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長井市長選など

 -我が懐かしの母校の街・長井市の市長選から高校時代の思い出など-

 尖閣ビデオ流出事件、APEC開催など、重要な出来事が目白押しです。そんな中、これをお読みのほとんどの方には何の関係もない、ローカルなニュースで申し訳ありません。私の出身高校のある山形県長井市の市長選挙が14日(日)告示だというのです。
 今回はこのローカルニュースから連想されたことなどを、綴っていきたいと思います。

 長井市長選に立候補を表明しているのは、任期満了再選を目指す現職の内谷重治氏(54)=無所属=だけ。そのため無投票の公算が大きいのだそうです。
 こと選挙ともなれば、衆参両議院の国政選挙から県知事・県会議員選挙、全国各市町村長・議員選挙に至るまで、通常は複数候補が立候補し、選挙期間中はどの陣営も目の色変えて激しい選挙戦が繰り広げられるものです。

 ところが今回の長井市長選は無投票再選の公算大らしい。内谷氏は「人口3万人台復帰」「それに向けた子育て環境の充実」「中心市街地の活性化」などを掲げての立候補のようです。それに加えて4年間の実績がモノを言って、他の者は「とても適わない」と早々とあきらめたものなのでしょうか。
 内谷氏としてはこれ以上楽なことはないわけです。が、今後の長井市政活性化のために、共産党でもどこでも“負け戦”と分かっていても、対立候補として名乗り出るべきだったのではないでしょうか。

 長井市は山形県でも南に位置する市です。これまで当ブログで何度か触れてきましたとおり、戦国時代の頃は、私が18歳までを過ごした東置賜郡宮内町(現南陽市)や米沢市も含めて、広く「長井荘」と呼ばれていました。
 1600年の関が原の合戦で豊臣方に味方した上杉家が、会津から置賜の地に移封を命じられ米沢を拠点とした頃から、徐々に米沢、長井、東置賜、西置賜などの区分けがなされていったもののようです。(そういえば昨年末の『米沢上杉藩物語』まだ未完でした。)
 現在の長井市は人口29,333人(2010年8月1日)で、市のキャッチコピーは「水と緑と花の長井」。以前もご紹介しましたが、分けても市内の「アヤメ公園」に何万株と咲き誇るアヤメの姿は見事なものです。

 長井市は私の出身母校があり、人生で最も多感な3年間を過ごした街です。たまに漏れ伝わってくるかの地の情報には、多少なりとも敏感になります。
 数年前深夜にNHK教育テレビを観たところ、たまたま長井市のエコロジーへの取組みが紹介されていました。番組の途中からだったこともあり、詳しい内容はあまりよく覚えていません。しかし「エコロジー流行り」の当今、全国の各自治体は何らかのエコロジー対策を求められているはずです。その中で、長井市の取組みがテレビで取り上げられたのですから、よほど注目に値する成果を挙げたものだったのでしょう。

 また同じく数年前NHK総合の『小さな旅』で、おらが宮内町を通り長井市の先の白鷹町まで続く、ローカル線「フラワー長井線」が取り上げられていました。もっとも私が汽車通学していた昭和40年代前半は、赤字地方線のウラ寂れたただの「長井線」でした。
 その中に、長井市街の東外れ「早苗が原」の我が母校に行くため3年間乗り降りした、南長井駅という無人駅も紹介されていました。私のずっとずっと後の後輩たちは、放課後ボランティアで同駅の掃除などを続けているというのです。
 私らの頃は何もせず、当然のごとくに乗り降りしていただけでした。掃除に励む後輩たちの姿に熱いものがこみ上げ、先輩としてちょっぴり誇らしい気持ちになりました。

 ところで内谷重治氏は、長井高校、立教大学経済学部卒業で、長井市職員、会社員を経て、99年長井市議選に初当選。2期目途中の06年11月市長選に立候補し、新人4人の激戦を制し初当選したという経歴の持ち主だそうです。
 分けても「長井高校」出身、つまり同氏のことは存知上げませんが、私の7年ほど後輩にあたるわけです。

 同氏とはまったく関係ありませんが、私にとって「内谷」は心をざわつかせる名前でもあるのです。私が同校の2,3年時の密かな「憧れのマドンナ」だったSさんの結婚後の名前が内谷だからです。(高校在学中、その苗字の同窓生はおらず、同地では希少な苗字と思われることから、案外市長とは親戚筋にあたるのか?)
 と、ここまで綴りながら、これはプライバシーに関わること、これ以上述べていいものかどうか迷いました。しかし当ブログ開設以来2年半以上、母校関係として『万物備乎我(1)~(5)』『鷹桜同窓会報(1)、(2)』『天に北斗の光りあり 地上に花の香ある』などを公開してきました。それらの記事には今でも時折りアクセスがあります。しかしどうやら私の同学年ましてや同級生からのアクセスは皆無のようです。

 それにSさんの悪口でもないのだし良いのではないでしょうか?Sさんもし万一、今後この記事をお読みの節は、どうぞご寛恕のほどよろしくお願い致します。それのみか、何か一言コメントくださればありがたく思います。

 昭和41年4月、新2年生になってクラス替えがありました。その時私のすぐ前の席に座ることになったのがSさんでした。新学期当日だったか、何かの連絡用の紙が後ろから配られました。それを受け取って前の女生徒に渡そうと声をかけました。どんな人かあまり関心がなかった私に、その人はやおら振り向くなりにこっと笑顔を見せて受け取ったのです。
 いやあ、その笑顔にはしびれました。だって、それまでもその後の長い人生でも、女性のあのように輝く美しい笑顔を見たことがありませんもの。振り向いたSさんの周りは、(今で言う)まぶしいオーラで輝いているようでした。

 同学年の2学期のある日の午後、学内の弁論大会が行われました。私たちの学年代表として、何とSさんが登壇したのです。私はドキドキして彼女の弁論を聞いていました。心は上の空、宙をさ迷っていたものか、内容はほとんど覚えていません。
 しかし彼女の弁論は熱弁調ではなく、それとは反対に終始落ち着いて聴衆に穏やかに語りかけるような口調でした。その中でただ一つ覚えているのは、「イエスは次のようなことを言いました」として、山上の垂訓だったかの有名な言葉を引用していたことです。

 後で知ったことには、Sさんは長井市郊外のキリスト教信仰者の家庭の子女だったらしいのです。そうでしょうね。でないと生命そのままが現われたような、あんな美しい笑顔はまず出せませんから。彼女自身早くからイエス様に感化されていたのでしょう。
 それにSさんは、小学校1年時から高校2年時まで、ただの一度も学校を休んだことがないというのです。普段は物静かで内省的な美少女という趣きでした。そんなSさんの、意外な芯の強さを知らされたのでした。

 『故郷を離るる歌』に綴ったような次第で、私は昭和43年3月同校を卒業して首都圏の当地にやってきました。その1、2年後帰省した折り、クラスで親友だったM君とH君に会いました。
 その折り、山形県庁に勤めだしたM君の口から意外なことを知らされました。「Sさん結婚したよ」。もちろんクラスの誰よりも早い結婚です。M君はSさんとは小、中学校も同じ学校、在学中の私の想いも知っていたので、一応知らせなければと思ったのでしょう。
 当時は何度も綴ってきましたように、当地での仕事や生活などになじめず四苦八苦している最中でした。『あっそう。こっちはそれどころじゃないんだよ』とでも思ったのか、私はその報告を別にショックを受けるでもなく、ぼんやり聞いただけでした。

 しかし実は、心の奥ではかなりこたえていたらしいのです。それを機に、私は滅多に帰省しなくなりました。M君やH君ともその後連絡が間遠になり、いつしか途絶してしまいました。たまのクラス会の呼びかけにも、出席することはありませんでした。
 ずっと後年高校の同窓会名簿が送付されてきました。『級友たちはどうしてる?』。ОB2万人という分厚い名簿の、昭和43年卒のかつての我がクラスの個所をめくり、男子に続いて女子生徒の欄をたどるに、Sさんは「内谷」と名前が変わって、長井市内に住んでいることを知りました。

 そしてまた彼女は、何と我が宮内町の某幼稚園に勤めていることも分かりました。同町に住んでいる頃は、よくその前の道を通ったものでした。『信仰者で頑張り屋さんの彼女ならきっと、園児たちにマリア様のような慈愛で接していることだろう』
 数年前亡母の回忌の折り、車でそこの道を通りました。よほど車を停めて、園内に入ってSさんとお会いしようかなと思いました。しかし思いとどまり素通りしました。

 Sさん(内谷さん)、懐かしい級友の皆さん。どうぞご多幸でありますように。遠い空よりお祈りしています。

 (大場光太郎・記)

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