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街夏至祭の装いに

   輝きて街夏至祭の装いに   (拙句)

 本日6月22日は、ただ単に梅雨晴れ間と言うもはばかられる、大快晴の暑い一日となりました。きのうもそうでしたが、ここにきてそれまでの鬱陶しい梅雨空を一気に晴らすような輝くばかりの真夏の一日です。

 郊外に位置する我が居住地は、比較的緑豊かな街並みと言えます。昼日中(ひるひなか)大きな通りを逸れて、住宅地内の道路を歩いてみました。今まさに中天にある夏の陽に、家の庭々の木々の緑は輝くばかりです。一葉一葉が艶々と生気を帯びて見る者に迫ってきます。
 案に違わず郊外と言えども家々がびっしり立て込んでいるのに、方々から小鳥のさえずりがしきりに聞かれます。小鳥に感情と言うものがあるのかどうか、仔細には分からないものの、それは耳に心地良く、まるできょうの佳き日の讃歌のようです。

 少しの空き地がありでもすると、一面夏草がびっしり繁茂しており、中に淡いビンクの花の一群れ、強いオレンジの花の点在、遅咲きのたんぽぽの二、三輪などが認められます。人工的に手入れされた花壇には及ばないものの、自然が巧まずして織りなしたちょっとしたお花畑の趣きです。
 紫陽花(あじさい)はこんもりと、時ならぬ陽に当って、赤紫にまた青紫に物憂げに咲いています。空き地の隅の方に二、三本潅木があり、その下は立派な木下闇、仄暗い根本辺りには可憐な紫露草がひっそりと咲いていたりします。その緑陰の向こうには、大輪の白百合が引き立って見えています。

 住宅地の道に沿って北から南へと流下する古びた開渠の、その堀底を伝って流れる水も夏の水の勢い。それまでの雨で幾分水かさを増し、陽にキラキラ光りながら、まるで生あるもののように躍りながら流れています。

 街並みを時折り、心地良い風が肌を掠めて通り過ぎていきます。過日は、
   六月を綺麗な風の吹くことよ
という正岡子規の名句を取り上げました。その中で私は「六月の綺麗な風」とは、梅雨入り前の六月初旬の初夏の風こそふさわしい、と述べました。しかし本日の風光に直に接してみて改めたい気持ちになりました。
 「六月の綺麗な風」は、梅雨晴れ間のちょうどきょうのような風にこそふさわしいのでは、と思い当ったのです。

 大喀血(明治22年5月)をみた直後だったらしい正岡子規が、六月の何日頃の風について詠んだものか、正確には分かりません。しかし、
 「(じとじとと長梅雨が続いた)六月を(なのにきょうに限ってはすっかり晴れ渡り、ことのほか)綺麗な風の吹くことよ」と感じ入って詠んだのかもしれないのです。むしろその方が真実に迫っていると言えるのかしれません。
 と言うことで、先日の『六月を綺麗な風の』は、あとで以上のことを踏まえて書き直しておきます。

 ところで今年の6月22日は「夏至」にあたります。夏至は二十四節気中の一つで、言うまでないことながら北半球では一年中で一番昼が長く夜が短い日です。以前度々引用しました江戸時代の『暦便覧』には、「陽熱至極しまた日の長きの至りなるを以ってなり」と記されています。
 春分、夏至、秋分、冬至の四大節気は、通常より地上にエネルギー(高次の光)が大量に注がれるといいます。特に夏至と冬至。この日の夜の静かなひと時は、独り端座して瞑想し、祈り、沈思黙考するのに最適だそうです。

 街並みを歩きながら、「夏至祭」という言葉がしきりに想い浮かびました。この季語、「歳時記・夏」中の例句でもたまに見かけることがあります。
 しかし我が国で夏至に因んだ習俗はあるとしても、夏至祭という洒落たお祭りの伝統はないようです。これはどうやら北欧の祝祭であるようです。夏が短いかの地では「夏至祭」を盛大に祝う。何となく分かる気がします。
 普段見慣れたわが街。きょうばかりは、輝く陽の光の中の街並みにシャレたお祭を冠したくなり、冒頭の句を作りました。

 (大場光太郎・記)

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