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夜霧、川霧

  誰も皆傷負いて行く夜霧街   (拙句)

 俳句の世界で「霧」は秋の季語です。それからすれば「夜霧」は、秋の夜に発生する気象現象ということになります。

 今から6年ほど前の10月末頃のことだったでしょうか。深夜の11時を回った頃合、本厚木方向からの帰りで、一昨年『中津川寸描』シリーズでたびたび描いてきた中津川の堤防沿いの道を車で走っていました。その道の途中まで差し掛かると、それ以降の上流側でにわかに夜霧が立ち籠めていることに気がついたのです。
 それも普段見ることのできないような本格的な濃霧です。川の方から、ともすると道にまで霧がどんどん押し寄せてくるのです。

 それ以前もその後も、たびたびほぼ同時刻にその道を通りましたが、こんなに濃い霧が立ち籠めていたのはあの時かぎりです。それで私は深夜にも関わらず、日中いつも中津川を訪れる時に降り立つ時の、いつもの路肩に車を停めて、その様子をしばらく見てみることにしました。

 夜霧は叙情的背景の一つの素材として、昔から歌謡曲にもよく歌われてきました。しかし気象現象というものは気紛れなもので、歌のように夜霧の立ち籠める街を歩いてみたいと思っても、いざ実際に夜霧を見ることはあまりないものです。
 ところがその夜ばかりは違っていました。古いコンクリート堤防を中段まで降りて、そのまま上流の方へと歩いてみるに、まさに「これぞ夜霧」というような濃霧のさまが川一面に広がっていたのです。

 この地点は『中津川寸描』シリーズでも触れましたように、あと1キロメートル弱下流に下れば相模川と合流しようかという地点です。そのくらいですから、こちら岸から向こう岸までゆうに百メートル弱くらいの川幅があるでしょうか。
 その広い川幅いっぱいに、低くうごめくように一面に霧が立ち籠めているのです。そしてともすると霧は堤防を伝って、道路の方へ流れようとし、現に流れ続けています。

 ここは川なのですから、この霧は「川霧」と言うべきなのでしょう。そして深夜なのですから「夜川霧」。
 川霧というものがどうして発生するのか、その詳しいメカニズムは知りませんが、川の水温と川面(かわも)に接する空中の水蒸気の温度とがある特定の親和状態に至った時、あのような濛々(もうもう)とした見事な川霧が発生するものなのでしょうか。
 その深夜かくも見事な夜川霧を目撃出来たということは、その夜はその条件にたまたま適(かな)った夜だったということなのだろうと思われます。

 中津川に来た際、いつも腰を下ろし川の様子を眺める地点からおよそ百メートル上流に、立派な橋が架けられています。橋には当然一定間隔で街灯があり、高い天辺につけられた灯りが、川の周辺を明るく照らし出しています。
 その夜、街灯の灯りに映し出された川の様子はまた格別でした。川面から霧が絶えず生まれ、立ちのぼり、そして川岸の方へと流れていく。川霧の生成のさまがよく分かるのです。
 それはおよそ世の常ならぬ、神秘的、幻想的な光景でした。

 この年の4月2日母が亡くなりました。長年共に暮らしてきた母でした。およそ7年くらい寝たきりで、その6年半を自宅介護していましたから、母がいつ逝っても仕方ないと覚悟は決めていたはずでした。
 しかしいざ実際に“永訣の別れ”となってしまうと、やはり想定外に心は深く痛むものです。ですから今振り返ってみますと、母の死後1年くらいはかなりおかしな精神状態だったように思います。

 その年の夏時分には暑さもあってなかなか寝付けず、その時分の夜更けに中津川にやってきては、その時川霧を眺めた橋のすぐ下流辺りの川に降り立ち、一人ぼんやり水の流れをいつまでも見ていたりしました。
 市内を巡回しているパトカーのお巡りさんが、『あの者はひっとして川に飛び込むんじゃないのか』と心配してか、橋の上から私の方を覗き込むことが2、3度ありました。もちろん私の辞書には「自殺」という文字はありませんが。

 今となってはよく覚えていませんが、この類い稀なる「夜川霧ショー」を見ていた時も、たぶん亡母のことが思い浮かんでいたのだろうと思います。
 いっこうにうだつが上がらず、世間的にはどこの馬の骨。親類縁者からも見離される中、ただ一人母だけは倒れるまで、そんな不肖の息子を信じていてくれました。
 親に心配かけどおしのバカ息子で、積年の母の労苦に何一つ報いることが出来なかった、親不孝な己の何というふがいなさよ…、などと思っていたことでしょう。

 (大場光太郎・記)

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