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続・星落秋風五丈原

 土井晩翠(どい・ばんすい) 詩人、英文学者。本名:林吉。本来の姓は「つちい」だったが、「どい」と呼ばれることが多かったため、1932年(昭和7年)「どい」に改姓。
 1871年(明治4年)仙台で質屋を家業とする土井家の長男として生まれる。小学校在学時から『新体詩抄』『十八史略』などを愛読。東京帝国大学英文科に進学。東大時代「帝国文学」を編集し詩を発表、1898年カーライルの『英雄伝』を翻訳、出版する。
 1899年第1詩集『天地有情』を刊行。この詩集で島崎藤村と並び称される代表的詩人となる。続いて詩集『暁鐘』『東海遊子吟』などを刊行後、大正期は英文学者として活躍。1924年(大正13年)には、バイロン没後100周年を期して『チャイルド・ハロルドの巡礼』を翻訳刊行。1952年(昭和27年)没。  (フリー百科事典『ウィキペディア』より)

《私の鑑賞ノート》
 『星落秋風五丈原』は詩集『天地有情』に収められています。同詩集の棹尾(とうび)を飾るのが、滝廉太郎作曲で後に日本を代表する愛唱歌の一つとなる『荒城の月』です。
 この詩は冒頭で蜀の丞相(じょうしょう-総理大臣)諸葛亮が、蜀軍の陣営のある五丈原で陣没せんとする蜀軍の沈痛悲愁のさまを詠います。以後諸葛亮の生涯の主な事跡を詠い、最後に今まさに息を引き取ろうとする不世出の丞相を讃え上げる構成となっています。

 土井晩翠の同詩は、『三国志』や中国史に通暁し、漢学の素養の高さが遺憾なく発揮された名詩と言うべきです。諸葛亮の生涯を荘重典雅な文語調で格調高く描き出しています。
 これだけ見事で完璧に諸葛亮を描き切った詩は、おそらく本場中国でもかつてなかったはずです。漢学の精華のようなこの詩から、江戸時代に溯る武士階級を主とした我が国の漢学の浸透、レベルの高さが推し測られます。
 戦前この詩が与えた影響は大きく、昭和初期の5・15事件や2・26事件の際青年将校らによって歌われた『青年日本の歌(昭和維新の歌)』などは、歌詞からもこの詩の影響が顕著です。

 諸葛亮(「孔明」は字-あざな)については、一昨年の『レッドクリフ&三国志(3)-孔明登場』以後でも触れました。魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備という三国鼎立の立案者が諸葛亮なのです。特に蜀の建国は、諸葛亮がいなければ実現不可能だったといっても過言ではありません。

 そもそも「三顧の礼」を尽くして、「南陽の旧草蘆(きゅうそうろ)」を訪ねた劉備玄徳に、孔明は「天下三分の計」の大計画を披露し劉備の度肝を抜きます。この時諸葛孔明は弱冠27歳の白面の青年でした。
 草蘆に隠棲していてさえ、「隆中に臥龍(がりょう)あり」との名声は天下に知られていました。そして孔明自身は、自分を常々春秋戦国時代の名宰相の管仲や楽毅になぞらえていたのです。漢室の流れを汲む劉備の「臥龍先生。塗炭に苦しむ民百姓救済のためにどうぞお力をお貸しください」との懇願に心動かされ、諸葛亮はついに出蘆(しゅっろ)を決意します。

 諸葛亮は確かに軍略家の側面もありますが、その本領は名政治家たるところにありました。三国一の弱小国・蜀の経営の隅々まで目が行き届き、優れた手腕を発揮したのが諸葛亮です。ずっと後世にまとめられた『三国志演義』の神出鬼没の天才軍師・諸葛孔明は、明らかに虚像です。赤壁大戦(208年)直前の「七星壇に東南(たつみ)の風を祈る」や、後の北伐の際魏軍に包囲されながら「空城の計」で難を逃れたというのは、後世の創作なのです。
 しかし諸葛亮には、天才軍師として伝説化したくなるような要素を持っていたことも事実です。その元となるのは、有り余る雄略の大才のほかに、謀略や下克上が当たり前の中国史上比類なき「忠烈無比の人」だったことが、後世の人々の心を強くとらえたのだろうと思われます。

 223年劉備は、(荊州の牧だった関羽の弔い合戦の)呉との「夷陵の戦い」に大敗し白帝城で死病を得ます。成都から諸葛亮を呼び、「君は曹丕(曹操の長子・魏の初代皇帝)の才に十倍する。わが子劉禅がまともな君主の器ならこれを補佐していただきたい。しかし禅にその器量なくば、君が皇帝になって蜀の民を安んじていただきたい」と遺言します。
 以後「君王のいまはの御こと畏みて」、暗愚の君主劉禅を陰に陽に必死で補佐し続けるのです。

 同年劉禅が皇帝になるや、諸葛亮は蜀の政治のすべてを任されます。関羽の死でこじれた呉との関係を修復し、南征して南方を平定します。後顧の憂いをなくしておいて、諸葛亮のその後のライフワークとなる、魏に対する「北伐(ほくばつ)」に着手するのです。
 最弱小国の蜀は、常に魏の大軍に攻め込まれる危険性があり、それを防ぐには「攻撃こそ最大の防御」で、蜀側から魏に戦いを仕掛けるしかなかったのです。また先王の「漢室による再統一」の遺志の実現ということもありました。

 227年準備を終えた諸葛亮は、いよいよ北伐を決行します。それにあたって上奏した『出師表』(すいしのひょう)は古来名文の誉れ高く、私も高校3年時漢文で習いました。その中の「危急存亡の秋(とき)」は、成句として今日の我が国でも使われます。
 魏という大国相手に「北伐」の趨勢は一進一退、なかなか雌雄を決することができません。有名な「街亭の戦い」では馬謖(ばしょく)を重用し、これが裏目に出て蜀軍は一時壊滅的打撃をこうむります。この時の「泣いて馬謖を斬る」も有名な故事となりました。

 結局北伐は、諸葛亮が五丈原(ごじょうげん)で陣没する234年(旧暦)8月まで「第五次」に渡って続けられました。途中から魏軍の総指揮官が司馬懿仲達(しばい・ちゅうたつ)に替わり、第四次で手痛い敗北を喫した司馬懿は、以後徹底した専守防衛策に転じ、両軍のにらみ合いは持久戦の様相を呈してきます。
 自分の余命いくばくもないことを悟った諸葛亮は、しびれを切らし「お互い武将なら堂々と雌雄を決しようではないか」と、司馬懿に女物の衣装を贈って挑発します。それでも司馬懿は動こうとしません。諸葛亮の病状を把握していたのです。

 こうして同年秋(旧暦)8月23日、不世出の丞相諸葛亮は五丈原にて53歳の生涯を終えたのです。まさに「巨星落つ」です。
 なお「五丈原」は、諸葛亮終焉の地として以後有名な史蹟となります。現在の陜西省宝鶏市付近にあります。高さ20mの高台に位置し、北に渭水(いすい)が望めます。丘の上には孔明を祀った諸葛廟があり、廟堂や衣装塚を見ることができ、「三国志ブーム」の日本からの観光客の来訪も多いようです。 

 遺言により、魏軍はもとより自らの全軍にもその死を公にせず、蜀軍は成都に向けて速やかな撤退を開始します。諸葛亮の死を察した魏軍は追撃を開始しますが、見事に統制の取れた撤兵の前に為すすべなく追撃を断念します。そのため後に「死せる孔明生ける仲達を走らす」という故事が生まれました。

 諸葛亮亡き後北伐は中止され、成都では劉禅の暗愚をいい事に、宦官(去勢された男子役人)が専横を極め蜀政は腐敗、堕落の一途をたどります。それでも諸葛亮善政の余徳により、蜀はその死後29年間余命を保ち、263年魏の実権を掌握した司馬懿の子の司馬昭の軍(鍾会、鄧艾)によって滅亡します。
 司馬昭の子の司馬炎(武帝)は、魏から禅譲の形で帝位を奪い、265年「西晋」を建国。司馬炎は280年呉も滅ぼし、三国時代は終わりを告げたのです。

 (大場光太郎・記)

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コメント

 昨年のちょうど今頃公開した記事ですが、今回再掲載しました。この記事へのアクセス多くはないものの、公開後コンスタントに訪問があります。加えて最近少し増えてきているようです。
 本文でも述べましたとおり、諸葛亮が五丈原で陣没したのは(西暦234年)旧暦8月23日のことでした。中国の旧暦は我が国のそれと同じではないかもしれませんが、いずれにしても現在の暦の10月だったことは間違いないようです。
 仲秋から晩秋に向かい寒さが増し加わる候。そういう季節での陣没だったことによって『星落秋風五丈原』の悲壮調がより一層際立ってくるようです。また「五丈原」という地名も、雄略の大才の最期の地として「詩」になる地名だったように思われます。

投稿: 時遊人 | 2011年10月28日 (金) 01時24分

 すっかり忘れていましたが、昨年の10月28日にも再掲載したんですね。その時の私自身のコメントで気がつきました。本文、同コメントにつけ加えることはあまりありません。
 ただ今月『杜甫「登岳陽楼』を公開しましたので、杜甫の諸葛亮への傾倒について少し。杜甫は、若い頃は理想社会の出現を夢み、自身も仕官してそういう社会の建設のために働きたいという思いの強い人でした。その頃から、理想的政治家像として諸葛亮を尊敬していたようです。
 後の漂泊人生で杜甫はその昔諸葛亮が治めた蜀に数年ほどいました。その間、各地の諸葛亮を祀った廟や「七陣の図」など諸葛亮ゆかりの地を訪れては詩を詠んでいます。すべて杜甫の諸葛亮への思慕のなせる業と言えると思います。

投稿: 時遊人 | 2012年10月31日 (水) 09時40分

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