ほんとうの横浜
神奈川県の老舗書店・有隣堂の広報紙『有鄰』2面に、『「海辺」の創造力』というコラムがあります。横浜にゆかりのある文化人が一文を寄稿しているのです。
第515号の同コラムは、藤原帰一氏の『ほんとうの横浜』という一文でした。同氏は東京大学法学政治学研究科教授で、専門は国際政治学、比較政治学、フィリピンを中心とした東南アジア研究です。
とお堅い肩書きよりも、テレビの報道番組のコメンテーターとして顔なじみの人も多いことでしょう。私もかつて何度か同氏の話を聞いたことがあります。姜尚中(カン・サンジュン)氏、金子勝氏などもそうですが、思想傾向はよく分からなくても『さすが東大教授、気の利いたことを言うものだ』と感心しながら、同氏のコメントを聞いていました。
今回ご紹介するのは、そんな藤原帰一氏の「気の利いた一文」です。氏は横浜市戸塚区在住とのことですが、歴史的由緒も折り込んだ「横浜文化論」、横浜紹介文となっています。氏の横浜愛が行間から伝わってくる、これぞ「ザ・エッセイ」の見本のようです。
文の雰囲気を壊さないため、行の詰まった原文のままの掲載とします。
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本当の横浜 藤原帰一
横浜の人間だ、という気持がある。
生まれたのは東京。父の職の関係から引越しを繰り返したので、小学生の頃まで、ここが故郷だと思えるようなところがなかった。外国にいても日本にいるときも、本来の住民ではない余所者、闖入者のような居心地の悪さがつきまとっていた。
中学生の時、横浜に引っ越してから、気持が落ち着いた。その後も留学や結婚で住所を移したけれど、いつも横浜に帰ってきた。九〇年代に入って、子たちも横浜の学校に通い、横浜の人間だと思うようになった。
では、横浜はどこを指す言葉なのか。そこがよくわからない。
篠原町、駅でいえば東横線の白楽に近い私の実家についていえば、ここは横浜だという手応えがある。栗田谷を越えれば港に続く平地だし、県知事の公邸も近い。本牧・山手からぐるりと港を取り囲む山の手の、そのいちばん端っこというイメージだ。
でも、いま住んでいる戸塚が横浜だ、という感覚が私にはない。横浜よりも劣っているとか優れているとかいった序列の問題ではない。横浜が開ける前から東海道の宿場町として伝統を誇っていたということもあり、戸塚は横浜である以前に戸塚なのである。
それでいえば、横浜駅が横浜だという気持も少ない。横浜駅周辺より野毛や伊勢崎町の方が市街地も古い。私にとって横浜駅とは横浜への入り口という意味だった。有隣堂だって駅地下のお店で買うことの方が多いのに、伊勢崎町が本店、ダイヤモンド地下街は世を忍ぶ仮の姿だと思いこんできた。
もちろん私の頭が古いのである。桜木町から大桟橋にかけての「横浜」は開港地の横浜であり、戸塚区とか緑区とか多くの外延を抱えた大都市とは意味が違う。後者は人口は多くても要するに東京への通勤客を抱えた「ベッドタウン」(凄い言葉ですね)としての横浜、前者は人口こそ少ないかも知れないけれど、文明開化の中心拠点、『或る女』の早月葉子が汽車に乗ってわざわざ買い物にやってきた横浜だ。私は、それこそが横浜だ、「ベッドタウン」は横浜の偽者だという観念によって、郊外の住宅地となった横浜の実家から目を背けようとしていた。
文明開化のおしゃれな町というだけではない。港町だから闇の顔、犯罪だってあるだろう。かつての日活アクション映画では、横浜の倉庫に集うのがギャングの習わしだった。いまはショッピング・モールに姿を変えた新港埠頭は、撃ち合いにはぴったりのフォトジェニツクな空間だった。
そんな古い「横浜」への郷愁が、私にはある。しかし、私が中学生で引っ越したとき、古い「横浜」はほとんどなくなっていたはずだ。私は、自分が経験したことのない「過去」を仮構し、覚えているはずのない「過去」を思い出し、自分の経験であるかのように思い込んで、「過去」を懐かしんでいることになる。それが私にとっての、ほんとうの横浜だ。 (転載終わり)
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