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洞庭湖と鄱陽湖

-嘆かわしいことに、中国の二大名湖が三峡ダムの悪影響を受けているという-

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洞庭湖と鄱陽湖を含む中国江南地区の地図


 最近阿修羅掲示板に、以下の興味深い記事が投稿されました。

『フクシマに似ている「三峡ダム」問題 地滑り・土砂崩れが4719か所で発生 河は魚を失い、漁師はゴミをさらう』
日経ビジネス オンライントップ>アジア・国際>中国新聞趣聞~チャイナ・ゴシップス
フクシマに似ている「三峡ダム」問題
反対封じのツケ噴出、ポスト巨大ダムの行方はいかに
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/428.html

 同文はジャーナリストの福島香織氏の優れたレポートです。同女史はかつて中国の大学に留学し、何年か前三峡ダムも訪問した中国通であるだけに、総額230億ドルかけて建設されたという、世界最大級という重力コンクリート式の水力発電同ダムの抱える問題の深刻さをよく認識させられます。
 今年は特に4月、5月の周辺5省を襲った大旱魃、一転6月の集中豪雨被害によって、あらためて三峡ダムが問題視され、温家宝首相も「同ダムには問題がある」と中国政府首脳として初めて認め、中国全体で議論となっているというのです。

 詳細は同レポートをお読みいただくとして、その中で王井泉氏という専門家の次の指摘がありました。
 「三峡ダムはもともと旱魃に対応するよう設計されていない。」「三峡ダムの設計時、建設後の生態環境へのマイナス影響については、確かに十分には考慮されていなかった。三峡ダムは洞庭湖や鄱陽湖の水位に影響を与えているだろう」
 王氏の指摘の中で私がにわかに興味を覚えたのは、「洞庭湖や鄱陽湖の水位に影響を与えているだろう」というくだりです。

 ご存知の方もおありでしょうが、両湖は中国史上名高い「名湖」なのです。このような歴史的名湖にまでダメージを及ぼしているというのですから、万里の長城以来の国家プロジェクトという三峡ダム問題の深刻さがうかがわれようというものです。
 ここからは三峡ダムから離れて、この二大名湖について述べてみたいと思います。

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洞庭湖。さすがは大陸的湖。広さは琵琶湖の約4倍という。

洞庭湖

 洞庭湖(どうていこ)は湖北省北東部にある淡水湖で、中国の淡水湖としては次に述べる鄱陽湖(はようこ)に次いで2番目に大きな湖です。全体的に浅く、長江と連なっており、「湖北省」「湖南省」の省名はこの湖の北と南にあることからつけられたものです。

 洞庭湖一帯は風光明媚の地として知られ、この地から古来幾多の歴史と文学が生まれてきました。例えばドラゴンボートによるレースは、この湖の東岸で始まったとされています。
  汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ 巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ   (『昭和青年の歌』より)
 その由来は、洞庭湖に流入する川である汨羅江(べきらこう)に入水自殺した戦国時代の憂国の詩人・屈原(くつげん)の遺体を探し出そうとしたことにあるとされています。

 また唐の時代には、李白、杜甫、孟浩然といった盛唐を代表する詩人たちが、その風光を名詩として残すなど、古来文人墨客が訪れたことでも有名です。
 李白と杜甫による同湖の詩は、いずれ『名詩・名訳詩』で取り上げるとして、今回は孟浩然の詩を紹介してみます。

   八月湖水平   八月 湖水は平らかに
   涵虚混太清   虚を涵(ひた)して太清(たいせい)に混ず
   気蒸雲夢澤   気は蒸す 雲夢(うんぼう)の沢
   波撼岳陽城   波は撼(ゆる)がす 岳陽城 
   欲済無舟楫   済(わた)らんと欲するも舟楫無く
   端居恥聖明   端居して聖明に恥ず
   座観垂釣者   座(そぞろ)に釣を垂るる者を観て
   徒有羨魚情   徒らに魚を羨むの情あり

 いやあ、今回原詩と訓読みを一字一字組み立ててみて、この詩の良さを再発見しました。この詩もいつか機会をみて取り上げてみたいと思います。

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鄱陽湖。中国最大の淡水湖。湖の表面積は、季節により146km2から3,210km2まで変わり、長江の水流を調節する役目もしているという。

鄱陽湖

 鄱陽湖は江西省北部、長江南岸にある湖です。先ほど触れましたように中国最大の淡水湖です。
 洞庭湖が「文の湖」とすれば、鄱陽湖は「武の湖」ということができます。

 そもそも「鄱陽湖(はようこ)」と聞いて『あっ、三国志だ !』とピンときた人は、かなりの三国志通です。そうなのです。中国史上名高い「赤壁の戦い」の直前まで、この鄱陽湖で周瑜(しゅうゆ)は呉水軍の水練に余念がなかったのです。
 西暦208年百万と豪語する魏の曹操の大軍が南征してきた時、呉は荊州の劉備軍と連合し、周瑜を大都督(総指揮官)として魏軍を迎え撃ち、赤壁で魏軍を壊滅させる大勝利を得たのです。赤壁は鄱陽湖と洞庭湖の長江に沿って「への字」にくねった中間より洞庭湖に寄った所に位置する長江の古戦場です。(この戦いに至るもう少し詳しい経緯は、『レットクリフ&三国志』シリーズで述べました。)

 「武の湖」としての鄱陽湖の面目は、三国時代で終わるものではありません。
 遥か時代が下った元(げん)代末期、今度は鄱陽湖自体を舞台とする大会戦が起ったのです。後に明(みん)を建国した朱元璋(しゅげんしょう)と、大漢国王を僭称していた陳友諒との「鄱陽湖の戦い」です。

 元々は盗賊とさほど変わらなかった朱元璋の軍は1355年、南下して長江を越えたあたりから急速に勢力を拡大していきました。そして1363年、陳友諒軍と最後の大決戦となったのが鄱陽湖の戦いでした。
 “赤塗り”の陳友諒軍は巨艦数百艘、兵員60万と号する大軍です。方や“白塗り”の朱元璋軍の船団は、小型船中心で兵員20万。規模からして陳軍の方が断然優位に立っていました。しかし朱軍の圧倒的劣勢を補ったのが、朱軍の智謀です。

 陳友諒軍の船団は、巨艦を集めて艦と艦を鎖で繋いで陣としていました。朱元璋軍はそこに狙いを定めたのです。即ち「火計」です。朱軍は苦しい戦いを強いられていましたが、戦いの3日目にわかに東南の風が吹いたのを幸い、小回りのきく小型船による決死隊の火船7艘を陳軍に突っ込ませ火を放ちます。折りからの強風で陳軍の鎖連結艦隊は大炎上。「煙焔天に漲り、湖水悉く赤なり」という地獄絵図と化したのです。
 この戦いで陳友諒は戦死し、ここに朱元璋軍は大勝利したのです。その後1368年、朱元璋は中国を統一して明を建国、初代皇帝となりました。

 ところでこの鄱陽湖の戦いでの「巨艦連結」「火攻め」「東南の風」、どこかで記憶にないでしょうか?そうです、赤壁の戦いと瓜二つなのです。
 実は『三国志演義』をまとめた羅貫中が、この戦いを赤壁大戦での「連環の計」「火計」にそのまま借用したのです。羅貫中が借用したのがもう一つあります。朱元璋の帷幕には劉基(りゅうき)という名参謀(明国初期の名政治家)がいました。鄱陽湖の戦いでの「火攻め」は劉基の建策で、羅貫中はこの劉基のイメージから、神算鬼謀の名軍師・諸葛孔明像を作り出したのです。

 (注記)本記事は、フリー百科事典『ウィキペディア』を参考にしてまとめました。

 (大場光太郎・記)

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コメント

 本記事は2011年6月27日公開でしたが、今回トップ面に再掲載します。
 この時期は、当ブログ記事がある人によって阿修羅掲示板に集中的に投稿されていた時期で、この記事も投稿していただきました。投稿された当ブログ記事の中でも阿修羅読者たちの受けがよく、結構上位にランクされたと記憶しています。なおのちに、投稿してくれていた人と阿修羅管理人さんとの間であることが原因で大喧嘩となり、結局その人は阿修羅を去り、私の記事も投稿されなくなりました。
 今回の再掲載にあたり画像を挿入しました。なお、文中、孟浩然の詩を掲げましたが、詩冒頭の「八月」とは陰暦八月の意で、今日では十月初旬頃に当たると思われます。

参考記事(阿修羅掲示板への投稿版)
洞庭湖と陽湖 (今この時&あの日あの時)
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/447.html
(※ そうだ、今思い出した。このタイトル「文字化け」してたのでした。また、閲覧回数等はその後リセットされたようです。)

投稿: 時遊人 | 2018年10月 6日 (土) 02時19分

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