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馬鈴薯の花 二首

           石川 啄木

   馬鈴薯のうす紫の花に降る
   雨を思へり
   都の雨に

   馬鈴薯の花咲く頃と
   なれりけり
   君もこの花を好きたまふらむ 

     (歌集『一握の砂』所収)

… * …… * …… * …… * … 
《私の鑑賞ノート》   
 中学1年の時の担任のТ先生が国語と数学の先生で、入学して間もなくの頃の国語の授業で、(当時を偲ばせる)ガリ版刷りしたわら半紙何枚かが、クラス全員に配られました。
 そこにはТ先生の達筆な字で、石川啄木の『一握の砂』から採られた代表的な短歌がずらりと並べられていました。その中に、今回の一首目の短歌があったのです。一読して気に入り、その後今日まで忘れられない啄木歌の一つとなりました。

 Т先生は啄木以外にも、室生犀星や李白などの名詩、徳富蘆花の『自然と人生』の幾つかの名文なども、このようにして私たちに教示してくださいました。また2年生の秋まで、国語の授業中クラス全員に同じ文庫本を配り、『ビルマの竪琴』『二十四の瞳』『次郎物語』『野菊の墓』などを、最初から最後まで読んでくださいました。

 当今の小うるさい文科省指導要領、各教育委員会などからすれば、とんでない「問題教師」の烙印を押されることでしょう。しかし今にして思えば、何という懐かしくも鮮烈な思い出であることでしょう。
 少なくともこの私は、それによって豊かな情操が育てられ、先生によって「文学」への目が開かれたことは間違いありません。「じゃあ聞くけど、文学とやら、アンタのその後の飯のタネに何か役に立ったの?」と問われれば、返す言葉もありませんし、近年では文学そのものすら疎遠になってしまっていますが…。


         馬鈴薯の花

  馬鈴薯のうす紫の花に降る 雨を思へり 都の雨に

 「馬鈴薯の花」、ぶっちゃけて言えば「ジャガイモの花」ということです。ジャガイモ自体は何とも無骨な根菜ですが、その花は本当にうす紫で可憐と言ってもいいような花なのです。私は子供の頃、郷里(山形県)の畑で目にしていたのでよく覚えています。

 この歌は『一握の砂』の「煙 二」に収録されています。「煙」には故郷の岩手県での追憶の歌が主に収められています。ですからこの歌のうす紫の花は、啄木が幼少を過ごした渋民村かどこかの畑で見慣れた馬鈴薯の花であることでしょう。

 啄木の第一歌集である同歌集の初版刊行は、1910年(明治43年)12月です。
 「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり…」という、若すぎる晩年の悲哀の(二度目の)東京生活。都会にそぼ降る雨の中で、故郷の馬鈴薯畑の花に降る雨を連想して詠んだ、切ない望郷歌です。
 その死まで後2年ほど。啄木は何を想っていたのでしょうか。

  馬鈴薯の花咲く頃と なれりけり 君もこの花を好きたまふらむ
 
 この歌は、同歌集の「忘れがたき人々 二」に収録されています。「忘れがたき人々」には、1907年(明治40年)5月から翌年3月までの、北海道放浪生活中に出会った人や事物が詠まれています(『さいはて-千鳥-冬の月』参照)。ですから、この歌の馬鈴薯の花は、北海道の広大な畑に咲いている花を詠んだものです。

 この歌を読み解く鍵となるのは、歌の中の「君」です。
 啄木の北海道での最初の地は函館でした。その地で啄木は弥生尋常小学校の代用教員を務めました。そこで橘智恵子という女性を知り、淡い恋心を抱いたのです。しかしこの恋はやがて相手の女性の結婚によって、はかなく消えてしまいます。
 啄木自身は節子と既に妻帯していますから、横恋慕ということになります。

 しかし恋は恋。啄木自身の中で、異郷で巡り合った彼女の面影は消しがたく、ずっと引きずっていたのです。その後の札幌、小樽、釧路での生活とは、啄木にとって「センチメンタル・ジャーニー(傷心旅行)」をしただけだったのかもしれません。
 だからやること為すことうまくいかず、再び東京行きを決意した…。

 そうするとこの歌は、橘智恵子が結婚した後、北海道のどこかの地で作られたということになりそうです。この歌には、彼女の面影が馬鈴薯の花に投影されているわけです。

 (大場光太郎・記)

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