« 書中お見舞い申し上げます | トップページ | 菅「違法献金事件」は起訴までいくのか? »

40年前の市議選奮闘記

 きょう7月10日(日)は、当厚木市の市議会議員選挙の投票日でした。4年前もそうでしたが、今回もまた棄権しました。なぜってさほど関心が湧かず、特に入れたい候補も見当たらなかったものですから。
 これだけ腐っても、国政選挙だけは毎回必ず投票します。ただし「菅民主党」及び「民主党B」が続く間は、昨年6月上旬のお約束どおり民主党には絶対投票致しません。(代表選で菅支持だった後藤祐一。この次は覚悟せよ。)

 この1週間朝っぱらから、けたたましい選挙カーからの絶叫の声。そんな選挙モード一色の日々で、私はかれこれ40年前となる当市市議選の思い出が甦ってきました。
 同じく7月某日投票日で、確か例の浅間山荘事件が起きた昭和47年(1972年)の事だったかと記憶しています。
 当市議選はそれから4年ごとに何回もあったのに、なぜその時の市議選だけ鮮烈に思い出されるかといいますと。私たち当時の厚木市の若者グループのリーダー的存在だったSさんが同市議選に打って出たからです。
 そのため選挙の「せの字」も知らない私たちも、こぞって俄か選挙活動家としてSさんの選挙を手伝うことになったのです。

 Sさんはその時確か27歳。23歳だった私とは4歳ほど年上でした。身長は160cmの私より少し低いくらいでしたが、見るからに精気とパワーを感じさせる人でした。
 この人と当時私の勤務先の上司だったMさんとが同じ年で、無二の親友だったのです。二人やその他の仲間たちがSさんと知り合ったのは、彼らの成人式当日だったといいます。何でも式終了後、Sさんが成人式仲間に「今後我らの手で明るい厚木市を創っていこうではないか」というような事を一席ぶって、それに共鳴した男女十数人の仲間がその時出来上がったというのです。
 Sさんは元は東京出身で、親父さんの仕事の関係で、10代終わり頃厚木市に引っ越してきたようです。

 私は当市に来て1年が経過した頃、約1年間隣町の伊勢原市(当時は確か町)でMさんと共同生活をしたことがあります。Mさんは業務上の資格を取得し、私が勤務していた会社の営業所の形で伊勢原に事務所を構えていて、私はその部下として業務を手伝ったのです。
 Sさんはそこを何度か訪問し、ある夜はSさんら同世代の男女7、8人が、私らが寝泊りしている部屋で会合を開いたこともありました。
 私自身はほどなくまた厚木市の本社に戻りました。

 今の「個の時代」からは想像もつかないでしょうが、当時は同世代の若者たちの連帯感が強い時代でした。本厚木駅前のラーメン屋に入り、たまたま同じ年頃の若者と隣同士になったりすると、まるで百年の知己であるかのように意気投合、ラーメンをすすりながら話が盛り上がったりしたものでした。
 東北出身の私はいつも孤独で、ある時たまたま参加した市のコーラスグループの練習で、終了後1歳年上の綺麗なお姉さんにグループ加入を勧められ、ついクラクラとなり、そのまま同グループの一員にもなりました。

 そんな折り厚木の事務所に来ていたMさんから、「Sさんの家で毎土曜の夜飲み会があるから参加しないか」と誘われたのです。仕事が終わればコーラス練習日以外は暇をもてあます身、一も二もなく参加することにしました。
 Sさん宅は、市内郊外を流れやがて相模川に注ぐ小鮎川沿いの、少し坂を下った木造平屋でした。当日夕行ってみますと、既に準備完了で、Sさんも生業とする豆腐製造業の作業場のすぐにある三畳間に、テーブルが並べられ、その上には2、3の卓上コンロと手頃に刻まれた肉や野菜やビールがどっさりありました。中には十人弱ほどの、私より年上の人たちがずらり座っています。
 部屋は肉を焼く煙が立ち込め、もう飲み会は始まっていました。そうして夜が更けるまで飲み食いしながら、Sさんを中心に世間話、各人の出身地や仕事の話、他愛ないエロ話、時事的な話などに興じていくのです。

 私はいつしかその飲み会の常連になっていきました。ある年の夏はこの仲間で、津久井の山奥の山荘に泊まりに行ったこともあります。
 そして問題の昭和47年です。確かこの年Sさんから年賀状をいただき、その文末に「末は博士か大臣か」などと時代がかった文句が記されていました。
 その頃では私が所属しているコーラスグループも含めて、厚木市内のめぼしいグループをSさんは掌握し、いつしかSさんは若者グループの中心的かつカリスマ的存在になっていました。そしてその年の何月だったか、「Sさんが今年の市議選に若者代表として立候補する」という話になったのです。

 選挙参謀は飲み会きっての理論家として誰からも一目置かれていた、佐世保出身で市内工業団地A電機勤務のUさんに決まりました。こうして市議選に向けた準備が着々と進んでいったのです。
 5月頃にはSさん宅から数百メートル離れた、バス通りに面した空き地を選挙事務所として使用することが決まり、仲間内の大工さんが先ず土台、床、柱といった骨組みを作り、周壁のコンパネや屋根張りなどは皆で手伝って作っていきました。そして出来上がったのが、何と八角形という異形の選挙事務所だったのです。
 私はこの拠点に、ロクな手伝いもできないながら、投票日まで毎日のように通いつめました。また仕事で知りあった町の若者何人かを訪問し、「Sさんをよろしく」と頼み込んだりもしました。

 選挙事務所がそうだったように、今思えばその選挙手法は何から何まで異例ずくめだったと思います。
 例えば選挙ポスター。これを担当したのはSさんの元からの仲間で、今で言うイラストレーターの卵のHさん。その撮影に私も同行しましたが、何と時刻は夜、厚木市街を見下ろす高台で、私などがスポットライトを当てる中Sさんがマイクを握ったポーズです。
 仕上がったポスターは、異例の黒い背景にスターのようなSさんの顔がくっきり浮かび上がった、なかなかセンスのいいものでした。

 そうこうしている内に選挙戦に突入しました。飲み会で知り合い、コーラスグループにスカウトし大の親友となった同じ年のТ君をはじめ、主なスタッフはA電機社員が占めていました。選挙カーをデコレートしたのは彼らです。
 これが極めつけだったのです。車はSさん所有の、真っ赤な日産サニークーペ。その屋根にТ君ら考案の、候補者名が大書された円形のポスターが設置されました。それが車の電源によって、走っている最中クルクル回る仕掛けなのです。

 それだけならまだしも。選挙カーから聞こえてくるのは、Sさんが予め録音したものを倍速で拡声して流したのです。一時期大ヒットしたフォーククルセダースの『帰って来たヨッパライ』を真似したものでしょうか。
 町の一角の現場でそれを聞きながら、スタッフの一人ながらさすがに違和感を持ちました。仕事上の1年先輩で皮肉屋の一匹狼的Тさんは、「おい、いくらなんでもありゃやりすぎだぞ。何言ってんのかよくわかんねえし、市民に失礼だろ」と吐き捨てたほどでした。

 とにかく恐いもの知らずの素人集団の選挙戦。おそらく今でもあれと同じ事をしたら、目新しいもの好きのマスコミが注目し大々的に取り上げ、全国的話題となるのではないでしょうか。ある意味Sさんの選挙戦は、それほど斬新だったと言えると思います。

 しかし投票が終わり、開票されてみると無残な結果でした。Sさんはブービーつまり下から2番目で、見事落選だったのです。
 大イベントがそういう結果を迎えてしまうと、それまでの結束がウソのようにバラバラになってしまうものです。「4年後の再挑戦に向けて今から新たに出直すべきだ」という意見もありましたが、大勢には至らず、次々にSさんのもとから去っていきました。私もいつしかSさんとは疎遠になっていきました。

 ここに至る経緯はこれ以外にもさまざまな出来事があり、いつか何回シリーズかで紹介したいと考えていましたが、私の半生で唯一経験した選挙戦、今回取り急ぎかいつまんで振り返ってみました。

 (大場光太郎・記)

|

« 書中お見舞い申し上げます | トップページ | 菅「違法献金事件」は起訴までいくのか? »

思い出」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 書中お見舞い申し上げます | トップページ | 菅「違法献金事件」は起訴までいくのか? »