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65回目の終戦記念日に

 -今回は難しいことを抜きにして小学生の頃の思い出など。でも最後はやはり…-

 おととしそして昨年と、8月15日の終戦記念日に、それに対しての所感らしきものを述べてきました。1年の行事としては、元旦とともに異例のことです。もちろん私は昭和24年生まれの「戦争を知らない世代」です。しかし普段は格別意識していなくても、「先の戦争」「終戦」「戦後復興」などは、私にも深いところで少なからず影響を及ぼしているということだろうと思います。
 前回までの『終戦記念日に思うこと』『64回目の終戦記念日』の所感とは違って、今回は私が小学生だった頃の思い出をたどってみたいと思います。

 これは当ブログ記事で何度か書いてきたことですが、私が小学生だった昭和30年代前半頃は、まだまだ戦争の影が色濃く残っている時代でした。
 例えば以前の『少年時代のトリックスター』記事の、ある人のコメントへの返信でも述べたことですが、あの頃の郷里の町の夏祭りや秋祭りなどでもそういった光景が見られました。

 我が郷里町の山形県東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)では、「おぐまんさま」と呼ばれている熊野神社の参道にあたる通りが、同町で一番の大通りでした。そこは夏真っ盛りの頃と、文化の日をピークとする晩秋の頃の2回のお祭りが催されていました。お祭りの期間は、その大通りの両側に所狭しとさまざまな出店が立ち並び、近隣近郷からも人が押し寄せけっこう賑やかでした。
 出店も尽きる“おぐまんさま”の大鳥居の前辺りに、決まって毎年白装束の一団が集まっていました。自称「傷痍軍人」たちだということでした。

 なるほど、ある人は戦争で片足をもがれたとばかりに松葉杖をつき、またある人は片腕を失ったと言いたげにそちらの袖は真下に垂れ下がっていました。中には五体満足そうな人もいて、そういう人は肩からアコーディオンを吊り下げて、妙にノスタルジックな何かの調べを奏でて道行く人を立ち止まらせていました。
 戦後10余年経っても、それらの人を受容するメンタリティが、当時の社会にはまだあったのです。ですから白装束の一団はお祭になるとどこからともなく現われて、そうしてたむろしていたのです。その前にはしっかり“募金箱”が置かれていました。

 また大通りにびっしり出店が立ち並んでいる中には、定番の綿菓子店や金魚すくい店などに混じって、「取れたての」万年筆を売る店もありました。その店というのは、真ん中にデンと長方形の木箱が置いてあり、その向こうに男が座っているのです。箱の中には砂がいっぱい敷き詰めてあり、その中にとりどりの万年筆を無造作に砂に突き刺して立ててあるのです。
 人が一定数集まるとその男は『頃合やよし』と、やおらそのうちの一本をぐいと取り出してお客の前にかざしながら、「これは先の戦争での東京の空襲の折り、焼けてしまったあるお屋敷跡から取り出された万年筆だ。そのお屋敷から特別に安く分けていただいたのが、ここにこうしてある万年筆だ。そんじょそこらでは手に入らない、書き味なめらかな万年筆だよ。さあさあ、この機会を逃したら二度と手に入らないよ」てな口上をよどみなくしゃべり出します。

 これなども冷静に考えれば、『てなわけないだろう !』となりそうです。有名な東京大空襲は昭和20年3月10日。当時でも十何年も前の出来事です。それが何で今頃?そしてその立派なお屋敷はまさか万年筆製造工場でもあるまいし、どうしてそんなに“万年筆持ち”だったのかしら?
 しかし実際は、砂に万年筆が突き立ててあるリアルさとうまい口上に乗せられて、そこそこ買っていく人がいたのでしょう。だからこそ当時そんな商売が成り立っていたわけです。私など貧乏小せがれは、お祭でも何十円かしか持たせられません。ですから確かうん百円だったその万年筆を、物欲しげにじっと見ているばかりでした。
 ちなみに「二度と手に入らない」と言っていた万年筆屋は、その後何度も出店しては同じ口上をくり返していました。

 私たち家族が当時お世話になっていた「母子寮」そのものが、今考えてみますと、そもそもは戦争未亡人の救済事業として全国各地に建てられたものと思われます。それが昭和30年代にもなるとさすがに同未亡人はいなくなり、代わって我が家のように病気などで一家の大黒柱を亡くして未亡人となった家庭にも、間口を広げて受け入れてくれたものなのでしょう。
 我が「宮内町立母子寮」がいつ建てられたのか分かりません。ただ昭和30年代前半でも、既に古めかしく感じられる、瓦葺で木造平屋建のおおむね“コの字型”の大きな建物でした。寮の側面を覆う壁は、何枚も重ねて張り合わせられた板壁でした。山形の小さな田舎町とて、あまり寮費にかける予算も取れなかったらしく、濃茶色のペンキはかなり色あせて変色していました。そのことからもずい分前に立てられたものであることは、子供ながらに分かりました。

 今考えますと、同母子寮は戦後間もなく建てられたものでしょう。同寮は以前述べましたように、その社会的使命を終えて昭和50年代に取り壊されました。変化著しい戦後日本の歩みの中で、全国各地の戦争の記憶につながる建造物はこのようにどんどん姿を消していったものと思われます。そして今日では、広島の原爆ドームのような、特別な戦争モニュメントのみがわずかに残されているわけです。
 しかしいつまでも戦争を引きずっていても仕方ありません。ですからそれは、「まっさらな新社会」建設のためにはやむを得ないことだったとも言えます。

 では私たちは、先の戦争で犠牲になられた300万人以上(戦闘員、非戦闘員を含む)の方々に、「見てください。お陰様で私たちは、こんな立派な社会を創ることができました」と胸を張って言えるでしょうか?

 (大場光太郎・記) 

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