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「こころづかい」「思いやり」

  「こころ」は
  だれにも見えないけれど
  「こころづかい」は
  見える
  
  「思い」は
  見えないけれど
  「思いやり」は
  だれにも見える    (宮澤章二『行為の意味』より)

 最近某紙第何面かの下段広告に、社団法人「ACジャパン」(旧称:日本広告機構)の上記一文を含む広告が載っていました。ACジャパンの広告といえば、昨年10月にも『あなたは、あなたでいいのだ』を記事にしました。
 これはマンガ家の赤塚不二夫(故人)の「これでいいのだ」から取られた、同広告の一文なのでした。根強い赤塚不二夫人気からか、あるいは同文が人の心を打つからなのか。今でもアクセスが絶えません。

 さてこの一文とともに、広告のほぼ全面に及ぶ写真が大変印象的です。それはある雨の日の街の中の一コマのようです。中央部の2人の女性に目がいきます。右方に女子高生、左方には赤ちゃんを抱いた若い女性。女子高生は傘を持っていますが、若いお母さんは持っていません。
 そこで女子高生がそちらに歩み寄り、右手で少し高く白っぽい傘を掲げながら、「よろしかったら、この傘お使いください」と、そのお母さんに差し出そうとしているシーンです。

 いや、若いお母さんは赤ちゃんを両手で抱くのに手一杯ですから、傘が使いたくても使えないのかもしれません。そこで女子高生は、「私の傘の中にお入りください。方向が同じですから、一緒に行きましょう」と言っているのかもしれません。
 若いお母さんは女子高生の方を向いて、「どうもすみません」と言っているように見えます。この2人のようすを、女子高生の2人の級友が右の少し離れた所で見守っている、そんなシーンです。

 中央の2人の右側に、冒頭の「こころ」は…の一文が、左側に「思い」は…の一文が掲げられています。ごくありふれた日常の何気ない一瞬を切り取った写真そして一文。それでいて何となく「こころ」に残ります。

 この文のように、「こころ」があることをだれもが疑わないものの、だれも「こころ」を直接見ることはできません。しかしこのシーンのような“小さな親切”の元になるのが「こころ」です。体自体に意思はなく、そのような行為をするよう「こころ」が動いたからこそ、女子高生は近寄って傘を差し出すという行動を取ったわけです。 
 良くも悪しくも「こころ」は、私たちの一つ一つの行いによって見えてくると言ってもよさそうです。
 「思い」もまたそのとおりでやはり目には見えません。しかしこのような「思いやり」のある行為によって、形となって見えてくるわけです。

 今の社会の合せ鏡と見るべきですが、当今の若者たちの凄まじいモラルハザードが問題にされることがあります。しかしこのような小さな親切をさり気なく示す若者だって、現実にいるものです。そのたび『あヽ世の中捨てたもんじゃないな』と、ちよっぴり嬉しい気持ちにさせられます。

 以前述べたことがありますが、「隣人愛」における「隣人」の本当の意味は、「自分が日々出会うすべての人たち」のことだそうです。
 この女子高生の場合、「こころ」無くも、雨に濡れて行く赤ちゃんを抱いた女性を見て見ぬふりして、友達としゃべりながら通り過ぎることもできました。
 しかし「こころ」有る彼女は、とっさに歩み寄って傘を差し出したのです。

 「愛」とは何ぞや?などと論議し出すと神学的な袋小路に陥り、実際の愛行為とはどんどんかけ離れたところに迷い込んでしまいそうです。
 しかし実際は簡単で、「愛 = こころづかい = 思いやり」と言ってもいいと思います。
 「こころづかい」「思いやり」のある、傘を差し出すという行為によって、差し出された女性ももちろん嬉しいだろうし、側で見ている級友たちも嬉しいことでしょう。しかし差し出した当人の「こころ」が一番喜んでいるはずです。
 私たちはすべて本源的大生命の親様から生まれ出た「共通的生命」なのですもの。

 ちょっとした「こころづかい」「思いやり」が、周りの人の「こころ」に、ほのぼのとした光りを灯(とも)すのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

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