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命の輝きを伝えたい

 - NHK『こころの遺伝子』。最終回は、旭山動物園前園長の小菅正夫編 -

 NHK総合『こころの遺伝子-あなたがいたから-』は、先週の15回をもって、ひとまず終了だそうです。当ブログではこれまで同番組から、アンジェラ・アキ編『自分に賭けてみなさい』、西原理恵子編『どん底でこそ笑え』、一青窈編『とんがっているものほど安らぐ』、辻口博啓編『己のルーツに誇りを持て』を取り上げてきました。
 これらのゲストたちが発信してくれたメッセージが、私の「こころの遺伝子」に多少なりとも届いたからこそ、記事にしてきたのです。

 良いテレビ番組というものはえてして、『えっ。もう終わっちゃうの?』というあっけない終わり方をするものです。この番組もまさにその通りで、毎回楽しみに観ていた全国のお茶の間のファンも多かったのではないでしょうか?
 ですからこの番組は(NHKということもあり)、視聴率云々よりも、インパクトの強い「こころの遺伝子ストーリー」を有する各界の功なり名遂げたゲストを探し出し、一つの番組として作り続けることが難しかったのかな?と推察されます。

 しかし、ともすれば日常のマンネリズムに埋没しがちな市井人は、常に異能の人の「波乱万丈物語」を欲するものです。それが私たちの心の遺伝子にダイレクトに響いて、内なる「恐るべきマンネリズム」を打ち破ってくれるほど、感動的で、刺激的なストーリーと強い言葉をー。
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 前置きが少し長くなりました。最終回に相応しいゲストは、最近全国的に有名になった北海道旭川市にある「旭山動物園」前園長の小菅正夫(62)です。

 小菅正夫(こすげ・まさお)は、1948年(昭和23年)札幌市生まれ。子どもの頃から昆虫に興味を抱き、動植物を育てるのが何よりも好きだったといいます。小菅少年はいつしか獣医を夢見て、1969年(昭和44年)北海道大学獣医学部に入学します。
 しかし在学中は柔道に打ち込み、キャプテンも務めました。ところがこれが思わぬ結果となります。柔道の過酷な練習であまりに腕が太くなりすぎ、牛の直腸に腕が入らなくなり体内検診ができなくなったのです。そのため産業獣医師は断念せざるを得なくなりました。

 就職先が決まらず焦っていた1973年(昭和48年)の卒業間近、小菅は新聞広告で旭川市が動物園の動物の獣医を募集しているのを知ります。元々動物好きな彼は、その広告に吸い寄せられ『これがオレの仕事だ !』と直感します。こうして小菅は、旭山動物園へ就職することになったのです。
 
 当時の旭山動物園は開園6年目で、東京の上野動物園の十分の一の規模のパッとしない地方の動物園に過ぎませんでした。
 就職して小菅が真先に取り組んだのは、ホッキョクグマの繁殖でした。その結果翌年、日本で初めてのホッキョクグマの繁殖に成功したのです。これを契機に小菅は、絶滅が心配される動物を守り、次の世代に命をつなぐのが自分の仕事だと意欲を燃やします。雪に閉ざされて休園する冬場、飼育方法や繁殖技術を学ぶため、全国の動物園を回るようになりました。

 その結果小菅が痛感したことは、旭山動物園と他の動物園とのあまりの格差でした。例えば当時は、日中国交回復に沸く中国から上野動物園にパンダの“ランラン”が寄贈され、大人気になっていました。そんな上野動物園はもとより他の動物園と比べても、規模や施設の施設面など大違いであることに、小菅は愕然とさせられたのです。

 そんな折り、先輩の勧めで立ち寄った北九州市の「到津(いたるづ)遊園」で無礼な印象を強く持った人物と出会います。小菅正夫にとって「運命の人」となる岩野俊郎(62)でした。
 翌年小菅は飼育技術研究会という場で、岩野と偶然にも再会します。その席で突然立ち上がり、自らの失敗談を話す岩野俊郎の姿に、小菅は好感を覚えたのです。改めて話してみると、岩野も1948年生まれの同じ年、2人はすっかり意気投合し、以後生涯にわたる親交を深めていくことになります。

 それのみか、北と南で「命の輝きを伝え」合い、互いが動物園界に革命を起こすことになったのです。  (以下「続」につづく)

 (大場光太郎・記)

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