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東大全共闘スターだった人のこと

-「70年安保」は遠くなりにけり。だが当時を懐かしく思い出させる記事が…-

 最早腐臭が漂っている大新聞に代わって、イラク戦争直後からいつも購読しているのが『日刊ゲンダイ』です。少し前になりますが、その8月30日付の「あの人は今こうしている」という中ほどの紙面の欄で意外な人物を取り上げていました。

 その人物とは「劇団駒場を主宰した 芥正彦さん(65歳)」です。
 実は私はこの記事で初めて目にした名前でした。同記事最上段の太字のイントロ文は以下のとおりです。

 東大全共闘活動家として三島由紀夫相手に一歩も引かない論戦を展開し、“天才”とうたわれた劇団駒場の芥正彦さんの「演劇人生の集大成のような」舞台が1日から始まる

 芥正彦さんの人となりを知るのに、そのすぐ下の縦の見出しも紹介した方がいいでしょう。

 全共闘運動が吹き荒れた60年代、東大で「劇団駒場」を主宰して過激な演劇運動を展開。69年には東大全共闘の一員として三島由紀夫を東大に招き、公開討論会に自分の子供を肩車して登場。三島相手に一歩も引かない論戦を展開した。貴公子然とした風貌と鋭い舌鋒で「天才」とうたわれた芥正彦さんだ。今どうしているのか。

 芥正彦(以下敬称略)は知らずとも、三島を東大に招いての公開討論会ならよく知っています。当時だいぶ話題にもなりましたし、その討論会の内容を詳細に再現した本も出版されました。
 再三述べるとおり、その前年の68年(昭和43年)春に山形の高校を卒業して、就職のため首都圏にやってきました。何かの記事でも述べましたが、そんな私には同時期吹き荒れていた学生運動なるものは、『どうせいいとこのお坊ちゃんたちの道楽だろ』くらいに冷めてみているところがありました。

 しかし同世代として決して無関心だったわけではありません。だから同討論会を再現した本も求めて、終いまで読了しました。左翼vs右翼という対極の討論。同年5月13日、方や左翼連中は会場となった東大教養学部900教室いっぱいに詰め掛けて、「三島由紀夫をぎゃふんと言わせてやろうぜ」と、てぐすね引いて待ち構えています。
 方や右翼の時代的急先鋒の三島は徒手空拳で、ただ一人でその場に乗り込んでいったわけです。読む前にまずそのことが「スゲエな」と思いました。

 おそらく残念ながらその本はとうの昔に処分してしまっています。1回通読しただけですから、その時の討論の詳細などまったく思い出せません。ただかすかな記憶として残っているのは、四面楚歌の敵陣の中で三島は終始冷静緻密な論を展開していたことです。三島ともなると、右翼や左翼としいう枠組みを超えたところでの自在な言説が出来たわけです。
 それと学生活動家の何人かには、頭脳明晰な三島にしぶとく食らいつくシャープなヤツもいるものだと感心したことを覚えています。『さすが東大は違うわ』と舌を巻いたのです。あるいはその代表格が、今回取り上げられた芥正彦だったのかもしれません。

 この討論会が行われた69年が学生運動のピークでした。この年が明けると間もなくの1月18日には東大安田講堂の攻防戦があり、10月20日の国際反戦デーには新宿騒乱が起こりました。今振り返れば、物情騒然たる世情の中で過ぎた感のする1年でした。
 そんな学生運動家たちの熱気のようなものは、首都圏ぎりぎりの当市にいてさえ伝わってきました。

 「東大」「駒場」で今でも鮮烈に思い出されるのが、その前年11月の東大駒場祭のポスターです。作成したのは当時東大生だった、橋本治(小説家、評論家)。そのポスターは男性週刊誌『プレイボーイ』などでも取り上げられ、「名文句」が世の注目を集めました。

   とめてくれるな おっかさん
   背中のいちょうが 泣いている
   男東大どこへ行く

 当時大ヒットしていた任侠映画にあやかったものか。高倉健がモデルと思しき後姿の凛々しい男の背中には銀杏をあしらったクリカラモンモンの刺青。そしてこの殺し文句。
 しかしよく考えてみると、学生運動になんで任侠道なの?となりそうです。
 70年学生運動は何も日本だけの専売特許だったわけではなく、発端は米国発でした。それがヨーロッパなど自由主義諸国に広がり、日本にも飛び火した形です。ただ日本には日本特有の精神風土があり、学生運動家とてどこか任侠道にあい通じるメンタリティがあったということなのでしょうか。
 そのせいか三島対学生運動家の討論でも、もちろん丁々発止のやり取りながら、何となく互いに共認し合っているような雰囲気も感じられました。

 さて芥正彦は、東大在学中の67年に劇団駒場を主宰し、『太平洋戦争なんて知らないよ』で劇作家・演出家デビューしたといいます。ちょうど状況劇場や黒テントなどのアングラ演劇が誕生した時期で、芥正彦も観客にタバコを投げつけたり、罵倒したりする挑発的な舞台で世間の注目を集めたようです。68年には「天上桟敷」の寺山修司の目に止まり、芥・寺山共同編集で演劇理論誌『地下演劇』を発行し、当時勃興しつつあった暗黒舞踏にも大きな影響を与えたといいます。

 その煌めくばかりの才知と貴公子然とした風貌と。こういう人物なら若い当時は、「世界はオレのためにある」と確信できてもおかしくはありません。
 爾来四十幾星霜。一時代の寵児だった芥正彦も既に齢65歳、当時の面影は垣間見えるもののやはり初老の感は否めません。本人いわく、「十数年ほど前に肺気腫を患ってからは酒もたばこもオンナもぷっつりやめ、聖人のような生活を送ってるよ。ハハハ」ということだそうです。

参考
『68年東大駒場祭ポスター』
http://www.ne.jp/asahi/matsu/fuji/genten/tomete.gif 

 (大場光太郎・記)

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コメント

東大全共闘vs三島由紀夫となっているが、本当は、芥正彦の作演出といわれてますね。東大全共闘は名義貸しなんです。駒場の幹部が許可をだしたんです。丸山真男がピントはずれの批判をしていますが、まったく滑稽な男です。

投稿: 横山閲治郎 | 2014年11月 6日 (木) 20時49分

横山閲治郎様

 貴重な情報、大変ありがとうございました。そうでしたか。あの「歴史的討論」の作演出が芥正彦でしたか。さすがの三島由紀夫もまんまと乗せらたほど、当時の芥正彦は鬼才だったということなのでしょうね。ご文に丸山真男の名前を出しておらますが、当時丸山は大変な権威としてもてはやされていた記憶があります。その後日本社会の変貌・変質により、丸山ならずとも誰も彼も何もかもが相対化され、権威の座から引きずり下されました。「これだ」という原理がいまだ見い出せないまま、今日の日本漂流のような状況かと思われます。

投稿: 時遊人 | 2014年11月 8日 (土) 00時34分

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