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谷崎潤一郎『陰翳礼讃』

 物皆が強い陽射しにさらされる真夏。そこでは「陰(かげ)」もまた際立ってきます。そのことを示すように、俳句歳時記では「日陰」「片陰」「五月闇(さつきやみ)」「木下闇(こしたやみ)」「緑陰」などはすべて夏の季語であるのです。
 夏の強い陽射しの下でこそ「陰」「闇」は強調される。古えの日本人はそれをよく認識していたことの表われです。

 この季節、我が家の本棚の隅で眠っていた一冊の文庫本を取り出してみました。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』です。中公文庫中の一冊ですが、奥付を見ますと「1990年10月20日20版」となっており、この間の歳月の侵食によって同書の紙の一枚一枚が薄茶色に変色してしまっています。

 この書の解説を記した吉行淳之介は、とうに鬼籍に入ってしまいました。
 この名著、おそらく当座はすぐにでも読了するつもりで求めたのです。一つのテーマ毎に区切られた一文は3、4ページほどと決して長くはないものの、いざ文章が始まってみると、まったく改行なしで延々と続くのです。見開きのページ全体が活字で隈なく埋め尽くされているといった按配です。当今の改行、行空けだらけのスカスカの本を読み慣れた身には、見るだけで頭がクラクラしてきそうです。

 そこで当時確か書き出しの2、3ページ読んだだけで嫌気がさし、『またそのうち時間のある時に…』とそそくさと同書を閉じたのでした。「またとお化けは出たためしがない」とは、ずい分前仕事上で聞いた話ですが、本の場合特にそうです。
 時に手にとってパラパラめくり拾い読みの繰り返し、気がついたら20余年もの歳月が流れていたというわけです。

 それがこの度は「ブログ記事として同書の感想文でも」という事情もあり、全体で50ページ弱と長くはないものの甚だ読みずらい同書を読み始めました。
 しかし肚を決めて読んでみると、最初こそ抵抗があったものの、意外とすらすら読み進められました。そして何よりさすが昭和の大文豪の谷崎の名文、その筆力にいつしかぐいぐい惹きつけられて『次はどんな事が述べられるんだろう』という期待感も募り、あっという間に読み終えることができました。

 まず全体的な印象としては、これは「陰翳」というテーマに的を絞った「優れた文明批評の書」だということです。私は最近の批評家たちの文章など滅多に読みませんからうかつなことは言えませんが、現在並み居る批評家の中で、谷崎潤一郎のこの書に勝る文章を書ける者がいるのだろうか、まずいないのではないだろうかと思われるほど深みのある内容なのです。

 読み進めるうちに、『何でもっと早く読んでおかなかったんだろう』と心底思いました。良書の条件の一つは「もう一度読んでみたくなる本」だそうです。谷崎のこの書は、味わい深い名文章で、もう一度どころか折りに触れて何度でも噛みしめて味読したくなります。

 『陰翳礼讃』は、「経済往来」という雑誌の昭和8年12月号、9年1月号の連載が初出のようです。それなのに、同書の中には「電気ストーヴ」「瓦斯(がす)」「ヒーター」などが出てきます。一部富裕層が主だったとしても、当時既に平成の今日とさして変わらない欧米式の生活様式が顕われていたことがうかがわれます。
 そのような容赦なく近代化しつつある都市生活の中で、日本文化が連綿と維持してきた、そこかしこにあった奥深い「陰翳」が次々に失われつつある。谷崎はその事に言いようのない愛惜の念を以って綴っているのです。

 漆器や和紙や蒔絵、羊羹(ようかん)などの手工芸品に見られる陰翳の襞(ひだ)。陰を嫌うようなのっぺり屋根の洋館に比すに、日本古来の伝統的な木造建築の家毎陰で包み込むような長庇(ながびさし)。障子、床の間、掛け軸、表具に透かし見られる陰翳の綾、奥座敷の底深い陰翳。照明を極力抑えた、歌舞伎の女形や能や人形浄瑠璃の微妙な陰翳が醸し出す美。果ては昔の女性の鉄漿(おはぐろ)や、日本人と西洋人の「肌の白さの違い」にまで考察が及んでいます。
 優れた作家というものは、ここまで一つ一つの事物を微細に観察出来るものなのかと驚嘆するばかりです。

 こう述べても何ですから、「百聞は一読に如かず」というもので、導入部にほど近い「厠(かわや)」について述べた一文を、最後にそのまま引用してみます。皆様も機会がおありでしたら『陰翳礼讃』をじっくりお読みください。現代の日本人が闇雲に“明るさ”だけを追い求め、結果いかに古き良き伝統美としての「陰翳」を失ってしまったか、認識を新たにされるに違いありません。
                      *

 私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内される毎に、つくづく日本建築の有難みを感じる。茶の間もいヽにはいヽけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋(おもや)から離れて、青葉の匂(におい)や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ(むしろ)生理的快感であると云われたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空の色を見ることの出来る日本の厠ほど、格好な場所はあるまい。そうしてそれには、繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清廉であることと、蚊の呻り(うなり)さえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。私はそう云う厠にあって、しとしとと降る雨の音を聴くのを好む。殊に関東の厠には、床に細長い掃き出し窓がついているので、軒端や木の葉からしたヽり落ちる点滴が、石燈籠の根を洗い飛び石の苔を湿(うる)おしつヽ土に沁み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことが出来る。まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、おそらく古来の俳人は此処(ここ)から無数の題材を得ているのであろう。されば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるとも云えなくはない。総てのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処(どこ)よりも不潔であるべき場所を、却って、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。 (以下省略)

 (大場光太郎・記)

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コメント

 本記事は2011年6月30日公開でしたが、今回トップ面に再掲載しました。 (2017年8月8日)

投稿: 時遊人 | 2017年8月 9日 (水) 05時33分

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