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昭和天皇の戦争責任(1)

 8月15日の終戦記念日までの半月くらいは、「戦争と平和」について考えるまたとない季節です。私は毎年恒例のように終戦記念日には、それについの所感を述べてきました。
 最近「阿修羅掲示板」で格好の資料が見つかりました。今日までタブーとされている「昭和天皇の戦争責任」「近代天皇家の裏側」などに光を当てた論考です。終戦記念日まで随時転載していきたいと思います。

 私は既に『天皇家3代の御名考(1)~(3)』『菅政権幹部らは両陛下の後ろ姿を見習え』などを公開しましたとおり、皇室に対する敬愛の念は人並み以上だと思っています。
 だから下記のような論考を読んだ時はかなりのショックでした。これは事実なのだろうか。どうも事実であるようだ。もし事実ならば、もうすべてを白日の下にさらすべき時なのではないだろうか。
 ただ真に事実かどうか、それは私も含めてお読みになるお一人お一人が慎重に判断すべきものと思われます。

 この論考は、今年1月13日に阿修羅掲示板に投稿された
 『あなたの知らない「天皇家」の謎 皇室の祖先にワニがいた !?』
 http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/256.html
のコメントとして発表されたものですが、今回当ブログで公開させていただきます。

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01. 2011年1月13日 11:34:53: MiKEdq2F3Q

日本人はみんな,天皇家は精神薄弱の家系で昭和天皇も自分では何一つ決められない意志薄弱の知恵遅れだと思い込まされてきた.

しかし,それは世を欺く仮の姿だったのだ:

ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。

私は裕仁を子供の頃から存じている。

彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。

ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。

だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

 (以下の部分、上記の重複があるので削除)

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」
太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895~1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

「吉田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任した。

吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルドの影響を受けていた。

吉田茂の養父である吉田 健三。
吉田 健三(吉田茂の養父)は帰国後、横浜に移って英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげる。
ジャーディン・マセソン商会はロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。
富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。

そして吉田茂の妻となった牧野雪子。
牧野雪子はアリスを通じてモルガン=ロスチャイルドの洗脳教育を受けた。
在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。

このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。

吉田茂は妻となった牧野雪子により、天皇ともつながりを持つようになる。
吉田茂ー牧野雪子ーキャボット=アリスー九条節子(昭和天皇・裕仁の母)=天皇

吉田もモルガン=ロスチャイルドに寵愛され、出世街道を上昇して行く。雪子は麻生太郎首相の祖母である。

麻生の正体                                                             
 太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」こと吉田茂は、今の自民党総裁選の本命=麻生太郎の祖父だった(鬼塚英昭「天皇のロザリオ」上p403、成甲書房)。
 その功績で、トルーマン米大統領と占領軍最高司令官Dマッカーサーの決定で、吉田茂が戦後最長の長期政権の首相になった。
 麻生一族は、明治期に天皇が50万人の日本女性を拉致・連行して欧州へ女郎として売り払った時の石炭会社と石炭船運行会社のオウナーだった。それで儲けた麻生の会社は資本蓄積して発展した(「オルタナティブ通信)。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/456.html

昭和20年8月15日には、実は広島にあった陸軍の半分を指揮する第二総軍司令部は、8月6日の原爆で既に壊滅していた。だからクーデターは起こせない状況にあった。天皇一派は、陸軍による戦争継続を求めるクーデターを一番警戒していた。そのために終戦決定に当たっては、陸軍の叛乱が絶対に起きないように手を打っておかねばならなかった。  広島にあった陸軍の第二総軍司令部が原爆で壊滅したのは、偶然ではなかったのだ。

 天皇一族は、なんと昭和20年6月の時点で(!)ヨハンセングループを通じて、原爆投下の情報を実質的米国権力者のスティムソン陸軍長官からの指令で受け取っていた。ヨハンセングループとは、米国機密文書に出てくる秘密名の日本側組織であり、参加者は、牧野伸顕・吉田茂・樺山愛輔・岡田啓介・米内光政たちであった。このグループは、当然ながら戦犯に指定されていない。

 スティムソン陸軍長官からグルー駐日米大使、さらにヨハンセングループへとルートがあり、そのルートを通じて天皇一派は戦時中も米英勢力と繋がっていたのである。
昭和天皇は20年6月にスティムソン側から、原爆投下の場所と日時を決めるよう要請を受けた。そして広島に、8月6日午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ。その仲介をしたのがヨハンセングループであった。

つまり天皇は敗戦によって自分の生命と財産が保全されることが連合軍に保障されたので、ポツダム宣言受諾という形で敗戦を決めたが、それを陸軍に邪魔されたくなかったので、米軍に頼んで広島の陸軍司令部を叩き潰してもらったのであり、広島市民40万人はその犠牲にされたのである。

 当時の陸軍大臣阿南惟幾は8月15日未明に割腹自殺を遂げているが、その直前に部下に「米内(海相)を斬れ!」と言い残している。阿南陸相は一連の原爆攻撃から終戦工作の経緯を知っていたのかもしれない。

 ヨハンセングループの連中は、戦後、口を揃えて、原爆投下は終戦のための「天啓」だったなどとヌケヌケと発言したのであった。 それにしても、天皇やヨハンセングループが原爆投下の場所・日時を指定していたことは、ソ連参戦をも承知していたのであろう。ソ連軍が満州に侵攻する準備が整うまで、戦争を引き延ばしていたとも取れる。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6670188e626bc9a6e9269a37b1c57f5e
(転載終わり)

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真実の近現代概略史」カテゴリの記事

コメント

昭和天皇は、天皇の命令によって動く軍隊を望んだのではなく、天皇の希望に沿って動く軍隊を望みました.
1941年9月6日の御前会議で、明治天皇の歌を読んだことに対して、多くの方が天皇の気持ちに背いて、軍部は戦争を行ったと非難しますが、これはその典型だと言えます.
天皇の気持ちにそって、軍隊が動くことが良いことなのでしょうか?
昭和天皇は1937年8月18日、閑院宮参謀総長に下問した。(陸軍参謀総長)
「いろいろな方面に兵を用いても戦局は長期化するばかりである。重点方面に兵を集中し大打撃を加え、我々の公明なる態度を以って和平に導き、速やかに時局を収拾する方策はないか」
この時の天皇は『方策はないか』と聞いただけなのでしょうか.現実には天皇の希望に沿って、蒋介石に大打撃を与える戦争に進展して行きました.
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昭和天皇の戦争に対する考え方は、
『勝てる戦争ならやろう.負ける戦争はやめよう』ではなく、
『勝てる戦争ならやろう.戦争に負けるのは嫌だから、勝てる様に考えてやれ』なのです.
昭和天皇には戦争をやめるという考え方はありません.昭和天皇の考え方では、どんな戦争でも勝てることになる.
つまり、こと戦争に限って言えば、昭和天皇の辞書に不可能はないのです.

投稿: ルミちゃん | 2011年9月18日 (日) 15時49分

 ルミちゃん様
 大変貴重なコメントをいただきありがとうございます。
 それにしても「昭和天皇の戦争責任」というか、昭和史に関してかなりお詳しいですね。
  四方の海皆はらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらん
 開戦決定の御前会議で昭和天皇が引用した明治天皇の歌はこれでしたよね。この記事を公開するにあたり引っかかったのが、この故事だったのです。『平和主義者の天皇と戦争好きという天皇と、どっちが実像なのだろうか?』と。
 しかしこの歌の引用すらもが国民を欺く一種の戦術だったとしたら、話はまったく違ってきますね。
 どうやら昭和天皇の「ナポレオン狂」はかなりのレベルだったということなのでしょうか。平時の一般国民のナポレオン狂なら、その人間の人生上のモチベーションを高めこそすれさほど害にはなりません。しかしこれが戦時下の“大元帥”がそうだったとなると大問題です。
 近年保守系(右系)知識人や国会議員などから言われている「自虐史観を見直せ」論より先に、昭和天皇の戦争責任見直しの方が必要だと思います。

投稿: 時遊人 | 2011年9月18日 (日) 23時49分

最近になってやっと裕仁や吉田茂らの売国奴が世に晒されてきて嬉しい限りです。

コイツらとコイツらを礼讃してきた取り巻き連中には厳重な天罰を望みます。

投稿: 愛国者 | 2012年9月16日 (日) 11時02分

愛国者様
 「愛国者」と名乗っておられるので熱烈な天皇崇拝者、したがってこの記事への猛烈な反論か?と、かなり身構えて貴コメントに臨みました。しかし実際はそうではなく、むしろ共感されているのでホッと一安堵しました。
 考えてみれば。「神聖にして侵すべからず」という戦前、戦時中の天皇とその取り巻きに関して、極めて重大な情報隠匿がこれまで為されてきたとなれば、それを白日の下に晒すことこそが「真の愛国者」というものですね。

投稿: 時遊人 | 2012年9月16日 (日) 14時25分

太平洋戦争については、私自身いろいろ勉強しましたが、どうも表向きと真実が天地の違いがあるようだと思います。
昭和天皇に関しても、以前から「天皇は反対したが陸軍が勝手に進めた。海軍は反対してた。陸軍が実質的に主導権を持ち、天皇は反対できなかった。」という説がまかりとおってて、私もそう思ってましたが、最近やっといろいろネット中心に書かれるようになり全く逆だったようだと確信するようになりました。
実に巧妙な汚いやり方ですね。
自分の命乞いのみならず、天皇位すら降りたくなくて、300万人を殺した罪を全て陸軍になすりつけるため女を連合国首脳にあてがい、さらに戦前も海軍ともどもアメリカと密かに通じてて、原爆使いたくてうずうずしてる米軍に広島に落とさせて、言うこと聞かない陸軍壊滅させるとはもうあきれ果てますね。

戦後は、戦争責任回避のためひたすら海洋学者を装い、質問されても「あ、そう」とのんき爺の不利をする。
昭和50年にテレビで原爆投下について記者から質問されたときの映像見ましたが「え~、まあ、戦争中でもありますし、市民は気の毒と思いますが仕方ない面もあったのかと、」とほざいてます。上記のことが事実だと自ら証明してるようなものですよ。邪魔な陸軍を米軍につぶしてもらうために、原爆容認して無辜の広島市民何万人を犠牲にした罪は想像を絶するでしょうね。今頃、あの世のどのへんで罪を償っているのやら。

最後ですが、はなからヨハンセングループ(吉田、米内、牧野ら)とグルでアメリカと通じてたとすれば、なぜそのアメリカ相手に戦争しかけたのでしょう?
うがって見れば、それすらも軍産複合体を儲けさせるためのアメリカ上層部と打ち合わせ済みの茶番劇だったのかもしれないと思いまして。これが本当なら、何も知らず、洗脳されて徴兵され死んでいった彼我の国民に対する罪は天皇のみならず、それで儲けた影のやつら全てにあります。

実際、そんな影の勢力(ロスチャイルドなど)が見えざる手で地球を支配してるというのもよく聞きますが。

投稿: カール | 2016年5月26日 (木) 22時18分

カール様

 コメントありがとうございます。

 おっしゃるとおり、太平洋戦争について「真実が天地の違いがあるようだ」というのはどうもそのようですね。そしてそれは昭和天皇についてもいえそうです。今まで伝えられていた虚像ではなく、裕仁の実像を暴く試みのひとつが本記事で転載した一文だと思います。

 これまでの「昭和天皇は平和主義者」という通説は、昭和天皇、天皇家そしてそれに連なる旧財閥、旧軍閥などの天皇制ヒエラルキーをこの国で維持し続けるための作為的な仕掛けだったわけです。

 ご存知かと思いますが、今問題になっている安倍晋三(先祖は長州藩田布施朝鮮人部落)、麻生太郎、谷垣禎一、世耕弘成ら「日本会議」の中核メンバーは、戦時中政権や軍部の上層部でさんざん甘い汁を吸った連中の子孫ですよね。

 こんな連中の「美しい国」幻想に付き合ういわれはまったくありません。

 こういう情報がどんどん開示されているのは、これぞ「ネットの力」だと思いますね。

 天皇家に関しては、孝明天皇その子の陸仁親王は伊藤博文など長州田布施一派に暗殺され、「明治天皇はすり替えられた」というのは今やネットでは常識です。また明治維新そのものが司馬遼太郎などが美談調で書いたものとはまったく違う、英国ロスチャイルドのシナリオどおりの「フリーメイソン革命」だった訳です。

 当ブログでも、この『真実の近現代概略史』カテゴリーの中で、今後とも嘘の歴史ではない「真実」に迫っていきたいともいます。

 何か貴重な情報がありましたら、お知らせください。 

投稿: 時遊人 | 2016年5月26日 (木) 23時54分

海軍木更津航空隊
http://www.shimousa.net/kaigunkichi/kisaradu.html

日中戦争開始直後の7月11日 戦火拡大に備え、日本海軍中央は即応準備令を発し、木更津空・鹿屋空の中攻主力で第一連合航空隊を編成し、司令部を木更津に置いた(16日に鹿屋空に転進)。
司令部の要員については、司令官として館山航空隊司令戸塚道太郎大佐をあて、先任参謀には菊池朝三中佐が起用された。

8月1日の陣容は木更津本隊は、館山空の中攻を編入し、中攻20機。司令:竹中龍造大佐、准士官以上39名、兵員573名。残留隊は中攻数機、大攻6機で荒木啓吉中佐を指揮官とし、准士官以上15,6名、兵員200名。
鹿屋空隊は中攻18機で司令は石井芸江大佐。

かくして、8月8日木更津本隊は大村基地へ、司令部と鹿空隊は台北松山基地に進出完了した。そして第一連合航空隊は、第三艦隊司令長官(長谷川清中将)の指揮下にはいった。
当初8月8日の移動と同時に、作戦行動を起こす予定だったらしいが、折からの台風の影響で、それは数日延期されることとなった。
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大山事件
【謀略のシナリオ・大山中尉事件】その事実を歴史学的に初めて追及した「海軍の日中戦争」笠原十九司著
http://blog.goo.ne.jp/akebonobashi1937/e/7d4cc7105ad7758c759744f15e22edd7

『管理人が作成した事件現場図』を見てください.

この図が正しければ、自殺行為であったと言えます.
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一般的に大山事件によって、第二次上海事変が始まったように言われているが、海軍渡洋爆撃隊が作戦準備を完了したのは、その前の日の8月8日.
海軍は爆撃の機会を伺っていたので、大山事件がなくても別のことを契機に南京爆撃を行ったはず.

投稿: rumichan | 2016年8月27日 (土) 00時16分

rumichan 様

 貴重なコメントありがとうございます。初めて接する情報ですので、返信は控えさせていただきますが、「日中戦争開始直後の7月11日」とは、盧溝橋事件の起きた1937年7月7日直後、ということでよろしいのでしょうか?

投稿: 時遊人 | 2016年8月28日 (日) 01時49分

1937年7月11日です.
第二次上海事変以降の日中戦争は、1937年8月14日海軍第3艦隊の空母の艦載機による上海地区への攻撃と、8月15日渡洋爆撃隊による南京その他への爆撃によって始まった.と言うか、上海陸戦隊を含め全部海軍が始めた戦争で、陸軍は海軍の要請により派兵し、泥沼の戦争に引き込まれることになりました.
鹿屋航空隊が台湾へ進出し上海南方地区を爆撃した.これはあまり注意を引かないかもしれませんが、普段は日本の首都防衛に当っていた木更津航空隊が大村(済州島)へ進出し、中国の首都南京を爆撃した、この出来事を天皇が事前に知らなかったとは考えられません.

と言うことで、当時の渡洋爆撃隊の動きと、上海方面に展開していた海軍第3艦隊について、ある程度知っておかないと、日中戦争は正しく理解できないと言えます.

第二次上海事変以降の日中戦争は、海軍第3艦隊が主導して始めた戦争である.と言うことで、次は海軍第3艦隊の資料を紹介します.(まだweb上にあると思う)

投稿: rumichan | 2016年8月28日 (日) 16時49分

 またまた貴重な情報ありがとうございます。

 「第二次上海事変以降の日中戦争は、海軍第3艦隊が主導して始めた戦争である」との結論は、昭和天皇が大の海軍びいきだったという説を裏付ける強力な証拠となりそうですね。真珠湾攻撃に始まる日米戦争だけではなく、それ以前の日中戦争も実は海軍主導だったとは!

 rumichan様は、本記事公開間もなくの数年前真っ先にコメントいただいた「ルミちゃん」様と同一の方でしょうか?

 その時の返信でも述べさせていただきましたが、戦前・戦時中の昭和史について(のみならず全昭和史、全日本史についてかもしれませんが)かなり詳しくていらっしゃいます。脱帽です。またの貴重な情報、お待ちしています。

投稿: 時遊人 | 2016年8月29日 (月) 00時01分

1937年7月29日(の午前中)
日本軍の北京進駐を受け、天皇は『そろそろ講和を』と言った.
その言葉に従って、石原莞爾は舟津工作を始めた.
-----ここまでは、陸軍主導の戦争だったのだが.....

この日、223名が虐殺される通州事件が起き、その知らせが午後になって届いた.
当然、天皇の元に政府および陸海軍首脳が集まって、事件に対する対応を協議したはずである.

◎揚子江流域の居留民の引き上げ
http://binder.gozaru.jp/044-choukou.htm

何時第二、第三の通州事件が起るかも知れず、延いては事変の全支波及をさへ憂慮せらるゝに至つた。
斯の如き情勢となつたので、事端の発生を未然に防止し、且又支那側の挑戦的動向に鑑み、
万一事変が全支に拡大する様なことになつた場合のことも考へ、急速収容困難なる長江筋上流の居留民を一先づ引揚げさぜることに決定し、
重慶、宜昌(ぎしやう)、沙市(しやし)は八月一日日清汽船会社船に収容、
我が軍艦護衝の下に漢口(ハンカオ)経由上海に向け下江したのを始めとして、
長沙(ちやうさ)は八月四日発下江、漢口居留民は八月六日頃から事態が急に逼迫して来たので急遽引揚を開始し、
八月七日午後、日清汽舶の鳳陽丸、信陽丸に収容、我が軍艦三隻の護衛の下に、
続いて八月八日九江(きうかう)居留民は瑞陽丸で、大冶(たいや)、蕪湖(ウーフー)の居留民は襄陽丸で、南京、鎮江(ちんかう)居留民は洛陽丸で、夫々我が軍艦護衛の下に引揚げ、これ等の居留民は八月九日午後恙なく上海に到著した。
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偕行社 旧陸軍関係の組織ですが、防衛省関係者(軍関係者)がまとめた資料として価値があります.
◎第三艦隊作戦計画内案 (上海方面に配備された艦隊)
http://www.kaikosha.or.jp/old/_userdata/kin-6.pdf#search='%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E8%BB%8D+kin6.pdf'

『昭和12年度、第三艦隊作戦計画内安』
1.作戦目的
  支那艦隊を撃滅すると共に、外征陸軍と協力し要地を攻略似て、支那を屈服せしむ.
2.作戦方針
  第一期(作戦開始より陸軍主力揚陸まで)
   開戦冒頭、全航空兵力を以て敵航空基地を撃滅し、敵首都を空襲す.
  (以下略)
  第二期(陸軍主力揚陸以降、南京攻略迄)
   航空兵力はその大部分を以て陸戦に協力、その一部を以て首都空襲並びに、.....(鉄道沿線の)各要点を破壊す.
  (以下略)
  第三期(南京攻略以降)
  南京を確保する

8月12日、第三艦隊司令長官長谷川清中将は、事態の急迫に伴い、「この際、速やかに陸軍派兵の促進緊要なりと認む」と東京に打電します。陸軍側は、派兵要員として第11、第3、第14の3師団を準備していますが、不拡大の意見もあって、事態の推移を見守っていました。
米内光政海相は、陸軍派兵要請を受けると四相会議の開催を求めます。ここで陸軍派兵が決定し、翌13日の閣議で上海派兵が正式決定されます。

投稿: rumichan | 2016年8月29日 (月) 21時33分

 たびたび貴重な情報ありがとうございます。

 ただ今、月末で業務多忙のためなかなか当ブログも開けず、貴コメントの公開遅れてしまいました。お詫び申し上げます。折角の情報ですので、私自身最初から読み返し、日中戦争当初の状況をよく把握する一助とさせていただきます。

投稿: 時遊人 | 2016年8月30日 (火) 20時02分

◎昭和天皇の船津工作についての発言(嶋田繁太郎大将無題備忘録)
8月6日、支那沿岸および揚子江方面に於ける用兵関係にて上奏。(軍令部総長)

『近衛首相の話によれは船津が上海にて内面交渉を行う由なるが、うまく行けば宜しいが、
若しこの条件にて支那が同意せさるなれは寧ろこれを公表し、
日本がかく公明正大の条件を出したるに支那同意せさるなりとせば、各国の世論も帝国に同情すへし。
出来るだけ交渉を行い纏らされは止むを得ず戦うの外なし。
先日参謀本部の話に、長引く時に露を考慮するの必要上、支那に大兵力を用い得ずとの事なるがやれる丈けやるの外なし。
陸軍も困ったものなるも、海軍のみにてもしっかりやる様に』
---------------------------------

1.7月29日の通州事件を受けて、8月1日より海軍は揚子江流域の居留民引き上げを開始した.
2.8月6日、海軍軍令部総長が上奏に行ったら、天皇は『陸軍も困ったものなるも、海軍のみにてもしっかりやる様に』と言った.
  何を、しっかりやれと言ったのか?.(海軍だけでも出来ること)
3.その二日後の8月8日、海軍渡洋爆撃隊は前線基地へ移動し作戦準備を完了した.
  翌日の8月9日、居留民引き上げもほぼ完了した.
4.船津工作は、8月9日の大山事件で頓挫してしまう.
  船津工作は、トラウトマン工作、茅野工作へと引き継がれる事になるが、日本側が譲渡した案なので続ければ実現したはず.
  トラウトマン工作は12月1日に蒋介石が受諾の意思を表明したが、同日、日本は大本営が南京攻撃命令を下していた.
  茅野工作は松井石根が行おうとしたのだが、同盟通信の松本重治が日本政府へ偽情報を流して潰してしまった.

と言うことで、船津工作が頓挫した時点から、完全に海軍主導の戦争になっていった.
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おまけ
◎天皇の勅語(スキャン原稿を文字認識ソフトで処理しているので文字化けあり)
大本営設置せらる
陸軍省新聞班
上海方面に作戦中なる陸軍将兵に対し
十一月二十日、午後二時三十分幕僚長の宮殿下を召させられ優渥なる勅語を下賜あらせられた。

勅 語
上海方面ニ作戦セル軍ノ将兵ハ、克ク海軍卜協力シ障礙ト抵抗トヲ擠排シ、敵前上陸ヲ敢行シ
交錯セル深濠連続セル堅塁ノ間ニ、勇戦激闘果敢力攻寡兵能ク敵ノ大軍ヲ撃砕シ、
以テ皇威ヲ中外ニ宣揚セイ、朕深ク其ノ忠烈ヲ嘉ミス
其ノ敵弾ニ殪レ病瘴ニ仆レタル者ニ、思ヒ及へハ惻愴殊ニ深シ、
惟フニ、派兵ノ目的ヲ達シ、東洋長久ノ平和ヲ確立セムコト、前途尚遼遠ナリ
爾等益々志気ヲ淬?冱シ、艱難ヲ克服シ以テ、朕ノ信倚ニ対へヨ

大本営の命令を無視して、現地軍が独断で南京に進撃を開始したと言われているがどうなのでしょうか.
わざわざ大本営を設置して、
『戦争の目的を達成するのはまだまだだ.なおいっそう奮闘して困難を乗り越え、朕の期待に応えよ』
と言われたら、南京へ行かざるを得ないのではないか?.

投稿: rumichan | 2016年8月31日 (水) 22時40分

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