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続・あつぎの文化財獨案内板

甲州道
 江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』は「東海道平塚辺よりの道なり、大住郡岡田村より厚木村に入、妻田、荻野等を過ぎ、半原村より津久井県長竹村に達す、道程凡四里半道幅九尺より二間半に至る」と記しています。現在の国道412号がほぼこれに沿っています。

 「巡礼道」は主に巡礼という特定の人たちが通るための道なのでした。それに対して「甲州道」(別名「津久井道」)は、昔々の民衆たちや牛馬などが往来する一般的な意味での街道だったと判断できます。
 そのため道幅も九尺(約2.7メートル)から(約4.5メートル)と広かったわけです。

 そしてこの道は「現在の国道412号」にほぼ沿っているというのです。なるほど国道412号は、国道246号から分岐した所を起点として、我が街の妻田地区を通り、厚木市の北隣町である愛甲郡愛川町半原やがては津久井(現相模原市緑区)に至る道路です。
 私の記憶では、この道は何年か前までは確か「主要地方道」つまり「神奈川県道」だったはずです。道幅も対向1車線道で、246号のように片側2、3車線もある堂々たる国道とは趣きが異なります。
 ただし(飯山観音よりずっと先の愛甲郡煤が谷村から流下し相模川に注ぐ)小鮎川を挟んだ妻田地区などの西側に、10余年前新設された広い道路も同じ412号です。両道は荻野地区のある地点で合流し一本の道となり、半原、津久井方面に向かいます。

 通常は往時の民衆たちが行き来した甲州道も、時として兵馬が通る道になることもありました。
 戦国時代の代表的武将である甲斐の武田信玄の軍が、永禄12年(1569年)北条氏康の居城のある小田原に攻め入り、同年10月5日小田原城下に火を放って軍勢を引き上げます。その時武田軍の相模国での退却ルートに甲州道がなったのです。
 その途中小戦闘が起り、ために妻田薬師一帯が戦火に包まれたことは『妻田薬師逍遥記』の中で述べました。その後武田軍は甲州道(西)の途中から右に曲がり、中津川を渡った高台の街道(東)を津久井方面に進みます。現在もそうですが、津久井に抜けるには二つのルートがあったのです。

三増古戦場
             三増古戦場

 津久井との境の三増峠(現愛甲郡愛川町三増)には、予め北条氏照・氏邦の軍2万が信玄軍の退路を絶つため守りを固めていました。案の定武田軍が通りかかったことにより、同年10月8日最後の大戦闘が起りました。これを「三増峠の戦い」といいます。
 北条軍は奇襲を仕掛けるなど緒戦は武田軍が苦戦したものの、そこは戦上手の信玄のこと、次第に形勢を盛り返し最終的に武田軍が大勝し、信玄は津久井に軍を移動させ勝ち鬨を挙げています。

 いずれにしても現在我が街の真ん中を通っている主要道路が、昔々「甲州道」(津久井道)と呼ばれていたことを初めて知りました。
 「人に歴史あり」とか言われますが、その伝(でん)でいくと「道にも歴史あり」。今回「あつぎの文化財獨案内板」の略図を眺め、巡礼道、甲州道という二つの道の概要を読んでみてそうに感じました。
 そう言えば作家の司馬遼太郎の著書に『街道をゆく』シリーズがありました。私はつぶさには読んでいませんが、全国の名だたる名街道に秘められた歴史を発掘する試みだったかと記憶しています。

 巡礼道、甲州道がそうであるように、全国各地の歴史と結びついた由緒ある道名、町名、地名などが、戦後特に国道、県道などに名称変更され、「緑ヶ丘何丁目何番何号」などという新住居表示に変更されてきました。
 それによって各地域の歴史は新名の深いところに埋められ、いつしか忘れ去られていってしまうわけです。これはいささか大げさなことを申せば、「大きな損失」なのではないでしょうか。

野中俳諧興行句碑

 肝心の「あつぎの文化財」ですが、1~8番まであります。それは以下のとおりです。

 1.妻田薬師  2.清源院  3.八幡神社  4.林神社 人形芝居舞台  5.山ノ上2号墳  6.子ノ神遺跡  7.福伝寺  8.野中俳諧興行句碑

 これはあくまで当地域限定であり、厚木市全体として何ヶ所かの「あつぎの文化財獨案内板」があるようです。
 文化財についても一つ一つご紹介したいところですが、切りがありませんので省略させていただきます。なお「1.妻田薬師」についてのは、『妻田薬師逍遥記』で概略紹介してあります。


   野中俳諧興行句碑(青蓮寺)

 私も少々俳句をかじっている関係で、今回は「8.野中俳諧興行句碑」のみ簡単に紹介しておきます。
 「三田(さんだ)青蓮寺の境内にある円柱形の句碑で、芭蕉の俳句「長き日を囀(さへず)りたらぬ雲雀哉(ひばりかな)」をはじめ、35人の俳句が刻まれています。元治元年(1864年)造立」
 後世「俳聖」と讃えられる松尾芭蕉の本業は俳諧師です。俗な言い方をすれば、江戸城下や周辺各地に俳諧興行に出向くことでメシを食っていたわけです。厚木にやって来たことも十分考えられます。

まとめ

 NHK総合で『ブラタモリ』という路上観察番組があります。例えばタモリの母校である早稲田大学界隈や原宿、表参道、渋谷など、都内の道を江戸時代、明治時代の古地図を頼りにぶらぶら歩き、時代の古層に埋もれてしまった古い街並みや旧道、旧河川、旧跡などを再発見、再現してみようという企画です。(今年5月日本地理学会賞受賞とのこと。)
 そうやって歩いていくと、視聴者もハッとするような思わぬ発見にぶち当り、けっこう面白い番組です。再現されるのは私たちのメンタルの中だけであり、それによって往時の街並みなどが復元されるわけではもちろんありませんが。

 「歴史」とは、継続性、連続性と捉えることができます。断絶、断層があっては、歴史はそこで途切れてしまうのです。この国はかけがえのないものをどっさり失って、バブル崩壊後やっとそのことに気がついたようです。
 「町おこし」にみられるように、各地のユニークな良さを見直す機運が高まったのもその頃からです。今回の「あつぎの文化財獨案内板」もその延長線上にあるものなのでしょう。古るきを換び起こす、市民の良き標(しるべ)として評価出来ます。  -  完  -

参考・引用
フリー百科事典『ウィキペディア』-「三増峠の戦い」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A2%97%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
NHK『ブラタモリ』番組公式サイト
http://www.nhk.or.jp/buratamori/

 (大場光太郎・記)

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