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狂王の城

 -独逸で日本人観光客が事故。ノイシュバンシュタイン城やルートヴィヒ2世のこと-

 「ロマンティック街道」とはいかにも、人の心をかの地の旅情へと誘(いざな)うロマンチックな名称です。本格的に海外旅行がブームになった20、30年前から、我が国でも人気の海外の観光スポットの一つでした。

 ロマンテック街道は、ドイツのヴュルツブルクからフュッセンまでの366kmの街道ルートです。同街道沿いには中世都市、美しい城、宗教建築、工芸品などが点在し、フランケン・ワインやドナウ川の鱒(ます)料理など観光資源が豊富なルートで、ドイツで150以上ある「観光街道」の中でも最も人気の高い街道の一つです。
 「ロマンテック街道」という名称は、元々は「ローマへの巡礼の道」を意味していたようです。そもそもは古代ローマ人によって造られた街道で、「すべての道はローマに通ず」式にローマへの道路網の一環として整備されたもののようです。
 それが第二次大戦後乗り込んできたアメリカの将兵たちが、観光地として開発するために、この名称でコースが設定されたものだそうです。なお現在の「ロマンチック」という意味で初めて使用したのは、思想家ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の『孤独な散歩者の夢想』の「第五の散歩」が最初とのことです。

 今回日本人観光客が事故に遭ったのは、ドイツ南部のバイエルン州フュッセンにあり、ロマンテック街道の終点で、ドイツで最も人気のある観光名所「ノイシュバンシュタイン城」の麓(ふもと)でした。日本時間14日、同城での見学後、バスを待っていた日本人観光客に小型のシャトルバスが突っ込み、バスと石壁の間に挟まれて5人が負傷、うち長野県の男性添乗員(57)と兵庫県の女性(50)が重体とのことです。
 日本時間15日夜、事故を担当するドイツの地元警察が、「2人は集中治療室にいて、危険な状態にあります」と語っています。同警察は現在、業務上過失傷害の疑いでバスを運転していた68歳の男性から事情を聴いているもようです。

 バス運転手は居眠り状態だったのか、あるいは一時的な前方不注意状態だったのか。同エリアでこのような事故は今回が初めてだそうです。とにかくロマンテック街道という名にふさわしからぬ事故が起きてしまいました。
 事故に遭われた方々の一日も早い回復と帰国を願わずにはおられません。

 ところで事故の背景となったノイシュバンシュタイン城は、数多(あまた)あるヨーロッパの城の中でも名城として有名です。バイエルン王のルートヴッヒ2世(1845年8月25日~1886年6月13日)によって造られた城です。
 ルートヴッヒ2世は、ヴェルサイユ宮殿などを目にして「私自身の作品」として、自身の中世への憧れを具現化するロマンチックな城を造ろうと決意したのです。同王は王太子時代、余暇をゲルマン神話や騎士道伝説などの物語を読んで過ごし、そこから大きな影響を受けていたのです。

 そのような経緯もあって、城全体のグランドデザインを行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家でした。そのためドイツの城館に本来は必ずあるべき小聖堂や墓地がこの城にはなく、玉座も後回しで“ヴィーナスの洞窟”と名づけられた人口の洞窟を造るといった具合で、ルートヴッヒ王の趣味のためだけに建設された実用には不向きな城でした。
 この城は1869年9月5日に建設が開始され、1886年には何とか居住できる程度には出来上がりました。これ以降ルートヴッヒ2世は首都・ミュンヘンには戻らず、この城に住まうことになりますが、その期間はわずかに102日間だけで、王はベルク城に軟禁されてしまうのです。

 ルートヴッヒ2世は「築城マニア」と言ってもよく、この城のほかにも、リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城の建設をはじめ、さらにはノイシュバンシュタイン城よりも高い岩山の上にさらに壮大なファルケンシュタイン城の建設や、オリエント風宮殿を建設する計画を立てていました。
 これらの建設費用はほぼ王室費から支出され、バイエルン政府の国庫とは別会計ではあったものの、王室公債を乱発し借金を積み重ねることになりました。
 1866年勃発したプロイセン・オーストリア戦争では、敗戦国オーストリアに味方したバイエルンはプロイセンへの戦後賠償を抱え込みました。これに危機感を抱いたバイエルン政府は、ルートヴッヒ王を形ばかりの精神鑑定にかけ、統治不能の禁治産者としてベルク城に軟禁したのです。

 そしてその翌日、同王は主治医とシュタルベルク湖畔を散歩中謎の死を遂げ、医師とともに水死体で発見されたのです。
 生前ルートヴッヒ2世は、「私が死んだらノイシュバンシュタイン城は破壊せよ」と言い残していました。それは同王が城を「自分の世界」にとどめたかったからだと見られています。しかし摂政だったルイトボルトも地元の住民たちも城を壊さずそのまま残し、現在では観光施設を兼ねた文化財として活用されることになったのです。

 「狂王」と言われたルートヴッヒ2世、そのミステリアスな死、意に反して遺されたノイシュバンシュタイン城、山頂に聳え立つ同城の優美な姿、城を取り囲むバイエルン・フュッセン地方の広大で豊かな自然…。
 ますます募る歴史ロマンに、私もいつかロマンテック街道を歩き、同城を訪れてみたくなりました。

 (注記)本記事は、フリー百科事典『ウィキペディア』などを参考にまとめました。

 (大場光太郎・記)

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