伝統の上にさらに改良と創意が加えられ、それは夜空に美しく大きな円を描いていきます。暗い空にパッと閃光がきらめき、放射状に伸び広がり、とりどりの色彩の華を咲かせ、そして散って元の暗い空に戻っていく。それはさながら一瞬の芸術作品の趣きです。

 間近い所は見えても、遠い周囲のようすはまるで分かりません。しかしいっとき会場となっている相模川全体が照らし出される時があります。ちょうどプログラムの中ほどに用意されている仕掛け花火の時です。
 その時ばかりは、バチバチはぜる仕掛けの音と共に、すっかり置き去りにされていた河川敷全体がメーンステージのように漆黒の闇から浮かび上がるのです。
 
 するとどうでしょう。川幅100mほどのこちらの堤防そして対岸の堤防の上から下まで、下流から上流まで、それこそ立錐の余地もないほどの人、人、人ではありませんか。何千人いや一万人以上いるかもしれません。
 いくら何でもこんなに人が…。そこまでのイマジネーションがなかった私は、度肝を抜かれただただあっけに取られてしまいました。そしてほどなく、ただ一人で来ていた私は、名状しがたい寂しさに襲われたのです。あれが「群集の中の孤独」というものなのでしょうか。
 以来私は、直接会場に花火を見に行くことはなくなりました。

 (大場光太郎・記) 

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広島平和式典に思うこと

 -「核なき世界」の盛り上がりを後戻りさせるな。菅総理、岡田外相にはがっかり-

 今年で65回目となった6日の広島原爆の日は、大きな節目の平和式典となりました。広島市中区の平和記念公園で午前8時から始まった平和記念式には、5万5千人が参列し、藩基文(ハン・ギムン)氏が国連事務総長として初めて参列。また原爆を投下した米国の代表として初めてルース駐日大使が参列。そして核保有国であるイギリス、フランス、ロシアの代表も参列。史上最多となる74ヵ国の代表が式典に参加。
 その意味ではこれまでにない、国際的に注目すべき式典となりました。

 これはオバマ米大統領の 、昨年4月のプラハでの「核なき世界」演説の効果が、徐々に全世界に着実に浸透している結果と見るべきで、大変歓迎すべき兆候です。この平和のうねりを決して絶やすことなく、秋葉忠利広島市長が世界中に呼びかけているように、2020年に全面的な「核廃絶」が実現できるよう、特に米ロを中心とした核保有国は今後とも具体的削減を図っていくべきです。

 しかしその実現にはさまざまな困難が予想されます。オバマ演説以来核軍縮の機運は盛り上がりを見せつつも、世界の核兵器の約95%を現に保有している米ロ両国で、戦略核の削減は進展しながら、戦術核削減はまったく進んでいないのです。
 また今回の平和式典には、中国代表が参列していません。一酸化炭素削減交渉のように、こちらの核軍縮でも米ロが削減にあい努めている間に、中国は「ウチは核後進国なんだから」とばかりにせっせと核開発を進められてしまっては、相対的に中国の核の脅威が増大することになりかねません。

 その他第二次世界大戦の戦勝5か国の核保有とは別に、イスラエル、インド、パキスタンなども既に核を保有していることは公然の秘密です。これらの国はいずれも複雑な隣国関係を抱えています。これらの国にどうやって廃絶を促していくのか、特に世界一の“ならず者国家”であるイスラエルが、それに「ハイ、分かりました」と素直に応じるのか、大変難しい問題をはらんでいます。
 それ以外にも、北朝鮮やイランの核開発という厄介な問題もあります。また旧ソ連崩壊前後に、小型核がテロリスト集団の手に相当数渡っているのではないか?とも懸念されています。

 今回のルース米駐日大使の初参列は、オバマ大統領の強い意向を受けて実現したものだそうです。しかしルース大使は参列中終始硬い表情を崩さず、式典終了後は何も語ることなく会場を後にしました。
 ルース大使の参列に対して、肝心の米国内から相当の反発があるようなのです。例えば、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイのパイロットの子息は、「大使の参列はとうてい理解できない。米国は対外的に弱みを見せるべきではない」というようなコメントをしているようです。
 第一米国には、依然「広島への原爆投下が戦争終結を早めたのだ」、したがってそれは正当な戦争行為だったのだ、という主張が根強くあるのです。

 米国民にそういう世論が多くある以上、いくら広島市民が「せっかくルース大使が来たのだから、“謝罪の言葉”を口にしてほしかった」と望んでも、それは無理な注文と言うべきです。
 経済対策のつまずきなどで、現状ではオバマ大統領の2期目はないと見られています。ということは「核なき世界」に向けた世界的機運も、後2、3年後はどうなっているか分からないということです。

 元々共和党はおおむね、産軍学複合体=戦争屋=ロックフェラーユダヤ系だと見られています。近現代の米国史を見れば明らかなとおり、米国は自国の経済的悪化などの打開のために、「10年に一度は」大きな戦争を起こさざるを得ない国なのです。
 そのためには「9・11」の自作自演でもどんな謀略でも、イラク戦争のように「大義なき戦争」でも平気でやる国です。例えば次にブッシュ前大統領のように、ネオコンに牛耳られるような共和党政権になったらどうでしょう?
 おそらくまた世界の雰囲気は、「核なき世界」などどこかに吹き飛んで、好戦的気分や重苦しい対テロ戦争が世界を領することでしょう。

 そんな「世界の警察」「一国支配」としての米国は、もう真っ平ごめんです。
 なのに折角歴史的意義のある式典に参加した、おらが国の菅総理、岡田外相はどうだったのか?秋葉広島市長が平和宣言で、「我が国は米国の“核の傘”からの離脱を目指すべきだ」と政府に要求したのに対して、式典後の記者会見で菅総理は「近隣諸国の現状を考慮すれば、“核の傘”は必要だ」と発言したのです。岡田外相も似たり寄ったりの発言をしています。

 「はあっ?何だよそれ」ではないでしょうか?菅総理は式典挨拶では、「唯一の被爆国である我が国には、“核なき世界”の実現に向けて先頭に立って行動する道義的責任がある」と美しい言葉を述べたばかりです。なのに舌の根も乾かないうちに、恐るべき二枚舌、ダブルスタンダード、建前と本音の使い分け、総論賛成各論反対…の最たるものではないでしょうか?
 野党時代は、菅直人も岡田克也も高く評価していた私は、これ一つ取ってみても彼らには本当に裏切られた感を深くします。

 もうこんな連中は頼りにできません。経済的には国民各自がしっかり自己防衛。平和の問題では、これも政府など当てにせず「草の根ネット平和運動」。これで行くしかないようです。

 (大場光太郎・記)

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続々・命の輝きを伝えたい

 - 北の旭山と南の到津。共に廃園の危機を脱して、奇跡の復活を成し遂げた -

 「お客さんを大切にすることが動物たちの保護につながる」と気がついた小菅正夫は、以後その線に沿って旭山動物園の改革に着手していきます。
 例えば小菅は、飼育係が直接お客さんに説明する「ワンポイントガイド」を発案、実行に移しました。彼らの多くは小菅に負けず劣らず“動物好き”ではあっても、人付き合いは苦手。当初はためらいがあったものの、少しずつ慣れていき、今日でも同動物園の「売り」の一つになっています。
 また知能の高いサルの見せ方として、なかなかエサが出てこないエサ箱を考案し、サルが箱を上下斜めにひっくり返しながら、ようやくエサを取り出すようすをお客さんに見てもらうことにします。

 小菅のリーダーシップのもと、次々に新機軸を打ち出しつつあった矢先の平成6年、想像もしていない出来事が旭山動物園を襲います。園内の動物たちが“エキノコックス症”に感染していったのです。園内に侵入した、野生のキタキツネによってもたらされた病気でした。
 その頃副園長になっていた小菅は、市民の安全を第一に考え、事実の公表に踏み切ります。市民の間から、管理体制の甘さに対して大批判が巻き起こり、同動物園は臨時休園を余儀なくされました。

 経営的に厳しい局面に立たされた同動物園は、廃園の危機に追い込まれます。しかし小菅らは園の周囲に防護柵を張りめぐらして、病原菌の侵入防止に務めます。
 このような動物園の努力に心を動かされた市民たちは、定期的にパンや果物の差し入れや、カンパによる200万円の寄付をしてくれました。中には、「旭山動物園は私たちの宝です」という暖かい手紙も寄せられました。
 こうした市民たちの励ましに支えられ、平成7年4月29日旭山動物園は再開することができたのです。

 同時期小菅正夫は園長になっていました。再開直後小菅は、「今後どういう動物園にしたいか?」というコンセプトのもと、飼育係とともに「14枚のスケッチ」を作り上げました。若いスタッフに、予算などに縛られない「こうであって欲しい動物園の姿」を絵として自由に描かせたのです。
 そうして出来上がった絵の中には、白いアザラシが上下に泳ぎ回る姿を間近で見られる縦長の大水槽の絵がありました。またペンギンと言えば、氷上をよちよち歩きする姿が一般的ですが、常日頃その生態をよく把握しているスタッフは、「ならばお客さんの頭上に巨大水槽を設け、空を猛スピードで飛び回るようなペンギンの姿を見てもらおうじゃないか」とばかりの絵を描きました。

 こうして出来上がった「14枚のスケッチ」を携えて、小菅園長は旭川市役所を訪れ、担当者に動物園改革の必要性を熱く語ります。やはりビジュアル的なスケッチのインパクトは絶大で、市側も納得し、新しい施設を造るための予算を15年ぶりでつけてもらうことに成功したのです。
 「すべてはアィディアから始まる」「はじめにイマジネーション(想像力)ありき」とは、成功哲学的文脈の中でよく語られます。小菅が「現実化の法則」を知っていたかどうかは別として、図らずも同法則を旭山動物園で実証する形となり、日本最北の本当にいつ潰れてもおかしくない動物園を日本一の動物園に急成長させたのです。

 旭山動物園が廃園の危機を脱して、奇跡的な復活を遂げつつあった頃。「日本中の動物園が束になっても適わない」と小菅が舌を巻いていた、岩野俊郎の到津遊園はどうだったでしょうか?実は今度は、到津遊園が危機的状況を迎えていたのです。
 同遊園のすぐ近くに巨大テーマパークが建設され売上げは減少、親会社である西日本鉄道(株)は業務不振に陥り、同遊園へ乗り入れる路線も廃止となりました。
 こうして平成8年到津遊園の方は廃園が決定、70年にも及ぶ動物園の歴史を閉じることになりました。当然林間学園もなくなってしまったわけです。

 しかし到津遊園でも“奇跡”が起きたのです。奇跡を起こしたのは、かつて林間学園で「命の輝き」を学んだ市民たちでした。中には親子孫3代にわたって、林間学園を体験したというような例もあり、同遊園の存続を望む声が多く寄せられるようになりました。それらの人たちが中心となって、同遊園の再開を望む26万人もの署名が集められたのです。
 その結果、平成12年同遊園は「到津の森公園」と名称を変えて再スタートすることとなり、新園長には岩野俊郎が就任しました。

 『こころの遺伝子』最終回では、小菅正夫と岩野俊郎が並んでゲスト出演していました。大きな仕事を成し遂げた両氏からは、黙っていてもにじみ出てくる自信と風格が感じられました。
 両氏には、地球環境の危機が叫ばれる今日、動物園というレベルを超えて、今後ともさらにグローバルな視点から「命の輝きを伝え」ていっていただきたいものです。この場合の「命の輝き」とは、もちろん人間も含んだ、動物、植物など生きとし生けるあらゆる生命体の「命の輝き」ということです。  - 完 -  

 (大場光太郎・記)

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続・命の輝きを伝えたい

 -岩野の「命の輝きを伝えたい」という想いは、小菅にどう伝わっていったか-

 小菅正夫は岩野俊郎の誘いで、再び岩野が所属する北九州市の到津(いたるづ)遊園を訪れました。その時同遊園には、(当時で)40年の歴史を有する「林間学園」があることを知ります。
 林間学園では、参加した子どもたちが、到津遊園内の動物や植物と深く触れ合うためのプログラムが組まれており、巧みに自然への興味を引き出すよう工夫がなされていたのです。

 そもそも戦前に同遊園内での林間学園を始めたのは、久留島武彦(くるしま・たけひこ)という人でした。久留島武彦(1874年~1960年)は、鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』にも関わった児童文学者で、アンデルセンの復権を訴えたことが評価され、デンマーク人から「日本のアンデルセン」と呼ばれた人です。
 久留島は子どもたちに、森の中で生き物が登場する独特な物語があることを知ってもらいながら、それによって豊かな情操を育んでもらいたいという願いを込めて、林間学園を始めたのでした。

 当時林間学園を担当していたのが岩野俊郎でした。岩野は訪ねてきた小菅を、林間学園の舞台となる到津遊園の森に案内します。
 そこには、子どもたちの関心を動植物に向けさせようと情熱的に指導する小菅の姿と、豊かな森の中で、多様な植物に触れたり動物たちを触ったりして、嬉々として歩き回っている子どもたちの姿がありました。
 岩野は生の自然との触れ合いの中から、子どもたちにこの森の植物も動物も全部地球につながっているかけがえのないものなのだ、という「命の輝きを伝えたい」という想いをもって子どもたちと接していたのです。

 到津遊園のそんな取組みを目の当たりにして、小菅は『こんな動物園もあったのか !』と驚きます。久留島以来の伝統を受け継ぐ岩野の姿から、小菅は「命の輝きを伝えたい」という無言のメッセージを受け取ります。
 しかしこの時は、「動物たちを育てたい」ということばかりに目が向いていた小菅には、まだ岩野のその想いが本当には届いていなかったのです。

 転機となったのは、1980年代から始まった「テーマパークブーム」でした。旭山動物園でもブームに取り残されまいと、最新の遊具を次々に導入し来園者の増加に腐心しました。確かに物珍しさも手伝って、一時的に人が集まったものの、飽きられるのもまた早く、やがて高額な遊具償却の問題だけが残る悪循環に陥ってしまいます。
 その頃小菅は飼育係長になり、動物園全体の運営に携わるようになりました。そのため、小菅にとって旭川市との交渉が最大の仕事になっていきます。
 市の担当者は、テーマパーク流行り(ばやり)の昨今「動物だけで人を集める時代は終わった」と言い放ち、なかなか小菅らが思うような予算をつけてくれようとはしません。遊具導入の失敗から、「動物園の主役は動物であるべきだ」と改めて再認識した小菅は、そんな市の対応に業を煮やして怒鳴ることも何度かあったと言います。
 
 そういう経験を通して、小菅は「動物園とは何なのか?」という切実なテーマと真剣に向き合うことになっていきます。そして小菅はある時ハタッと思い当たったのです。
 『今までオレはお客さんのことを考えず、動物だけを見ていた』。確かに小菅は、これまでは野生動物を守ることに命を賭けてきました。一飼育係としてはむしろ十分過ぎる貢献と言うべきです。しかし園全体の運営を視野に入れた場合、世間が旭山動物園を認めてくれてより多くの人が来園してくれなければ、動物園を維持していくことすらできなくなるのです。

 その時「命の輝きを伝えたい」と、林間学園活動に情熱を燃やす岩野の姿が甦ってきます。『そうだ、人々に“命の輝き”を伝えることは、実は動物たちの保護にもつながっているのだ』。その時初めて、岩野俊郎が小菅に伝えたかったのは「これだったんだ !」と気づいたのです。
 そしてその「気づき」こそが、その後の動物園存続の危機を乗り越えさせ、今日では年間200万人もの人たちが訪れる日本有数の動物園へと、旭山動物園を押し上げる原動力となっていったのです。  (以下「続々」につづく)

 (大場光太郎・記)

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命の輝きを伝えたい

 - NHK『こころの遺伝子』。最終回は、旭山動物園前園長の小菅正夫編 -

 NHK総合『こころの遺伝子-あなたがいたから-』は、先週の15回をもって、ひとまず終了だそうです。当ブログではこれまで同番組から、アンジェラ・アキ編『自分に賭けてみなさい』、西原理恵子編『どん底でこそ笑え』、一青窈編『とんがっているものほど安らぐ』、辻口博啓編『己のルーツに誇りを持て』を取り上げてきました。
 これらのゲストたちが発信してくれたメッセージが、私の「こころの遺伝子」に多少なりとも届いたからこそ、記事にしてきたのです。

 良いテレビ番組というものはえてして、『えっ。もう終わっちゃうの?』というあっけない終わり方をするものです。この番組もまさにその通りで、毎回楽しみに観ていた全国のお茶の間のファンも多かったのではないでしょうか?
 ですからこの番組は(NHKということもあり)、視聴率云々よりも、インパクトの強い「こころの遺伝子ストーリー」を有する各界の功なり名遂げたゲストを探し出し、一つの番組として作り続けることが難しかったのかな?と推察されます。

 しかし、ともすれば日常のマンネリズムに埋没しがちな市井人は、常に異能の人の「波乱万丈物語」を欲するものです。それが私たちの心の遺伝子にダイレクトに響いて、内なる「恐るべきマンネリズム」を打ち破ってくれるほど、感動的で、刺激的なストーリーと強い言葉をー。
                       *
 前置きが少し長くなりました。最終回に相応しいゲストは、最近全国的に有名になった北海道旭川市にある「旭山動物園」前園長の小菅正夫(62)です。

 小菅正夫(こすげ・まさお)は、1948年(昭和23年)札幌市生まれ。子どもの頃から昆虫に興味を抱き、動植物を育てるのが何よりも好きだったといいます。小菅少年はいつしか獣医を夢見て、1969年(昭和44年)北海道大学獣医学部に入学します。
 しかし在学中は柔道に打ち込み、キャプテンも務めました。ところがこれが思わぬ結果となります。柔道の過酷な練習であまりに腕が太くなりすぎ、牛の直腸に腕が入らなくなり体内検診ができなくなったのです。そのため産業獣医師は断念せざるを得なくなりました。

 就職先が決まらず焦っていた1973年(昭和48年)の卒業間近、小菅は新聞広告で旭川市が動物園の動物の獣医を募集しているのを知ります。元々動物好きな彼は、その広告に吸い寄せられ『これがオレの仕事だ !』と直感します。こうして小菅は、旭山動物園へ就職することになったのです。
 
 当時の旭山動物園は開園6年目で、東京の上野動物園の十分の一の規模のパッとしない地方の動物園に過ぎませんでした。
 就職して小菅が真先に取り組んだのは、ホッキョクグマの繁殖でした。その結果翌年、日本で初めてのホッキョクグマの繁殖に成功したのです。これを契機に小菅は、絶滅が心配される動物を守り、次の世代に命をつなぐのが自分の仕事だと意欲を燃やします。雪に閉ざされて休園する冬場、飼育方法や繁殖技術を学ぶため、全国の動物園を回るようになりました。

 その結果小菅が痛感したことは、旭山動物園と他の動物園とのあまりの格差でした。例えば当時は、日中国交回復に沸く中国から上野動物園にパンダの“ランラン”が寄贈され、大人気になっていました。そんな上野動物園はもとより他の動物園と比べても、規模や施設の施設面など大違いであることに、小菅は愕然とさせられたのです。

 そんな折り、先輩の勧めで立ち寄った北九州市の「到津(いたるづ)遊園」で無礼な印象を強く持った人物と出会います。小菅正夫にとって「運命の人」となる岩野俊郎(62)でした。
 翌年小菅は飼育技術研究会という場で、岩野と偶然にも再会します。その席で突然立ち上がり、自らの失敗談を話す岩野俊郎の姿に、小菅は好感を覚えたのです。改めて話してみると、岩野も1948年生まれの同じ年、2人はすっかり意気投合し、以後生涯にわたる親交を深めていくことになります。

 それのみか、北と南で「命の輝きを伝え」合い、互いが動物園界に革命を起こすことになったのです。  (以下「続」につづく)

 (大場光太郎・記)

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もはや黄昏?菅政権

 -最近の菅総理の「ショゲ菅」ぶりはどうしたことだ。代表選まで持つのか?-
 
 2日今臨時国会での衆院予算委員会での論戦が始まりました。最近すっかり「謝ってばかり」の菅総理は、谷垣自民党総裁に冒頭参院選総括を求められ、そこでも自らの消費税発言が敗因だったと認め、続いてひたすら「野党の皆さんの協力をお願いしたい」をくり返す、低姿勢、守勢ぶりが目立ちました。
 野党時代、小泉元総理だろうと誰だろうと、舌鋒鋭く斬り込んでいた「攻め菅」ぶりはすっかり影をひそめてしまいました。これには続いて質問に立った石破自民党政調会長からは、「総理しっかりしてください。毅然としてください」と言われる始末です。

 それでなくても最近の菅総理の「ショゲ菅」ぶりは、一国のトップリーダーとして大いに気になります。きっかけはやはり、今国会に先立って行われた、党の両院議員総会にあったのでしょうか。菅総理ら執行部は、同総会を“ガス抜きの場”として出来るだけ穏便に乗り切る算段でした。
 しかし同総会ではズバリ「菅総理辞任」を求めるなど、執行部への異論、反論、大批判が噴出する大荒れ総会となりました。
 人一倍プライドが高いと言われる菅直人にしてみれば、これ以上ない屈辱的な「吊し上げ総会」で、だいぶこたえたのではないで゜しょうか。

 30日の国会開催日総理会見が突如開かれました。総理会見は通常、国会終了時や予算案成立時に行われるべきものです。それが異例の国会冒頭になったのは、先手を打って自らが直接国民に向かってメッセージを発信することで、政権の求心力を高めようという意図があったことは明らかです。
 しかしここでも真先に口をついて出たのは、自身の不用意な消費税発言に対する謝罪の言葉でした。そしてその結果生じたねじれ国会から、野党の主張にも真摯に耳を傾けることなど、「何を今さら」ということばかり。後は衆参の定数削減に前向きに取り組みたい、地方の活性化のために林業の再生を進めたいというような、あまりパッとしない話に終始しました。

 これには、“菅政権シンパ”であるはずの民放からも見放されてしまいました。同会見は、一斉に夕方のニュースが始まる5時からにセッティングしたにも関らず、特番を組んで中継したのはNHKのみ。民放は軒並み無視で、谷亮子や三原じゅん子など新人参院議員の初登院の姿をメーンとして流し続けたのです。
 民放のある記者は、「この程度の内容だからニュースはボツでいいんじゃないか」とデスクに言われたそうです。結局民放各社は、会見のもようを30秒や1分程度の一般ニュースとして伝えただけでした。この手の会見が行われた場合、5分なり10分なりを取って会見の中身を伝え、コメンテーターが解説を加えるのが通例であることを考えれば、菅政権はすっかりマスコミから「なめられている」と見るべきです。

 以上のようなことから、菅政権はよれよれの“死に体”の様相を呈してきています。『ひょっとして9月の代表選まで持たないんじゃないの?』と思われるほどです。
 菅総理がここから本格的に態勢を立て直して、代表選勝利さらにそれ以降も政権を運営していきたいのなら、取るべき道はただ一つ。何度も言うようですが、小沢前幹事長の全面協力を仰いで、前途に待ち受ける幾多の難局を乗り切る以外ありません。
 ただ小沢一郎が菅総理の要請を突っぱねて会おうとしないのは、政権発足以来の軋轢(あつれき)と共に、もはや菅総理を見限っているからだと思われます。だから菅総理は余計、方々でお詫びし野党の皆さんに低姿勢で臨んでいる以上に、小沢前幹事長に「真摯な低姿勢」で向かい「心からの謝罪」をすべきです。

 その上真心のこもった誠意を示さなければなりません。菅総理を誤った政権運営に引っ張りこんだ張本人である、仙谷由人官房長官と枝野幸男幹事長を辞任させることです。またこの2人の頭目である前原誠司も斬るべきです。
 民主党内の壟断(ろうだん)を画策する、「反党分子」はことごとく重職から追放しなければなりません。そして「国民の生活第一」という昨年の政権交代時の原点に立ち返って、再スタートを図るべきです。
 それらのポストの選任を小沢前幹事長に一任する。それくらいすれば、怒り心頭の小沢一郎とて、菅直人との話し合いに応じることはやぶさかではないはずです。

 「阿波狸」官房長官あたりが、またぞろ妙な策謀をめぐらそうものなら、菅政権への包囲網はさらに狭まり、9月の代表選を前にして野垂れ死の運命だと覚悟すべきです。

 (大場光太郎・記)

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“のりピー”の近況

 - 離婚報道がエビ・マオ披露宴を食っちゃった。いまだのりピー人気衰えず?-

 一連の覚せい剤事件が一段落して、最近は“のりピー”こと酒井法子(39)の消息はあまり聞かれませんでした。それが6月末既に離婚していたことが、1ヵ月遅れの7月末に報道されたのです。
 7月29、30日のテレビの話題と言えば、各界のVIPなど約1000人が出席した市川海老蔵・麻央の豪華披露宴一色となるはずでした。が、酒井法子の離婚報道はそれに水をさすかっこうとなりました。

 30日のスポーツ紙2紙は1面がのりピーになり、ワイドショーも披露宴と離婚で扱いが二分してしまいました。それにしても、6月末の離婚がなぜ1ヵ月遅れのその時期だったのか?エビ・マオ披露宴を独占中継した日本テレビを巡る、他マスコミの思惑がさまざまに絡んだ結果のようですが、いずれにしても“梨園”の一大イベントがのりピー離婚に負けたかっこうです。
 そういうわけで、当ブログも久々に離婚などのりピーの近況報告です。

 酒井法子は昨年の覚せい剤事件の初公判で、厚生の条件として夫の高相祐一(42)(同罪で執行猶予中)との離婚を表明。早くから離婚の決意を固めていたものの、高相側がなかなか話し合いに応ぜず、約8ヶ月を要してやっと決着を見たのです。
 こうして6月末に酒井の代理人が離婚届を提出。慰謝料はなく、長男(11)の親権は酒井が持つことになったといいます。

 酒井は今年1月、かねてからの希望どおり、介護を学ぶために創造学園大学(群馬県高崎市)に入学し、自宅で同校の「e-ラーニング」(パソコンによる遠隔授業)を受けている日々のようです。
 ただ保釈後落ち着いた東京・南青山の自宅マンションは、5月28日付で売買契約が成立し売却、現在は別のマンションに転居しているといいます。
 かつては夫婦の住まいでもあった南青山マンションは、都心でも人気の物件で、新築時の評価額は1億7,000万円ほど。しかし酒井事件の影響で評価額は下がり、結局半値以下の8,000万円前後での売却となったもようです。
 さらに、酒井の継母名義の世田谷区の高級マンションも売却したようです。同マンションはニュースキャスターの小宮悦子も入居しているなど、評価額1億円ほどの優良物件でしたが、こちらも5,000万円ほどの売価だったようです。

 酒井が全資産を売却した裏には、覚せい剤事件による巨額の借金があると見られています。以前の『薬物汚染の拡がりを憂う』シリーズの中でも何度か触れましたが、同事件によりCMを中心に2億円以上の借金が発生。これは現在元所属事務所の「サンミュージック」が肩代わりしていますが、いずれは酒井が返済すべきものです。
 それ以外にも、酒井が声優を務めたアニメ映画が公開中止となったことで、酒井とサンミュージックに対して、2,147万円の損害賠償を求める訴訟が東京地裁に起こされています。

 両マンション売却はこれらの負債の穴埋めだったわけです。しかし予想を大きく下回る売却額となったため、酒井の今後の青写真に狂いが生じているといいます。やっと高相との離婚は成立したものの、この先酒井には「借金地獄」が待ち受けているのです。
 これは酒井が目指している介護福祉士では、到底払い切れるものではありません。そのため酒井の進路について、またぞろさまざまな憶測が流れているのです。

 一部では「酒井の芸能界復帰はない」と報道されましたが、ここに来て巨額の借金の返済には「やはりタレント活動を再開するしかないのでは?」という見方が出ています。「離婚」という身辺整理は芸能界復帰のための伏線で、本格復帰は執行猶予が解かれる2年後ではなく、もっと早まる可能性が高いと見られているのです。

 さらに仰天情報として、酒井法子の「AV出演」という話も浮上しています。ある芸能関係者は「離婚が成立したことによってますます口説きやすくなった。日本のAVメーカーはもちろん中国企業も動いていて、さながら争奪戦の様相だ」と言っています。
 「玉女から悪女に転落した」とは言え、中国におけるのりピー人気は依然根強く、中国メディアは、香港の企業がのりピーに3Dアダルトビデオへの出演を依頼したと報じています。提示したギャラは何と2,300万人民元(約3億円)。中国では元々日本のAVが人気の上、のりピーがAV出演したとなればバカ売れ間違いなし。10億円以上の売上げが見込まれると言うのです。
 ちなみに、元Winkの鈴木早智子(40)が芸能人専門AVレーベル「MUTEKI」からデビューした際のギャラは、約1,000万円だったそうです。それと比べても3億円とは超破格です。

 借金返済を迫られている酒井法子。果たしてどのような道を選択するのでしょうか?今後ののりピーの動向に注目です。

 (大場光太郎・記)

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前原誠司に物申す

 - テレビ御用達“男芸者大臣”前原誠司の、耐えられない存在の軽さ -

 前原誠司は、つくづくどうしようもない政治家です。こんな者が、「誰が総理にふさわしいか?」という各社調査では、ここのところ決まって2位か3位に名を連ねているから驚きです。調査に答えている有権者は、「ただ何となく」という人気投票のつもりなのでしょうが、中にはすっかりその気になって「図に乗ってしまう者」もいますから、もっと慎重に検討して答えるべきです。
 少なくとも昭和50年代頃までの、今よりはずっと「人を見る目があった」日本社会でなら、こんなポピュリズムの軽薄者をかくも持ち上げることはなかったでしょう。国民全体の「劣化」を感ぜずにはおられません。
 それが近年の救いようのない「政治状況の劣化」となって、国民生活にモロにはね返ってきていることを、私たちはしっかり再認識する必要がありそうです。

 今回問題とする前原誠司(○○大臣らしいが、そういう呼称をつけるのもばかばかしいので省略)、29日の民主党の両院議員総会をサボって、同日都内港区のザ・プリンスパークタワーで行われた、市川海老蔵・麻央の結婚披露宴に出席していたことが発覚し、党内外から問題視されています。
 もちろん政治家は通常人より交際の幅は段違いに広いもの、平常の時の冠婚葬祭への出席について一々目くじらを立てることはありません。しかし前原がサボった両院議員総会とはどんな場であったのか?先刻ご承知のとおり、前原の直属のボスである菅総理、凌雲会の子分である枝野幹事長らが、参院選総括を巡ってギューギューに吊るし上げられていたのです。

 そんな折りも折り、前原誠司は披露宴主役の海老蔵の向こうを張ったつもりか、紋付袴姿で会場入りしました。ほとんどの出席者は礼服やタキシードだったものだから、「まるで正月のTV番組みたいな格好だ」と余計浮いてしまったのです。
 ちなみに、同披露宴には森元総理や小泉元総理も出席し、菅総理が冷や汗ダラダラの同時刻、前原は彼らと一緒に満面の笑みを浮かべて鏡開きをやっていたのです。前原は以前から“小泉シンパ”であることは知られていましたが、総会そっちのけで勝手に「大連立」をやっていたことが知れたものですから、同僚議員たちも怒り心頭なのです。

 翌30日の閣議後の会見で、報道陣からそのことを指摘された前原は、「冠婚葬祭は人生の極めて大事なセレモニー。社会の通念としてどちらを優先するかは政治家の判断だ」と開き直ってみせたのです。
 そして「両院議員総会が決まる前に招待状をもらっていた」「当初から決まっていた予定を優先させた」と「何が悪い」と言わんばかりでした。

 前原は閣議の席では、岡田克也外相と共に菅総理の隣に座っています。岡田を右大臣格とすると前原は左大臣格と、少なくとも菅総理は評価しているわけです。なのに自党の命運を決しかねない両院議員総会をすっぽかして、へらへら笑ってエビ・マオの披露宴優先か?という話です。
 
 民主党迷走の大きな要因となった普天間問題では、沖縄担当大臣でありながら何も手を打てなかった。八ッ場ダム凍結や高速道路無料化問題ではことごとく先送り。JAL問題では勇み足で話をさらにこじらせるは……。
 前原の政治的力量のなさは一目瞭然です。己の無能をごまかすには、テレビ画面の前でベラベラしゃべること、豪華披露宴を優先して報道陣のシャッターに満悦すること。「男芸者気質」の前原誠司には、それくらいしか自分のアピールの方向性が見出せないということなのでしょう。

 ところで前原は最近、9月の代表選では菅総理の続投を支持する意向を表明しています。その理由として「今は権力闘争をしている場合ではない」と、さももっともらしいことを言っています。
 では前原よ。アンタが何ヶ月間にもわたって、小沢前幹事長を事あるごとに批判し、5月の連休中は外遊先で、「鳩山総理はもう持たない」などと一閣僚としてあるまじき発言をしてきた。これこそ党内の結束と和を乱す「権力闘争」の最たるものではないか。
 あの頃はオーケーで、今はノーと言う、アンタの根拠は一体何だ?「政治家の言葉」とは、その場その場で都合よく使い分けて済むものではないのだ !

 最後に前原誠司よ。アンタが代表の時に起こった「偽メール事件」によって、前途有為な永田寿康元衆院議員が政治生命を失い、自ら命を絶った。アンタはテレビに向かってベラベラヘラヘラしてばかりだが、故永田氏の命日には、心の中でしっかり手を合わせているんだろうね?

 (大場光太郎・記)

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