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昭和30年代前半は「夜霧の時代」?

 -あの時代“歌声喫茶”で『ともしび』が歌われ、歌謡曲では「夜霧」が用いられた-

 レトロな昭和30年代前半。近年の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』などのヒットにより、その時代はノスタルジック戦後として見直されています。
 私と同世代(いわゆる団塊の世代)かそれより年配の人たちにとって、あの時代は各人さまざまな感慨を呼び起こされることでしょう。

 私にとってその時代は小学校に入るか入らないかから、小学校5年生くらいの期間に相当します。まだ「自我」に目覚める前、正真正銘の少年時代の頃です。いわば私の半生の中でその時代は、神話的時代から上古の時代にも相当する、「宝物のような時代」だったと言えると思います。
 何の屈託もなく遊び、好き勝手な夢が想い描けた子供時代なのですから、余計思い入れが深いわけなのです。

 今でもその頃のことは、思い出としてひょいと蘇ってきたりします。ひと時そんな回顧にふけりながら、私は最近『あの時代は「夜霧の時代」だったんじゃないか?』とふと思ったのです。どうしてなのでしょう。

 それは当時流行(はや)っていた歌謡曲に、やたらと「夜霧」という言葉が入っている歌が多いように思われたからです。たとえばその代表例は『夜霧の第二国道』。この歌は、ラジオで流れていたか母が歌っていたかして、小学校2、3年の私も『いい歌だなあ』と思いながら聴いて覚えた歌でした。

 タイトルからして「夜霧」のついているこの歌は、昭和31年発表だそうです。『有楽町で逢いましょう』で大ブレークする前年、フランク永井が歌った名曲です。
  つらい恋なら ネオンの海へ
  捨てて来たのに 忘れてきたに
  バック・ミラーに あの娘(こ)の顔が
  浮かぶ夜霧の ああ 第二国道     (作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正 1番)

 歌詞はいちいち紹介しませんが、この歌以外にも「夜霧の歌」のあること、あること。
 『哀愁の街に霧が降る』(31年)『夜霧のデッキ』(33年)『三味線マドロス』(33年)『夜霧に消えたチャコ』(34年)『他国の酒場』(34年)『哀愁波止場』(35年)『あれが岬の灯だ』(35年)などなど。
 当時の時代状況からして、東京など大都市に出てきた人々を慰労するような「望郷モノ」、「波止場」「マドロス」など“船乗りモノ”も流行りましたが、こうしてみると「夜霧モノ」はそれらに負けず劣らず多かったようです。

 そういえば昨年記事にしました『身捨つるほどの祖国はありや』の、寺山修司の
  マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
という短歌は、昭和33年刊歌集『空には本』収録なのでした。
 この短歌で時刻はいつかというのは分かりません。しかし冒頭の「マッチ擦る」の視覚効果を高めるためには、夜の海でなければならないと思います。
 
 この時代流行歌や短歌などに、どうしてこんなに「夜霧」が多く登場するのでしょう?これはきっと、何かのきっかけがあってのことに違いありません。
 当時は子供だった私がうかつに断定はできないものの、それは昭和20年代後半から東京の街などに出来だした「歌声喫茶」から全国に広まっていった、ある歌の影響なのではないだろうかと思われるのです。
 あの頃はまだ「60年安保」前で、米ソ冷戦が激化しつつあったものの、この国ではまだ社会主義、共産主義思想に共鳴する若者が多くいました。それらの若者を、同思想に引き付ける装置の役割を果たしたのが歌声喫茶の一側面であるようです。

 ですから歌声喫茶で主に歌われたのは、ロシア民謡でした。その中でも『ともしび』と『カチューシャ』は双璧であったようです。同名の歌声喫茶「灯(ともしび)」が昭和31年新宿にオープンしたように、特に『ともしび』は若者の間で好んで歌われました。

  夜霧のかなたへ 別れを告げ
  雄々しきますらお いでてゆく
  窓辺にまたたく ともしびに
  つきせぬ乙女の 愛のかげ    (『ともしび』1番)

 祖国のために前線に赴こうとする若き兵士。それをそっと夜の窓辺で見送る乙女。そこに置かれたともしび。この別れが二人にとって、今生の別れになるのかもしれない。か細くまたたくともしびは、そんな際どい二人の別れの象徴のようです。
 おそらく「愛」がこれほど高まるシチュエーションは他にないことでしょう。見送る乙女にとって、夜霧の彼方に遠ざかっていく恋人の後姿は、逆に身の丈がどんどん大きくなって感じられたのではないでしょうか。

 共産主義国ソ連(ロシア)の民謡というだけではなく、まだ戦後10余年しか経過していない当時の我が国では、この歌に描かれている情景に共鳴し得るメンタリティが十分残っていたものと思われます。
 『ともしび』はダークダックスが歌ったことにより、その後全国に広まりロシア民謡ブームが巻き起こりました。山形の片田舎町の小学校2、3年生だった私も、近所のだいぶ年上の人たちが歌って教えてくれたため、『カチューシャ』などと共にいつしか覚え口ずさんだものでした。

 「身捨つるほどの祖国はありや」という寺山の強烈な問いも、タネを明かせば、案外この『ともしび』全体そして2番の「思い出の姿 今も胸に/いとしの乙女よ 祖国の灯よ」に触発されて生まれたのかもしれないのです。
 このように、当時の詩人や作詞家といったクリエィティヴな人たちが真っ先にこの歌の影響を受けて、当時「夜霧」という言葉が多用された可能性が十分あると思います。

 平成も22年を経てますます「昭和は遠くなりにけり」の今日、昭和30年代前半の時代は「夜霧のかなたに」霞んでおぼろにしか見えないほど遠い昔になってしまいました。
 今や文学作品でもJ-POPなどでも、自然を描くことが少なくなってきています。翻って、夜霧などの自然現象を描くことによって、それがそのまま叙情的な名曲として定着していったあの時代。
 もちろんあの頃とて、社会全体としてさまざまな問題を抱えていたことでしょう。しかしその意味では、『貧しいけど、ホントいい時代だったよなあ』と、しみじみ懐かしく思い返されるのです。

 (大場光太郎・記)

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コメント

長井市議選に友人やら先輩やらが出ていたので結果を知りたいと検索していたら,大場さんのブログに来ました。
現在は大阪在住ですが,私も宮内生まれ宮内育ち,高校は長井です。兄(菅徹)も高校は長井で,昭和24年生まれですから大場さんとは同学年ではないですか。懐かしくなってコメントを書きました。

投稿: 菅 勉(かんつとむ) | 2015年5月 1日 (金) 11時47分

菅 勉 様

 コメント大変ありがとうございます。昼過ぎ貴コメント発見しましたが、業務上ですぐに遠出しなければならず、公開及び返信が今になってしまいました。

 えやえや。なずかしいごどなっすぅ。宮内生まれで宮内育ち、そすて高校も長井高校でえやったがっすぅ。

 と、つい田舎の言葉が出てしまいました(笑)。そしてお兄さんが「菅徹」君(と同級生の気安さで「君」呼びしましたが)とは!私の当時の薄れ行く記憶では、お兄さんの徹さんとは小中高を通して同じクラスになったことはなかったように思いますが、もちろん名前は存じ上げておりました。

 ただお顔はだいぶあやふやだったので、ついさっき高校卒業時のアルバムを開いて徹さん若かりし頃のお顔を拝見させていただきました。しかし『そうだ、この顔だ!』という確信が今ひとつ持てませんでした。申し訳ございません。

 ただし高2、高3ともっとも多感な時代を2年間ともに過ごした同じクラスの学友でも、今回アルバムを見て、『あれっ、こんなヤツいたかぁ?』というようなちゃらんぽらんな我が記憶に免じてお許しいただきたいと存じます。

 徹さんは私と違って大学進学されたようですが、今はどちらにお住まいなのでしょう?お兄さんとご連絡される折りがございましたら、「同級生だった大場君がよろしくと言っていた」旨お伝えください。

 私は本来そんな余裕などない身にもかかわらず、7年前ある人に勧められてからブログ発信を続けています。残念ながら長井高校出身の方からのコメントは菅勉様が初めてですが、『思い出』カテゴリーなどで宮内や長高の思い出もずいぶん書いています。

 懐かしい長高校歌や同窓会報も記事にするなど母校のPRもしているつもりです。ただ『長井市長選』記事の後半部分でつまらない私的なことを書いてしまい『いつか削除しなければ・・・』と思いながら、気がついた時には何百人もの人がアクセスしてこられ、大変お恥ずかしい次第です。

 宮内にお住まいまたはご出身の方からはこれまで3、4人ほどコメントをいただきました。中には「結城よしをは私の叔父です」とおっしゃる私より3歳ほど年上の女性がおられ、お恥ずかしいことにその時初めて「結城よしを」の名前を知り、早速『童謡「ないしょ話」秘話』を公開しました。その後童謡歌手の「坂入姉妹」さんや、大阪にお住まいの相当高齢の方からこの童謡にまつわる貴重なコメントをいただくなど、けっこうアクセスの多い記事です。

 と、懐かしさのあまりつい余計なことを述べてしまいました。どうぞ大阪の地で、「長高健児」の心意気を内に秘めて(?)、今後ともご活躍ください。当ブログ、いつでもお気軽にお立ち寄りいただければ幸甚です。

投稿: 時遊人 | 2015年5月 2日 (土) 00時44分

米議会で安保法案の成立を公約してくるという“稀代のゴクツブシ”アベはカタコト英語への拍手喝采に得意の絶頂か?と邪推する今日この頃ですが、また投稿させて頂きます。
当方は時遊人様(大場光太郎様)より少し年食ってる世代ですが、確かに昭和30年代は夜霧がらみの歌謡曲が多く、「夜霧の第二国道」は特に好きな曲で昔はカラオケでよく歌ったものです。
さて時遊人様は山形の長井高校出身だそうですが(なお、当方は宮城県出身で現在は北関東在住です)、今から30数年前、当方の知人の紹介で将棋が取り持つ縁でひょんなことから会った人物が将棋アマ強豪(四段)の長井高校OB氏でした(昭和28年生)。しかし、その後風の便りでは長井高校OB氏は交通事故死したとのことです(合掌)。当方はアマ初段のため、長井高校OB氏とは対局しなかったんですが(駒落ちという手もあったんですが)、女性のような白くて長い指先で駒をあやつる長井高校OB氏(風貌も色白美男子)の駒さばきは実に見事なものでした。

投稿: ただの通りすがり | 2015年5月 2日 (土) 20時55分

ただの通りすがり様

 いつもコメントありがとうございます。

 『夜霧の第二国道』今ではあまり歌われなくなったかもしれませんが、本当にいい歌ですね。ご存知かどうか、『二木紘三のうた物語』という音楽サイトがあり、2007年12月、その中でこの歌のmp3曲が公開されました。あまりの見事さに衝動的にコメント(ネット初投稿)したことが、翌年4月末の当ブログ開設へとつながりました。

 『池田大作氏死去』記事にもコメントいただきましたが、返信せず申し訳ございませんでした。あまり関係ない話ですが、「フォレスタ」というコーラスグループがあり、同グループ記事を公開している関係で時折り美人女声フォレスタの方が訪問されます。これ以上踏み込みませんが、私はその人のファンなもので・・・、コメントを手控えさせていただきました。

 以前のコメントから、『ただの通りすがり様は群馬県か栃木県に居住されている方かな?』と思っていましたが、宮城県ご出身で北関東にお住まいでしたか。

 母校の少し後輩の人のお話、興味深く読ませていただきました。既にお亡くなりとのことですが、将棋アマ4段とはかなり強い人でしたね。どうして分かるかと言えば、川崎市の私の叔父(当時30代)が昭和40年代半ば頃、アマ5段だったからです。

 私がこちらにやってきた当時、遊びに行き、対戦したことがありました。高校時代友達とヘボ将棋をやり少し自信があったのに、叔父は「飛車角金銀抜きで」というのです。屈辱的な気分を感じながらいざ対戦してみると、いやぁ強いの何の。こちらの飛車角金銀皆取られて、十分足らずで完敗でした。歩の使い方や手駒の連携の仕方がとにかくうまいのです。それ以来遊びに行っても対戦する気にはなりませんでした。

 ただの通りすがり様も、その後着実に腕を上げられ、かなり強い将棋の差し手と推察申し上げます。

投稿: 時遊人 | 2015年5月 3日 (日) 00時51分

北関東3県の中で、“…だっぺよー”方言の茨城在住です。将棋は相変わらずヘボで、もう何十年も差してませんが…。長井高校OB氏は長井高校と大学(山形大と言ってました)を通して東北ではトップクラスの実力だったようです。
「二木紘三のうた物語」はたまに覗いてますが、コメント欄では特に“老齢ご婦人方”が“乙女時代”の初恋の話や失恋の話などコメントのキャッチボールで非常に盛り上がっているようです。一般的に“老齢ご婦人方”は、昔の“乙女時代”のように恋をしたいとか何したいとか強烈なパワーに溢れているようです。
それにしても時遊人様は、政治経済社会諸問題に対する意見・主張だけでなく、「春霞み」の俳句や森羅万象の豊富な知識には感服するしだいです。

投稿: ただの通りすがり | 2015年5月 3日 (日) 08時58分

 そうでしたか、ただの通りすがり様、お住まいは茨城県でしたか。「…だっぺよー」は栃木や群馬県のイメージが強いですが、茨城でも使う方言でしたか。

 長井高校の少し後輩氏、将棋のみならずかなりの秀才だったようですね。母校は今ではガチガチの郷里の進学校ですが、私らの頃はそれはのんびりしたものでした。私のようなちゃらんぽらんでボンクラな生徒がわんさかいたのですから。しかし中には彼のようにずば抜けたヤツが同学年にも確かにいました。

 その一人がH君でした。彼は「大学受験のため」と称して1学期の途中で私と一緒だった部活を辞めましたが、同学年でただ一人早稲田に合格しました。背がすらりと高くて眉目秀麗、女生徒にもモテていましたが、何十年か後の同窓会誌に彼の名前だけなし。つまり消息不明というわけです。かと思うと、在学時は名前すら知らず目立たなかったS君、私立薬科大に進み、米国留学を経て同大学の教授&WHO日本理事と、一番出世ですから。

 若くして事故死したという後輩氏の件といい、つくづく「人生」を考えさせられます。

 『うた物語』は当初から長くコメントし続けるつもりはありませんでしたが、09年秋のある事件をきっかけに『うた物語』から離れました。矢嶋武弘さん、くまさんや私などは『うた物語』ブログ形式になった当初のコメンテーターということになりますが、当ブログ開設までの数ヶ月が「華」で、今でも懐かしく思い出されるほどワクワク感を持てた時期でした。

 離れても、私を育ててくれた二木先生と『うた物語』のことは気になっています。ますます発展され、さらに国民的音楽サイトになっていただきたいものです。

 いえいえ、「森羅万象探求者」などと大きく出ていますが、広く浅くしか物事を知らない浅学菲才者です。「成長に終わりはない」という名言を励みに今後とも日々過ごしてまいる所存です。

投稿: 時遊人 | 2015年5月 3日 (日) 18時16分

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