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虫の音

  リンリンと虫鳴かしむる真暗闇(まくらやみ)   (拙句)

 もう8月も終わりに近いというのに、相変わらず厳しい残暑が続いています。“残暑”などという生やさしいものではなく、暑さのために(?)少々イカレ気味の我が頭は、『これから本式の夏が始まる』と錯覚させられるような容赦ない暑さです。
 恨めし気に空を見上げてもむしろ抜けるように青く、低い空の一部に申し訳程度の白雲が浮いているばかりです。そのわずかばかりの雲さえも、真夏を思わせるニョキニョキ入道雲なのですから。ただその側に、秋雲の気配のよこすじ雲がうっすらと認められるのが救いといえば救いです。

 例年ならばお盆過ぎには、風も秋の風の趣き、海には逆白波めく土用波も立ち、暑さはだいぶ緩むものです。しかし今年に限っては、その兆しすら見えないようです。これは先刻ご承知のとおり、超強力な太平洋高気圧が炎帝(えんてい)さながら列島全体をすっぽり覆っていて、いつ退却するとも知れず占拠し続けているためです。この炎帝が遣わす無数の熱兵が列島各地に熱風を送り込んでいる按配です。
 過去暑かった年として平成6年(1994年)が上げられますが、今年はその年の暑さの指標を軒並み全国各地で既に抜いているようです。お盆過ぎでダメなら、次はやはり「暑さ寒さも彼岸まで」の9月下旬の秋彼岸までということなのでしょうか。

 そんな具合ですから、この時分になっても昼日なか蝉が盛んに鳴くのは致し方ないところです。本日(27日)日盛り道を歩いていましたら、すぐ近くの木立の方から、ミーン、ミーンとつんざくようなミンミン蝉の声がしきりに聞こえていました。暑さで少々苛つく気持ちをさらに尖らせるようなけたたましい鳴き声です。
 夏の季語として「夜蝉」(よぜみ、よるぜみ)があるように、蝉は夜でも鳴き通しの時期があります。今から半月くらい前まではそうでした。深夜でも外より何度も高い熱帯夜確実の我が家を避けて、深夜涼みで外に出ることがあります。
 近所で木立でもあろうものなら、そこでは昼にも勝る蝉の大合唱だったのです。

 よくは分かりませんが、蝉にはある一定以上の外温を感知すると鳴き出すセンサーのようなものを持っているのでしょうか。連続熱帯夜ですから蝉たちは、深夜12時過ぎでもジージージージー委細構わず鳴いているのです。
 木立に近接した住居の方々は、ただでさえ寝苦しいのにその上蝉の大合唱では、とても安眠どころの話ではないでしょう。

 さすがに最近は夜蝉の声は聞かれなくなりました。日中は思い切り暑くても、夜はだいぶ涼しくなってきましたし、吹く風は秋の夜風といった感がしないでもありません。
 蝉に代わって夕方から聞こえてくるのは、虫の声です。空き地やレンタル農園など、方々の草むらの陰で鳴いています。「虫」は秋の季語ですから、その鳴き音(ね)は季節が確実に秋に向かいつつあることの何よりの告知といえます。

 ところで虫の音(ね)は、西洋人と日本人では聞き方が違うそうです。仔細に記憶しているわけではありませんが、西洋人は右の耳で聞いて左脳に入れている、対して日本人は左の耳で聞いて右脳に入れているというようなことだったかと思います。
 つまり西洋人は、虫の音を単なる雑音としか聞いていないのです。私たちのように虫の音によって秋の寂しさを感受したり、詩的情趣を抱いたり、故郷の追憶に駆られたりということはないわけです。

 日本人の特殊な虫の音の聞き分けにより、古来虫の名歌、虫の名句は数多くあるはずです。また江戸時代の名僧・白隠禅師は、それまでいくら座禅観法しても悟ることが出来なかった。しかしある秋の夜、庭で鳴いている蟋蟀(こおろぎ)の音によって豁然大悟(かつぜんたいご)したというのです。御仏の慈悲が命の深いところで解ったのだそうです。
 我が国でノーベル文学賞を初めて授賞した川端康成の、その授賞講演は『美しい日本の私』というタイトルでした。「雪月花(せつげっか)」それに虫の音。私たちはつくづく「日本人で良かった」と思うべきなのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

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