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昭和の偉大な作詞家逝く

 -星野哲郎氏は高度経済成長以降の日本人を励ます“援歌”を世に送り続けた-

 思わず「偉大な昭和人がまた一人いなくなったか」と言いたくなるような訃報に接しました。15日星野哲郎氏が逝去したのです。享年85歳。天寿まっとう、大往生なのかもしれません。
 しかし今後はもう二度と「星野哲郎作詞」という新しい歌が聴けなくなるのかと思うと、私など子供の頃から星野氏の作った歌が耳になじんできた世代からすると、何とも寂しさを感じます。

 私がそう思うのも無理はありません。都はるみの『アンコ椿は恋の花』、水前寺清子の『三百六十五歩のマーチ』、北島三郎の『函館の女(ひと)』など星野哲郎作品は、私が中学生から高校生にかけての大ヒット曲だったのですから。
 当時の世の中は、池田勇人内閣の「所得倍増」のスローガンのもと、我が国が農業国から脱して高度経済成長を本格的に始動させようかという時期でした。そんな中聴く者を元気にさせるこのような歌が、テレビからラジオから毎日のように流れていました。

 そんな中でも今回思い出として取り上げたいのは、北島三郎にとっても大出世作となった『函館の女』です。
 この歌がガンガンヒットしていた昭和41年6月。2年生の時、高校の修学旅行がありました。当時山形県内の高校の修学旅行先は、京都、奈良など関西方面が定番でした。ところが我が長井高校だけは、真反対の北海道だったのです。
 これは「社会人になれば関西方面にはいつでも行ける。しかし北海道にはなかなか行けないだろう」という、学校の以前からの方針によるものでした。

 北海道への修学旅行は季節の頃合もいい、初夏の頃。何せ5泊6日くらいと期間もたっぷりあったのです。札幌、室蘭、洞爺湖、登別…。もちろん函館にも行きました。
 榎本武揚や土方歳三らが立て籠もって官軍と戦う拠点とした五稜郭、トラピスチヌ修道院(そこで作っている口でとろけるようなバター飴)、そして北海道時代の石川啄木が一時期過ごし、
  函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花
と歌集『一握の砂』で詠んだ青柳町。

 夜は確か、その青柳町にあるホテルに泊まりました。大広間での全学年合同の食事の後、各クラス代表が前に出て、アトラクションを披露し合うことになりました。その時就職コースⅠ組の我がクラスから登場したのが、蒲生君。
 蒲生君は、上杉家の前に長井荘・置賜地方の領主だった、蒲生氏郷(がもう・うじさと)を遠祖に持つのかどうなのか。長井市内に住んでいて、私のように“おとなしい系”が多い(苦笑)我が校には珍しく、苦みばしった風貌で、当時流行りの角刈りをビシッと決めた今で言う“ツッパリ系”。

 普段そのくらいですから、蒲生君、そういう舞台でも度胸満点です。その時の蒲生君は歌を歌いました。それが当時大ヒットしていたサブちゃんの『函館の女』だったのです。
  は~るばる来たぜ~函館へ~
  さか巻く~波を、のりこえて~
  後は追うなと、云いながら~
  うしろ姿で、泣いてた君を~
  おもいだすたび、逢いたくて~
  と~ても我慢が~できなか~った、よ~

 それもサブちゃん並みの玄人裸足のハリのあるいい声。そしてサブちゃんをさらにオーバーにした、身振り手振りの大アクション。これには会場が一気に盛り上がり、終わってからも拍手大喝采が鳴り止みませんでした。
 『オレにはとてもあんな真似できねえよ』。気の弱い私は毒気に当たられたように、彼のパフォーマンスをポカンとして見ていました。蒲生君がトップバッターで、後に他のクラスが続いたと思いますが、彼の強烈なパフォーマンスの前に皆霞んでしまったか、他の人たちのはまったく記憶にありません。

 余談が長くなりました。
 星野哲郎氏作詞は4000曲以上に上るそうです。演歌からポップスまで幅広く手掛けました。その原点は「懸賞」だったそうです。
 星野氏は、高等商船学校(現東京海洋大学)を卒業し船乗りになったものの、腎臓結核を患い,闘病生活を送る羽目になります。この頃生活のため文芸誌や雑誌『平凡』など、ありとあらゆる懸賞に応募して食いつないでいたのだそうです。

 渥美清の『男はつらいよ』、北島三郎の『兄弟仁義』、小林幸子の『雪椿』など、4000曲もの作詞を残せたのには、この時の経験が大いに役立ったわけです。
 お金がない貧乏の辛さ、苦しさを骨身にしみて知っている星野氏は、作詞を依頼されるとまず断ることがなかったそうです。「書いてくれというなら誰のためでも書く」。これが星野氏の基本スタンスだったのです。また人の悪口、歌手の悪口を言わないことも信条としていたといいます。
 
 星野哲郎氏の、若い頃のどん底生活で培われた苦労人としての人生経験が、歌詞に反映されているからなのか。北島三郎の『兄弟船』、鳥羽一郎の『風雪流れ旅』、美空ひばりの『みだれ髪』などの名コンビである作曲家の船村徹は、「星野哲郎が書いた詞はすぐにメロディーが浮かんでくる」と語っていたそうです。
 その船村徹はこのたびの訃報に接し、「昭和の歌謡界を作った人。後にも先にも、ああいう詩人が出てきてくれるのか…?最近の若い人の日本語が変になっている。星野哲郎のためにも、基本の日本語を使ってくれる人が後に続いてもらいたい」と、涙ながらに語っています。

 しっかりした人生哲学に裏づけられた星野哲郎は、ヒット作を次々と出し続けた息の長い作詞家でした。何年か前亡くなった阿久悠と共に、高度経済成長期以降の時代の雰囲気を的確に捉え、それを歌詞に反映できた歌詞作りの名人でした。そうして作った数々の歌は、一般大衆の心の支え、言ってみれば演歌というより「援歌(人生応援歌)」として、人々の心を励まし鼓舞してきたのです。
 「偉大な作詞家」不在の当今、本当に惜しい人がまた一人いなくなってしまったなという感を深くします。
 星野哲郎氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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