神奈川県の米軍基地(1)
神奈川県内に多くの店舗を有する「有隣堂」の社報『有鄰』については、昨年7月の『生きることは学ぶこと』で既にご紹介しました。その第515号2面に、『神奈川の米軍基地』と題する栗田尚弥氏の興味深い一文が掲載されています。
1面最上部の題字の右に「禁無断転載」とうたってありますが、今回転載させていただきます。有隣堂さん、私は40年以上も、本厚木駅前の貴厚木店で書籍、文房具をずい分購入し、貴店の発展にささやかながら貢献してきました。それに免じてご寛恕ください(これは著作権法上の問題であり関係ないか?)。
栗田尚弥(くりた・ひさや)氏の略歴。1954年東京都出身。國學院大学講師。日本政治外交史専攻。編著『地域と占領』(日本経済評論社)、共著『相模湾上陸作戦』(有隣堂)ほか。
今暗礁に乗り上げている沖縄普天間基地移設問題など、日本各地の「米軍基地」を再検討する時期に来ているのではないでしょうか。
全国の在日米軍基地は、今や「極東有事」という日米安保条約の枠組みを大きく逸脱して、米国のアジア全体の戦略上最重要拠点としての役割まで負わされています。「思いやり予算」などに見られる余りにも過分な負担も問題視されています。我が国は本当にこんな事でいいのでしょうか。
「真の日本の独立」を考えた場合、最大のネックとなるのが「米軍基地」問題です。私たちは今後この基地問題とどう向き合うべきなのか、他県の方々もそのための一つの資料としていただければ幸いです。
長文のため2回に分けて転載致します。なお適宜行空けを行いました。 (大場光太郎・記)
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神奈川県の米軍基地 栗田尚弥
厚木飛行場に降りたったマッカーサー
(1945年8月30日)
日本最大の「軍県」から米軍の巨大な「基地県」へ
終戦まで、日本には、軍都、軍郷と言われた都市や地域があった。海軍鎮守府が置かれた呉(広島県)や佐世保(長崎県)、陸軍の師団や連隊が置かれた金沢(石川県)や善通寺(香川県)、明治建軍以来の演習場である習志野原(千葉県)など、日本各地に軍都や軍郷が存在した。
だが、神奈川県ほど多くの軍都や軍郷を抱えた府県は他にない。鎮守府と軍港の街・横須賀、海軍航空隊が置かれた大和や綾瀬(厚木飛行場)、士官学校や相模造兵廠など多数の陸軍施設が置かれた相模原、海軍火薬廠があった平塚等々、いわば神奈川県は日本最大の「軍県」であった。
1945年(昭和20年)の日本の降伏後、この日本最大の「軍県」は、米軍の巨大な「基地県」となった。神奈川県内の軍都や軍郷には、連合国軍すなわち米軍が占領軍として進駐し、県都横浜には日本全国の連合国軍地上部隊を統括する米第八軍司令部が開設された。占領開始初期には、連合国軍最高司令官マッカーサーのオフィス(後のGHQ/SCAP、通称GHQ)や太平洋陸軍総司令部置かれた。
1952年(昭和27年)4月のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の発効により、米軍は「連合国軍」から「在日米軍」となり、また、1952年2月に結ばれた日米行政協定に基づき、7月から神奈川県下の基地や施設の多くは、そのまま米軍の「無期限使用」に供されることになった。同年7月27日付の米陸軍機関紙『アーミー・タイムズ』は、キャンプ座間を「日本防衛の中枢」と評しているが、キャンプ座間のみならず神奈川県全体が「日本防衛の中枢」、否、米極東戦略の中枢になったのである。
その後、接収解除や今日まで断続的に続いている返還により、米軍の基地や施設の規模は大分縮小されてはいるが、それでも神奈川県内には横須賀海軍施設、海軍厚木航空施設(厚木飛行場)、キャンプ座間、相模総合補給廠など14に及ぶ米軍の基地や施設(総面積2083万8000平方メートル、自衛隊との共同利用面積を含む)が存在する。この数字は、基地・施設数では、沖縄県、北海道に次いで都道府県中第3位、面積では第11位(米軍専用面積では沖縄、青森に次いで第3位)であるが、その機能と役割を考えれば神奈川県はやはり本土随一の「基地県」である。それ故、米軍の基地や施設が、そしてもちろん米軍自体が、敗戦後、今日に至るまでの神奈川県の政治や経済、社会、文化に及ぼした影響は、沖縄県ほどではないにしても、少なからざるものがある。 (以下次回につづく)
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