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“生け贄”を求める病的社会

 -今回は、一連の小沢問題を別の観点から考えてみました-

 小沢一郎民主党元代表をめぐる一連の「政治とカネ」問題では、一部の心ある有識者から、「まるで魔女狩りだ」「これでは人民裁判と一緒だ」というコメントが寄せられています。「魔女狩り」は中世キリスト教会による、優れた霊的能力を有する“男女”数万人を、教会存続上不都合なため処刑したことを指しています。また「人民裁判」は、社会主義国家において職業裁判官とともに人民の中から選ばれた代表が同資格で行うもので、転じて集団の圧力による特定者への吊し上げの意味で用いられます。

 私はそれに加えて以前から、『これじゃあまるで“貝殻追放”だよな』と思っていたのです。これは古代ギリシャのアテナイにおいて、僭主登場を防止する目的で行われた暴政者追放手段のことです。当初は貝殻に追放したい者の名前を書いていました。後に陶片に書くことになったため、一般的には「陶片追放」として知られています。
 この制度の何が問題かと言いますと、当初はうまく機能していたものの、やがてとにかく気に食わない政治的実力者を書きなぐり追放しようとしたため、アテナイ衰退の要因の一つになっていったことです。
 こういった事例が引き合いに出されるほど、報道するマスコミも、それを受けて「小沢氏は議員辞職すべきだ」とする国民大衆もとにかく“異常”です。

 近年もっと言えばバブル崩壊後の「失われた20年」は、それまでの右肩上がりの経済成長がウソのように深刻かつ慢性的な不況から脱け出せないでいます。この間“格差”は日本の隅々にまで広がり、かつての「1億総中流意識」は大きく崩れ、中間層は空洞化し、ごく一部の富裕層と大多数の貧困層とにくっきりと別れつつあります。
 そんな中近年特に、社会全般の風潮として社会的地位の高い誰かの失脚を喜ぶ傾向が顕著に表れていないでしょうか?2001年の雪印牛肉偽装事件以来、食品偽装問題などの不祥事では、そのつど該当の一部大企業や経営陣がやり玉に挙げられてきました。テレビ等のマスコミは、その一部始終を報道し続けるわけです。

 そこでは、ただ単に毎度おなじみの経営陣が一斉に頭を下げて済むようなものではなくなっています。経営陣の退陣や当該工場の閉鎖、企業の倒産という事態を見届けるまでは収まらなくなってきているのです。実際私たちは、ここ10年くらいでそのようなケースをずい分目にしてきました。
 社会の隅々まで鬱屈した感情を溜め込んでいる今の世の中は、「スケープゴート」「生け贄」を必要としているのではないでしょうか?マスコミも、国民大衆のそういう“潜在的ニーズ”を十分承知していて、絶えず次なる「獲物」を探し回っている気配さえ感じられるのです。

 それからすると「小沢一郎」は、マスコミ、国民大衆のまたとない格好の標的であるようです。小沢一郎は紛れもなく政界きっての実力者です。うなるほどカネも持っていそうです。ご面相もいかにも強面(こわもて)です。古代ローマのコロシアムに引きずり出される獲物として、これ以上の素材はまたとないはずです。
 その上マスコミにとっては、当ブログで繰り返し述べてきましたとおり、小沢一郎に政治的実権を握られてしまうと、霞ヶ関官僚同様自分たちの既得権益が根こそぎにされてしまう恐怖観念も彼らにはあります。

 今年初以来の小沢氏資金管理団体「陸山会」の世田谷土地購入問題については、テレビで同土地の画像とともに、小沢氏名義で所有している都内各所のマンションの画像もしつこいくらい流されました。また04年の同土地購入にあたっては、当時小沢氏が4億円の自己資金で支払ったとも報じられました。
 マスコミの「小沢潰し」の狙いはズバリ的中と言うべきで、こういうことが特に100円、10円の使い道にも神経過敏な主婦層を中心とする一般国民には、「小沢一郎嫌悪」「嫌小沢」を決定的なものにしたと思われるのです。

 とにかく一般市民にとって何億円ものカネを現金で所有しており、それを右から左に動かせることがまず我慢ならないのです。そして小澤一郎名義で問題の世田谷区深沢の土地を、のみならず都内各所にマンションを所有しているに至っては言語道断の許されないことなのです。小沢一郎は旧態依然たる「金権政治家」といち早くレッテルを貼り、とことん処罰することをヒステリックに願うようになるのです。
 例えば世田谷区の土地は、政治家の卵たちを育成するための寮建設が目的だったこと、都内各マンションも小沢個人の財産目当てではなく何らかの政治的目的があってのことだったことなどは、マスコミは周到に伏せて報道しようとはしないのです。

 小沢問題だけではありません。例えばどこかで誰かが子供を殺した、逆に子が親を殺した、小中学生が自殺した、若者が路上で通り魔的に殺された、誰かが殺されて山中に遺棄された…。こういうニュースがテレビで連日これでもか、これでもかと流されます。
 流しているテレビはご存知「視聴率至上主義」です。視聴者のニーズがあり視聴率が取れるからこそ、そういうニュースを繰り返し流し続けるのです。
 そのようなニュース画面の先には、「他人の不幸は密の味」とばかりに食い入るように画面に見入っている、多くの国民視聴者の存在があるわけです。こういう心理は完全に狂っており歪んでいます。波動の低い“アストラル界”的な病的状態と言うべきです。

 今年に入ってからの「小沢氏は議員辞職すべきだ…70%以上」という呆れた世論調査の数字には、当ブログでもたびたび指摘してきましたとおり、マスコミの誘導ということが第一にあります。しかし国民の側にも、小沢一郎という格好の「生け贄」を得て政治生命が絶たれるまでしっかり見てやろうと舌なめずりしている、倒錯した病的心理があるのではないだろうか?そんなことをふと考える今日この頃です。

 (大場光太郎・記)

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コメント

平日朝のTBSラジオ番組「森本毅郎スタンバイ」の意見聴取では逆に「辞める必要がない」が7割を占めました。ラジオ番組の多くやネットでは客観的に事実関係のみを報道しているので、これに近い数字が出ています。
錯乱・氾濫している情報を取捨選択する能力を如何に培うか、我々の個人責任を問われる時代になったこと自覚すべきですネ。

投稿: KAD | 2010年10月10日 (日) 10時56分

 おっしゃるとおりだと思います。上が「自己責任」を言う時は、上の責任回避がそこに含まれていますから要注意ですが、それとは別に時代潮流は各人個々の「真の自立」を強く求めています。

投稿: 時遊人 | 2010年10月10日 (日) 13時31分

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