天の川と水車
川崎 展宏
天の川水車は水をあげてこぼす
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《私の鑑賞ノート》
川崎展宏(かわさき・てんこう) 昭和2年広島県呉市生まれ。本名のぷひろ。東京大学国文科卒。加藤秋邨に師事。現在「春雷」同人。森澄雄に兄事し、「杉」の創刊に参加。桜井博道・中拓夫・八木荘一と「杉」初期の編集に従事。昭和55年、「貂」を創刊。代表として今日に至る。句集『蔦の葉』『義仲』『観音』『夏』(平成2年度読売文学賞)。ほかに『高浜虚子』『虚子から虚子へ』『四季の詞』『続・四季の詞』など。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)
とある村外れの田中の小川。夜空には満天に散りばめられた天の川。その中で一台の水車がゆっくり回って水をくみ上げ、こぼしているというのです。水車の隣には製粉のための小屋があるのだろうか。それともただ田んぼに水を吸い上げているだけなのだろうか。
飛び散る水玉。ギーコ、ギーコと回る水車の音、ザザーッとこぼれる水の音さえ聞こえてきそうです。一読背景が鮮やかに見えてくる視覚的、聴覚的な句です。
昭和48年刊句集『蔦の葉』収録の一句です。シューベルトの歌曲『美しき水車小屋の娘』や唱歌『森の水車』などでおなじみ、何となく詩的なイメージのあるのが水車です。ただ雪深い東北では用いられなかったのか、私が育った山形では昭和30年代でも見かけることはありませんでした。
また残念なことに、かつては用いていた地方でもどんどん撤去してしまって、今は影も形もないというケースも多いことでしょう。
この句を味わう時忘れてならないのは、時代物の水車があるくらいですから、かなり過疎的な村だろうということです。あっても田畦道の何十メートルおきに一本の細い電柱、そして電柱の中途にほの暗く灯る汚れたカサの下の裸電球。辺りはほとんど漆黒の闇といっていいほどなのでしょう。
夜空一面見えすぎるほどの星が煌いているはずです。不夜城的に皓々(こうこう)とした夜間照明で、星々はかき消されよく見えないというのではないのです。まことの「星読み」「月読み」は、漆黒の闇の中で仰ぎ見て行うべきもの。今日では到底不可能、したがって星の名句、月の名句も生まれにくい状況です。
夜空には満天の天の川、地上では水車の大回転。実に絵画的です。天の川は古代中国の「銀河」「銀漢」以来、東アジアでは水の流れる川になぞらえられています。
天の川には実は「天水」(てんすい)が流れているのであり、水車が水をあげるごとにその天水と触れ合い交じり合って、下にこぼれる時には今までの水の成分とは違った水となって流下する。この句の水車は、地の水に天の成分を加えるための装置であるように思われてきます。
いっときなりとも心にそのような異化作用をもたらすものこそ、夜そして「天の川」です。白日の下(もと)の水車では(別の情趣があるとしても)、とてもそうはいきません。
(大場光太郎・記)
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コメント
長き夜の北斗天水汲む象(かたち)
これはだいぶ以前の私の句です。秋の夜更けに、北斗七星の柄杓(ひしゃく)がちょうど真下に来ていて、さながら天の川の水を汲んでいるようだ、という意味の句です。ただしこの句はイメージだけで作った句なので、秋の夜更けに本当に北斗がそういう位置になるのかどうかは分かりません。
その時川崎展宏のこの句を知っていたわけではありませんが、句意として何となく共通性があるように思われます。
いずれにせよ、中秋の今頃は夜空を見上げて月や星々にロマンを馳せるには格好の季節です。ちなみに今年の「十五夜」は今月の30日です。
投稿: 時遊人 | 2012年9月26日 (水) 14時12分