めでたさも中くらいなり
小林 一茶
めでたさも中くらいなりおらが春
… * …… * …… * …… * …
《私の鑑賞ノート》
新年あけましておめでとうございます。
今回取り上げるのは、ご存知小林一茶の名句です。この句の「おらが春」の「春」は四季のうちの春ではなく、旧暦のお正月すなわち元旦を意味しています。つまりこの句は一茶流の新春の句であるのです。
句意は至って簡単明瞭です。「世間様はめでてえと言うけんど、おらっ家(ち)のお正月は、めでたさも中くらいてぇとこかな」というのです。
良いではないですか、「中くらいのめでたさ」なら。一昔、二昔前は「一億総中流」と言われましたが、本当なのかどうなのか、当今では無貯金所帯が全体の3割以上を占めるとかで、「一億総中流など遠い昔の夢幻(ゆめまぼろし)よ」とお思いの方もあるいはおいでかもしませんから。
ただ上記は通り一遍の解釈で、この句の成立過程を調べてみますと、少し違った意味が現われてきそうです。
この句は小林一茶が57歳の時、終(つい)の住処となる故郷の信濃(しなの-今の長野県)北部の雪深い寒村で作られた句です。そしてそもそもこの句は「おらが春」という題の連句の発句(ほっく)で、元々は
目出度さもちう位也おらが春
だったそうです。
そして信濃の言葉で「ちう位」とは、「中程度」とはやや違ったニュアンスが含まれており、「いい加減」「たいしたことはない」というような意味合いになるようです。
小林一茶(1763年~1828年)は、松尾芭蕉、与謝蕪村と並び称される江戸時代の大俳人です。しかしその生涯は絵に描いたような不遇、悲惨の連続でした。まず3歳で母を亡くしています。8歳の時やってきた継母となじめず、口減らしのため15歳で江戸へ奉公に出されます。
江戸での奉公の傍ら俳諧を学び、25歳の時帰郷し『帰郷日記』を著しました。その後近畿、四国、九州に俳諧修行に出て、39歳で病気の父の看病のため故郷に戻るも父は間もなく死亡、継母と異母弟との間で12年間にも及ぶ遺産相続を巡るごたごたが続きました。
一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めます。50歳でまた故郷に戻り、52歳で結婚して授かった4人の子供は次々に夭折、妻とも死別します。再婚しますがすぐに離婚、3度目の結婚でもうけた女児は、一茶の死後に生まれています。
実は一茶は大変な数の病気持ちでもありました。亡くなる直前の一茶を極めつけの災厄が襲います。大火に遭って家を焼失してしまったのです。焼け残った土蔵の中で生活していましたが、そこで病死してしまいます。享年65歳でした。
このような不遇の連続の一茶にしてみれば、今回の句は
めでたさは毫(ごう)もなきなりおらが春
めでたさなど糞喰らえなりおらが春
とでも詠みたい心境だったかもしれません。しかしそんな無粋な句ではなく、
めでたさも中くらいなりおらが春
そこに、自身の不遇への哀しみを奥に潜ませつつ、そんな自分をどこかで笑い飛ばしているような諧謔味が生まれてきます。また『これが俺の人生よ』という諦観がにじみ出てもいるようです。味わい深い名句だと思います。
(大場光太郎・記)
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コメント
いい話ですね。そうすると黒姫の国道沿いの生家は蔵だったのですね。
投稿: andante | 2011年1月 1日 (土) 14時20分
本文に『ウィキペディア』から拝借した土蔵の画像を載せました。仔細には分かりませんが、小さな蔵のようですね。大俳人の一茶が、最晩年はこんな所で…と思うと感無量です。
投稿: 時遊人 | 2011年1月 1日 (土) 15時50分