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蟻の街のマリア

 -戦後間もなくかくも気高い聖女がいたことを私たちは誇りに思わねばならない-



 今回はクリスマスにちなんで、感動的な生涯を送った一人の女性を紹介します。
 北原玲子(きたはら・さとこ)という名前、お聞きになったことがおありでしょうか。今から十数年前、関口宏が進行を務めるある民放番組で紹介されたことがありますから、あるいはご記憶の方がおいでかもしれません。

 北原玲子(1929年~1958年)は、戦後間もない1950年代隅田川の言問橋(ことといばし)周辺、現在の墨田公園界隈にあった通称「蟻(あり)の街」というバタヤ集落に住み込みます。そこでキリスト教的奉仕精神で、そこの子供たちの教育の向上や街の改善に取り組み「蟻の街のマリア」の愛称で呼ばれましたが、無理がたたって病を得て亡くなった人です。

 そもそも北原玲子は、群馬大学教授・東京農業大学教授で経済学博士の北原金司の三女です。言ってみれば“いいところ”の令嬢であったわけです。ですから1950年彼女が転居した姉の家が浅草で、いくらそこから蟻の街が近いとは言っても、そんな貧民街など無視することも近づかないこともできたはずです。
 そしてしかるべき良家のだんな様の許に嫁いで、裕福な令夫人としての人生も大有りだったのです。
 
 しかし北原玲子はそのような約束された幸せを蹴り、おそらく若い身空のお嬢さんなら1万人中9,999人が尻込みするであろう「蟻の街」へと敢然と飛び込んで行ったのです。そこまで彼女を駆り立てたのは何だったのでしょうか。
 彼女は昭和女子薬科専門学校(現昭和薬科大学)卒業後、1949年光塩女子学院で授洗しています(洗礼名はエリザベス)。『マタイ福音書』中に「あなた方は世の光であり、世の塩である」というイエスの有名な言葉がありますから、同女学院はミッション系スクールだったのでしょう。
 
 中世のアビラの聖テレジアから現代のマザー・テレサに至るまで、歴代の聖女に一貫してみられるのは主イエスへのひたむきな信仰、キリスト精神に基づく献身です。おそらく北原玲子にも、その精神が内在していたのではないでしょうか。
 それに加えて彼女の周囲に散見されるのは、戦後の混乱と人々の貧しさです。当時親なき児、家なき児など、決して珍しいことではありませんでした。北原玲子は、それを見て見ぬふりできない性分に生まれついていたのでしょう。気高い「同苦の精神」の持ち主だったのです。

 それに彼女には決定的な出会いがありました。戦前「アウシュビッツの聖者」コルベ神父にしたがって日本にやってきた“ゼノ神父”ことゼノ・ゼブロフスキー修道士との出会いです。蟻の街にも出入りしていたゼノ神父は、時折り彼女が住んでいる浅草の姉の家に訪ねてきては、片言の日本語で彼女に「キリストの愛の実践」を勧めて帰っていくのです。
 こうして北原玲子は蟻の街を訪ね、その生活の困窮を目の当たりにし、遂に意を決して蟻の街に身を投じることになるのです。

 「蟻の街のマリア」へと成長した彼女の活動は、当時世界に発信され賞賛の声が届けられたようです。しかし正真正銘の聖女へと変貌を遂げていた彼女は、「財宝ばかりでなく、名誉や地位もまた悪魔的な誘惑だ」として、その名声に甘んじることは決してなかったそうです。
 蟻の街における諸々の奉仕活動での体力的な無理がたたり、著しく健康を害し、療養のため一時蟻の街を離れます。しかし死期を悟ると蟻の街に再び移住し、1958年(昭和33年)1月23日腎臓病で夭折しました。享年28歳。
 葬儀は蟻の街の集会所で行われ、その死を悼む蟻の街の住人、子供たち、取材の報道陣で溢れかえりました。墓所は多磨霊園にあります。

 なおこの地区に生まれた「蟻の町教会」は、東京都中央区月島8号埋立地の「カトリック枝川教会」を経て、東京都江東区潮見のカトリック潮見教会となっている(近くにはカトリック中央協議会本部がある)ようです。
 1983年6月1日に完成した、新しい教会堂には「蟻の町のマリア」の名称が冠せられているそうです。

 北原玲子の蟻の街での活動のようすは、彼女が亡くなった1958年、松竹作品『蟻の街のマリア』というタイトルで映画化されています。主演は千之赫子、出演は丸山明宏(後の美輪明宏)、多々良純、佐野周二などです。
 この映画の原作となったのが、松居桃樓(まつい・とおる)の著書『蟻の街のマリア』です。松居自身蟻の街に居住し、住人たちから「先生」と敬称され、生前の北原玲子の相談に乗り助言を与えた人です。「蟻の街のマリア」と直接触れ合っていた人だけに、随所に感動的なエピソードが盛り込まれ、涙なしには読めない本です。
 読後、心がきれいさっぱり洗われることを請合います。

 (注記)本記事は、フリー百科事典『ウィキペディア』を参考にしてまとめました。

 (大場光太郎・記)

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コメント

 本記事はちょうど1年前のクリスマスに公開したものです。以来継続してアクセスがあります。決して多くはないものの、こういう記事が読み継がれていくことを嬉しく思います。
 自らが十字架にかけられたイエスは、その直前「友のために命を捨てること。これに勝る愛はない」(『ヨハネ福音書』)と弟子たちに言い残しました。「蟻の街のマリア」北原玲子さんは、イエスのこの言葉を身をもって実践したような人だったと言えると思います。
 その後の日本社会、老若男女を問わず、北原玲子さんとは言わないまでも、気高い人が本当に少なくなりました。人のことよりまず我れの利益最優先、中には人を蹴落としても…。この愛薄き時代に、テレビなどで「愛」という言葉だけがやたら踊っているのは何とも皮肉な現象です。

投稿: 時遊人 | 2011年12月25日 (日) 03時12分

去る6月16日に長崎市本河内のコルベ神父記念館を訪れ、北原怜子さんの資料もいくつか展示してあるのを拝見しました。私はカトリック信徒ではありませんが、26歳のとき松居桃楼著『蟻の街のマリア』の初版本の古本を手に入れて読み、それまでの偏見(「良家のお嬢ちゃんのセンチメンタルな慈善活動」という偏見)を根底からくつがえされる体験をしました。

「自分なんか逆立ちしたってこの人にはかなわない。人間は謙遜を忘れたら絶対にいけない」と思いました。

あの感動的な本は、1990年代に春秋社から復刊されていますが、それも今は品切れのままになっていますね。惜しいことです。ぜひ刊行を続けてもらいたいと思います。あの本の評価が高いことは、古本市場でとても高い値段がついていることからもわかります。

投稿: Akemi | 2012年6月21日 (木) 07時23分

Akemi様
 本記事にコメントしていただき、大変嬉しく思います。
 そうですか、昨年長崎の「コルベ神父記念館」を訪れられたのですか。と、同記念館をさも知っているようですが私は始めて知りました。もっとも「アウシュビッツの聖者」コルベ神父は戦前来日し、長崎を拠点として「聖母の騎士の道」を説かれたのでした。
 この私もカトリック信者でもキリスト者でもありません。しかし北原玲子さんの気高い奇跡のような生涯には、何教もありません。ただ無条件の感動あるのみです。
 私が所蔵しております『アリの町のマリア 北原玲子』は春秋社刊のものです。これは復刻本だったのですね。なお正確を期すため述べておきますが、「1973年2月10日 増補第一刷発行」「1986年6月20日 新装第四刷発行」となっています。
 Akemi様が手にされた初版本は前者の日付よりさらに前のもの、私が求めたのは後者のものということになるのでしょうか。いずれにしても、多くの人に読んでいただきたい感動の書です。ありがとうございました。

投稿: 時遊人 | 2012年6月22日 (金) 02時56分

I wish I could write in Japanese to tell the story of Satoko

投稿: Peter Kelley | 2012年10月13日 (土) 18時03分

Dear Mr`Peter Kelley

I hope so you write in Japanese to tell the story of Satoko, for American peple know. thank you !


投稿: 時遊人 | 2012年10月13日 (土) 18時46分

はじめまして
私は松居先生の「微笑む禅」を英訳化して絶版にしないようにしたいと思っています。

蟻の街のマリアの話も風化させたくありません。
よろしかったらブログもご覧下さい。

投稿: 幾井良子(いくいりょうこ) | 2013年4月13日 (土) 10時34分

幾井良子様
 コメント大変ありがとうございます。
 えっ、松居先生に『微笑む禅』という著書があり、それを英訳されたのですか。凄いですね。戦前の鈴木大拙の禅の本のように、英訳された松居先生の同著が広く欧米に読まれればいいですね。
 おっしゃるとおり、「蟻の街のマリア」の話も風化させてはいけませんね。今のこの砂漠化したような日本社会にあって、大きな光明となるよう、『もう一度映画化はどうだろう?』などとあらぬことを考えてみました。今時北原玲子さんを演じられる聖女イメージの女優さんなどいないのかもしれませんが、汚れ役にも敢然と挑む根性娘の井上真央さんなどはどうかと。
 貴ブログ、夜にあらためて訪問させていただきます。

投稿: 時遊人 | 2013年4月13日 (土) 13時50分

長くかかりましたが「微笑む禅」の英訳本がアマゾンで売り出し開始になりました。とり急ぎお知らせまで。

https://www.amazon.com/Smiling_Zen_Toru_Matsui/dp/1503552926

投稿: 幾井良子 | 2017年2月 5日 (日) 21時10分

 ご私邸の紹介サイト見させていただきました。松居先生の絶版本『微笑む禅』の英訳完成し、アマゾンにて発売との事。おめでとうございます!機会がありましたら読ませていただきます。

投稿: 時遊人 | 2017年2月 5日 (日) 23時30分

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