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2011年9月

これが登石裁判長の正体だ

 以下に『日刊ゲンダイ』9月29日・2面の記事を転載します。根っこにあるのは、我が国の裁判所、検察、日弁連癒着構造ながら、証拠もなしに起訴事実逸脱の「天の声」「5千万円授受」認定し、世紀の悪判決を下した登石裁判長を見すごすことはできません。
 より良きこの国の司法改革に少しでもつなげるよう、これをお読みの心ある方、登石裁判長がいかに“トンデモ判事”かよくご認識の上、ブログ、ツイッター、周りの方々への拡散をお願いします。なお転載にあたっては、適宜行空けをしています。また引用の画像は、日刊ゲンダイ掲載のものとは異なります。
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「史上最低 !」と言われた 陸山会裁判 登石裁判長の過去

 小沢元秘書3人に有罪を言い渡した東京地裁の登石郁郎裁判長(57 = 写真)には、司法関係者からも「この裁判長は何を考えいるんだ」「検察が描いたシナリオの丸のみじゃないか」と疑問の声が噴出している。
 だが、そもそも登石裁判長の判断が「おかしいんじゃないの?」と言われたのは今回が初めてではない。実は西松事件裁判で手詰まりとなった検察が強行した「訴因変更」の一件にも、登石裁判長は関わっていた。

 「大久保被告の裁判で、検察側証人に証言を翻されて慌てた検察は、西松事件に陸山会の政治資金収支報告書虚偽記載をくっつけて、2本立てにする訴因変更を行いました。公判前整理手続きを終えた裁判の訴因変更は、判例では認められていない禁じ手です。そんな検察の“後出しジャンケン”を認める決定を下したのが登石裁判長でした。当然、弁護側は最高裁に特別抗告したが、これを棄却した古田佑紀裁判長は、かつて最高検次長検事だった元検察の大幹部。今回の裁判は、ハナから検察と裁判所が持ちつ持たれつ、ナアナアの関係で進められたようなものです」(司法関係者)

  登石裁判長は、東京都出身。1985年に判事補となり、札幌地裁判事や司法研修所教官などを経て、06年から東京地裁判事を務めている。が、過去に手がけた裁判にも批判の声は出ていた。
 「東京地検で07年、異動前の検事が強制わいせつ被害に遭った女性の告訴取り下げ書を偽造し、不起訴にした事件があった。この捏造検事の裁判で、登石裁判長は『精神的に不安定だった』などの事情を酌量し、執行猶予を付けたのです。今から思えば、一連の検察不祥事の走りで、司法の根幹を揺るがす大事件でしたが、このときも『検察に甘すぎるのでは』との指摘が出たものです」(司法ジャーナリスト)
 06年に法大で学生運動を行った参加者らが一斉に逮捕された事件の裁判では、抗議する被告人らを次々と退廷させ、弁護人から「史上最低の裁判長だ」とも言われた。

 一方、08年にお台場でフィリピン人女性が殺害された事件の裁判では、過去にも女性を殺害したことのある被告に対し、無期懲役(求刑は死刑)を言い渡した。「矯正の可能性がないとは言い切れない」という理由だが、遺体をバラバラにして洗濯機で洗い、トイレに流した殺人鬼だっただけに、法廷がどよめいた。
 何かと不可解な判決の多い裁判長である。  (転載終わり)

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ディック・ミネ『上海ブルース』

 『上海ブルース』 作詞:北村雄三、作曲:大久保徳二郎、唄:ディック・ミネ

  (この歌の1976年ステージ版・Youtube動画のURLのみ表記します。)
   http://www.youtube.com/watch?v=zJAKSwmwJDU

 1939年(昭和14年)発表の流行歌です。歌ったのは、当時人気歌手だったディック・ミネ(1908年~1991年6月10日)。
 歌の舞台は1930年代の上海。まだ生まれてもいず、未だ行ったこともない異国の大都会。しかしこの時代の上海には、なぜか心魅かれノスタルジーを感じてしまうのです。

   涙ぐんでる 上海の
   夢の四馬路の 街の灯
 冒頭からこんな歌詞を出されてしまうと、もういけません。何の関係もないのに、同じ戦前のチャップリンのトーキーの名画『街の灯』のラストシーンがつい連想されたりもします。
 分けても「夢の四馬路」。これは当時の上海にあった街区の名前で、「中央から四番目の馬が通れる大通り」、NYでいえばさしずめ四番街といったところでしょうか。
 およそどんな街並みなのか知りもしないのに、セピア色した四馬路のようすが私の脳内で仄かに浮かび上がってきます。

 この歌の中の「今宵は …思い出す」「何んにも言わずに 別れたね」という「君」。私はこれまでずっと、訳あって上海に渡ってきた日本人男性が、恋仲になった美しいクーニャン(中国人の娘)と別れて、それを想い偲んでいる歌だと思っていました。
 しかし今回歌詞の意味を確かめてみて、『上海のどこかに君はいるのだろうか?』と疑問が湧いてきました。どうも上海に「君」はいないのではないか?
 なお2番の歌詞の中の「エトランゼ」とは、フランス語で「外国人」「部外者」「余所者」などの意味です。この歌の主人公の境遇を月に仮託しているようです。

 1939年といえば、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件が発端となって、中国全土を巻き込む日中戦争へと発展していた時代です。だからこの歌の主人公は、軍服姿の日本軍下士官または上級士官だったなどという無粋な推測は止めにしましょう。
 これは歌に託した一つのフィクションです。日中戦争たけなわでも、戦闘以外の理由で大陸なかんずく上海にやってきた者がいたとしてもいいではありませんか。
 ディック・ミネ自身、日米開戦の1941年以降は当局から「敵性音楽を歌うヤツ」と睨まれ、日本では極端に活躍の場が得られず、上海に活動の場を移したという事情があったというのですから。

 この歌の「君」とは、クーニャンではなく、日本のどこかで「今生の別れ」をしてきた女性であるように思います。その傷心を深く潜めて、この男性は今遠く海を隔てた上海にいる…。

 ディック・ミネは、戦後の1947年(昭和22年)には『夜霧のブルース』も歌っています。

 ここでも「夢の四馬路」「虹口の街」が出てきており、同じく上海が舞台であることが分かります。訳あって戦前上海に流れてきた者がそのまま居留し続け、すっかり“はぐれ者”になってしまった、『上海ブルース』の後日譚のような歌です。
 なお租界(外国植民地)時代の上海にあって、四馬路は主として欧米列強の街区、対して黄浦江の対岸の虹口は日本人が多く居住していた街区でした。

 いずれの歌も、今のチャカチャカしたJポップなどには見られない、秋の夜長にしみじみ聴くに堪え得る、大人の哀愁漂う名曲だと思います。

YouTube『夜霧のブルース』(主演:ディック・ミネ、歌:不明)
http://www.youtube.com/watch?v=m1WzLuvhpNg

 (大場光太郎・記)

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ほんとうの横浜

 神奈川県の老舗書店・有隣堂の広報紙『有鄰』2面に、『「海辺」の創造力』というコラムがあります。横浜にゆかりのある文化人が一文を寄稿しているのです。
 
 第515号の同コラムは、藤原帰一氏の『ほんとうの横浜』という一文でした。同氏は東京大学法学政治学研究科教授で、専門は国際政治学、比較政治学、フィリピンを中心とした東南アジア研究です。
 とお堅い肩書きよりも、テレビの報道番組のコメンテーターとして顔なじみの人も多いことでしょう。私もかつて何度か同氏の話を聞いたことがあります。姜尚中(カン・サンジュン)氏、金子勝氏などもそうですが、思想傾向はよく分からなくても『さすが東大教授、気の利いたことを言うものだ』と感心しながら、同氏のコメントを聞いていました。

 今回ご紹介するのは、そんな藤原帰一氏の「気の利いた一文」です。氏は横浜市戸塚区在住とのことですが、歴史的由緒も折り込んだ「横浜文化論」、横浜紹介文となっています。氏の横浜愛が行間から伝わってくる、これぞ「ザ・エッセイ」の見本のようです。
 文の雰囲気を壊さないため、行の詰まった原文のままの掲載とします。

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本当の横浜   藤原帰一

 横浜の人間だ、という気持がある。
 生まれたのは東京。父の職の関係から引越しを繰り返したので、小学生の頃まで、ここが故郷だと思えるようなところがなかった。外国にいても日本にいるときも、本来の住民ではない余所者、闖入者のような居心地の悪さがつきまとっていた。
 中学生の時、横浜に引っ越してから、気持が落ち着いた。その後も留学や結婚で住所を移したけれど、いつも横浜に帰ってきた。九〇年代に入って、子たちも横浜の学校に通い、横浜の人間だと思うようになった。
 では、横浜はどこを指す言葉なのか。そこがよくわからない。
 篠原町、駅でいえば東横線の白楽に近い私の実家についていえば、ここは横浜だという手応えがある。栗田谷を越えれば港に続く平地だし、県知事の公邸も近い。本牧・山手からぐるりと港を取り囲む山の手の、そのいちばん端っこというイメージだ。
 でも、いま住んでいる戸塚が横浜だ、という感覚が私にはない。横浜よりも劣っているとか優れているとかいった序列の問題ではない。横浜が開ける前から東海道の宿場町として伝統を誇っていたということもあり、戸塚は横浜である以前に戸塚なのである。
 それでいえば、横浜駅が横浜だという気持も少ない。横浜駅周辺より野毛や伊勢崎町の方が市街地も古い。私にとって横浜駅とは横浜への入り口という意味だった。有隣堂だって駅地下のお店で買うことの方が多いのに、伊勢崎町が本店、ダイヤモンド地下街は世を忍ぶ仮の姿だと思いこんできた。
 もちろん私の頭が古いのである。桜木町から大桟橋にかけての「横浜」は開港地の横浜であり、戸塚区とか緑区とか多くの外延を抱えた大都市とは意味が違う。後者は人口は多くても要するに東京への通勤客を抱えた「ベッドタウン」(凄い言葉ですね)としての横浜、前者は人口こそ少ないかも知れないけれど、文明開化の中心拠点、『或る女』の早月葉子が汽車に乗ってわざわざ買い物にやってきた横浜だ。私は、それこそが横浜だ、「ベッドタウン」は横浜の偽者だという観念によって、郊外の住宅地となった横浜の実家から目を背けようとしていた。
 文明開化のおしゃれな町というだけではない。港町だから闇の顔、犯罪だってあるだろう。かつての日活アクション映画では、横浜の倉庫に集うのがギャングの習わしだった。いまはショッピング・モールに姿を変えた新港埠頭は、撃ち合いにはぴったりのフォトジェニツクな空間だった。
 そんな古い「横浜」への郷愁が、私にはある。しかし、私が中学生で引っ越したとき、古い「横浜」はほとんどなくなっていたはずだ。私は、自分が経験したことのない「過去」を仮構し、覚えているはずのない「過去」を思い出し、自分の経験であるかのように思い込んで、「過去」を懐かしんでいることになる。それが私にとっての、ほんとうの横浜だ。 (転載終わり)

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亡国的な陸山会事件判決

 -裁判の争点は政治資金収支報告書の「期ズレ」のはず。検察が総力戦で立件できなかった「裏金」を、東京地裁は何で事実認定できるのか?-

 それにしても非道(ひど)い判決ではないか。26日午後1時半東京地裁で言い渡された陸山会事件3被告への判決である。
 今回の裁判での争点は、政治資金規正法上の収支報告書への記載に期ズレがあったという、ただそれだけの問題なのである。これだけなら与野党問わず五万と存在するであろう微罪である。なのに東京地検は小沢一郎民主党元代表だけを狙い撃ちする形で、石川知裕衆院議員、大久保隆則元公設第1秘書、池田光智元私設秘書を逮捕、起訴したのだ。

 そのため大方の専門家の間でも、3被告はせいぜい罰金刑か無罪ではないかと言われていた。それがいざ言い渡された判決はどうだ。
 登石郁郎(といし・いくろう)裁判長は、石川被告に禁固2年、執行猶予3年、大久保被告に禁固3年、執行猶予5年、池田被告に禁固1年、執行猶予3年の有罪判決を言い渡したのだ。

 そもそも政治家の卵を養成する目的で寮建設のため購入した世田谷土地は、当初農地で登記できず仮登記とし、都知事へ農地転用許可申請し宅地になった後本登記、代金決済、収支報告書記載となったとみられている。これは世間一般ごく普通に行われている土地取引にすぎないのである。これのどこに事件性があるというのか。
 だからこの案件について当時官報は、政治資金規正法上適法な土地取引として掲載したのである。各マスコミもその事実を把握しており、その時は何も問題にしなかったのだ。

 しかし裁判所のすべての実権を握っている最高裁事務総局が放ったと思しき、登石裁判長にかかるとまるで違った判決となるのだ。小沢元代表から借り入れた土地購入代金4億円は表に出せない金、したがって石川ら3被告が共謀してその事実を隠蔽するためだったと指摘。「4億円の原資を隠すため故意に虚偽記載したのは明らか」と断じたのだ。
 それだけではない。検察の期ズレについての起訴事実から大きく逸脱し、「石川被告と大久保被告に5000万円ずつ渡した」という水谷建設の河村尚元社長の供述は信用できると別件判断を下したのだ。

 陸山会事件において、東京地検の本山はまさに水谷側から小沢側への裏金授受だった。大鶴基成、佐久間達哉、谷川恒太ら検察幹部(当時)の狙い通り、これが事実なら小沢元代表の政治生命を絶てるからだ。そのため東京地検は大手ゼネコンの鹿島など関係先を強制捜査し、押収した膨大な資料を優秀な特捜部員が総力で精査した。
 しかし結果としてそれを裏づける証拠資料は何も得られず、秘書との共謀も裏づけられず、小沢立件を断念せざるを得なかったのだ。(次の作戦として大鶴らは、2度の検察審査会を経て「強制起訴」に持ち込むことに方針転換した。)

 森ゆうこ参院議員らの精力的な調査により、「審査員は幽霊だったのでは?」と問題視されている、2回目の検察審査会の「強制起訴」もそうなら、今回の登石裁判長の「裏金授受認定」もそうである。日本一の捜査機関と謳われた東京地検特捜部の捜査というものは、かくも当てにならないずさんなものだったのか。
 だったらいっそのこと、不祥事続きで地に堕ちた検察組織など解体した方がいいのではないか。
 無論この国の司法一家はそんなことはしないのである。今回東京地裁は、敗色濃厚な検察を護ってやったのだ。それが証拠に、3被告への判決は検察の論告求刑通りではないか。
 石川被告への吉田検事の不当取調べの録音の採用、主な検察調書の証拠不採用など、すべてポーズに過ぎなかったということだ。

 これを「暗黒司法国家」と言わずして何と言うのか。戦争遂行に邪魔な者を片っ端から検挙していった戦時中の特高警察もかくやと思われるほどの、前近代的な司法ファッショが今日でもまかり通っているのだ。
 これは10月6日から始まる小沢氏本人の裁判にも、この国の今後の政局にも大きな悪影響を及ぼす由々しき判決である。
 
 これはひとり小沢一郎という政治家個人の問題だけではない。政治的、思想的に「米官業」に睨まれた人物は、警察、検察、検察審査会、裁判所など幾重にも張り巡らされた警察、司法の罠に嫌でも有罪にされ、社会的に抹殺されることを意味しているのだ。

 今回の判決に狂喜乱舞している「第4の権力」がある。新聞・テレビという「官報複合体」の一翼を担う大マスコミである。政権交代前夜の一昨年以来際立った小沢元代表への「CHARACTER ASSASSINATION」(人格破壊キャンペーン)の実態がカモフラージュできる上、またしても小沢の政治的復権が阻止できたからだ。
 小沢一郎さえ封じ込めておけば、霞ヶ関官僚ともども「我が世の春」が保証されるのだ。官と報こぞって野田“財務省傀儡”政権をたきつけて、消費税大増税、ТPP推進、原発再稼動などの亡国・売国政策をしゃかりきで進めさせていくつもりだろう。

 「米官業政電」によって“地獄の一丁目”に突き落とされるのが嫌なら、国民もいい加減目を覚ますべきである。

 (大場光太郎・記)

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聖母は名もなき者を嘉し給いて

120514


 今回ご紹介するのは、イタリアのサンダミアノという小さな農村で起った、一連の「聖母出現」のきっかけとなった出来事です。聖母マリアの示現を受けたのは、同村の一農婦のローザ。北イタリアの名もない貧しい農婦に、こんな感動的な奇跡物語が生まれようとは。しかも時代は1960年代と比較的近年の出来事なのです。
 出典は1985年刊の『聖母マリアはなぜ「出現」したのか』。著者はイタリア人で当時上智大学教授だった、S・フィナティリ神父です。なお漢数字の英数字変換と、適宜行空けを行っています。  (大場光太郎・記)
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●不思議な女の訪問者

 1968年にピークに達したイタリア、サンダミアノの「聖母出現」が始まったのは、その7年前の1961年にさかのぼる。
 サンダミアノは、北イタリアのミラノの南の町ピアチェンツァからさらに南へ20キロほど、人口わずか200人の小さな農村である。
 その村に、人々からマンマ・ローザ(ローザかあちゃん)と呼ばれる単純素朴な農婦が住んでいた。夫はジョゼッペ・クワットリーニ。2人の男の子と、女の子が1人いたが、ローザは長い間、重い病に苦しんでいた。腹膜に穴があき、手術を繰り返したが、すでにほどこす手だてもなく、救急車で病院から自宅に戻されていたのだった。

 家では寝たきりで、彼女や一家の世話をしていたのは、おばのアデーレである。
 ふしぎな出来事が起きたのは、9月29日、大天使ミカエルの祝日であった。その日のことを、ローザはロンバルディア方言なまりの強い言葉で、詳細に語っている。
「私はベッドに伏せっていて、体を動かすこともままなりませんでした。夫は栗ひろいに出かけており、家にいたのは私とおばの2人きりでした。とても暑い日だったことをおぼえています。お昼ごろでしたか、戸を叩く音がしたのです……」

 尋ねてきたのは若い女で、施しを請うているのだった。聖痕(せいこん 注-キリスト受難の時の手の平などの釘の痕がそっくり表われること)と預言と病者の奇跡で有名なピオ神父のいる南イタリアのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会に3本のろうそくをささげにいきたいので、500リラ恵んでくれというのである。

 応対に出たおばのアデーレは、この貧しい家には1000リラしかないこと、それも借金したもので、病の重いめいのローザのために使わなければならないことを説明して、すまなそうにことわった。女はローザのいる部屋まで入り込み、顔をのぞき込んで、「元気をお出しなさい」と励ました。

「もう私はだめなのです」とかぼそい声で言うローザに、女は力強く声をかけた。ちょうど教会の正午のアンジェラスの鐘が鳴りはじめたときだった。
「さあ、立ち上がるんです」
女は両手を差し出した。
「だめです。立てません」
「立つのです。私の手を持って」
言われるままにローザが、女の手を取ったとき、全身に鋭い衝撃が走ったという。

「その手にひっぱられるように私は起き上がり、つぎの瞬間には立ち上がっていました。“私は治ったのね”と思わず大声を出しました。女の人は“静かに。一緒に祈りましょう”と言って、2人で声を合わせてアンジェラスの祈りと、ピオ神父がすすめたという主の祈り、天使祝詞、栄唱5回ずつを唱えました……」

120515
(フランス)ルルドの聖母 膝まづいて祈っているのは示現を受けたベルナデット・スビルー


●奇跡が起り、女は本当の身分を明かした (注 この見出しは変えています)

 その女はローザの手術のあとに手を置いた。手術のあとは消え、後日、医者の調べによると腹膜の穴もふさがっていたそうだ。ちょっと簡単には信じられないような奇跡の事実を、この中年の農婦は淡々と語っているのである。

 その女の人は、貧しいみなりをしていたが、顔は気高いほど美しかったという。彼女はローザに、ピオ神父のところへ行くようにすすめた。ピオ神父がいるのは、南イタリアのサンジョバンニ・ロトンドというところである。
「私はお金を持っていません。とてもそんな遠いところまで行けません」
 ローザは首を横に振ったが、女は「心配ない。必要なものは与えられる」と言う。何回かやりとりをしている矢先に、ローザあてに無名の差し出し人から郵便物が届いた。その中に、旅に必要なだけの金が入っていたのである。

 女はおばのアデーレが差し出す500リラを受け取って、ローザの家を去った。そのとき、家のそばに近所の何人かの女と、ローザの末の息子、まだ幼いピエル・ジョルジョがいたが、ふしぎなことに女の姿を見たのはピエル・ジョルジョだけだった。女たちには、何も見えなかった……。

 (中略)  

 いずれにせよ、ローザは南イタリアへ旅立つ。そして、以下もすべて彼女の語るところによるのだが、サンジョバンニ・ロトンドに着いた日、教会前の広場であのふしぎな女と再会するのである。そのとき、女ははじめて自分の正体を明かす。
「私は慰めの母、苦しむ人々の母です。あなたはこのことを他の人たちに知らせなさい」
 女は「慰めの母、苦しむ人々の母」という表現で、自分が聖母マリアにほかならないことを告げたのであった。 (以下省略)


引用
『聖母マリアはなぜ「出現」したのか』 S・フィナテリ神父 徳間書店刊(1985年)

関連記事
フォレスタの「アヴェ・マリア(シューベルト)」
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-43a7.html

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美しすぎる書道家

 -「美しすぎる書道家」としてますます美しく輝け ! 涼風花-

 以前何度か「美しすぎる○○」を取り上げました。
 例えば『美しすぎる○○』。これは、昨年のサッカー南アW杯で一躍美人サポーターとして世界的に注目を浴びた、パラグアイのラリッサ・リケルメ嬢についてでした。また『美しすぎる女スパイ』。これは米国でスパイ容疑で捕まり、その美貌に米国民の関心が集まったアンナ・チャップマンについてでした。

 リケルメやチャップマンについては、その後追跡記事も出しました。リケルメ嬢は本国を中心として、本業のモデルで大活躍。次回W杯の開催国ブラジルの企業のイメージモデルにも抜擢されたといいます。

 またチャップマンは微妙な米ロ関係を反映して、他のスパイ仲間とともに早々と母国ロシアに強制送還されました。「自由世界」での生活に味をしめた拘留中のチャップマンは、接見した弁護士に「帰りたくない」と駄々をこねましたが、いざ母国に帰されてみると国民的スター扱い。メドベージェフ大統領やプーチン首相ら政府要人らの歓迎を受け、今や某銀行の役員であるばかりか、昨年は男性誌のロシア版に大胆なセクシーヌードまで披露しました。プーチンの親衛組織の幹部にも抜擢され、ゆくゆくは国会議員やその上も視野に入れているといいます。

 と前置きが長くなりましたが、これまでの「美しすぎる」は国際級でした。しかし日本でも「美しすぎる」は当然各界にいるわけです。以前の記事の中でも紹介しましたが、例えば「美しすぎる市議」「美しすぎる尼さん」「美しすぎる公認会計士」などなど。
 そんな中昨年までは無名で、今年になってから男性ファン急増中という「美しすぎる書道家」が台頭してきました。今回はこの人の話題を取り上げてみたいと思います。

涼風花2

 その女性は「涼 風花」(りょう・ふうか)さん。「美しすぎる」を冠されたわりには見掛け倒しもいる中で、涼風花さんは掛け値なしの美人です。美人というよりは、25歳のお姉さんには申し訳ないながら「美少女」と形容したいくらいです。
 今年に入ってSMAPのテレビ番組に出演したり、東スポで「美人すぎる書ドル」として取り上げられたりして人気に火がついたようです。
 人気度を計るバロメーターとして「ブログアクセス数」があります。涼さんは2月に『花の詩』というブログを開設したところ、何とわずか3日で200万件ものアクセスが殺到したというのです。今でもコンスタントに1日10万件のアクセスがあり、アメブロ文化人ランキングでトップを独走中だそうです。(独り言 いやはや驚いた !)

 涼風花さんは1985年10月12日、栃木県で書道好きの家庭に生まれました。11歳で地元栃木の「福祉書道展」で金賞を獲得、一躍「天才少女」ともてはやされ、中学2年生で早くも日本書道協会で「師範代」の資格を取ったといいます。
 涼さんにはゆくゆく書道教室の先生という道もあったものの、別の夢があってそれは“女優”になることでした。しかも『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』に魅せられて時代劇の。
 高校卒業後女優を目指そうとしたものの両親が難色を示し、きちんとした資格を得て収入を得ようと考え、歯科技工士の資格を取って地元の歯科医院に就職しお金を貯めたそうです。「実績づくりですね。その上で両親を説得しました」とは涼さんの言です。

 21歳で上京。スカウトされた芸能事務所がたまたまレースクイーン専属で、そのままレースクイーンに。書道家として和服が似合いすぎる涼さんには似つかわしくないようですが、2年前までレースクイーンだったのです。その頃の画像もありますが、スレンダー体型のわりにはけっこう豊乳でハイレグ姿がさまになっています。
 「でも、このお仕事はちょっと違うなって。それで事務所を辞めました」。ということで、いよいよ「美しすぎる書道家」の誕生となったわけです。

 これまで3回ほど小劇場の舞台にも立ったといいますが、当然ながら今は書で生計を立てています。教室は開いていないものの、売れっ子書道家としてイベントに招かれて筆をとったり、企業のロゴを描いたり、ブログで作品を受注してそれを売ったり。サイズにもよるものの、一点5千円から1万円くらいといいます。

 「涼風花」という名前は、本人が好きな漢字を組み合わせたものだそうです。
 「私の田舎は冬になると、毎年男体山(なんたいさん)から吹きつける風花(かざばな)が日光に当ってダイヤモンドダストのように輝きます。この光景が一番好き。将来、ダイヤモンドダストのように輝けたら嬉しいですね」
 故郷栃木を愛する涼さんは、日光観光大使も務めています。本当にダイヤモンドダストのように、今後ますます美しく輝け !

涼風花オフィシャルブログ『風の詩』
http://ameblo.jp/ryo-official/
参考・引用
『日刊ゲンダイ』9月19日(12)「美人すぎる書道家 涼風花さん」
画像は『ガジェット通信』から拝借しました。

 (大場光太郎・記)

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台風上陸そして通過

   草闇のありて虫の音一途なり   (拙句)

 いやあ、21日の午後は列島上陸縦断の台風15号の大通過により、当地でも大変な荒れ模様となりました。上陸そのものが最近は珍しく要警戒が必要でした。
 ただ今ネットでしか情報を得ていない私にとって、「テレビ見てない歴5ヵ月余」で困ることと言えばこのような時のリアルタイムの最新情報が入手しにくいことです。
 そんな私にとって辛うじて分かったことには、午後2時過ぎ静岡県浜松市あたりに上陸し、強い台風の15号は広範囲に強風と大雨をもたらしながら北上中とのことでした。

 なるほど家の中で窓を閉め切っていてさえ、外ではピューピュー、ゴーゴーと空全体を攪拌せんばかりの猛烈な風の唸り声、そして隣家の屋根にたたきつけるような激しい雨の様子がつぶさに見てとれます。
 そんなことを百も承知で、午後3時頃近くに本厚木駅近くにいく用事があり、外に出てみたのです。もちろんいつもより人の姿は少ないとは言え皆無ではなく何人かの人の姿が認められます。

 ところが実際の風の体感たるものは凄いものです。ライトフェザー級の私など、思わずよろけそうになります。風速30mくらいになるとまともに立っていられないそうですから、まさかそこまではいかなくても20m以上はゆうにありそうです。
 それに横殴りの強い雨です。いつもは小さなビニール傘で間に合いますが、さすがにこの時ばかりは黒い大きな傘をさしました。しかしものの5mも歩かないうちに逆風に煽られて、傘はひっくりかえってダメになってしまいました。こうなると骨の何本かも折れて元には戻りません。仕方なく何とか使える形に戻し、再度さしかけました。

 前は南の方に向けたから今度は北向きにしてみたものの、風は四方八方に回り込んでいるためかまたひっくりかえってしまいました。傘がダメになるほどの強風は近年記憶にありません。

 けっきょく外出は断念し、この大嵐が過ぎ去るのを待つことにしました。ほんの少しの間だけ外にいただけなのに、スボンの下半分はズブ濡れです。
 それにしても私の関心事は、関東南部、さらに言えば神奈川県県央地区の当地が暴風雨域から抜け出すのはいつなのか、ということです。それを予測するため、ネットニュース動画の予想台風進路図を当ってみました。ТBSニュースに進路予想図が出ていました。それによると午後2時に浜松に上陸した台風はほぼ列島の中ほどを通り、明22日午前3時頃には青森県の太平洋側に抜ける見込みとのこと。

 『上陸から青森沖に抜けるまで13時間。台風は時速40kmらしいが、上陸後は速度が早まるそうだから…』などとの要因も加味していろいろ考えました。その結果素人予測で導き出したのは、関東南部や東京が暴風雨域から抜けるのは「夕方6時頃ではないか?」というものでした。

 案の定5時半頃には、つい先ほどまでピュー、ピュー唸っていた風の音が聞こえなくなりました。外をのぞき見るに、雨も小止みになってきたようです。外出は業務がらみですからどうしても出かけなければなりません。そこで再び外に出たところ今度は大丈夫でした。
 妻田薬師バス停の案内板が横倒しにひっかくかえっています。土台にがっちり重いブロック石が巻いてあるにも関わらずです。「一日一善」がふと思い浮かび、「よいしょ」と持ち上げて元に戻してやりました。

 本厚木駅に向かったのは、同駅近くの「スナック」営業許可申請のためです。先々週末ある人から同業務の依頼があり、いよいよ最後の追い込み。その日は諸図面完成上、同店内の何回目かの細かい実測が必要だったのです。
 風俗営業そのものが何年かぶり。しかも2号営業(スナックなど)申請は初めての挑戦です。大変な思いもしました。終わりが見えた時、『あヽあれはこうやればよかったんだ』と思えたのは皮肉なものです。

 近隣E市の先輩で主に風俗営業許可を専門にして、同駅近くに5階建ての“士業ビル”を建てたやり手の人がいます。ご本人いわく「横浜市内の大きなレジャーセンターの許可で、先方の担当警察から「お願いします」と直接申請依頼があるんですよ」
 私も見習いたいと思いますが、依頼そのものがなかなかこないしなあ…。

 (大場光太郎・記)

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昭和天皇の戦争責任-【読者とのやりとり】

 先日ルミちゃん様より、『昭和天皇の戦争責任(1)』に対して貴重なコメントが寄せられました。私の返信とともに転載させていただきます。
 なお何度も繰り返すようですが、当ブログ開設以来コメントがなかなか寄せられません。私自身はもうすっかりあきらめていますが、たまにこのような光ったコメントがあった時はつい嬉しくなって公開したくなります。
 我と思わん方、どうぞふるってご応募(コメント)ください。(苦笑い)

                       *

昭和天皇は、天皇の命令によって動く軍隊を望んだのではなく、天皇の希望に沿って動く軍隊を望みました.
1941年9月6日の御前会議で、明治天皇の歌を読んだことに対して、多くの方が天皇の気持ちに背いて、軍部は戦争を行ったと非難しますが、これはその典型だと言えます.
天皇の気持ちにそって、軍隊が動くことが良いことなのでしょうか?
昭和天皇は1937年8月18日、閑院宮参謀総長に下問した。(陸軍参謀総長)
「いろいろな方面に兵を用いても戦局は長期化するばかりである。重点方面に兵を集中し大打撃を加え、我々の公明なる態度を以って和平に導き、速やかに時局を収拾する方策はないか」
この時の天皇は『方策はないか』と聞いただけなのでしょうか.現実には天皇の希望に沿って、蒋介石に大打撃を与える戦争に進展して行きました.
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昭和天皇の戦争に対する考え方は、
『勝てる戦争ならやろう.負ける戦争はやめよう』ではなく、
『勝てる戦争ならやろう.戦争に負けるのは嫌だから、勝てる様に考えてやれ』なのです.
昭和天皇には戦争をやめるという考え方はありません.昭和天皇の考え方では、どんな戦争でも勝てることになる.
つまり、こと戦争に限って言えば、昭和天皇の辞書に不可能はないのです.

投稿: ルミちゃん | 2011年9月18日 (日) 15時49分

 ルミちゃん様
 大変貴重なコメントをいただきありがとうございます。
 それにしても「昭和天皇の戦争責任」というか、昭和史に関してかなりお詳しいですね。
  四方の海皆はらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらん
 開戦決定の御前会議で昭和天皇が引用した明治天皇の歌はこれでしたよね。この記事を公開するにあたり引っかかったのが、この故事だったのです。『平和主義者の天皇と戦争好きという天皇と、どっちが実像なのだろうか?』と。
 しかしこの歌の引用すらもが国民を欺く一種の戦術だったとしたら、話はまったく違ってきますね。
 どうやら昭和天皇の「ナポレオン狂」はかなりのレベルだったということなのでしょうか。平時の一般国民のナポレオン狂なら、その人間の人生上のモチベーションを高めこそすれさほど害にはなりません。しかしこれが戦時下の“大元帥”がそうだったとなると大問題です。
 近年保守系(右系)知識人や国会議員などから言われている「自虐史観を見直せ」論より先に、昭和天皇の戦争責任見直しの方が必要だと思います。 (時遊人) (転載終わり)

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暴言記者記事への“ツイート”より

 『鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明』、またまた大ヒットしました。アクセス数もさることながら、「ツイート数」が凄いのです。当ブログ記事のほとんどが「0」なのに、何とこの記事へは「220以上」も寄せられました。当初タイトルに【拡散希望】と入れようかとも思ったくらいですから、「わが意を得たり」です。
 折角ですから、その中の代表的なものを以下にご紹介します。中には「ネトウヨとこれ同じ論理で怖い」というツイートもありますが…。ネトウヨ通ならぬ私は「えっ、ホントですか?」としか言いようがありません。

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クリストファー
ネットの力ってすげー。鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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松木貴史
こんなのと比べたりしたら、ヤクザさんに失礼です。鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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YOSSY
見たまんま→ 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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Bell Boyd
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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気持は会員予備軍
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明 15日夜とうとう時事通信の経済部記者「鈴木隆義記者」という名前が特定されました。今回の鉢呂前経産相辞任の流れを作ったのは、経済産業省の官僚たちの噂。鉢呂氏は脱原発論者の上さらにТPP推進慎重論者だったのです。
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Aki Anthony Tsuchiya
時事通信の鈴木隆義なる「ヤクザ記者」を弾劾しよう■鉢呂前大臣を辞任会見で罵倒した記者■鉢呂氏は脱原発論者の上にさらにTPP推進慎重論者だった■経産相の策略か? 
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シタデル
これはなんという上から目線w。 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明 
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Masafumi
ご本職は? RT : 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明 時事通信の「鈴木隆義記者」
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 (注 ここで間を置いてコピーをつないだため、時間がずれています。ここまでは19日午前0時頃。以下は18日午後2時すぎ頃。)
美奈子
一つ疑問!放射能つけちゃうぞ!の発端となった毎日?の記者探しはなぜしないのか?鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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立木寅児
次の実名報道は経産省の役人、鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明 時事通信の「鈴木隆義記者」
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立木寅児
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明 時事通信の「鈴木隆義記者」
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I Like Fukushima
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明、マスコミ改革のため、時事通信の鈴木隆義なる「ヤクザ記者」を弾劾しよう この国の権力の霞ヶ関官僚群、そのお先棒を担ぐ大マスコミという「官報複合体」。そして電通の資本で設立されたのが問題の時事通信。
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まつしたさとる
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明 ほほう。こいつか! ダンカン様、情報ありがとうございました!
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S. John Yamaguchi
ヤクザではなくチンピラです。RT : 「ヤクザ記者」って言ってるけどヤクザに失礼。ホンマに。RT : 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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肉球ざんまい™
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明: 今この時&あの日あの時 :
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YOSHIKO TANABE
毎日でも読売でもなく、時事通信でしたか・・。これは間違いないのでしょうか? RT : ほんとなんだかなあ。です。RT : なんだかな…。 RT : 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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「ヤクザ記者」って言ってるけどヤクザに失礼。ホンマに。RT : 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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S. John Yamaguchi
ほんとなんだかなあ。です。RT : なんだかな…。 RT : 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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川辺ぺっぺい
なんだかな…。 RT : 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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S. John Yamaguchi
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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島田 篤 Atsushi SHIMADA
この国の問題点の一端が明確に書かれていますね。RT : 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明 ジャーナリストもいろいろですこと。
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duncan_hayashi
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明 ジャーナリストもいろいろですこと。
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HONGO_takesi
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明  時事通信社の鈴木隆義という人物。こういった権力を笠に着る男は大嫌いだが電通にやらされた説あり(・ω・ )
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Shin Toyoda
ネトウヨとこれ  がだいたい同じ論理になってるところが怖い。
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ropefish(ロープフィッシュ)
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明『思うに今この国の権力の最たるものは霞ヶ関官僚群、そしてそのお先棒を担ぐ大マスコミという「官報複合体」です。・・・この二者が結託すればどんな悪事も可能です。国民世論を誘導して大政局も簡単に作れてしまうのです』
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寺井寛
今読み返すと違った味わいがありますね。 RT 長谷川幸洋氏が官僚に脅されたことを… RT RT 鉢呂氏への暴言記者判明
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Mori Tatsuya
これで間違いないのかな? RT : 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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かなざわ 涼子
. 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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Aki Anthony Tsuchiya
鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明
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M. Hanawa
「時事通信の鈴木隆義記者」を割り出したのはネットの中継だったのが面白いね。で、facebookの写真で確認と。 - 鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明: 今この時&あの日あの時:
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ACER1410
@
 共同通信の鈴木!らしい。辞職希望。
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村上 聖治
@
9月17日  (『Twitter』からの転載終わり)

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鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明

-マスコミ改革のため、時事通信の鈴木隆義なる「ヤクザ記者」を弾劾しよう !-

 鉢呂前経産相が不適切な発言があったとして辞任に追い込まれた問題で、10日夜の辞任会見での某記者の態度が批判を浴びています。

 鉢呂前大臣の「死の街」「放射能つけちゃうぞ」発言をめぐって、幹事社の共同通信が質問を終えた直後に、ある男性記者が、記者会見で質問する時のマナーである社名と名前を名乗らず突然質問し、徐々に命令口調にエスカレートし、挙句は鉢呂氏の発言をさえぎって、
 「定かな記憶がないのに辞めるんですか。定かな事だから辞めるんでしょう。きちんと説明しなさい ! 最後くらい」
と声を荒げました。鉢ロ氏がなおも穏やかに弁明を続けると記者は最後は、
 「何を言って不信の念を抱かせたか説明しろって言ってんだよ !」
 「何を言ったからだってだってんだよ !」
と怒鳴ったというのです。

 問題発言があったとは言え、大臣相手の会見でこのような口調で質問をする記者は珍しいことです。見かねたフリージャーナリストの田中龍作氏が、
 「そんなヤクザ言葉、あなた、やめなさいよ。記者でしょう。敬意を持って質問してくださいよ !」
 「恥ずかしいよ、君はどこの記者だ !」
と怒鳴る場面もあり、さすがにくだんの記者も黙り、それ以降は平常の質疑応答に戻ったといいます。田中龍作氏はジャーナリストの鑑です。

 同会見のもようについてテレビなどではあたりさわりのない報道に終始し、「ヤクザ発言」記者の部分は報道されなかったようです。しかし会見のこの核心部分がネットで拡散し、「とんでもない記者だ。こいつは許せん。どの新聞社の何という名前の記者だ」と大騒ぎになったのです。

 問題記者と田中龍作氏には後日談があります。12日の後任の枝野幸男新経産相の就任会見でも、問題のヤクザ記者は最前列に陣取っていましたが、鉢呂氏会見時のように声を荒げることはなかったといいます。田中氏はその横に座り、会見直後に
 「ご挨拶遅れてすみません」
などと名刺交換を申し出たところ、ヤクザ記者はこれを無視。
 「どうして名刺交換してくれないんですか?」
との問いかけにも応じずに、会見場を後にしたということです。

 記者がそそくさと逃げ込んだのは何と大臣官房の広報室。“身内”である官僚に助けを求めようとしたようです。
 「選挙で選ばれた鉢呂大臣をあなたはヤクザ言葉で罵倒したんですよ。どうして自分の名前を名乗らないのです?」
 「コソコソ逃げるのですか?」と田中氏はその記者をなおも追っていきました。記者は終始無言。大臣官房広報室で保護してもらえないと分かると、記者はエレベーターに向かいました。田中氏も一緒に乗り込むと、記者は違うエレベーターに乗り換えましたが田中氏なおも追跡。卑劣な記者は無言のままハイヤーの中に消えたといいます。

 このような一部始終がネットで逐一ウォッチされ、「どこの誰だ」はますますヒートアップする一方でした。中には毎日新聞の○○記者、読売新聞の●●記者などの誤報まで出回ってしまったようです。
 その後「時事通信の記者らしい」というところまで分かり、15日夜とうとう時事通信の「鈴木隆義記者」という名前が特定されました。鈴木隆義は時事通信の経済部記者のようです。

鈴木 隆義

 上のように、早速「フェースブック」から顔写真も割り出されました。まあ見るからにふてぶてしい顔つきではないですか。
http://ja-jp.facebook.com/people/Takayoshi-Suzuki/100002342793484

 今回の鉢呂前経産相辞任の流れを作ったのは、経済産業省の官僚たちだとも噂されています。鉢呂氏は脱原発論者の上さらにТPP推進慎重論者だったのです。両者ともに推進したくてうずうずしている経産官僚からしてみれば、鉢呂大臣は目の上のたんこぶのような邪魔者だったわけです。そこから経産官僚が鉢呂氏失脚の黒幕と囁かれているのです。
 大手マスコミも原発推進、ТPP推進、消費税増税などでは、霞ヶ関と同一歩調を取っています。今回の辞任劇は、経産官僚の意を汲んだマスコミの「言葉狩り」的な過剰報道によってストーリーが作られていったとみるべきです。

 その上新聞やテレビを支配しているのが大手広告代理店の電通です。この電通が資本投下して設立されたのが、共同通信と今回問題の時事通信なのです。
 国民の負託によって選ばれた国会議員、その中でもさらにえり抜きの国務大臣に対して、鈴木隆義記者が「きちんと説明しろて言ってんだよ」などと怒鳴れるのは、このような我が国の悪しき電通支配構造が根っこにありそうです。
 
 その後輿石幹事長が「これは問題にしなければならない」と発言し、時事通信にも抗議メールが殺到するなど、今回ばかりは騒ぎが大きくなり、問題会見の数日後部長に伴われて鈴木記者が鉢呂事務所に謝罪に訪れたそうです。

 思うに今この国の権力の最たるものは霞ヶ関官僚群、そしてそのお先棒を担ぐ大マスコミという「官報複合体」です。小沢問題が顕著だったように、この二者が結託すればどんな悪事も可能です。国民世論を誘導して大政局も簡単に作れてしまうのです。
 この国の真の再生のため、霞ヶ関改革とマスコミ改革は避けて通れません。鈴木隆義というヤクザ記者の弾劾を、その突破口にすべきです。

 (大場光太郎・記)

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「ねむの木学園」詐欺2被告に実刑判決

 女優の宮城まり子さんが経営する「ねむの木学園」が詐欺に見舞われた次第は、『「ねむの木学園」大被害』(今年2月)でお伝えしました。このたび同詐欺事件の主犯・従犯の2被告に、東京地裁の実刑判決が出たようです。
 『YOMIURI ONLINE』では以下のように報じています。

ねむの木学園詐欺事件、2被告に実刑判決

肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」(静岡県掛川市)園長で女優の宮城まり子さん(84)から約3100万円をだまし取ったとして、詐欺罪に問われた同学園元職員近藤由美子(56)、音楽家広沢憲行(58)両被告の判決が14日、東京地裁であった。藤井敏明裁判長は「宮城さんが学園のために蓄えた多額の資金を奪った責任は重大だ」と述べ、広沢被告に懲役4年6月(求刑・懲役5年)、近藤被告に懲役2年(求刑・懲役3年6月)を言い渡した。

 判決によると、両被告は2009年8月と昨年4月、東京都内の銀行で宮城さんの依頼を受けたように装い、宮城さん名義の口座から広沢被告の口座に計約3100万円を振り込ませ、詐取した。藤井裁判長は判決で、広沢被告を主犯と認定した。

(2011年9月14日12時56分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110914-OYT1T00600.htm

 
 宮城まり子さんが心血注いで築き上げてきた、肢体が不自由な子供たちのための療護施設である「ねむの木学園」を食い物にするとは。到底許される所業ではありません。
 広沢被告も近藤被告も上告などせず、己が犯した罪の大きさを深く反省し、素直に実刑に服してもらいたいものです。
 
 冒頭に掲げたYouTube版『ガード下の靴みがき』(昭和30年)。前記事でも述べましたように、この歌は宮城さんのその後の生き方を変えた歌だということです。極論すれば、「ねむの木学園」の創設はこの歌によるものだったのです。
(注記)『ガード下の靴みがき』YouTube動画はその後レコード会社によって削除されましたので、本記事でも消去しました。

 (大場光太郎・記)

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今宵獨観月之記

   なか空に名月ありてそして我れ   (拙句)

 本日12日は「中秋の名月」です。
 よく「仲秋の名月」と称されることもありますが、それだと仲秋とは「陰暦八月」を指しますから「陰暦八月全体の月」を言うことになります。対して陰暦八月十五夜は、初秋、仲秋、晩秋の三秋のちょうど真ん中という意味で「中秋の名月」と呼ぶのが正しいようです。私自身よく間違えることがありますが、日本人としてその区別はしっかり覚えておきたいものです。

 古来俗に「十五夜に晴れなく、十三夜に雨なし」と言われてきました。「(陰暦)八月十五夜」は新暦の9月中旬にあたり、この時分は野分(今で言う台風)が多く、長い間観測してみるにどうも雨がちで折角の名月は「雨月(うげつ)」になりがちだった。
 対して「(陰暦)九月十三夜」は新暦の10月上旬頃。この頃は「天高く馬肥ゆる」の候で、すっきりした秋晴れの日が続き、十三夜(後の月)はことのほか良く見られるということだったのでしょう。ちなみに今年の十三夜は10月9日、翌日の「体育の日」の10日は確か11月3日の「文化の日」と並んで晴れの特異日ではなかったでしょうか。

 ありがたいことに今年に限っては、その言い伝えは見事に外れることになりました。第一日中からして大快晴の猛烈な残暑となりました。昼過ぎは夏雲と思しき雲が中空にも張り出していました。西の大山の峯に被さるようにかかっている雲もまるで夏雲の勢いです。
 が午後3時過ぎ頃改めて外出したところ、雲は東空など四辺の低いところに、入道雲崩れのようなのがうずくまって見えるのみ。真ん中の空は抜けるように青く、その中にひときわ眩しい太陽がぎらぎらとこの季節には過分に暑い熱を送ってきます。

 夕方6時前頃駅からのバスに乗って帰路につきました。途中東の空から大きな月が昇っているのが認められました。幾分か赤みを帯びたまん丸月です。じっくり見ようとしても移り行く家並みに隠されてしまったり、バスの対面側のガラス窓に張ってあるポスターの類いに邪魔されたり。ホント当今お月見のみならず自然の風物を鑑賞するのに邪魔物が多すぎます。

月見の飾り

 しかし少し夜も更けてから空の中ほどのまで昇ってしまってからは名月が十分に堪能できました。まれに雲に遮られることがある他は、今年の十五夜お月さんはほとんど夜空で独壇場です。

 滅多に見られないかもしれない名月なのに、おそらく「お月見」などと洒落込んでいる人はあまりいないことでしょう。近くの遊歩道上のベンチに独り腰掛けて、心地良い涼風や近くの草むらからひっきりなしに聞こえてくる虫の音を聴きつつ。私は良夜のひと時、この世界でただ一人だけの「獨観月会(ひとりかんげつえ)」を催しているというような贅沢な気分を味わいました。
 ただ日々の業務や生活上の諸々の煩わしい想念にとかくかき乱されがちな凡俗のこと、古人が観月に当って求めた「白浄心」がどれだけ得られたかは保証の限りではありません。

 (注記)「月見の飾り」写真は、『ウィキペディア』-「月見」から拝借しました。私にそんな余裕はありませんが、本式に十五夜を愛でるならかくありたいものです。 

 (大場光太郎・記)

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「ムーランルージュ新宿座」のトップスターだった人

 志賀直哉、菊池寛、西條八十、金田一京助、黒澤明らの超大物に愛された正真正銘の元祖アイドル明日待子さんは札幌で健在。91歳にして正統五條流宗家家元・五條珠淑として日本舞踊を教えている

 『日刊ゲンダイ』9月10日の「あの人は今こうしている」欄は、明日待子さんでした。明日待子という名前は存じ上げておらず、上掲の「志賀直哉、菊池寛、西條八十…」が目に止まり、俄然興味が湧いて一応目を通すことにしたのです。
 その結果分かったことには。明日待子(あした・まちこ)さん、そんじょそこらの「あの人は今」ではありません。私が生まれるよりもっと以前に一世を風靡していた、“ノスタルディック昭和”でとびきり輝いていた人だったのです。

 同記事の見出しがさらに詳しく説明しています。

 昭和10年代から20年代前半にかけて、浅草オペラに対抗して大人気だった大衆演劇があった。新宿南口の「ムーランルージュ新宿座」だ。本日登場の明日待子さんは当時の同劇場のトップ女優。雑誌のグラビアを飾り、数多くの宣伝ポスターに起用され、まさに一世を風靡した。明日さん、今どうしているのか。

 「ムーランルージュ」は、私も名前だけなら知っています。その看板女優が明日待子さんだったというのです。ムーランルージュが大衆演劇の頂点にあったことを思えば、そこの看板女優ということは、当時の日本のトップスターだったことも意味します。当時東京の街に林立したカフェの女給などとは訳が違うのです。

 明日待子さん(本名:須貝とし子)は昭和8年(1933年)、13歳で女優を目指して上京。ムーランルージュ新宿座の面接を受けたところ、愛らしい顔立ちと歌唱力から即決で入団が決まったといいます。
 ムーランは、本家のフランス・パリのモンマルトルにあるキャバレー「ムーランルージュ」にならった大衆劇場として、昭和6年新宿区角筈にオープンしました。「ムーランルージュ」とはフランス語で「赤い風車」の意味で、本家同様、建物の上に大きな風車がありました。

 翌昭和7年の12月12日、当時18歳だったムーランの歌手の高輪芳子が、26歳の作家・中村進治郎とガス心中を図り、大々的に報道されムーランルージュの名前が一躍知れ渡ることとなりました。(結局高輪は死去し、中村は息を吹き返した。)
 明日待子さんの初舞台は昭和8年の11月。ムーランはオープン以来ずっと赤字続きだったのが、明日さんが舞台に立つようになると客数がどんどん増え、あっと言う間に黒字に転じたといいます。
 大衆を惹きつけるのがスターの決定的要素だとするならば、明日待子さんはまさに天性の「スター」だったわけです。


      若き日の明日待子さん
(映画『ムーランルージュの青春』ポスター)


 昭和13年(1938年)18歳の時、東宝映画『風車』でスクリーンデビューし、一気に人気に火がつくことになります。志賀直哉、菊池寛らが明日待子さん目当てにムーランを訪れるようになったのはそれ以降です。
 現代風に言えばまさに人気アイドルです。雑誌グラビアはもちろん、花王、ライオン、キッコーマン、カゴメなどのポスターにひっぱりだこだったといいます。
 「画家の東郷青児さんのご自宅のお庭がたいそう美しく、よく撮影に使わせていただきました。カルピスの『初恋の味』のポスター、とても評判良かったですね」とは、明日さんの懐旧談です。

 太平洋戦争中は空襲の合間を縫って上演。しかし昭和20年5月25日の東京大空襲でムーランルージュは半焼してしまいます。戦後は「明日待子一座」を結成して各地を回ったといいます。
 なおムーランルージュは戦後再建されたものの、ストリップショーなど新しいジャンルの娯楽に押され、昭和26年に閉館となりました。左ト全、由利徹、春日八郎、水谷八重子、若水ヤエ子、楠トシエ、森繁久彌らここで育った人材は、映画・放送界に流れました。

 明日待子さんは現在札幌市丸山球場に近い住宅街にある「五條流舞踊研究所」で、正派五条流宗家家元・五條珠淑として日本舞踊を続けているそうです。
 「雀百まで踊り忘れず」とはご本人の弁ですが、91歳の今でも現役で日本舞踊家としてご活躍とは驚きです。戦前からの大女優といえば、田中絹代、杉村春子、原節子、高峰秀子などがいますが、とうの昔に引退しているか既に世を去っています。
 その意味で明日待子さんは極めて稀なケースと言えます。

 9月17日、ムーラン誕生80周年を記念して、記録映画『ムーランルージュの青春』が新宿の「ケイシネマ」で公開されるそうです。明日さんいわく「私も62年ぶりに映画に出ました。初日の第2回上映終了後、舞台挨拶に立つ予定ですから、興味がおありの方はぜひいらしてください」とのことです。
 (脚本構成:大隅充、監督:田中重幸、出演:ラサール石井、美崎千恵子、野末陳平、楠トシエ他)

 「芸事は舞台に立てなくなるまで現役です。92になって、93になっても、動けるうちは踊り続けますよ」(明日さん談)
 芸事にしても何にしても、一心に打ち込め、熱中出来るものがある人は幸せです。そういう人は常に「今ここ(be here now)」状態にあります。「今ここ」にある時人は年を取らないといいます。91歳の明日さんが若々しいのは、きっとそのせいなのでしょう。
 ますますご健勝でご活躍されることをお祈り申し上げます。

参考・引用
『日刊ゲンダイ』9月10日(29面)「あの人は今こうしている」
『ウィキペディア』-「ムーランルージュ新宿座」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%BA%A7

 (大場光太郎・記)

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S&G『木の葉は緑』

 
 サイモン&ガーファンクル(以下「S&G」)については、以前『我が懐かしのS&G』(09年7月)で述べました。
 その頃はまだ、YouTubeにはS&G関係の動画はほとんどなかったと思います。ところが最近思い出してYouTubeを当ってみたところ、あるはあるはS&G。他のシンガーのもそうらしいですが、最近のYouTube動画の充実ぶりには目を見張るものがあります。

 と言うことで、今後「我が青春のデュオ-S&G」の名曲を、YouTube動画とともに折りに触れてご紹介していきたいと思います。

 第1回目の今回は『木の葉は緑』です。「木の葉は緑」なら春のはず、何で秋のこの季節に?となりそうです。それには原詞とその日本語訳をご覧いただくのが一番です。(末尾URL)

 タイトルは『木の葉は緑』でも、時はどんどん流れていき、蒼かった木々の葉もやがて茶色に染まる。冷たい風の中で枯葉となってしまうんだ。そして後の詞では、「ずっと大切に思っていた彼女も僕のもとを去ってしまった」と失恋の思いが語られたり、「出会いがあれば別れがある」と人生の哀感もにじませています。
 つまりは時の移ろいの無常さこそがこの歌のテーマ。曲のイメージもむしろ秋にしんみり聴く方があっているように思われるのです。

 この歌はS&Gの2枚目のアルバム『The Sound Of Silence』に収められた歌のようです。ポール・サイモン24歳の作品です。前出の記事でも述べましたが、哲学的で少し難解な『The Sound Of Silence』は昭和43年の秋に日本でも大ヒットしました。しかしこの『木の葉は緑』の方はあまり注目されなかったと思います。

 私がS&Gにのめり込むようになったのは、その3年後の21歳頃からでした。この歌を知ったのはさらにずっと後の20代後半の頃のことです。
 その時から、S&Gの作品群の中ではどちらかというと地味で落ち着いたバラード風のこの歌は、『四月になれば彼女は』とともに忘れられない一曲になっていったのです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『サイモン&ガーファンクル、翻訳、歌詞-Leave That Are Green』
http://www5.ocn.ne.jp/~tyun/LeavesAreGreen.htm

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アセンションの実例

 この第3密度としての地球が今よりずっと濃密鈍重だった各時代、ある個人がアセンションを遂げるのは至難の技でした。イエス、聖ヨハネ、聖ババジ、老子、我が国では修験道の創始者の役(えん)の行者とその一統など、ごく限られた人たちにしてはじめて可能だったのです。(中国や我が国では「屍解仙(しげせん)」と言われた)

 それでなくてもアセンションは、古典的な定義では「第六イニシエーション」に達してはじめて可能となるとされていたのです。このイニシエーションはどういうものか、簡潔な説明ではー。
 「第六イニシエーションとはアセンション(次元上昇)の達成をいい、すなわち「アセンションしたマスター」になることである。(中略)その肉体はただ消えうせ、光の体(ライトボディ)に取って代わられる。」 (『完全アセンションマニュアル〔上〕』より)

 この地球世界で得ることの出来るイニシエーションは、あと第七イニシエーションを残すのみです。第七に到達したアデプト(超人)は(第六で)不死を得て、地球世界の輪廻転生のくびきから解放され、光の領域に参入でき、地球に張り巡らされていた「通過不可能な輪」をも突破して他の惑星、他の星系に行くことすら可能となります。(なお「通過不可能な輪」は1987年8月のハーモニック・コンバージェンスにより、取り払われた。)

 こうしてみると「アセンション」など夢のまた夢のお話のようです。思わず尻込みもしたくなります。しかし「ひょっとして誰にでも可能なのかも知れない」と思わせられる実例として、ある一人の米国女性の例をご紹介してみます。
 その女性とは、アナリー・スケアロンという人です。年代は不明ながら、つい近年の出来事だったようです。前掲の書からその部分を引用します。
                      *
 アナリーは初老のモルモン教徒で、大いなる光の女性であった。彼女は『汝らは神なり(Ye Are Gods)』という美しい本を書いたが、それは彼女自身の神なる自己から、チャネリングによって得た情報を記したものである。モルモン教会はこのきわめて貴重な書物を快く思わず、すでに老境に達していた彼女に除名を言い渡した。生涯を通じて教会に仕えてきた彼女は、この破門宣告にはひどく取り乱した。そんなあるとき彼女は同居人の女性に、もうじき天使が迎えに来てくれるような気がするので、身の回りのものを整理しておきたいともらした。その直後のある日の深夜、よく寝入っていたはずの同居人は突如目を覚まし、ふとアナリーのことが気になった。彼女がアナリーの部屋まで来ると、ドアの下からこれまで見たこともない眩しい光がこぼれている。彼女は直感的にアナリーの邪魔をすべきではないと悟り、自室に戻って床についた。翌朝、彼女が様子を見ようとアナリーの部屋をノックし、そっとドアを開けると、そこにアナリーの姿はなかった。アナリーの入れ歯はテーブルに置かれたままで、アナリーが外出時には忘れず入れ歯を着けていたことを思うと、それは非常に奇妙なことだった。それからまる一日を経過しても、アナリーは戻らなかった。

 同居人はアナリーの身内に連絡を取り、その日のうちに家族がやって来た。全員が居間に集まっていると、突然ドアが開き、そこにぼろぼろの服を着たアナリーの姿があった。「私、昇天したの。信じてもらえるかしら。」(昇天とアセンションは同義語である)家族はみなアナリーを信じると答えた。アナリーが彼らの信仰を讃えるやいなや、その姿はたちまち白く美しい光の長衣に変わった。そしてアナリーは皆の面前で姿をかき消し、あとはただ家族たちが凝然としてその場にたたずむのみであった。
                       *
 最後の場面は何やら新約聖書の『使徒行伝』中の、十字架から復活したイエスが弟子たちの前に姿を現し、生前言い残した教えを宣べ伝え、何十日か後に広場で弟子たちが見守る中昇天していった小型版のようです。
 アセンションとは「5次元領域に入ること」です。いわゆる死後の世界(4次元)を一気に飛び越えてしまうのです。幽体(ゆうたい)となった死者は、生者の目には見えなくなります。いわんやさらに精妙な5次元体(ライトボディー)をや、ということです。

 名も無い元モルモン教徒の初老の女性だったアナリー・スケアロンは、イニシエーションの仔細など知らなかったに違いありません。しかし「汝の信仰、汝を救えり」。そのひたむきで純粋な信仰が彼女を丸ごと純化し、光の体を形成させ、知らず知らずのうちに「アセンションの道」を歩んでいたということなのでしょう。

 今は「集団アセンション」の時です。かつてない波動の急上昇がそれを可能にするのです。原則的には、アセンションは意図しない限りその軌道には乗れないとされます。しかし幼子やアナリーのように真に心の美しい人は、そんな知識をまったく知らなくても、気がついた時には5次元の新地球に身を置いていた、ということもあるようです。

参考・引用
『完全アセンション・マニュアル〔上〕』 (ジョシュア・D・ストーン博士 著、紫上はとる 訳-ナチュラルスピリット刊)

 (大場光太郎・記)

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2012年~『意識がシフトする時』

            2012
          A Shift In
         Consiusness

    2012年~『意識がシフトする時』

 「君はこの流れに乗る準備が出来てるか?」 

 「宇宙でも稀なイベント」と言われ、宇宙全体がこの地球に注目しているという超変革の今この時、肝心の私たち地球人の意識レベルはどうなのでしょうか?
 いつどんなことがあってもいいようなレベルまで向上しているでしょうか?
 かく言う私自身はなはだ心もとありません。

 「息子よ。そんなことはたいした問題ではないのだ」
 これは以前このタイトルのシリーズ(08年9月)で述べましたが、20世紀初頭、ヨーロッパ文明がいかに凄いか得々と話した英国紳士に対して、ヒマラヤ大師が放った一言なのでした。
 「準備の出来ている者に師は訪れる」。英国紳士はこの一言にかつてない衝撃を覚え、迷妄が木っ端微塵に打ち砕かれ、心の底から大師のもとで修行する準備ができたのです。
 この紳士は、その後世界的なスピリチュアリストとして、世界各地を講演して回り多くの深遠な書を残した人です。

 「日常に埋没することの恐ろしさを知らなければならない」という、ある賢者の言もあります。
 日常私たちが後生大事に思い、守ろうとし、しがみついていることの多くは、「そんなことはたいした問題ではないのだ」に相当するのではないでしょうか?なのになぜ守ろうとするのでしょうか?
 それこそが、私たちを3次元世界にがんじがらめに呪縛している原因なのに…。

 宇宙は公平です。「地球全体がやがて次元上昇しますよ」という肝心要の情報は、とうの昔にすべての人に、ありとあらゆる方法で繰り返し発信されています。(ただし世界中の主要マスコミは徹底的に秘匿しています。)
 要はそれを素直に受け入れたか、エゴが拒否したかの違いだけなのです。

 これもそのメッセージの一つだと思います。心ある方。どうぞ一語一語噛みしめてご覧ください。もし分からない用語などがあれば、ご自身で調べられれば、それが探求の入り口となることでしょう。(とうにお分かりの方、失礼致しました。)

      2012年~『意識がシフトする時』

             2012年
          2012年12月21日

  その時、地球がフォトン・ベルトにすっぽりと入り
    冬至の太陽が銀河赤道と一直線に並ぶ

    君はこの流れに乗る準備が出来てるか?

    ハートを中心に生きる準備はできてるか?

           多次元の世界へ

  私たちはアルシオンの渦にある3番星マヤと共に
        フォトンベルトに入ってゆく

     私たちの内面の男性性と女性性が
        完全な調整に入っていくと
 私たちはパーフェクトに自分を映し出すものを引き寄せ
    共に高次の領域へと上昇することになる

   フォトンベルトは銀河の中心から放射され・・・
    それが、私たちの12本のDNAストランドと
5次元のクリスタルライトボディーの活性化を促すことになる

    君はこの流れに乗る準備が出来てるか?

         ( Make the shift )
           変化を起こせ !

          ( Choose Love )
           愛を選択せよ

 【注記】 ただし最新の情報では、2012年12月22日に「ガイアアセンション」が完成するということではないようです。

 (大場光太郎・記)

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七転八起様へのお願い

 -貴掲示板から当ブログに関する記事(2つ)を削除してください-

 本日5日昼過ぎ貴掲示板を訪問させていただき、気がついたことがあります。貴掲示板最初の記事として当ブログ記事『閣僚決まり野田政権スタート』を掲載していただきましたが、「URL」がありませんね。他人様の記事にはすべてといっていいくらい、きちんとURLがついていますよね。
 どうして私のだけ無しなのでしょうか。もちろんご承知の上でしょうが、納得がいきません。

 「著作権法」云々などとケチくさいことを言うつもりはありません。ただ他ブログから無断転載する以上、拝借した先方のURLを表示するのは最低限のマナーでしょうね。
 数日前の阿修羅掲示板のある記事のコメントで、当ブログ記事『野田新首相、幹事長に輿石氏を起用』を転載された時にも感じたことですが、貴殿、当ブログ記事を「ダシ」に使っていませんか。
 私は便利屋ですか。だとしたら不愉快です。

 それともう一つ。最上段の小沢一郎先生の大きな御写真、あれは一体何ですか。「御真影」ですか。小沢先生を教祖様として崇め奉れということですか。小沢先生の御真影を拝して抱いた正直な感想を申し上げます。
 まるで「カルト掲示板」のようです。

 私は確かに西松建設事件、小沢氏の政治資金管理団体の世田谷土地購入事件について、検察、マスコミに強い不信感を抱き、当ブログでそのことを繰り返し訴えてきました。それ以前からの小沢支持者でもありました。しかし「小沢信者」ではありません。他の誰様の信者でもありません。
 もちろん今でも両事件は限りなく冤罪に近いのだから、「小沢首相誕生」は当然だと考えています。ご自身自ら「天命に遊ぶ」とおっしゃっているわけですから、天命なら米国、霞ヶ関、マスコミなどがいくら妨害しようと、近い将来必ず首相になりますよ。当ブログでも今後とも折に触れて擁護記事も書いていきます。

 だからといって小沢一郎を信奉したり、崇め奉る気はありません。小沢氏は確かに傑出した政治家です。しかし時に政治的判断ミスもおかすでしょう。違いますか。人間である以上、完全無欠では有り得ないのですから当然ですよ。

 それに今そしてこれからは「独立個人」の時代です。人との調和は必要です。しかし依存はいけません。誰にも頼らず、自分で決めて行動し、その結果に全面的な責任を持つ。時代潮流がもうとっくにそうなっています。「首輪宗教」も特定の教祖様も、カリスマ政治家も…。決して頼ったり崇めたりしてはいけません。
 「嬉しい、恐い」世の中に急速進化中なのです。なのにそんな他者依存の行き方では、この先生きていけなくなります。お一人お一人がご自身の「教祖様」なのです。人に頼ること、人をコントロールすること、共にご法度です。

 タイトルからして『小沢政権を目指す…』です。それは貴掲示板を立ち上げた「関係者」のポリシーなのでしょうから、第三者がとやかく申すことではありません。しかしゆくゆくはタイトルをもっと一般的なものに変えられるのでしょうね。
 『阿修羅』以上の「国民に開かれた掲示板」を目指すのでしたら、「反小沢論」の投稿やコメントも受容する寛大さがありませんとね。それと「政治板」だけでは物足りないです。ゆくゆくは「経済板」「世相板」「雑談板」「科学板」「文芸板」などなど、森羅万象を扱う総合掲示板としてお考えなのでしょうね。

 余計なお世話の上さらに余計なお世話ながら。
 くれぐれも邪道に陥りませんよう。というのは、例の阿修羅の「七転八起氏お知らせ板」をずっと読ませていただき、今私が本当に言いたいことはそれなのです。
 この際ですから今まで述べなかった本音を申しましょう。阿修羅管理人さん対七転八起氏&ruubufan氏。「どっちもどっち」です。
 「あなたは正しくありません」。
 管理人さんも両氏も。ただただお互いの「戦う心」がぶつかっているだけですよ。

 「戦う心」が強くあるから、延々とコメント合戦が続くのです。「戦う心」がある限り「おら方が正しい」などとは言えないのです。だってそうでしょう。対人関係でのトラブルから政争、果ては国家間の戦争まで。すべて根っこにあるのは「オレは悪くない(オレが正しい)、アンタが悪い」という「戦う心」なのですから。自陣営が悪い、間違っているなどと考えながらの戦争では戦争になりませんからね。

 互いに自分の「悪」は見ないようにして、相手の「悪」だけはしっかり見て攻撃しているのです。その「戦う心」こそが諸悪の根源なのです。どっちかが矛を収めない限り、不毛なカタストロフィーが重なるだけです。「負けるが勝ち」。真の意味では戦いに勝者などいないのです。
 偉そうに言う私にも「戦う心」はあります。しかし私はそのことを自覚して、何とか減らす方向に持っていこうとしています。
 
 そのことをたまには思い出してください。くれぐれも「この掲示板こそが唯一の正義だ」などとお思いになりませんよう。でないと、阿修羅以上の「邪道掲示板」になりかねないと思いますよ。
 重ね重ねの余計な話、ひらにご寛恕ください。

 以上のようなわけで。
 改めてURLをつけ直す必要はありません。冒頭の当該記事を削除してください。また途中の『今この時&あの日あの時様へ』も読ませていただきましたので、一緒にご削除ください。それと、この記事の転載とこの記事への反論、及び今後の当ブログ記事の転載もお止めください。
 阿修羅管理人さんとは違った、誠意ある対応をお願いします。

 末尾ながら。貴掲示板の大発展、心よりお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記)、

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阿修羅の「特定人規制」について(3)

 -専制君主的阿修羅管理人がじわりじわりと追いつめられていっている-

 前回の『阿修羅掲示板の「特定人規制」について(2)』を公開したのは8月26日でした。それから10日ほどしか経過していないのに、阿修羅掲示板の七転八起氏投稿規制に関わる「お知らせ板」に劇的な動きが見られました。
 のみならず阿修羅の他の「お知らせ板」、さらには七転八起氏、ruubufan氏についも同様です。
 簡潔にお伝えしようとしても、要約しきれないほど数多くの出来事が起きました。今の時代のキーワードの一つは「スピード」だと思われますが、まさにそれに即応したような目まぐるい変化です。
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/137.html

 ゜「七転八起氏投稿規制お知らせ板」にあっては、いくら七転八起氏やruubufan氏らが同問題について質問を投げかけても、管理人氏は無視を決め込み、代役のフシギ空間氏に同板をさんざんかき回させていました。
 そして管理人氏はコメントにたまに現われたかと思えば、ある日突然ruubufan氏ブログURLの「アラシ認定」、続いて陰で「ruubufan」という文字すら阿修羅では使用できないように「文字列遮断」をしました。
 これに対して納得いかない七転八起氏が、「アラシの定義」などについて再三納得のいく説明を求めるも無視。七転八起氏はruubufanを「龍舞ふぁん」と書き換えて龍舞氏の筆峰鋭い反論を引用し続けたところ、ついに管理人が以下の宣告をしました。


382. 管理人さん 2011年9月01日 21:18:29: Master
七転八起さんをアラシと認定しました。
今後、このスレッド以外にはコメントしないでください。

アラシとは、管理人がアラシと認めた方がアラシです。

今回の場合は、阿修羅掲示板という小さなしくみについて
全く理解できてないようなので、アラシと認定しました。

なお、管理人は暇ではないし、それほど親切でもないので、
下らないコメントにご返事することは基本的にしませんのでご了承ください。

 
 狙いすましたような七転八起氏への「アラシ認定」です。しかし同氏は今や阿修羅にあって注目の「時の人」ですから、阿修羅そのものからの完全締め出しも出来ず、長い沈黙による熟慮の結果「コメントはこのスレッドのみ」との余地を残さざるを得なかったのでしょう。
 「アラシとは、管理人がアラシと認めた方がアラシです。」以下のコメントには、管理人の思考や方針がよく現われています。

 この中に「阿修羅掲示板という小さなしくみ」という表現があります。管理人さんが本当にそう思っているのか、その裏に「オレ様がここまで大きなしくみにしたんだ」という自負心が隠れているのではないということは別として。
 これは阿修羅管理人による「小さな王国」の専制君主宣言に他なりません。以前のこのスレでのコメントからもそれはうかがえましたが、今回それを明確に示したのです。「カンパ御礼」に見られる低姿勢は誤魔化しで、こちらの尊大な態度こそが本来の姿なのでしょう。
 「投稿者たちよ、読者たちよ。貴様らは余の王国の人民なのだから、余の言いつけをしっかり守れ。七転八起やruubufanのように、ガタガタ文句つけるんじゃない」ということです。

 これにはさすがの七転八起氏も相当気落ちしたようです。『こりゃダメだ』と思ったのか、完全撤退宣言を出しました。誰もがそう思ったのではないでしょうか。私もそう受取り、管理人のこの強硬姿勢では仕方ないよなと思いつつ、『今までの苦労は何だったの?すべて水の泡じゃん』という気持も正直ありました。
 しかしそこは「七転び八起き」氏です。「諸君よ。七たび倒れたら八たび起き上がれ。起き上がり小法師(こぼし)となれ。いかなる倒す力よりも自分の起き上がる力が強いと信ぜよ。」(ある近代宗教家の言)
 1l6WBTWghQさん、80U3p81lAgさんなどの強力な援護射撃、さらにはruubufanさんの叱咤激励もあって見事甦り、何事もなかったように再び戦線復帰しました。

 このスレのコメント数は遂に400を超えました。大将が以前にも増してパワーアップして戦線復帰した以上、この問題はさらに多くの阿修羅読者を巻き込んで拡大していくことでしょう。
 当初の「つまらないから」投稿規制した事件、途中の「ショウモナイ」「下らないコメント」など高圧的な返答。すべては管理人の姿勢から発した問題です。
 このスレのみならず、というよりこのスレ問題が拡大してか。他の「お知らせ・管理板」全体が大変なことになってきたようです。この問題発生以降連発していた厳しい「(投稿者の)0処分」が特に問題でした。七転八起氏と並んで優良投稿者だった「極楽とんぼ」氏が、度重なる同処分に嫌気をさして、阿修羅からの撤退を表明しました。実に惜しい人が去っていったものです。

 0処分、投稿規制、アラシ認定、記事削除…。管理人の度を越した専制君主ぶりには、心ある一般読者からも見直しを求める要望の声が挙がっているほどです。
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/266.html
 さすがの管理人もこれでは「阿修羅小王国」は崩壊するとの危機感を抱いたのか、「0処分の見直し」に言及せざるを得ませんでした。しかし『阿修羅掲示板の投稿規定』と題するつい最近の管理人回答はまたしても居丈高でそっけないもの。0処分に代わるものとして「これだけ厳しくするよ」という言論統制の余地を大いに残す内容となっています。
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/276.html
 以下は同スレの中の「管理人さん」返答コメントです。


09. 管理人さん 2011年9月04日 23:11:38: Master
>>06 いきなり投稿可能数を0にするという管理人手作業をしなくなった、ということです。

10. 管理人さん 2011年9月04日 23:51:51: Master

  (省略)

板の指向性、方向性は管理人におまかせいただきたいと思っています。

方向性についてのリクエストは随時お聞かせください。
そのたび検討し、しばしば変更してきました。

よって、阿修羅掲示板ではリクエストを聞いて管理人が判断する、という形で運営しています。

阿修羅掲示板ができた頃からそんな風にやって、今に至っています。

参考:
西洋文明の常識では「民主的な方法が良い方法」と思わされていますが、
民主的な方法は多くの場合良い運営方法にならないと私は思っています。

民主的な方法でうまくいっている組織は、
・一人が皆のことを本当に考えて、
・皆が一人の事を本当に考えて、
・皆が高いスキルを持っている場合のみうまくいくんじゃないでしょうか。

民主的な方法でうまくいっている組織ってあるんでしょうかね?


 特にすぐ上の【参考】にご注目いただきたいと思います。これは「民主主義の否定」であり、それに替わるものとして阿修羅掲示板では基本的に「専制君主制」を敷いていきますよと、管理人は改めて表明したものと考えられます。その前の本文は単なるポーズであり、【参考】こそが本心だと思われるのです。
 これはアナクロニズムも甚だしいひどい表明です。そりゃあ誰だって、最近の我が国政治を振り返っても世相の乱れを見ても、「本当に民主主義でいいのか?」と疑問を感じていますよ。しかしだからといって、「昔々の専制君主制に戻せ」などとは誰も考えちゃいませんよ。

 確かに民主主義はベストではないかもしれない。しかし人類が大量の血を流しながら、長いこと試行錯誤して得たベターな結論が民主主義なのです。現下の民主主義でうまくいっていないからこそ、より高度な民主主義を目指して止揚していくべきなのです。そのためにはおっしゃるとおり、「一人が皆のことを本当に考えて、」以下の3条件に適うよう、「主権在民」の主たる国民一人ひとりも努力していかなければなりません。
 国民の真の民度向上を目指すのが、ネット言論の使命であり、阿修羅掲示板の社会的使命ではありませんか。
 なのに管理人さん、「それを言っちゃぁ、お終めえよ」。

 (大場光太郎・記)

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東大全共闘スターだった人のこと

-「70年安保」は遠くなりにけり。だが当時を懐かしく思い出させる記事が…-

 最早腐臭が漂っている大新聞に代わって、イラク戦争直後からいつも購読しているのが『日刊ゲンダイ』です。少し前になりますが、その8月30日付の「あの人は今こうしている」という中ほどの紙面の欄で意外な人物を取り上げていました。

 その人物とは「劇団駒場を主宰した 芥正彦さん(65歳)」です。
 実は私はこの記事で初めて目にした名前でした。同記事最上段の太字のイントロ文は以下のとおりです。

 東大全共闘活動家として三島由紀夫相手に一歩も引かない論戦を展開し、“天才”とうたわれた劇団駒場の芥正彦さんの「演劇人生の集大成のような」舞台が1日から始まる

 芥正彦さんの人となりを知るのに、そのすぐ下の縦の見出しも紹介した方がいいでしょう。

 全共闘運動が吹き荒れた60年代、東大で「劇団駒場」を主宰して過激な演劇運動を展開。69年には東大全共闘の一員として三島由紀夫を東大に招き、公開討論会に自分の子供を肩車して登場。三島相手に一歩も引かない論戦を展開した。貴公子然とした風貌と鋭い舌鋒で「天才」とうたわれた芥正彦さんだ。今どうしているのか。

 芥正彦(以下敬称略)は知らずとも、三島を東大に招いての公開討論会ならよく知っています。当時だいぶ話題にもなりましたし、その討論会の内容を詳細に再現した本も出版されました。
 再三述べるとおり、その前年の68年(昭和43年)春に山形の高校を卒業して、就職のため首都圏にやってきました。何かの記事でも述べましたが、そんな私には同時期吹き荒れていた学生運動なるものは、『どうせいいとこのお坊ちゃんたちの道楽だろ』くらいに冷めてみているところがありました。

 しかし同世代として決して無関心だったわけではありません。だから同討論会を再現した本も求めて、終いまで読了しました。左翼vs右翼という対極の討論。同年5月13日、方や左翼連中は会場となった東大教養学部900教室いっぱいに詰め掛けて、「三島由紀夫をぎゃふんと言わせてやろうぜ」と、てぐすね引いて待ち構えています。
 方や右翼の時代的急先鋒の三島は徒手空拳で、ただ一人でその場に乗り込んでいったわけです。読む前にまずそのことが「スゲエな」と思いました。

 おそらく残念ながらその本はとうの昔に処分してしまっています。1回通読しただけですから、その時の討論の詳細などまったく思い出せません。ただかすかな記憶として残っているのは、四面楚歌の敵陣の中で三島は終始冷静緻密な論を展開していたことです。三島ともなると、右翼や左翼としいう枠組みを超えたところでの自在な言説が出来たわけです。
 それと学生活動家の何人かには、頭脳明晰な三島にしぶとく食らいつくシャープなヤツもいるものだと感心したことを覚えています。『さすが東大は違うわ』と舌を巻いたのです。あるいはその代表格が、今回取り上げられた芥正彦だったのかもしれません。

 この討論会が行われた69年が学生運動のピークでした。この年が明けると間もなくの1月18日には東大安田講堂の攻防戦があり、10月20日の国際反戦デーには新宿騒乱が起こりました。今振り返れば、物情騒然たる世情の中で過ぎた感のする1年でした。
 そんな学生運動家たちの熱気のようなものは、首都圏ぎりぎりの当市にいてさえ伝わってきました。

 「東大」「駒場」で今でも鮮烈に思い出されるのが、その前年11月の東大駒場祭のポスターです。作成したのは当時東大生だった、橋本治(小説家、評論家)。そのポスターは男性週刊誌『プレイボーイ』などでも取り上げられ、「名文句」が世の注目を集めました。

   とめてくれるな おっかさん
   背中のいちょうが 泣いている
   男東大どこへ行く

 当時大ヒットしていた任侠映画にあやかったものか。高倉健がモデルと思しき後姿の凛々しい男の背中には銀杏をあしらったクリカラモンモンの刺青。そしてこの殺し文句。
 しかしよく考えてみると、学生運動になんで任侠道なの?となりそうです。
 70年学生運動は何も日本だけの専売特許だったわけではなく、発端は米国発でした。それがヨーロッパなど自由主義諸国に広がり、日本にも飛び火した形です。ただ日本には日本特有の精神風土があり、学生運動家とてどこか任侠道にあい通じるメンタリティがあったということなのでしょうか。
 そのせいか三島対学生運動家の討論でも、もちろん丁々発止のやり取りながら、何となく互いに共認し合っているような雰囲気も感じられました。

 さて芥正彦は、東大在学中の67年に劇団駒場を主宰し、『太平洋戦争なんて知らないよ』で劇作家・演出家デビューしたといいます。ちょうど状況劇場や黒テントなどのアングラ演劇が誕生した時期で、芥正彦も観客にタバコを投げつけたり、罵倒したりする挑発的な舞台で世間の注目を集めたようです。68年には「天上桟敷」の寺山修司の目に止まり、芥・寺山共同編集で演劇理論誌『地下演劇』を発行し、当時勃興しつつあった暗黒舞踏にも大きな影響を与えたといいます。

 その煌めくばかりの才知と貴公子然とした風貌と。こういう人物なら若い当時は、「世界はオレのためにある」と確信できてもおかしくはありません。
 爾来四十幾星霜。一時代の寵児だった芥正彦も既に齢65歳、当時の面影は垣間見えるもののやはり初老の感は否めません。本人いわく、「十数年ほど前に肺気腫を患ってからは酒もたばこもオンナもぷっつりやめ、聖人のような生活を送ってるよ。ハハハ」ということだそうです。

参考
『68年東大駒場祭ポスター』
http://www.ne.jp/asahi/matsu/fuji/genten/tomete.gif 

 (大場光太郎・記)

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閣僚決まり野田政権スタート

 -強いて命名するとすれば「泥臭いどじょうすくいになって仕事せよ」内閣?-

 2日閣僚人事が決定し野田新内閣がスタートした。初入閣組が10人という割には今ひとつ華がないように見える。蓮舫(行政刷新相)、小宮山洋子(厚労相)という女性2人の入閣はあったものの、2人とも菅前政権時から手垢がついている感じで特に新鮮味はない。
 野田首相がそうだからなのか、内閣全体としても地味なイメージなのだ。地味でも重厚な「仕事師内閣」というのならそれなりに評価もできるが、そういう印象はとても持てない。
 この大変な国情の中、この内閣で日本丸は果たしてどこに連れて行かれるのかという疑念を持たざるを得ないのだ。

 新首相の野田佳彦はその茫洋とした風貌からして、敵だ味方だ、良い悪いとはっきり言い切ることが難しいタイプのリーダーである。その辺が全共闘的DNAをむき出しにして小沢一郎に食ってかかり、「敵だ」と見定め批判することが容易かった菅直人とは違うところである。
 首相就任後直ちに輿石幹事長を決めるという裏技も使ってくるのだ。これによって先ず「党内融和」を広く印象づけた。閣僚人事でも山岡賢次(国家公安委員長)、一川保夫(防衛相)と小沢グループから2名入閣させた。これで小沢グループを黙らせてしまった。

 野田首相の売りは「どじょう」だそうであるが、まさにどじょうのように掴み所がないと言える。輿石氏らの人事は、真心なのか下心なのか。今後の推移を見なければ判断出来ないが、野田は案外したたかで、来年9月の代表選のその先までの布石も今から打っているのかもしれない。
 個々の政策なとでその都度是々非々で判定していくしかなさそうである。

 今回の閣僚人事の最大の注目は、内閣の要である官房長官に誰がなるかということだった。官房長官は閣内全体、各閣僚はおろか各官庁の官僚トップらを掌握し、内閣のスポークスマンとして国民向けに内閣のイメージアップも図らなければならない大変な重責である。
 そんな最重要ポストに抜擢されたのは、まったく無名の藤村修である。事前に名前が挙がっていた、野田派の「はすっぱ女」蓮舫でなくてよかったとは言うものの。野田の側近中の側近で野田と共に大ののん兵衛で、2人はウマが合い野田の信頼があついらしい。
 底なし酒豪だろうと今まで無名だろうと、官房長官の重責を十分果たしてくれれば何の問題もない。平野博文や枝野幸男は論外として、うるさ型の官僚たちから「有能」として評価の高かった、あの仙谷由人ですらしくじったのである。大化けしないとも限らないが心配な官房長官人事である。

 野田首相は、本当は岡田克也を官房長官にしたかったという。岡田なら外相経験もあり、野田の弱い安全保障や外交分野でのサポートも期待してのことらしい。かなり時間をかけて口説いたものの、岡田はどんなに懇請されても「今回は休みたい」ととうとうクビを縦に振らなかったという。そこで急遽自派の藤村に決めざるを得なかったのだ。
 岡田は次に財務相としての入閣を要請されたものの、結局入閣そのものを断わった。幹事長としての度重なる失敗を謙虚に反省してかというとさに非ず。来年9月の代表選を睨んで、岡田は野田と距離を起きたかっただけなのだという。
 いやはや。幹事長失格者がポスト野田狙いか。何ともふざけた話と言うべきである。

 「ふざけた話」が今回の人事にはある。安住淳前国対委員長の財務相就任である。これは外相に横滑りした玄葉光一郎にも言えることだが、彼らは党三役として岡田と共に菅前政権を支える立場にあった者たちである。
 岡田がそういう形になったように、菅直人と共に辞任ししばらくの期間役職に就くのは自粛すべきである。頼む方も頼む方なら、受ける方も受ける方だ。菅の時から「民主党B」は、とにかく物事のケジメがまるでついていない。ケジメのない人事がケジメのない政治を生み出す。菅前政権がまさにそうだったではないか。

 それに安住の場合はついたあだ名が「ちびっ子ギャング」。国対委員長の時も放言、失言を繰り返して物議を醸した。公明党の漆原良夫国対委員長からは、「アンタは与党の国対委員長として軽すぎるよ」と何度も叱られたという。
 そんな軽挙妄動男が、財務相という重要なポストに就くというのだ。震災復興予算の関係で、宮城県出身の安住が適任だというのである。震災復興予算はもちろん大事だ。しかしそれは財務相の仕事の一部にすぎない。
 米国、欧州など国際的な大金融不安のただ中、日本が沈没しないための舵取りもしなければならないのだ。トヨタなどですら音を上げている超円高をぎりぎりのところで食い止めなればならない。G8などの国際会議の場で、主要国のつわものたちと丁々発止やりあわなければならない。安住で務まるのか。

 そもそも安住淳に国家財政などの総合的な知識があるのか。とてもあるとは思えないのだ。野田の弟分として、まさに論功行賞人事の最たるものだろう。野田が「オレも出来たんだからお前さんも出来るよ」などと言って勧めたとしたら、「国と国民をなめるな」と言いたい。
 どうせ野田政権の性格上財務省の言いなりなのだろう。早くも野田政権は「勝政権」だと言われているのである。勝とは財務省事務次官の勝栄二郎のことである。それだったら、国家戦略相で初入閣した古川元久を抜擢した方がよかったのではないか。

 古川は45歳と若いものの、東大法卒で司法試験一発合格の切れ者である。しかも財務省出身だから同省のことには精通しているのだ。それだけに財務省べったりとも言えるが、「脱財務省」をして政界入りしたからには同省に見切りをつけた側面もあるのだろう。「政治主導」のケジメさえしっかりついていれば、むしろ財務官僚を動かすツボは誰よりも心得ているといえる。
 ただ司法試験一発合格まで同コースの仙谷に可愛がられているのが難点だ。「坊主憎けりゃ袈裟まで…」と言うものだ。

 切りがないのでそろそろ止めにするが、最後にもう一人事。法務大臣である。来月上旬に初公判を迎える小沢裁判を考えた場合重要なポストである。これには平岡秀夫が就任した。「平岡WHO?」と思って確かめたが、顔だけは見覚えがある。
 江田五月の留任や仙谷の就任だけは願い下げだったが、この平岡は数少ない菅直人の子分筋なのだそうである。支持してくれた菅前首相へのお礼人事なのだろうか。菅は例の外国人献金事件で刑事告発されているが、その訴追逃れのための人事かとつい勘ぐりたくもなる。併せて「小沢裁判はとことん長引かせろ」というシグナルか。もうじき分かることではあるが。

 自民党末期総選挙を経ずに安倍、福田、麻生と政権のたらい回しをした。それを厳しく批判していた民主党が、菅、野田と同じことをやっている。しかし野田の次は最早許されない。
 具体的に目に見える成果を挙げなければ、今度こそ国民の厳しい審判が待ち受けている。そのことを野田首相初め全閣僚が肝に銘じて閣務に精励すべきである。

 (大場光太郎・記)

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これがニビルか?Two Suns現象

 先日の『驚愕情報-凶星ニビル大接近』で、Two Suns(二つの太陽)が世界各地で見られ、YouTube動画として公開されていると述べました。今回公開する動画はそのうちの一つです。
 10分弱とやや長いですが、まずは動画をご覧ください。
 

 この映像を撮影したのは米国人男性。しかし何州のどの地域かまでは分かりません。
 冒頭の導入文を乏しい英語力で私なりに意訳してみました。その前にタイトルの「NIBIRU-Brown Dwarf」は、「ニビル-褐色矮星」の意味のようです。

     I filmed yesterday
   morning 23/2/2011,
             the Sun
     but I clealy see two
  suns?One is certainly
       the Sun and the
         second item?
              Nibiru?

 私はきのうの朝(2011年2月23日)たまたま日の出の太陽を撮影していた。
 ところがびっくりじゃないか。この目ではっきり見たんだよ。2つの太陽をさ。
 一つは間違いなく「太陽」だった。するともう一つのヤツ、ありゃ一体何だ?
 ひょっとしてあれが噂の「ニビル」か?

 2つの大きな天体が上下に並んで、約9分間にわたって写り込んでいます。普通のレンズなのか偏光フィルターレンズなのかよく分かりませんが、下のひときわ大きく輝く白い光体が本物の太陽のようです。
 その上の赤褐色が問題の天体Xです。2つの天体を区分するように上半分は暗灰色ですが、あるいはその部分全体が雲に覆われているのでしょうか。

 右隣の煙突か塔かがあることによって、(下の太陽)が徐々に昇っていくようすがよく分かります。途中小鳥が飛んできて天辺に止まり、しばらくいてから飛び去っていくのはご愛嬌です。
 しばらく見ていると、2つの天体の差が徐々に縮まっていくのが確認できます。上の「ニビル」と思しき天体は明らかに太陽とは別の固有の運動、軌道を有しており、動きが極めて緩慢か静止しているようです。

 途中撮影者の話し声も入っていますが、私の英語力ではよく聞き取れず、ご紹介できないのが残念です。2、3度「hooom」というため息が聞こえますが、およそ有り得ざる光景に、『こりゃ、大変だ』という思いが伝わってきそうです。
 これは俗に言う「幻日(げんじつ)現象」などではないでしょう。

 上の不気味な天体がもし本当にニビルなら、とっくに太陽系内に入り込んでいることになります。それも地球に極めて接近しているということです。
 ニビルの大きさはほぼ木星くらいと言われていますから、木星の位置よりはずっと手前まで近づいていることになります。計算していないのでうかつなことは言えませんが、今年2月23日の時点で、火星より少し遠い距離くらいのところまで迫って来ていたということなのではないでしょうか。

 木星の質量の4倍もの矮星です。こんなのがさらに地球に接近したなら一体どうなることやら。それはまた別に検討してみたいと思います。
 いっそこの動画が、撮影者のトリックであることを願うばかりです。

 (大場光太郎・記)

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ブログ背景替えました-11年9月篇

  あをあをと月に読まるる河原かな   (拙句)

 二十四節気の「立秋」今年は8月8日、したがって暦の上で今はもう秋なのです。しかし立秋のみならず立春(例年2月4日頃)や立夏(5月5日、6日頃)も、暦と実際上の季節にはかなりのズレがあります。
 それが証拠に夏の風物詩の一つである蝉は、今でもけっこう「ミン、ミン」「ジー、ジー」鳴いています。以前ご報告しましたとおり、当地では7月末になってようやく鳴き始めたのが、初秋の今になっても名残り惜しげに鳴き止まないのです。

 また『きょうは暑いなあ』と感じる晴れた日など、見上げた空の低いところから高くまでニョキニョキと入道雲が立ち上がっているのが認められます。しかし同じ日の夕方再び空を見上げるに、日盛りの入道雲は消えていて、代わって中空辺に薄い横すじ雲やうろこ雲が見られ、『あヽやっぱり秋なんだなあ』と思わせられます。
 西の彼方に、底辺の広い二等辺三角形状にどっしりと聳える大山(おおやま)の峯目指してうころ雲が広がっていたりすると、以前記事にした『鰯雲(鱗雲)』 (09年10月)のことをふと思い出したりします。

 言うまでもなく、うろこ雲はイコール「鰯雲(いわしぐも)」です。小説『鰯雲』は厚木市出身の農民文学者・和田傅(わだ・でん)の代表作ですが、昭和33年映画化(東宝作品)されたのです。
 主演は宝塚出身で当時の美人女優の淡島千景と新進の二枚目スターだった木村功。淡島演じる女学校を卒業して厚木の在(ざい)の農家に嫁いだ女と、東京の新聞社から厚木に赴任してきた木村演ずる新聞記者との、うたかたの恋をメーンとしたストーリーでした。
 (二代目)中村鴈治郎、小林桂樹、加東大介、杉村春子、司葉子、新珠三千代などの往年の名スターたちが脇を固めています。(監督:成田巳喜男、脚本:橋本忍)

 この映画では随所に、昭和30年代前半の大山の麓ののどかな田園風景や、同じく当時の厚木の古めかしい街並みが映し出されていました。それらの風景を織り込みながら、つかの間のラブストーリーが詩情豊かに展開されていくのです。
 ずい分間をおいてデレビでも2回ほど放映されました。私は2回とも観ましたし、市の出先機関に設けられている視聴覚ライブラリーコーナーのビデオを借りてと、都合3回ほど観ています。あまり知られていないかも知れませんが、昭和30年代の名画の一つだと思います。

 1週間ほど前は赤とんぼも見かけました。とある店舗の駐車場の上を飛んでいたのです。もちろん昔々のような大群ではなくほんの3匹ほどだけですが、舗装された場所で近くに樹木など自然物は何もないにも関わらず、気持よさげにスイスイと…。

 8月最後の日のきょうは曇りがちながら、やけに蒸し暑い一日でした。それにきのうもそうでしたが、時ならぬ時に雨がパラパラ落ちてきたりする変な陽気です。
 と気になっていましたら、「大型で強い」という台風12号が日本の南の海上を進んでいるとのことです。予想進路図では2日頃には中国地方あたりに上陸し、そのまま3日にかけて日本を縦断、北上しそうな気配のようです。
 強風の上に勢力範囲が広そうです。近年台風などは思わぬ地方に激甚災害をもたらしがちです。通過が予想される地域の方々はどうぞ警戒していただきたいと存じます。

 いよいよ9月、仲秋の候です。仲秋と言えば「名月」「お月見」の季節です。というわけで当ブログ背景も、『十五夜』バージョンに替えることにしました。このテンプレートは昨年使用したばかりですが、今年は早めということになりました。しばしこの背景でお付き合いください。
 ちなみに今年の「十五夜」(仲秋の名月)は9月12日(月)です。8月29日に朔(新月)を迎えたばかりのお月様は、9月5日に上弦(じょうげん)となり、なおなお膨らんでいって12日に望(満月)となるのです。
 十五夜のみならず、時に外に出て夜空を眺めてはそれに至るプロセスも楽しまれてはいかがでしょうか。

 冒頭の句は、以前の『俳句を始めた頃(5)』(09年7月)でもご紹介しましたが、だいぶ前の「伊勢神宮観月句会」に投句して採用となった一句です。選者は同じ山形県出身の有名俳人の鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)です。(同観月句会で採用された諸句はまとめて一冊の句集に収録されます。著作権法上は既に私を離れていますから、以上の来歴を付けなければ勝手に掲載出来ないのです。)

 この句では「月に読まるる」が生命線です。とは言っても私の独創ではなく、ある有名俳人の句から拝借したものです。古事記中の、天照大神、須佐之男命と共に三貴子の一柱である「月読命(つきよみのみこと)」に由来しています。
 神様にお叱りを受けそうですが、月読命とは何とも詩的なネーミングです。これも以前触れたとおり、日本神話の「中空構造」の隠身(かくりみ)の神の代表例と言えます。

 (大場光太郎・記)

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