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散り際の美学

   敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花   

 春は野山に木の芽がいっせいに芽吹き山笑い、街角や家々の庭先などの草花も色とりどりの花を豊かに咲かせる季節です。この麗しい蘇りの季節、我が国にあって特に注目すべきは何といっても桜です。

 その桜、今年は3月寒い日が続き、全国的に例年より少し遅い開花だったようです。神奈川県県央の当地では開花が4月上旬、10日前後がピークで、先週末にはあらかた散ってしまいました。
 そんな折りの本20日夕、市街地付近の遊歩道を歩いていました。すると染井吉野とは違う桜の木が何本かあり、さすがに盛りは過ぎ葉もちらほら見られるものの、まだ花もけっこう残っていました。

 近寄って見てみますと、枝々から真っ白い花びらが次々に落花しています。それに何ともいえぬ風情を感じ、私は立ち止まりその落花のさまを見ながらそこで一服することにしました。
 本夕は曇り空です。風はほんのそよ風程度、そのためか花はほぼ真下に落ちてくるのです。それもいっせいにということでもなく、一つが地面に降り切ると別の枝からまた一つはらりという具合です。

 今や桜の代名詞のような染井吉野なら、いくら風が強くなくてもこうはいきません。花びらの一片一片ですから、ひらひら流されながら定めなく落ちていくものです。ところがこの桜は花全体、四枚ほどの花弁がそのまま真下にすとんと落花しています。
 そしてさらに驚くことに、皆々きちんきちんと花弁を上にして地面に着地するのです。まるで意思あるもののように、散り際を心得ているような見事な落花です。

 その様を感心して見ているうちに、冒頭の和歌を思い出しました。桜花は、古来日本民族の心の奥深くに刻み込まれてきました。それは爛漫と咲き誇っている桜とともに、このような散り際の風情に得も言われぬ共感を覚えたものなのでしょう。国学者の本居宣長のこの歌も、この花の持つ「散り際の美学」を前提として鑑賞すべきです。

   風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残りをいかにとやせん

 「殿中でござるぞ」で有名な、浅野内匠頭長距の辞世の歌とされるものです。
 時は元禄14年(1701年)3月14日、絢爛と花開いた江戸元禄の世を震撼させた、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの序曲となる江戸城中での刃傷事件が起りました。朝廷の勅使饗応役を仰せつかった浅野内匠頭が同日午前、上役の吉良上野介義央の仕打ちに我慢ならず、松の廊下で吉良に斬りつけるという狼藉を働いたのです。

 同日午後一番で浅野内匠頭は、陸奥一関藩主・田村建顕の江戸藩邸預かりの身となります。預かった田村家は、うすうす事情を察し、いくらご法度行為とはいえ喧嘩両成敗、そんな重い処断は下るまい。浅野内匠頭殿、まあごゆるりと長逗留遊ばされよ、というような見立てだったようです。
 ところが、刃傷事件の報告を受けた時の「お犬様将軍」徳川綱吉が意外にも強硬だったのです。綱吉は尊王の心篤く、勅使をもてなすという朝廷がらみの儀式を台無しにされたことに怒り心頭、「内匠頭は即日切腹、浅野家五万石は取り潰しとせよ」という沙汰が下ったのです。

 内匠頭切腹の場は田村家の庭、夕方5時頃だったとされます。旧3月14日は新暦で4月21日、今より開花が遅かった当時、ちょうど庭先の桜花も散り際を迎えている頃だったのかもしれません。時に内匠頭35歳。
 ただ内匠頭辞世と言われ、ご存知『忠臣蔵』の名場面で詠まれるこの歌、今日ではどうも当人の作ではないとされています。内匠頭の直筆記録が残されていないのです。
 あるのは切腹の場に副検使として立ち合った多聞伝八郎の『多聞筆記』にのみ。そこから多聞が内匠頭の心中を慮(おもんばか)って後に詠んだものが、後々内匠頭自作として伝わったのではないかと言われています。

 話変わって、ずい分昔のことながらー。娯楽に乏しかった昭和30年代前半、『少年画報』『冒険王』『少年』と言った少年漫画月刊誌が全盛でした。小学校3年生くらいだった私は、その頃は漫画大好き少年。当時お世話になっていた母子寮で、毎月定期的に各戸に回ってくるそれらの雑誌が待ちどおしくてたまりませんでした。
 そんなある時『少年画報』か何かのグラビア見開きで、この内匠頭切腹の場面があったのです。それは美麗な絵でした。中央に端座した白装束の美男の内匠頭が、今しも短刀を己の腹に突き刺さんとする場面です。画面の上からは、桜がはらはらと散りこぼれています。

 それを見て私は、ぞくぞくするような妖しいときめきを感じたのです。というより、見てはならない春画をのぞき見ているような後ろめたい興奮すら覚えました。
 今も昔も「その気(ホモっ気)」はないばずですが、いや人間とは得体の知れぬもの。無意識的な心の奥底には、そういう情動が蠢いているのかもしれません。
 私のとんだ「ヰタ・セクスアリス」の一端を披露しての、この一文のお終いです。

 【補記】
 くだんの桜の落花を見やりならが、実はまったく別の事も去来していました。「散り際の甚だよろしくない」御仁のことです。そこでこの一文は当初、桜の散り際を導入として、それとは正反対の“ぶざまな御仁”のことを述べようと考えていました。
 しかしいいでしょう、これは。折角のこの一文が穢れますから。

 (大場光太郎・記)

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コメント

 2011年4月21日公開でしたが、この時期アクセスが多くなることもあり、今回トップ面に再掲載しました。なお文中にある「市街地付近の遊歩道」は本厚木駅から数百メートルの所にあり、一昨年から世話しているミケニャン、アクニャン、コクロ3匹の野良猫ちゃんたちが棲んでいる場所です。

 また、文末尾の【補記】に記した、「散り際の甚だよろしくない」御仁とは、ちょうどその時期首相だった菅直人の事です。この一ヶ月余前に起きた東に本題震災&福一原発事故の対応も大変マズイものでしたし。しかし今にして思えば、現安倍首相よりは数等良かったような気がしてきます。

投稿: 時遊人 | 2015年4月11日 (土) 11時49分

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