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『遠野物語』発刊100周年

 -「この書を外国に在る人に呈す」という冒頭の献辞には深く考えさせられる-

 先日の『寒戸の婆』作成の過程で気がついたのですが、『遠野物語』が刊行されてから、今年はちょうど100周年だそうです。

 『遠野物語』は、民俗学者の柳田國男が発表した説話集です。岩手県遠野地方出身の小説家、民話蒐集家だった佐々木鏡石(本名:喜善)によって語られた、遠野盆地、遠野街道にまつわる民話を、柳田が筆記・編纂した初期の代表作です。
 その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪にまつわるもの、マヨイガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらにはオシラサマなど祀られる神様、そして行事など多岐にわたっています。文語体で最初に発表された『遠野物語』本編は119話、後に口語体で発表された『遠野物語拾遺』には299話が収録されています。

 『遠野物語』の初版発行は明治43年(1910年)、わずか350部あまりの自費出版でした。比較的好評で半年ほどで印刷費用を回収できたそうです。ただし200部は柳田が買い取り、知人に寄贈したといいます。
 寄贈した中でも、島崎藤村、田山花袋、泉鏡花らが積極的な書評を書きました。また同物語購読者には芥川龍之介や南方熊楠(みなかた・くまぐす)、言語学者のニコライ・ネフスキーらがいました。特に当時19歳だった芥川は、同書を激賞する旨の書簡を親友に宛てて出しています。
 当時『遠野物語』は、奇異な物語を詩的散文で綴った文学作品として受け入れられていたようです。

 著者の柳田國男(やなぎた・くにお)は、明治8年(1875年)7月31日兵庫県福崎町で、松岡操の六男として生まれました。幼少期から非凡な記憶力を持ち、11歳の時旧家の三木家に預けられ、そこの膨大な蔵書を乱読したそうです。19歳にして第一高等学校に進学しました。
 兄の井上通泰の紹介で森鴎外と親交を持ち、一高時代は『文学界』『国民之友』『帝国文学』などに投稿。明治30年(1897年)には田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版しました。

 しかし柳田家の養子に入った國男は文学を捨て、官界を目指して東京帝国大学に入学。東大では農政学を学び、農商務省のエリート官僚となっていきます。講演旅行などで地方の実情に触れるうちに、次第に民俗的なものへの関心を深めていったようです。また当時欧米で流行していた心霊主義(スピリチュアリズム)の影響を受けました。
 これらが後の『遠野物語』誕生の素地となっていくのです。

 さて『遠野物語』が発刊された、明治43年とはどんな年だったのでしょう。簡単に見てみましょう。
 この年の8月「日韓併合条約」が締結され、以来35年間朝鮮半島は日本の統治下に置かれることになりました。また明治天皇の暗殺を企てたとして、幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)ら数百名の社会主義者、無政府主義者らが逮捕された「大逆事件」が起きたのもこの年です。またこの年の1月23日には、鎌倉の七里ガ浜で逗子開成中学ボート部の13名が強風にあおられ転覆、全員溺死するという事故が起きました。これを悼んで作られた『真白き富士の嶺』(『七里ガ浜の哀歌』)が大流行しました。

 「明治の御代」も終わりにさしかかった明治43年は、明治37年の日露戦争などを経て欧米列強の仲間入りを果たすなど、明治維新以来創り上げてきた「この国のかたち」がだいぶ見えてきた時代だったといえます。
 その頃に柳田國男が『遠野物語』を上梓した意義とはどこにあったのでしょうか。『遠野物語』はその後、民俗学の原典的テキストと位置づけられ、後の民俗学者たちによって幾多の優れた論考が積み重ねられてきました。今さら私ごとき者が大上段に論ずべきものでもありませんし、そんな力量もありません。

 私はここで的を絞って指摘しておきたいと思います。それは「この書を外国に在る人に呈す」という、冒頭の柳田自身の献辞です。
 さて当時どれだけの日本人が、外国に居住していたのでしょうか。日韓併合により渡朝した人々、各国の大使館に勤務する外交官や駐在武官、英仏などへの留学生…。確かに「外国に在る」人々は、当時も少なからずいたのでしょうが、まさか今日ほどでもなかったことでしょう。果たして柳田のこの献辞は、それらの人に向けられたものだったのでしょうか。

 私はむしろ、日米戦争末期から岡本天明師に降ろされた『日月神示』の中の、「顔は日本人でも心は外国人沢山いるぞ」という神示に共通する想いが、柳田の本心としてあったように思われてならないのです。

 これは夏目漱石にも共通しますが、明治政府が強力に推し進めてきた近代化政策に、柳田は大いなる違和感と危うさを感じていたのではないでしょうか。それとともに、日本人としての「アイディンティティ喪失」の危機もひしひしと。
 ですから柳田國男が創始した民俗学もこの書も、「日本とは何か」「日本人とは何か」を問い直す試みだったのであり、同時に欧米式近代化へのアンチテーゼでもあったと思われるのです。

 民俗学で扱う全国各地の民話や伝承は、明治政府が強大な中央集権国家建設のよすがとした、天孫降臨など万世一系の華々しい神話ではあり得ません。むしろ縄文時代から全国各地に脈々と受け継がれできた、庶民たちの血と汗と涙と笑いが結晶化した、伝承であり民話だったのです。
 そこに息づいている、権力側から押し付けられたのではない、「真の庶民史」としての民俗学が興ったことの意義は極めて大きい。その原点としての『遠野物語』の価値は今日でもいささかも揺らいでいない。私はそう考えます。

 (注記)本記事前半は、フリー百科事典『ウィキペディア』を参考にまとめました。

 (大場光太郎・記) 

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コメント

 直前に赤坂憲雄氏の『鎮魂の物語の成立』から、『遠野物語』第九十九話を取り上げた後半部分を転載しました。そこで『遠野物語』について述べた本記事を再掲載することにしました。
 我が国は1990年代のバブル崩壊以降、国民の多くが「アイディンティティ喪失」の危機に瀕している感を深くします。それは若者たちに特に顕著で、例えば我先にと誰も彼もが「茶髪」に走っています。昔はうら若い女性の黒髪は「緑なす黒髪」と表現され、日本女性の象徴の一つだったというのに…。無意識的に「日本人であること」を厭い、避けようとしているかのようなのです。
 それでは私たちは日本人であることを止めて、一体何人(なにじん)になろうというのでしようか。いくら髪の毛を偽装しようが、日本の国土に生を享けた日本人であることからは逃れられないのです。
 「日本とは何か」「日本人とは何か」を問い直すものとして、『遠野物語』は必読書だと思います。

投稿: 時遊人 | 2011年10月 6日 (木) 01時54分

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