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今も鳴り響く「長崎の鐘」

   こよなく晴れた 青空を        召されて妻は 天国へ
   悲しと思う せつなさよ         別れて一人 旅立ちぬ
   
  (『長崎の鐘』作詞:サトーハチロー、作曲:古関祐而)

 9日は「長崎原爆の日」でした。1945年(昭和20年)8月9日長崎に原爆が投下されてから65年目。この日爆心地にほど近い長崎平和公園で平和祈念式典が行われました。
 式典の詳細は省くとして、原爆が投下された午前11時2分参列者全員による、犠牲になられた方々への黙祷が捧げられました。

 私はそのようすをたまたまテレビで見ていました。黙祷に合わせて、同公園内に設置された鐘が鳴り響きました。画面に鐘が大きく映し出されます。前と後ろに振られるとともに、カァーン、カァーンと鳴る仕組みです。
 鐘本体の上部に縦書きで何やら書いてあります。よく見てみますと、それは「長崎の鐘」と読めました。

 「長崎の鐘」。そうなのです。それは、長崎原爆を語る上で欠かせない、シンボリックなものだったのです。ご存知の方も多いかと思いますが、その謂れはー。
 元々の「長崎の鐘」は「アンジェラスの鐘」とも呼ばれ、爆心地直近の浦上天主堂の鐘楼にあったものです。その鐘は原爆によって天主堂そのものと共に吹き飛ばされ、翌年30m離れた瓦礫の山の中から発見されたのです。それは長崎原爆の象徴として、以後現地で保存されてきました。
 ですから式典で聴いた鐘は、そのレプリカということになります。

 鐘が発見された直後、そのことに深い感銘を覚え、随筆の題名を『長崎の鐘』として発刊した人がいます。永井隆(ながい・たかし)です。
 永井隆は、原爆投下以前から長崎医科大学(現長崎大学医学部)の放射線科医師でした。永井博士は、我が国放射線研究の先駆者の一人だったのです。それが何の因果か、同大学はやはり爆心地直近。灼熱の熱風、猛烈な爆風と衝撃波。大学は凄まじい破壊をこうむり、永井博士も被爆してしまいます。

 永井博士自身も重症の身でした。しかし妻の勧めでカトリック信者となっていた博士は、そんなわが身を顧みず、次々に大学病院に運び込まれる、ケロイドで皮膚がはがれたような凄惨な被爆者たちの治療に没頭する日々でした。
 一段落して、ふと妻のことが思われました。急ぎ帰ってみると、浦上の我が家は跡形もありません。妻の姿も見当たらず、探し回った果てに台所跡付近で見たものは、妻がいつも身につけていたロザリオと、わずかばかりの骨と黒い塊りになった変わり果てた妻の姿だったのです。

 その後被爆による白血病が重くなった永井隆は、大学を退職せざるを得なくなり、旧宅近くに「如己堂(にょこどう)」というささやかな住まいを造り、疎開先から呼び寄せた二人のこどもと住むことになりました。住居の由来は、「己の如くに隣人を愛せよ」というイエスの教えから取られたものです。
 如己堂で重くなりゆく病と闘いながら、博士は原爆の悲惨さと平和の尊さを後世に残すために、執筆に打ち込みます。その第一作目が『長崎の鐘』だったのです。以後『この子を残して』『ロザリオの鎖』『生命の河』などを世に送り出します。

 随筆『長崎の鐘』は1949年(昭和24年)1月に出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなりました。この年の4月には同名の歌が作られ、藤山一郎が歌って大ヒットとなりました。(冒頭の歌詞は、その1、2番)
 また翌年には、この歌を主題歌とする『長崎の鐘』が映画化されました。

 永井隆は、その過程で昭和天皇にお会いしたり、ローマ教皇の特使の枢機卿が見舞いに来たり、長崎名誉市民の称号を授けられたりします。しかし病状は重篤化していき、1951年(昭和26年)5月1日長崎大学附属病院にて永眠しました。享年43歳でした。

 平和祈念式典会場に鳴り響いた「長崎の鐘」は、どんな言葉より雄弁に「平和の尊さ」を訴えているようでした。

 (大場光太郎・記) 

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