林檎の秋
ヨルゲンセン
秋の色あざやかな花々が
庭という庭に燃え
秋たけた野づらでは
最後の穂もすでに乾いている
家は家にぴっちりと並んで立ち
みんな ly で終る名前をもっている
私は立ちどまって通りすがりの人に聞く
「これは何という町ですか?」
小さい娘が乳母車に人形をのせて
傍(かたわ)らを通りすぎる
娘は挨拶してうなづいてお辞儀をする
ー 私のいるのは礼節ある教区なのだ
車のわきで男の子が叫ぶほかは
すべてが平和だ
一人の老人が庭に立って
林檎をもいでいる
私は北に南に旅し
西に東にさすらった
だが、私の林檎園はどこにあるのだろう
どこに私の林檎の秋は?
1942年10月
(山室 静訳)
…… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
ヨハンネス・ヨルゲンセン 1866年~1956年。デンマークの詩人。聖フランチェスコを慕ってアッシジ(イタリア)に巡礼し、自身もプロテスタントからカトリックに改宗。西洋一のカトリック詩人と評された。『ヨルゲンセン詩集』のほか、評伝『アッシジの聖フランシスコ』などの名著がある。
『世界青春詩集』に収録されている詩です。一読すがすがしい感にうたれる詩で、20代前半当時くり返し読み返した詩の一つです。
秋も深まりゆく10月、ヨルゲンセンはとある町を通り過ぎたのです。町に入る手前の野原から町の中へ、そしてふたたび反対側の野へ。その道中で見て感じた印象的な場面を、詩人は簡明に描き出しています。
2聯目の通りすがりの人への「何という町ですか?」という問いの答えとして、詩人は小さな娘が挨拶とお辞儀をしながら通り過ぎるのを見て、次の聯で『ここは“礼節ある教区”なのだ』と納得し自答します。
今でもヨーロッパ各地方には、町の人皆の信仰が篤く「“礼節ある教区”の町」があるのかもしれない、とそう信じたくなります。
我が国でも各地方の田舎町では、今でも都会人がとうに忘れ去った純朴な“人情”に触れ合え、思わずほっとすることがありますから。
略歴によるとこの詩は、ヨルゲンセン76歳の時の作品ということになります。そんな高齢に関わらず、何というみずみずしい感性の詩なのだろうと驚かされます。今回その略歴を調べて初めて知ったことですが、彼の聖フランチェスコへの傾倒はひとかたならぬものがあったようです。それこそが詩人にとって、若々しい詩想の源泉であったのかもしれません。
ところでこの詩には、珍しいことに末尾に「1942年10月」という日付が入っています。これも詩人の重要なメッセージと捉えるべきです。1942年といえば、1939年9月1日のヒットラーのナチスドイツによるポーランド侵攻を端緒として、既に第二次世界大戦は全ヨーロッパに拡大していた時代です。
そんなただ中で「すべてが平和な町」。分けても一人の老人が庭で林檎(りんご)をもいでいる寸景などは。
子供の頃を山形の郷里で過ごし、近くにいくつもの林檎園があった私の記憶からも、林檎から「平和」を連想するのはうなずけるところです。
真っ赤に熟した林檎からは実りの「安らぎ」を与えられこそすれ、「怒り」や「戦いの心」などが呼び起こされることはまずあり得ませんから。
林檎そして林檎園があるからには、ここはやはり寒冷な北欧の町なのでしょう。この時代はヨーロッパ全体が隈なくどす黒い戦火に覆われていたと思いがちですが、このような平和な町もあったわけです。
いやヨルゲンセンは、現にヨーロッパ中を席捲している「戦争」の対極にある「平和」を、このような町に仮託した「祈りの詩」として結晶化させたかったのかもしれません。
ただ知識人としてまた信仰者として、「戦争」のことが絶えずこびりついて離れない詩人は、「私の林檎園はどこにあるのだろう」「どこに私の林檎の秋は?」と自問しながら、なおも「人生巡礼の旅」を続けるのです。
(大場光太郎・記)
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コメント
まだ一度も行ったことがない、私にとって遥か彼方の北欧なのに。その風土には心惹かれます。ずい分昔高校時代読んだ何かの北欧の小説、それと20歳の頃に読んだこの詩の影響なのでしょうか。
林檎がたわわに実った北欧の秋の野と街並み。家々は、近年の日本の街のように、新建材で建てられたケバケバしさではなく、シックで落ち着いた、歴史と風情のある、景観にマッチした石造りの家のたたずまいなのでしょう。
投稿: 時遊人 | 2012年11月13日 (火) 05時55分