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2011年10月

どうなる?「世界恐慌と日本沈没」

 -いつまでも続く「ダラダラ型恐慌」。没落確定の日本は価値観を転換せよ-

 少し前になりますが、『日刊ゲンダイ』の7面最上段コラムに、『どうなる?世界恐慌と日本沈没』というシリーズが連載されました。

 「ヨーロッパを中心に国家の財政破綻危機が広がり、世界同時株安、超円高と、日本を取り巻く経済状況はかつないほど深刻化しつつある。今、世界経済では何が起こり、それは日本経済にどんな影響を及ぼすのか」

 シリーズ冒頭の上記の問題提起を受けて、日本を代表する経済学者、エコノミストが:現時点での状況分析、今後の見通しなどを述べていく企画でした。
 第1回目は、元財務官で青山学院大学教授の榊原英資氏でした。榊原氏は著書『世界同時不況が始まっている !』で今回の事態を的中させ、近著『世界恐慌の足音が聞こえる』でさらに警鐘を鳴らしています。
 以下に榊原氏の主張を要約してみます。

 榊原英資氏の予測では、「世界恐慌になる可能性はかなり高い」ということです。それも1929年のブラックマンデーのような株大暴落不況ではなく、1870年型大不況が始まっているというのです。
 どういうことかというと、大不況がある日突然ドカーンとやってくるのではなく、じわじわ真綿で首を絞められるようなタイプの不況だというのです。株大暴落というような事が起らないから、多くの人は大不況に気づかないが、10年たってみると大恐慌が起ったと同じくらい株が下がり、経済は縮小している。そういうタイプ、別の表現をすれば「ゆでガエル症候群的大恐慌」とでも言えましょうか。

 榊原氏の見立てでは、今世界に大きなパラダイムシフトが起きているということです。それは欧米の凋落であり、米国と欧州の時代は終焉しつつあるというのです。これは16、7世紀以降の世界をリードしてきた、「近代資本主義そのものの終わり」をも意味しているのですから事は重大です。

 確かにサブプライム問題、リーマンショックが“強欲資本主義”の米国を直撃し、銀行救済のために巨額の公的資金が投入され、それが国家財政をパンクさせ、さらなる公的資金を必要とするという悪循環に陥っています。
 また欧州は、国家財政危機を抱えるギリシャのデフォルトが懸念され、仮にそんな事態になればドイツ、フランスの銀行を直撃します。のみならずポルトガル、スペイン、バルト三国など同じく国家財政危機を抱える国が連鎖反応を起こしかねません。米国や我が国も深刻な影響をこうむるのは必至なのです。

 「残念ながら先進国の時代は終わった」と榊原氏は断言するのです。これまで欧米と歩調を合わせてきた日本も当然その中に含まれるわけです。
 なのに、落ち目の米国言いなりのТPP参加に前のめりなのはどういうことだという話です。

 代わって今後世界をリードしていくのはどこか?これまでは後進国だった中国やインドです。既に中国はGDPで日本を抜き、ほどなく米国をも抜くのは確実です。
 インドはもっと勢いがあります。一人っ子政策の中国と違って、人口増加率が一番大きいのがインドで、2050年には16億人となり中国を抜くと予測されています。低成長に苦しむ我が国などを尻目に、インドは今後とも7%くらいの高成長を維持していくとみられるのです。

 中国やインドなどが台頭し欧米などが没落していく。大いなるパラダイムシフトの時期はしばしば戦争や恐慌が起ると、榊原氏は警鐘を鳴らしています。どうしても軋轢を伴うため、移行がスムーズに行かないケースが歴史上ままあったからです。
 「戦争」ということでは、核の抑止力があるため「大きな戦争」は起らないものの、中東などで局地戦が起る可能性は大いにありそうです。
 榊原氏は、米国は経済的なリーダーシップを失っただけでなく、中東の安定化にも失敗していると見ています。世界は「米国の終焉」を目の当たりにしているというのです。今後世界は経済的恐慌のみならず、政治的、社会的にも混乱していく恐れが十分あるわけです。

 我が国の円高傾向は今後とも続くことが予測され、原発再稼動も難しい情勢です。慢性的な電力不足が続く中、これまでのようにどんどんモノを作れなくなります。「もうモノを増やせばいい時代ではありません」と榊原氏は言い切っています。そして今後の日本人は、「経済的な繁栄とは別の価値観」を求めていく時代になると言うのです。
 作家の五木寛之氏も、「下山の時代」と別の言葉で榊原氏と同じことを言っています。

 それには従来の新自由主義という弱肉強食の強欲丸出しの米国型より、税は高くなっても欧米型の社会福祉国家を目指すべきだと、榊原氏は暗に示しています。
 今の日本には、少なくと後1、2年は国債を発行しても消化できるくらいの財政的余力はありそうです。この期間の増税はご法度です。それよりは急ぎ社会福祉を充実させ、雇用を大幅に増やせるよう整備していく。それから、今後日本は「弱肉強食ハゲタカの米国型」「社会福祉の欧州型」のどちらで行くべきか、国民の判断に委ねるべきだと言うのです。

 榊原氏は結びとして、今日本は本当に厳しい局面に置かれているのに、野田政権は呆れるほど危機感がないと嘆いています。

参考・引用
『日刊ゲンダイ』10月4日、5日-「どうなる?世界恐慌と日本沈没(1、2)」

 (大場光太郎・記)

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啄木歌 秋の風二首

          石川 啄木

  鈴懸にポプラ並木に秋の風
  吹くが悲しと
  日記(にき)に残れり

  我が抱く思想は常に
  金無きに因する如し
  秋の風吹く

 …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》

 石川啄木の代表的歌集『一握の砂』には、「秋の風」を詠んだ短歌が幾つもあります。今回はそのうち私の印象に特に強く残っている歌二首を取り上げてみました。ただしこの二つの短歌は傾向が大きく異なります。

  鈴懸にポプラ並木に秋の風/吹くが悲しと/日記に残れり

 「鈴懸」そして「ポプラ」並木とくれば、札幌の大通りが思い浮かびます。事実啄木は、北海道放浪時代札幌にも短期間(明治40年9月)住んでいましたから、おそらく「吹くが悲し」と日記に残した、鈴懸とポプラ並木に吹き渡る秋風とはそこでのこととみて間違いないと思われます。

 鈴懸もポプラも、当時の我が国の他の都市ではあまり見られなかったであろう、西洋のどこかの街並みを彷彿とさせる街路樹です。
 そのことがこの短歌にモダンな叙情性をもたらしています。

 そんな西洋風の通りを歩いている啄木はというと、街並みに目をやりながら、詩人らしい秋思にとらわれて歩いています。結果、無色透明な秋の風を「吹くが悲し」と感じているのです。
 
 そのことを書き残していた日記を読み返しながら、その時の回想、追体験をしながら詠んだのがこの歌です。
 短歌の中では時刻が何時だったかまではふれていません。昼過ぎいな午前中だったこと考えられます。が私はずっと以前から何となく、夕闇迫る頃合の街並みをイメージしながら読んできました。

   我が抱く思想は常に/金無きに因する如し/秋の風吹く

 一首目の叙情性は陰をひそめ、代わって思想性が全面に出てきている短歌です。この歌を詠んだところは明らかです。東京です。啄木は失意のうちに北海道生活にピリオドを打ち、二度目の東京生活を決意し、妻の節子、老母、幼い子供を連れて東京にやってきたのです。
 募る創作活動への憧れからまたぞろ首都にやってきたものの、歌人として広く名が売れ飯が食えるほど甘くはなく、家族を抱えてすぐに厳しい生活苦に陥ります。

 この頃の啄木には有名な逸話が残されています。啄木は「借金の天才」だったというものです。とにかく家族を養っていくためにやむなく、友人・知人から金を借りまくったようです。
 最大の被害者(援助者)は、盛岡中学校の先輩で国語学者、アイヌ語学者の金田一京助でした。子息で同じく国語学者の金田一春彦は、子供の頃家財を売ってまで啄木に金の工面をしている父の姿を見て、「石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないか」と本気で思っていたといいます。

 そういう過酷な生活苦の中で啄木は、幸徳秋水が起こした大逆事件(明治43年)に並々ならぬ関心を寄せたり、社会主義思想に共鳴していくことになります。
 この短歌はそのような時期に作られたものです。啄木が常日頃抱いている思想というのは、「短歌や詩や文学とは何ぞや」というような高踏的なものなどではない。「金欠」という極めて現実的なことに起因するのだというのです。その切迫した事情の前には、最早叙情性の入り込む余地などないわけです。

 この歌における首都の秋の風は、啄木にとって事のほか骨身に沁みる風だったといえます。明治45年4月13日27歳という若さでの死は、「金無き」心痛が大きな要因だったのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

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鎖に繋がれたアンドロメダ姫

 メドゥサの首を取り使命を果たしたペルセウスは、道案内を務めてくれたアテナ女神と別れて、一人帰路につきました。

 ゴルゴン姉妹の居場所がどこだったかは不明ですが、どうやらギリシャとは地中海を挟んで反対側のアフリカ大陸のどこかだったようです。だとするとペルセウスは通常の航海ではなく、飛行靴を履いて地中海海上を飛んでアフリカに渡っていったことになります。
 オリュンポスの神々の領するギリシャからすれば、かの地は蛮族の住む「海向う」の僻遠の地と観念されていたことでしょう。いわゆる魔界、異界です。
 だからグライアイという老妖姉妹やゴルゴンという怪物姉妹など魔物・妖怪のたぐいは、神話的に海の彼方のアフリカに追いやったことが十分考えられます。

 さてペルセウスは、帰路にエチオピアの辺りを通ります。すると何としたことか。海岸の岩場で鎖に繋がれた世にも美しい王女がいるではありませんか。訳あって囚われの身となっていたのはアンドロメダ姫です。

 ところで『ギリシャ神話を知っていますか』の作者・阿刀田高の生家には、父親が揃えた「世界裸体美人全集」の数冊があって、それを阿刀田少年はこっそり盗み見していたそうです。分けてもインパクトが強かったのが、アンドロメダ姫が全裸で鎖に縛られている絵で、見るたびにエロティックな興奮を覚えたそうです。それは次の絵でしょうか。  



 なるほど、なるほど。肉感的な成熟した女体美です。「鎖につながれている…」、今で言うソフトSM?今のように性情報が氾濫していなかった昔の少年なら、阿刀田少年ならずとも、本当は神聖であるべき西洋のこういう絵画に、不純にも身も心も興奮した記憶がおありでしょう。
 ちなみに私の場合一番興奮したのは、中学生の時たまたま目にした、アングルという画家の有名な『泉』ですかね。

 今改めて見直しても、惚れ惚れするような完璧な女体美です。「興奮」が大分鎮まった今(苦笑)冷静に鑑賞してみますと、紛れもない優れた芸術だと思いますね。やはりこの絵も、ギリシャ神話の何かのシーンがモティーフになっているように思います。

 この『ギリシャ神話選』では、話がついついエロティックな方向に脱線しがちで申し訳ございません。「エロスは神の戯れ」というような言葉があったかどうか。ギリシャ神話そのものがエロス満載なものですからつい…。

 と言うわけで、今回はもう少し話を進めようと考えていましたが、アンドロメダ囚われの次第やペルセウスの美姫救出などは次回に持ち越しと致します。

 (大場光太郎・記)

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どくとるマンボウ昇天記

 【注記】いささか不謹慎なタイトルかもしれませんが、これは故人の「どくとるマンボウ」シリーズに敬意を表したもので、他意はございません。

  「さよなら」とか細く鳴けり残る虫   (拙句)

 「どくとるマンボウ」として親しまれてきた、作家の北杜夫さんが24日午前6時過ぎ、東京都内の病院で亡くなりました。享年84歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 北杜夫さん(以下敬称略)の足跡を簡単に振り返ってみます。

 北杜夫(きた・もりお)は、1927年5月1日東京赤坂生まれの小説家、エッセイスト、精神科医、医学博士です。父は近代日本の代表的歌人の斎藤茂吉(その次男)、兄はエッセイストとしても知られる精神科医の斎藤茂太です。またエッセイストの斎藤由香は氏の一人娘です。

 少年時代はもっぱら昆虫採集に深く没頭する日々で、文学には興味がなかったといいます。戦時中の東京空襲により長野県松本市に疎開、旧制松本高校に入学。年上の学友だった辻邦生(小説家)らの刺激により文学に目覚めます。
 特に松高のドイツ語教授でトーマス・マンの翻訳で名高かった望月市恵から深い感化を受け、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』や『魔の山』からの強い影響により作家を志すようになりました。

 大学進学にあたっては、カミナリ親父だった父の茂吉から志望外の「医学部」を厳命され、しぶしぶ東北大学医学部に進みます。東北大を選んだのは、せめて松高の環境に似た風情を持った大学へという願いによるものでした。
 大学卒業後はインターンとして慶應義塾大学病院に赴任します。無給だったため、兄・茂太の自宅への居候でした。医師としての務めのかたわら、同人雑誌『文藝首都』に参加し、川上宗薫、佐藤愛子、なだいなだらと知り合います。1959年には、『文藝首都』に連載した処女小説『幽霊』を自費出版しています。

 1960年『夜と霧の隅で』で第43回芥川賞を授賞し、作家としての本格的スタートを切りました。また1958年から59年にかけて、水産庁調査船に船医として乗船しインド洋から欧州にかけての航海を経験しています。この時の体験を元に『どくとるマンボウ航海記』を刊行しベストセラーとなりました。
 この2つの成功により、以後小説、エッセイとも若い読者から熱狂的に支持される人気作家となりました。

 作品は、『夜と霧の隅で』、『楡家の人びと』(斎藤家3代の歴史を描いた大河小説-毎日出版文化賞受賞)などの純文学から、『奇病連盟』『高みの見物』などのユーモア中間小説、『怪盗ジバコ』『さびしい王様』などのファンタジー、『船乗りクプクプの冒険』のような児童文学や童話など多彩な分野にわたっています。
 また父茂吉の評伝4部作や、エッセイ『どくとるマンボウ』シリーズは、小説以上の読者を獲得しています。

 1965年にはカラコルム・ディラン峰への遠征隊に医師として参加し、この体験を元に『白きたおやかな峰』が書かれました。初期のSFの愛好者、擁護者でもあり自身もSF的作品を執筆しています。
 また漫画愛好家だったことから、各出版社漫画賞の選考委員を務めたこともありました。
 さらには壮年期から躁うつ病にかかり、自身の病状をエッセイなどでユーモラスに綴り、世間の躁うつ病・うつ病に対するマイナスイメージを和らげるのに一役買いました。なお「躁期」に株へ投資し過ぎて破産も経験しています。

 昭和末期から、自宅を領土とするミニ独立国「マンボウ・マゼブ共和国」主席を名乗ったりもしました。そのためムツゴロウこと畑正憲と対談した際、ムツゴロウ動物共和国とマンボウ国で日本から分離独立し、同盟を結ぶという奇想天外な提案をしたこともありました。(この時の北は、極端な躁状態。)
 その他。熱狂的な阪神タイガースファンだったこと。北の交友関係は広く、主な人だけでも、遠藤周作、阿川弘之、星新一、辻邦生、三島由紀夫、吉行淳之介、佐藤愛子、谷内六郎などなど。1996年日本芸術院会員となりました。

 「北杜夫」はペンネームで、本名は斉藤宗吉(さいとう・そうきち)です。このペンネームは文学活動開始にあたり、「親の七光り」と陰口を叩かれることを嫌い、茂吉の息子であることを隠す意図で用い始めたもの。
 名の「杜夫」は、“杜の都”仙台に住んでいたことと、心酔するトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』のトニオ(杜二夫)に因んだもの。苗字部分の「北」については、その後順次「東」「南」「西」へと変更するつもりだったといいます。しかし「北杜夫」で売れたため、変更すると出版社との契約等で支障があると判明し、そのままになったという経緯があったようです。

 単独の著書、共著などを含めれば、ゆうに百冊以上の著書を刊行しています。
 その中で私が読んだのはたった一冊、『どくとるマンボウ青春記』だけです。それも今から40年以上前の昭和44年、私が20歳前後の頃のことです。初版発売間もない単行本を買って、一気に読み終えたのです。同著は北の麻布中学入学から、旧制松本高校時代のこと、東北大学入学そして父・茂吉の死までが描かれているそうです。

 「…そうです」というのは、ほとんど内容を覚えていないからです。あの頃は当地にやって来たばかりの「洟垂れ小僧」の時代、私の半生の中で最も思い出したくない恥の時代でした。私に限っては、「青春」などという輝かしい季節はなかったに等しいのです。
 だから当時の記憶が甦ってくる本などは、とうの昔にまとめて処分してしまいました。この本で記憶にあるのは、表紙の青い空を背景にした南アルプスだかの白い連山、そして作者がやはり最も力を込めて書いたのか松本高校時代の断片だけです。
 今となっては、『何で捨ててしまったんだろう』と惜しまれる一冊です。

※ 本記事の大部分は、フリー百科事典『ウィキペディア』の「北杜夫」の項を引用してまとめました。

 (大場光太郎・記)

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金原ひとみ-今注目されている理由

 金原ひとみ(28)については、過日の『加藤ミリヤ-芥川賞狙える !?』の中で触れました。2003年下期『蛇にピアス』という作品で、綿矢りさの『蹴りたい背中』とともに芥川賞授賞となったのでした。
 授賞当時金原ひとみは21歳、同時授賞の綿矢りさに至っては19歳。二人ともそれまでの同賞最年少記録を大幅に破っての授賞でした。
 
 ちなみにそれまでの最年少授賞は、丸山健二(1966年下期『夏の流れ』)の23歳0ヶ月。以下石原慎太郎(1956年下期『太陽の季節』)の23歳3ヶ月、大江健三郎(1958年上期『飼育』)の23歳5ヵ月などとなっていました。
 ついでなので、逆に最年長授賞者もご紹介しておきます。森敦(1973年下期『月山』)で、61歳11ヶ月でした。『月山』の舞台は、山形県の出羽三山の一つ月山です。後に映画化もされました。私は出身県の聖山が舞台とあって、原作も読み映画も観ました。

 何せ石原や大江といった大御所たちの記録を大幅に破っての授賞だっただけに、当時大変な話題となりました。特に注目を集めたのが、当時19歳で現役の早稲田大学生だった綿矢りさでした。おかげで綿矢の授賞作『蹴りたい背中』は売りに売れてミリオンセラー、歴代ベストセラー作品で8位となっています。(1位は安部公房の『壁』、2位は石原慎太郎の『太陽の季節』、3位は大江健三郎の『死者の奢り・飼育』…)
 
 同賞の選考委員の石原慎太郎は、授賞後の記者会見で「両作品のうちからどちらかを選ぶとしたら『蛇にピアス』の方を推す」と語っています。ただ当時金原ひとみは綿矢りさの陰に隠れてしまい、むしろ綿矢の引き立て役的な役回りだったように思います。
 それが今なぜか注目を集め、最近のYahoo検索で「急上昇人物」の10位にランクインしているというのです。最近話題作を発表したという噂も聞かないのに、いったいどうしてなのでしょう?

 金原ひとみは、3月12日に福島第一原発が水素爆発を起こした、まさにその日のうちに、4歳の長女を連れて東京を脱出し、父親の実家があった岡山市に自主避難したというのです。その後もそのまま疎開し続けており、それが話題となっているのです。
 当時金原は臨月で、4月に次女を出産したといいます。本人は「危ないかどうか分からないけど、分からないからこそ避難した」と語っています。ただ、大手出版社勤務の夫とは長く別居中だそうです。

 彼女の取った行動に対して、ネット上では「子供を守るためには当然」といった意見から「ヒステリックな過剰反応」という意見まで、賛否両論が渦巻いているといいます。

 「ネット」といえば、当ブログも属している@niftyココログブログでは、『きっこのブログ』がアクセスランキングトップクラスの常連です。その「きっこさん」(30代未婚)も、3月に東京を母親と共に脱出し関西方面に避難しました。最近はあまり訪問していないのでその後の消息は不確かですが、中国地方の山奥に落ち着かれたのだったでしょうか?

 また植草一秀氏と共に“ネット言論の雄”である副島隆彦氏も、自身のブログで「子供たちを放射能被曝から守るため、東京以東の両親は今すぐ関西方面に避難してください。私はこれから義勇軍を募り、福島原発原子炉に突入し決死の作業をして死ぬ覚悟です」などと勇ましく宣言。阿修羅掲示板にも掲載されてやんやの喝采を浴びました。
 実際同志を集めて原発周辺には行ったようです。が果たしてどこまで進軍(?)したのか、どうもその辺の行動があやふや。その後もちろんご存命ですし、同氏からそれについての経過報告もほとんどなかったようです。そのため、その後は一転「副島は詐欺師だ」などと非難の声が集中しました。

 原発事故からもう7ヶ月以上が経過しました。いつしか各メディアの報道もめっきり減りました。事故を起こした原発各号機は無事収束し、事故そのものが過去の出来事だったかのような錯覚にとらわれがちです。
 しかし事故発生当初から、当時の菅政権、東電、経済産業省、原子力保安院など関係各機関は、歩調を合わせて情報隠蔽に走りまくりました。

 確かに以後水素だか水蒸気だかの爆発の危険性は去ったとしても、各号機はそう簡単には収束するはずがありません。現に今でも原子炉に近づけない状態が続いているのでしょう。誰も内部の実情を把握できていないのです。
 燃料棒が原子炉や原子炉格納容器を突き破ってメルトスルーし、地下水汚染という最悪の事態が深く静かに進行中なのではないでしょうか。極端なことを言えば、地下水は原発周辺のみならず本州全体に繋がっており、河川にも浄水場にも海中にも容赦なく流れ込むわけですから。

 それでなくても、今頃になって250キロも離れた横浜市内で、高濃度のストロンチウムが検出されたりしているわけです。大気中、地表面、地中、海中どれだけの汚染が広がっているのか。土壌や家畜や農作物や魚介類の汚染…。野田政権は、保安院など関係機関にシビアで綿密な測定を要求し、正確な数値を把握した上で包み隠さず情報公開し、それに見合った迅速な対策を講ずべきです。

 結局未曾有の原発事故発生当初、どれだけ放射能汚染が拡大するのやら誰にも分からなかったのです。時の政府がオロオロ、アタフタだった以上、言ってみれば一時的無政府状態。各自どうすべきかは完全に自己責任の自主判断でした。
 金原ひとみは母親として、子どもを守ることを最優先させ、“作家の想像力”を駆使して「乗るとしたら今しかない」と判断し、直ちに新幹線に乗り込んで東京脱出を図ったのでしょう。今なら何とでも批判できますが、彼女はその時点で取り得るベストの選択をしたというべきです。

参考・引用
『日刊ゲンダイ』10月25日5面-「急上昇人物 チェック」
映画『蛇にピアス』公式サイト (金原本人の意向を受けて、2008年9月蜷川幸雄監督により映画化されています。かなりシュールな問題作のようです。)
http://hebi.gaga.ne.jp//

 (大場光太郎・記)

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上杉・岩上両氏vs読売記者「場外乱闘」

 -上杉氏辞任表明も、この場外乱闘掛け値なしに面白い。一見の価値あり-


上杉隆氏が辞任届提出-読売新聞記者への“暴言”で引責 
(『BLOGOS』からの転載)

22日、ジャーナリストの上杉隆氏が自由報道協会の暫定代表について辞意を表明した。

上杉氏は、20日に開かれた小沢一郎元民主党幹事長の記者会見後、出席していた読売新聞の記者と質問のマナーを巡って口論になり、激高し「なめんな、この野郎」などと発言。この様子がUstreamやニコニコ生放送で中継され、上杉氏らと読売新聞記者双方への批判が殺到していた。

このことについて、自身のサイトに「辞任届」をアップ。「言論機関である当協会の信頼を損なう」「当協会の健全性と信頼性を傷つけるに十分であると判断」と説明、今後は「一兵卒」として協会運営に尽力するとしている。

上杉氏の辞表提出について、TBS「サンデーモーニング」などに出演しているアナウンサーの唐橋ユミ氏は「(読売新聞記者は)靴を脱げという基本的なルールを守れない。で、代表は靴投げたのですね。」とTwitter上でコメント。また、自由報道協会設立準備会メンバーに名を連ねているジャーナリストの江川紹子氏は「こんなことでいちいち辞任とかしてたら、代表何人いても足りないよ、あほ! 」「責任とって「暫定代表」辞任して、ただの代表になりなさい、にゃ。」と上杉氏に事実上の翻意を呼びかけている。

辞表の提出を受けて自由報道協会の畠山理仁幹事長はTwitter上で「暫定幹事長預りとします。」と述べ、上杉氏の進退については23日朝の段階では決定していない。

一方、上杉氏とともに読売新聞記者に詰め寄ったジャーナリストの岩上安身氏は、「感情的になって、乱暴な言葉遣い、猛省します。」と述べている。

自由報道協会は「公的な記者会見の開放を訴えるとともに、記者会見を代行主催する非営利団体」として2011年に発足、福島第一原発事故に関する国会議員や識者の会見などを主催、記者クラブに参加できないフリーのジャーナリストやメディアへの門戸を開いてきた。問題となった小沢氏の会見後には、協会として読売新聞の記者の「ルール違反」に抗議している。【BLOGOS編集部 大谷広太】

                       *
【私のコメント】
 いやあ、ジャーナリスト同士の痛快なやりとりを見させていただきました。
 というより、やり玉に挙がった読売新聞記者が、上杉隆と岩上安身両氏にこてんぱんにやり込められた図式ですけどね。

 「ただ一点だけ、アンタ、うち(報道自由協会)のルールに従えって言ってんだよ」「ルール違反だ」「この場は自由報道協会が主催なの。だからうちのルール守れよ。守れないんならもう来るな」「司会者の指示は守れって言ってんだよ。分かった?」「人(小沢元代表)が答えてんのに、一人で次々に質問かぶせんなよ」「他の参加者たちの迷惑なんだよ」「読売や記者クラブが小沢一郎に発言の機会を与えたことがあったか?」「ただのクレーマーじゃないか」「まるで荒らしじゃねえか」「読売ごときに言われたくはねえよ」etc.(順不同。しかも上杉、岩上両氏の発言ごちゃまぜ)

 詳細はYouTube動画を見ていただくとして。お二人にとことんやり込められているのは、読売新聞東京本社編集局社会部次長の恒次徹氏。「アンタ、肩書きが長すぎんだよ」(これは大場の独り言)
 しかしのらりくらりと言い逃れしようとする恒次徹(つねつぐ・とおる)記者に業を煮やして、最後の方で同氏に詰め寄って吐いた「なめんな、この野郎」が暴言との批判が起り、上杉隆氏は自由報道協会の暫定代表を辞任する意向を固めたというものです。
 先月の鉢呂前経産相辞任会見時の、時事通信の鈴木隆義記者とは逆のパターンになってしまいました。

 今回は読売新聞の恒次記者と上杉・岩上両氏の大口論でしたが、根っこには、従来の「記者クラブ」と新設の自由報道協会の根深い対立があると思われます。
 記者クラブは大手メディアが独占しており、他のフリージャーナリストは締め出され、時々の首相・閣僚会見、各官庁次官会見などの重要情報を大メディアが独占したきたのが、戦後日本のジャーナリズムです。
 各新聞、テレビ各局の横並び報道、検察などの癒着報道に典型的に見られるように、閉ざされた旧弊システムの改革が強く叫ばれています。それに風穴を開けるべく、上杉氏、岩上氏らが立ち上げたのが、その名のとおり開かれた自由な報道の在り方を目指す自由報道協会です。

 大メディアの悪意と歪曲に満ちた自身の報道を嫌って、小沢一郎元代表は最近もっぱら自由報道協会主催の記者会見などで意見を述べることが多くなっています。だから「天下の読売」としても、“小沢情報”欲しさに同協会主催会見に参加せざるを得ないわけです。
 
 その読売中堅幹部に向かって、上杉氏と岩上氏は「とにかくうちのルールは守れよ」「だから(読売はじめ記者クラブは)ゴロツキって言われんだよ」「読売がエラソーなこと言えんのかよ」「(小沢さんをそこまで追及するんなら)読売はナベツネの追及もやれよ」「正力松太郎の追及やれよ」(その心は-『小沢氏の何倍、何十倍の悪事を働いてんだろうがよ !』)
 読売・恒次記者は終始たじたじ、守勢、防戦一方。あーぁ、胸がすくねぇ !!

 上杉隆殿。江川紹子氏ご指摘のとおり、暫定代表の暫定を取って「正式な代表」としての復帰を強く望みます。旧勢力メディアとの火花散る対決、国民が切に求めている真実情報の発信、今後とも期待しています。

参考・引用
『(Livedoor)BLOGOS』
http://news.livedoor.com/article/detail/5959375/
『鉢呂氏辞任会見時の暴言記者判明』(当ブログ)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-7c16.html

 (大場光太郎・記)

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笹目秀和『モンゴル神仙邂逅記』(1)

 -崑崙山脈を「鶴仙」という“天の鳥船”で飛行した人の、波乱万丈の自伝-

 一般の人たちはあまりご存じないかもしれませんが、近代日本にはずば抜けて傑出した人たちが出現しました。
 大本聖師・出口王仁三郎という人類史上稀有な霊的巨人は別格としても。例えば合気道の植芝盛平翁、世界救世教の岡田茂吉師、社会事業家の中村天風師、「世界人類が平和でありますように」の祈りの提唱者の五井昌久先生などなど。

 そのような人たちと肩を並べるくらいの人物だったのが、今回ご紹介する「笹目仙人」こと笹目秀和師です。笹目師は昭和32年から東京都に属する奥多摩にある大岳山山頂に「道院」を構え、独自のご神業を行いながら後進の指導にあたっていた人です。
 明治、大正、昭和、平成と四代にまたがって生きてこられ、平成9年1月25日94歳で帰神されました。

 笹目秀和師は平成3年に、その常人離れした波乱万丈の人生を『モンゴル神仙邂逅記』(徳間書店刊)という著書として残しています。この書はただ単に師の傑出した生涯を回顧した自叙伝というに止まらず、読む者の気が引き締まるような二人の神仙の教え、神界の不可思議な経綸などにも触れている貴重な書です。
 今回この本を取り上げることになったのは、先日の『崑崙山南 月斜めなり』で岑参の詩を取り上げた際、『そういえば笹目仙人は崑崙山上を鶴に乗って飛んだんだったよなぁ』と思い出されたからです。

 そこで同書をもう一度読んでみたくなり、我が家の本棚で長く眠っていたのを久しぶりに取り出しました。パラパラと全体をめくってみるに、重要と思われる個所には傍線が引いてあったり、紅いマーカーペンで塗ってあったりしています。
 1991年初版発行とあります。確か発刊されてすぐに求めた記憶がありますから、もうかれこれ20年にもなるわけです。しっかり印しをつけているとおり、当時も感激して何回か読み直したことでしょう。
 しかしその後は忘れ、笹目師のことも滅多に思い出すことなく長い歳月が過ぎ、今回知ったことにはこの書発刊から6年後に世を去られたのでした。

 今回再読してみて、笹目秀和師の偉大さを再認識させられました。実際手に取ってお読みいただきたいお奨めの本です。ただアマゾンでは現在、「中古品1 ¥8,500」という高値がついています(当時価格 ¥1,500)。しかし金銭では計れない価値がある本です。
 ともあれ次回から、同書の大まかな紹介、つまりは笹目秀和師の生涯の主だった出来事を簡単に紹介してみたいと思います。   (以下次回につづく)             

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モンゴル神仙邂逅記

 (大場光太郎・記)

 

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ペルセウスのゴルゴン退治(2)

 ヘルメス神から、被れば姿が見えなくなる隠れ兜、履くと大空を自在に飛んでいける飛行靴、それにゴルゴンの首を刈るための鎌のような形をした剣・ハイパーを。ニンフ(妖精)のナイアデスからは、切り取ったゴルゴンの首を入れるキビシスという丈夫な袋が与えられました。
 また女神アテナ(アテネとも)からは、鏡のように磨かれた青銅の盾を授けられました。その上アテナは、道案内までかって出てくれたのです。

 こうして準備万端整い、いざゴルゴン退治へと旅立ちました。とは言うものの、肝心の怪物ゴルゴンの居場所が分かりません。人界から遠く隠棲していて、女神アテナですら知らないのです。
 
 ゴルゴンの居場所を知っているのは、グライアイという名の三人の老妖女姉妹だけです。そこで先ず訪ねることになったグライアイというのが、実に奇っ怪なのです。
 物を見る目は三人で一個だけ、物を食べる歯も三人で一つだけ。互いに貸しあいながら、一度に一人だけが物を見、物を食べるしかないのです。

 私はこの三老妖女から、『マクベス』の三魔女を思い出しました。この魔女たちは劇の始まりから登場し、人徳の誉れ高いダンカン王に仕えていた勇猛な武将・マクベスに「そなたは後に王になるであろう」などと予言します。いつしか本気にし始めたマクベスは、妻の邪悪な唆しにより、自分の領館に泊まることになったダンカン王を…。
 他の重要な場面でも登場しますが、三人の魔女たちの妖しげな予言によって、大破局的悲劇が次々に繰り広げられることになります。
 あるいはシェークスピア(ただし実際の作者は「聖ジャーメイン」)も、ギリシャ神話中のこのグライアイ老姉妹さらにはゴルゴン三姉妹を下敷きに、三魔女を創り上げたのかもしれません。

 ともかく。ペルセウスは隠れ兜をつけて不可視になったところで、この老姉妹たちが目と歯を手渡ししているところをつまみ上げてしまいます。目を奪われたこともあり、グライアイ老姉妹は状況が呑み込めず右往左往しています。
 すかさずペルセウスは、「さあ、ゴルゴン姉妹の居場所を吐け」と脅します。老姉妹たちはなかなか応じようとしません。しかし目と歯を奪われてなおも脅迫まがいに迫られ、遂にゴルゴンの居場所を教えてしまいます。

 こうして居場所を突き止めたペルセウスは、女神アテナの先導で今度こそ本命のゴルゴン退治に向かいます。
 ところで、女神アテナが道案内するには条件がありました。それは「メデゥサの首を献上すること」でした。アテナとゴルゴン姉妹の末女のメデゥサには、過去からの大確執があったのです。

 そもそも髪が蛇になっているゴルゴンは、始祖の神々から端を発するほどの古い怪物です。しかし元々は末女のメデゥサだけは人としての優れた容姿を得ていました。分けてもメデゥサの地中の豊かさを讃えるような黒髪は、海神・ポセイドンの心を強く捉え、二人は恋仲になりました。
 地上の神々の事情に疎いメデゥサはいつしか、「神々トップクラスのポセイドンが惚れるくらいだから、私に勝る黒髪の持ち主はいないんだわ」と思うようになりました。

 この思い上がりが、思いもかけず知恵の神・アテナの怒りを買うことになります。
 「この井の中の蛙(かわず)め。この私を差し置いて自分の髪が美しいと自惚れるとは !」
 激昂したアテナ女神によって,メデゥサの美しい髪は蛇にされてしまいます。メデゥサは泣きながら「こんな姿を恋人には見せられない」と、ポセイドンのもとを去って、地中の姉妹の所に逃げ込んだのでした。

 これはアテナ女神のジェラシーなんじゃないですかねぇ。都市国家・アテネの守護神で知恵の神とは言いつつも、アテナ女神さん、別の物語では類い稀な美青年を他のニ女神と取り合いし、結局それが史上名高いトロイア戦争の遠因になっていますし。
 主神のゼウスさんにしてからが度々言うように、ダナエを奇妙な方法で誘惑し、この物語のヒーローのペルセウスを生ませたなど、浮気、不倫に枚挙にいとまのない好色神なのだし…。シリーズ最初にも述べましたが、とにかく「人間くさい」のがオリュンポスの神々です。

 脱線ついでに、そういえば今思い出しました。昭和40年代の今村昌平監督作品に『神々の深き欲望』という映画がありました。三國連太郎主演でどこかの離島(八重山諸島だそうです)が舞台だったかと思いますが、唯一覚えているシーンがあります。豊満な農婦が、全裸で農家の一室に仰向けで横たわっています。それを天井から撮っているのですが、“ヘアー”が黒々と映っていたのです。(少しぼかし気味だったか?)
 当時はヘアー厳禁の時代ですから、20歳前の私には強烈でした。よく映倫が通したものだと思いますね。

 アテナ女神の怒りはメデゥサの黒髪を蛇に変えてもなお収まらず、その首を所望しているのです。アテナはペルセウスに助言します。
 「狙うならメデゥサですよ。ゴルゴン姉妹の中で彼女だけが不死ではないからです。それと重要なことを云っておきます。ゴルゴンの姿を直接見た者は石になる。だから隠れ兜だけでは十分とはいえない。渡した御鏡の盾を使いなさい。うまく使い、盾の反射を利用して討ち取るのです。立派に使命を果たしなさい」
 そう言って、首を刎ねるための利鎌も手渡しました。

 何せ相手は見る者を石に変えるという怪物です。ペルセウスはおそるおそるゴルゴンの隠れ家に近づいていきます。すると幸いにもゴルゴン姉妹は寝入っていました。
 ペルセウスはアテナ女神に教わったとおり、盾の反射から視界を得て、より一層おそるおそるメデゥサの姿を確認し、抜き足、差し足、忍び足で近づくとすかさずその首を刎ねました。血が飛び散り、首なし死骸から禍々しい血飛沫(ちしぶき)の音がこだましました。
 物音に気づいてゴルゴンの姉たちが飛び起き、妹メデゥサの無残な死骸を見て怒り狂い、犯人を捜し回りました。

 しかしペルセウスは、メデゥサを仕留めるやいなや隠れ兜を被り、さらに飛行靴で逃げ去ったため、ゴルゴンの姉たちの追撃を逃れることが出来たのでした。  (この項終わり)

参考・引用
『建国物語 3.ペルセウスの伝説』
http://lenai.sakura.ne.jp/myth/text/founder/3.html

 (大場光太郎・記)

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カダフィ大佐の死をめぐって

-一連の中東革命、キレイ事だけなのか?裏にドエライ企みがあるのでは?-

【カダフィ大佐死亡】君臨42年・・・最後の一日 生への執着「撃つな、撃つな」

 【カイロ=大内清】カダフィ大佐の拘束、殺害から一夜明けた21日、リビアに42年にわたり君臨した独裁者の“最後の一日”が、反カダフィ派兵士の証言などから詳しく分かってきた。大佐は最期まで生き延びることに執念を燃やしていた。

 ロイター通信などによると、20日未明、中部シルトに潜伏していた大佐と数十人の警護兵、一部の側近を乗せた車列が、反カダフィ派の包囲網を突破した。向かった先は西方だった。

 しかし数時間後、同派を支援する北大西洋条約機構(NATO)軍がシルトから約3キロの地点で車列を捕捉した。フランス軍の戦闘機が攻撃を加え車両は大破、大佐は貴重な逃走手段を失った。

 後に反カダフィ派に拘束された大佐の警護隊長が中東の衛星テレビ局アルアラビーヤに語ったところによると、大佐一行は「ここで数グループに分散した」。大佐自身は、同隊長ら5人の兵士とかつての国防相アブーバクル・ユーニス氏とともに近くの下水管に逃げ込んだ。

 すぐに反カダフィ派部隊が駆けつけ銃撃戦となった。だが、間もなく警護兵の一人が叫んだ。「ご主人様(大佐)がここにいる。負傷している!」。戦闘に加わった兵士の一人はロイターに「カダフィが(銃撃戦を)やめるように指示したのだと感じた」と話す。

 兵士らに「撃つな、撃つな」と叫び、下水管から引きずり出された大佐は「一体どうした? 何が起きている?」と語ったという。このとき大佐は、脚や背中に重傷を負っていたもようだ。

 反カダフィ派兵士が携帯電話で撮影したとみられる動画では、大佐はその後、乗せられていた車両のボンネットから兵士に髪をつかまれ、どこかに連行された。血まみれで服がはだけ、頭髪は薄く足取りは弱々しい。大佐を連行する兵士には、周囲から「生かしておくんだ! 生かしておくんだ!」との声もかかった。

 大佐が絶命したのはこの直後とみられる。別の携帯動画には、額と胸部を撃ち抜かれた大佐が救急車で救命措置を受けている様子も記録されているが、大佐が蘇生することはなかった。反カダフィ派代表組織「国民評議会」は「大佐殺害を命じてはいない」としている。

 大佐の遺体は21日に埋葬される予定だったが、国民評議会幹部は数日間延期されたと話している。

※ 『msn 産経ニュース』(2011.10.21 20:51)より転載
http://sankei.jp.msn.com/world/print/111021/mds11102120580010-c.htm

                       *
 以上報道のとおり、約42年もの長期にわたりリビアで独裁政権を敷いてきたカダフィ大佐が民兵らによって殺害されました。
 1969年カダフィはクーデターによりリビア国王体制を崩壊させ、以後国家元首として超長期政権を維持してきました。もちろん世界最長ですが、1969年といえば我が国では佐藤政権でした。近年毎年のように首相が交代している我が国にあって、それ以降も佐藤栄作が今日まで首相を務めてきた場合を考えれば、それがいかに異常な長さか分かろうというものです。

 カダフィ殺害に至るまでの今回のリビア内戦は、つまるところその圧政がもたらした当然の帰結であると一先ずはいえそうです。
 かつては中東一の反欧米の強硬派だったことや、数々の極端かつ奇怪な言動から「砂漠の狂犬」「アラブの暴れん坊」と呼ばれたカダフィ大佐の哀れな末路といえます。イラクのフセイン大統領やエジプトのムバラク大頭領などと同じ運命をたどることになったのですから。

 これでリビアに真の民主主義がもたらされ、平和で安定した同国民の生活が築かれていくのでしょうか。フセイン亡き後のイラクが未だ混乱状態であるように、カダフィという重しが取れたリビアも、国情安定までは相当の犠牲と年数が必要なのではないでしょうか。

 一連の中東革命のきっかけとなったチュニジアのジャスミン革命は、当初は純然たる民衆革命だとみられていました。しかし古くはフランス革命、我が国の明治維新、ロシア革命から、近年のソ連邦崩壊、ベルリンの壁崩壊、天安門事件などを見ても分かるとおり、純然たる民衆革命などありはしないのです。
 裏でシナリオを描き、裏からその運動なり革命なりの糸を引いている勢力が必ずあるのです。

 『「空洞地球」について語る時がきた』シリーズで引用させていただいた中丸薫女史は、ジャーナリストとして1980年代後半フセイン、カダフィとの会談に成功しています。中丸先生は、両人とも大変聡明で、暴君や悪人などにはとても思えなかったと感想を述べています。
 もちろん独裁を肯定するわけではありません。しかし私たちの彼らへのネガティブイメージは、米国発主要メディアからのバイアスがかかったものであることを弁え知らなければなりません。

 ついでですが。ムバラク追放後のエジプト情勢、我が国で報道されることはほとんどありません。エジプトといえば大ピラミッド。多分それが「彼ら」の大きな目的の一つだったと思われますが、凄まじい破壊にあっている可能性があります。
 人類にとって他人事ではないのですよ。ギザのピラミッドは、富士山、シャスタ山などと並んで地球上の12の最重要ボルテックスの一つですからね。「彼ら」はそのことをよく知っています。ピラミッド、富士山などの無事を祈らなければなりません。

 ユダヤ勢力、イルミナティ、暗黒勢力…。奥の院の実態は謎に包まれていようと、すべての国際機関が共通して目指しているのは「One World Order」、新世界秩序であり世界統一政府です。
 それこそが「彼ら」の最終目標なのです。全人類の個人情報をベルギーのブリュッセルのEU本部にある、あまりの巨大さゆえ「獣(けもの)」と呼ばれているコンピュータシステムで一元化し、人類を管理するシステムです。(獣とはもちろん、ヨハネの黙示録の「666の獣」を意味します。)
 666が暗号化されているICチップを各国民の人体に次々に埋め込む。拒否すれば物を買うことすら出来ない。家畜のような究極の人類支配の完成です。もういつでもスタンバイオーケー状態です。

 世界統一政府の完成間近にして独裁体制は邪魔なのです。近代以降次々に各国王制が倒されたのと同じ論理です。
 「じゃあ聞くけど。イギリスやデンマークなど欧州にある王室が今でも権威を保っているのはどうして?」ですって。それは、英国王室などが「彼ら」の最重要構成員だからですよ。

 (大場光太郎・記)                          

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ТPP参加-米国属国化確定の道

 -米官業の言いなりで、この国の米国属国化に突き進む“ダメナノダ”政権-
 
 来月中旬開催のホノルルAPECでの我が国のТPP参加表明に向けて、野田佳彦政権が前のめりになっています。この問題は、この国の将来の根幹に関わる重大問題だけに、民主党内でも国会でも慎重に論議を重ね、なおかつ国民の広い意見集約とコンセンサスが不可欠です。

 米国追随の大先輩政党である自民党の谷垣禎一総裁ですら、「速やかに党内論議を始めなければならない」としながらも「拙速による結論は望ましくない」と、ТPP参加には慎重な構えをみせているほどです。
 世紀の疫病神・菅直人前首相が、昨年10月突如「ТPP参加」を言い出してから、民主党政権幹部の間ではТPP参加が規定事実化してしまっています。どうせ国益などこれっぽっちも考えない、財務省、経済産業省などの霞ヶ関官僚群や財界などの差し金なのでしょうが、菅前首相から禅譲を受けた野田政権は、今回本式に「参加表明」するつもりなのです。

 「ちょっと待ってよ !」ではないでしょうか。2015年の加盟国内の関税100%撤廃を目指し、ありとあらゆる農産物、製品、サービスが完全自由化されるという大問題を、ろくな論議もないまま参加表明していいものでしょうか。
 議論検討すべき問題は山ほどあるのです。

 やはり最大の問題は農作物、農業保護です。農地面積に何百倍もの開きがある米国、オーストラリアなどに対抗するすべなどなく、農産物自由化によって、米・豪から激安農作物が大量に入ってくることになります。
 これによって我が国農家は壊滅的打撃を受け、約340万人が仕事を失うとみられています。今の自給率40%ですら他の主要先進国ではあり得ない数字なのに、自由化によってさらに14%にまで落ち込むとの恐ろしい試算もあります。
 さらには米国が強く要求している牛肉の制限緩和要求によるBSE牛肉流通の危険性の問題、遺伝子組み換え食品が国内に大量に流通されることになる問題等々。

 水産漁業も事態は深刻で、外国資本が大量に我が国漁業権を買占め、漁業分野に参入してくることになります。ここでも漁業関係者は大打撃です。特に東日本大震災で被害を受けた宮城、岩手の漁業、漁港は復興どころではなくなります。
 農林・水産はいわば、国の根幹、国民生活の基本をなす「食の安全保障」に関わる重大問題です。何も軍事的防衛だけが安全保障ではないのです。
 農協関係者、漁業関係者が「ТPP反対」署名を繰り広げるのは当然ですが、国民ももっと強く「ТPPノー !」の声を上げるべきなのです。

 ТPPでは入国審査の簡素化も掲げていますから、ベトナム、ペルーなどからの低賃金労働者の“輸入”によって、製造業、建設現場などへの外国人労働者の進出が一段と進み、高コスト日本人の失業率ははね上がることになります。
 その他金融の自由化によって国内金融は乗っ取られ、保険の自由化によって郵貯・簡保などの国民資産がとんどん米国に流出していくことになります。

 詳細に検討すれば、問題点はまだまだあることでしょう。
 元外務省国際情報局長の孫崎亨氏は「メリットは何もない。デメリットばかりです。日本の参加は結局、アメリカの傘下に入るということ。この20年をみても、アメリカと連携して経済は良くなったでしょうか。真剣に考え直す必要があります」と述べています。

 まさにそのとおりなのです。ドルの世界基軸通貨としての地位が危機に瀕していることからも明らかなように、今やアメリカは世界経済の中心ではなくなっています。中国、インド、ブラジルなど新興国といわれる国々がこれからの世界経済の牽引力となっていくとみなればなりません。
 そしてこれらの国々は余裕で「ТPP不参加」を決めています。加えて北アメリカ経済圏のカナダですら参加を見送っているのです。
 
 「ТPPの協定内容はすべてアメリカの議会によって承認されなればならない」「規則や義務の変更はアメリカ議会の承認が必要となるため極めて困難である」(ニュージーランドのオークランド大学 ジェーン・ケルシー教授)
 つまりТPPとは、「(落ち目の)アメリカの、アメリカによる、アメリカ救済のための協定」であることが明らかです。

 菅前首相以来民主党政権は、政権交代時の国民との約束であるマニフェストを平気で破ってきました。そもそもТPPなど、選挙公約にはどこにもなかった話ではないですか。
 公約違反極まれりです。旧来の自民党政治の限界がはっきり分かって、国民はそこからの脱却を期待した民主党が今や、「第二自民党」いな「自民党以上の自民党」に成り下がっているのです。

 「開国」ならぬ「壊国」に一直線の大公約違反を犯している以上、野田民主党政権はТPP参加などをめぐって今すぐ国民に信を問うべきです。それほど米オバマ大統領にТPP参加という手土産を持って行きたいのなら、総選挙で勝利してからにしてもらいたいものです。

 (大場光太郎・記)

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加藤ミリヤ-芥川賞狙える !?

 -何となく名前と歌は知っていたが…。こんなマルチ才女だったとは驚いた-




 
 「女子高生のカリスマ」、ミュージシャンの加藤ミリヤが作家デビューしたそうです。先月下旬、処女小説『生まれたままの私を』を幻冬社から出版したというのです。女性の裸だけを描き続けるヌード専門の画家、ミクが出会うさまざまな人々との切ない交流を綴った「純文学」だといいます。
 もちろんこれまでの加藤ミリヤのネームバリューがあってのことでしょうが、並みの新人なら5千部いければ御の字のところ、いきなり初版3万部からスタートし、10月3日付オリコン週間書籍ランキングで、初登場3位にランクインしたとのことです。

 夜自宅のパソコンに向かい、ひたすら心の奥底にある言葉を形にしていき、仕上げたのが今回の小説。「で、まともな小説なの?」とチャチャを入れたいところです。
 ところがその出来栄えは、彼女の自作歌詞に魅かれて声をかけた幻冬社の見城徹社長(60)が、「こんなに文学の才能があったとは」と仰天したといいます。社長自ら「芥川賞も狙える」と太鼓判を押しているほどなのです。
 小説の装画、装丁も加藤自身の手になるものだそうです。

 加藤ミリヤは1988年6月、愛知県豊田市生まれ。物心ついた頃から言葉にこだわりを持ち、何と小学生で作詞を始めたといいます。13歳でソニー・ミュージック・オーディションに合格し、「自分で歌いたい曲がない」ことから14歳で作曲も手がけます。その後有名アーティストのゲストボーカルやCMに出演するようになって、次第に知名度がアップしていきます。
 高校1年の時に、シングル『Never let go/夜空』でデビューします。R&Bやヒップホップにはまり、サンプリングという手法で作り上げた曲に、現役女子高生のリアルな気持をハスキーなクリスタルボイスで歌ってブレークしました。

 「加藤は、自分の気持ちに正直に、嘘を書かない、言いたいことだけ詞にするというモットーで、作詞を続けている。生々しい恋話がてんこ盛りで、歌うとハマるので、恋に悩む20代女性にカラオケ人気が高い」とは、某芸能ライターの加藤ミリヤ評です。

 加藤ミリヤの才能は言葉や歌だけではありません。ファッションセンスも類い稀れなものがあり、18歳でファッションデザイナーとして自分のブランド「カウイ・ジャミール」(アラビア語で「強く美しい」)を立ち上げています。
 ミリヤヘア、ミリヤ帽など独創的なスタイルが同世代にバカ受けし、香水やジュエリーのプロデュースも成功させているそうです。昨秋は加藤の私服コーディネートをまとめたファッションブックを出版したところ、全国に「ミリヤー(ミリヤ信奉者)」が増殖し、その影響力には目を見張るものがあるとのことです。

 私が加藤ミリアを知ったのは2年余前。たまたま同乗した20歳の若者の車のカーステレオから、60歳になんなんとする私(当時)には耳障りな、若い世代の知らない歌がガンガン流れていました。その中に冒頭の曲があったのです。『んっ、いい歌もあるじゃないか』と思い「いい歌だね。誰が歌ってんの?」と聞いてみました。「これっスか?加藤ミリヤっス」とだけその若者は答えました。年のせいかすぐ忘れてしまうので、『かとうみりや、かとうみりや、かとうみりや…』と何度も反芻し覚えました。
 彼女の歌、その後他の曲も聴いたかもしれませんが、何といってもしょっぱなに聴いたこの曲『Love Forever』が一番鮮烈です。ただし加藤単独ではなく、清水翔太とのコラボレーション曲です。

 最近は、年少の才女が芥川賞をかっさらってしまう事態が起っています。2006年下期は、当時23歳の青山七恵が『ひとり日和』で授賞。衝撃的だったのは、2004年下期。当時19歳だった綿矢りさが『蹴りたい背中』で、21歳だった金原ひとみの『蛇にピアス』と同時授賞となった時です。
 世の中には相当の年齢になっても、密かに芥川賞という勲章が欲しい気鋭の作家は大勢いることでしょう。しかし突如彗星の如く現われた“女の子”に賞をかっさらわれ、しかも世の中の脚光を一身に浴びてしまうとは…。才能のしからしむるところとは言え、『やってらんねえや』と思った物書きも多かったのではないでしょうか。

 今年上期は珍しく「該当作なし」。23歳の加藤ミリヤの『生まれたままの私を』。タイトルが少し平凡かな?と思わないでもありませんが、幻冬社社長の太鼓判どおり芥川賞ノミネート→受賞まで行くのでしょうか。

参考・引用
『日刊ゲンダイ』10月19日19面「この人物のオモテとウラ」 

 (大場光太郎・記)

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崑崙山南 月斜めなり

【注記】本記事は2011年10月公開でしたが、今回トップ面に再掲載します。


胡笳歌送顔真卿使赴河隴    岑 参
 (胡笳の歌 顔真卿の使いして河隴に赴くを送る)

君不聞胡笳聲最悲    君聞かずや 胡笳(こか)の声最も悲しきを
紫髯綠眼胡人吹     紫髯緑眼(しぜんりょくがん)の胡人(こじん)吹く
吹之一曲猶未了     之を吹いて一曲猶お未(いま)だ了(おわ)らざるに
愁殺樓蘭征戍兒     愁殺(しゅうさつ)す 楼蘭征戍(せいじゅ)の児(じ)
涼秋八月蕭關道     涼秋八月 蕭関(しょうかん)の道
北風吹斷天山草     北風(ほくふう)吹き断つ 天山(てんざん)の草
崑崙山南月欲斜     崑崙山南(こんろんさんなん) 月斜めならんと欲す
胡人向月吹胡笳     胡人 月に向かいて胡笳を吹く
胡笳怨兮將送君     胡笳の怨み 将(まさ)に君を送らんとす
秦山遙望隴山雲     秦山(しんざん) 遥かに望む 隴山(ろうざん)の雲
邊城夜夜多愁夢     辺城(へんじょう) 夜夜(やや) 愁夢(しゅうむ)多し
向月胡笳誰喜聞     月に向かう胡笳 誰か聞くを喜ばん

… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …
(大意)
 君(顔真卿)よ、聞きたまえ。あの胡笳の音(ね)の、何ともいえずうら悲しいのを。あれは紫色の髯(ひげ)、緑色をした目をした異人が吹いているのだ。その調べのひとふしをまだ吹き終わらぬうちに、遠い楼蘭(ろうらん)の地で守備についている若者たちをも深い憂愁に沈ませてしまう。今は(旧暦)八月、蕭関の道にはものさびしい秋が訪れていよう。北風は天山の草を吹きちぎらんばかりであろう。そして崑崙山の南に月が落ちかかるとき、異人たちはその月に向かって胡笳を吹くのだ。ーこの胡笳の怨むような悲しい調べ(そしてそれを歌ったこの歌)で、君の門出を送ろう。秦山の彼方には、君の目指す行く手、隴山にたなびく雲が遥かに望まれる。これからの君の旅、辺境の町での夜ごとの泊まりには、さだめし旅の愁いに満ちた夢が結ばれるに違いない。そのような夜、月に向かって吹く胡笳の音を、誰が楽しいものとして聞き得るであろうか。

《私の鑑賞ノート》
 長江の源流部に「蛾眉山」在れば、黄河の源流部に「崑崙山」在り。そして李白に『蛾眉山月歌』あれば、崑崙山の月には岑参のこの詩あり、ということになるのでしょうか。

 岑参(しんしん)は、李白、杜甫などと同時代の盛唐の詩人であり高級官僚です。後漢末期出蘆前の諸葛亮(孔明)が隠棲していた所として有名な、南陽(現河南省)の名門の出です。兄弟そろって秀才の誉れ高く、難関と言われた進士試験に二番の成績で合格し、以後順調に官位を重ねていきます。若い頃、この詩で見送った顔真卿に続いて辺境の地に赴任し、かの地で多くの詩を作ったことから「辺塞詩人」として知られています。

 この詩は発句が破調(字余り)と、まるで古詩のようです。荘重の感じを醸し出すため、あえて古詩の形を取ったもののようです。

 ある年の八月、親友の顔真卿が勅命により、都の長安から遥か遠い西域の隴山山脈の麓の河隴地方に出張することになり、その送別会の折りに作られた詩です。旧暦の八月は新暦の十月頃ですから、まさに涼秋。それに何せ西域辺境の地ですから、「北風は天山の草を吹きちぎらんばかり」という表現も肯けるところです。

 顔真卿(がんしんけい)は、玄宗以下の代々の皇帝に仕え名臣、忠臣と謳われた人物です。また「名書家」として我が国でも広く知られています。後の安禄山の叛乱の討伐に大きな功績がありました。しかし剛直な性格で何度も朝廷の大官と衝突し、遂には殺されてしまいます。
 この時顔真卿は、監察御史(地方を巡回して、裁判の当否や官吏の勤務状況などを監察する職務)であり、河隴地方の巡回を命じられたのです。

 それに対する送別の詩です。後に辺塞詩人と言われた岑参ですが、この時はまだ辺境への赴任は経験していません。送別会が催されたのは長安かその近辺とみられます。ですからこの詩のメーンである第二句から第八句までは、作者のイマジネーションによる創作なのです。

 胡笳とは葦の葉を巻いて作った笛のことで、当時の長安でも聞くことができたそうです。それにしても「紫髯緑眼の胡人吹く」から、「崑崙山南月斜めなり」「胡人月に向いて胡笳を吹く」まで。真に迫っていて、情景がくっきりと浮かび上がってきます。作者・岑参の想像力や恐るべし。

 崑崙山は、パミール高原に接する、中国西部にある約3000kmにも及ぶ崑崙山脈(6000m以上の高山が200以上連なる)の主峰とみなされてきました。「神仙の山」あるいは西王母(中国の聖母)が鎮まる山として、古来崇敬されてきた伝説の山でもあります。

 この詩の第四句の「楼蘭」という地名には懐かしさを覚えます。
 スウェーデンの中央アジア探検家、地理学者のスウェン・ヘディンの著書『さまよえる湖』は、西域のロプノール湖畔に古代に栄え、滅びて埋もれたこの都市の発掘がメーンだったかと記憶しています。高校時代、歴史ロマンをかき立てられながら読み耽りました。またこの地を舞台とした井上靖の歴史小説『楼蘭』を30代の頃読みました。
 
参考・引用
『唐詩選(上)』(ワイド版岩波文庫、前野直彬注解)
フリー百科事典『ウィキペディア』
 
 (大場光太郎・記)

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中沢新一『悪党的思考』

 石川知裕衆院議員が7月に発刊した著書『悪党 小沢一郎に仕えて』の売れ行きが好調のようです。10万部に達するほどの勢いだそうですから、既にベストセラーと言っても過言ではありません。
 ただ私自身は同著を読んでいませんので、何ともコメントしかねます。

 若い頃読んだ当時著名な誰かの『読書論』の中に、「今売れているベストセラーは読むな。どうしても読みたかったら1、2年後にせよ」という忠告がありました。その心は、「時期をずらすことによって、その本が本当に読むに値するかどうか判別できる。それよりは“古典”を読め」ということだったかと思います。
 と言って、教えに従って古典を読んできたなどとは決して言えません。ただ以来それが心に残っていたものか、石川氏の『悪党』に限らず、昨年大ベストセラーになった村上春樹の『1Q84』も記事として取り上げただけでまだ読んでいません。

 と言うわけで、石川氏の『悪党』というタイトル自体どんな意味なのかよく分かりません。いわゆる辞書的な意味での、
 あくとう【悪党】悪人。〔一人についても、おおぜいについても言う。〕 (三省堂版『新明解国語辞典第五版』より)
ということだったのでしょうか。石川氏は、師の小沢一郎を一般的な意味での「ゴロツキ」「ピカレスク」としての悪党と形容したかったのではない、「悪党」にまったく別の意味を込めたのだと考えます。

 では一体どんな意味での「悪党」なのか。
 それが今回取り上げる、中沢新一著『悪党的思考』の中で提起されている「悪党」なのです。

 1ヵ月ほど前石川氏の書名がきっかけとなって、『そう言えば「悪党的思考」というのがあったよな。いい機会だから読んでみるか』となったのです。しかし私の所蔵にはありません。厚木市中央図書館に問い合わせたところ、「はい。書庫の中にありました」というご返事。今から20年以上前評判だった(つまりベストセラーだった)本も、今では書庫に埋もれてお眠りかよ。
 ならば私の「読書ポリシー」(?)からしても適ったり。何かの所用で本厚木駅に出たついでに、同駅はずれの一角にあるビルの中の同図書館に足をのばし、同書を借りてきました。

 ここで著者の中沢新一(以前からの著名人のため敬称略)の略歴を、簡単にご紹介しておきます。
 中沢新一(なかざわ・しんいち)は、1950年生まれで山梨県山梨市出身。思想家、人類学者、宗教学者。明治大学野生の科学研究所所長、多摩美術大学芸術学部客員教授。
 東京大学大学院人文科学研究科在籍当時、ネパールに渡りチベット仏教の一派の修行を経験し、帰国後その経験を元に『チベットのモーツァルト』(1983年)を発表しました。同書は構造主義以後の哲学思想をチベットの密教理論やイスラム神秘主義と対比しつつ、宗教・芸術・文学などのさまざまな領域に展開した本です。
 同年浅田彰が出した『構造と力-記号論を超えて-』と並んで注目され、マスコミから「ニュー・アカデミーブーム」と呼ばれました。

 1988年(昭和63年)、中沢をさらに有名にする“事件”が起きました。当時東大教養学部教授だった西部邁が中沢を同学部社会科学科助教授に推薦するも、教授会で異例の否決となり、西部は教授会に抗議して辞任した騒動です。当時ニュースでも「東大駒場騒動」「中沢事件」などと報道されました。
 この時の教授会の対応は、今日の原子力問題における悪しき東大閥にもつながりそうな、旧弊なオールド・アカデミーの典型例と言えます。

 その後は南方熊楠の包括的研究書『森のバロック』や『東方的』『はじまりのレーニン』など、反時代的、反社会的な人物や思想の書を書くことに熱中した時代もあったようです。また宗教学者として初期のオウム真理教を高く評価し、地下鉄サリン事件以降強い批判にさらされた時期もありました。

 ざっとこう見てみると中沢新一は、最近はあまりメディアに取り上げられることがないので現在の思想的スタンスは分からないものの、あの頃は知的領域における「ラディカルな反逆児」だったとの感想を持ちます。

 そんな中沢が、中沢事件の年の1988年に著したのが『悪党的思考』です。
 一体どんな内容の本なのか。同著表紙のタイトルのすぐ下に次の一文があります。
 「13-14世紀、日本の歴史はひとつの根本的切断を体験した。「日本的近世」なるものを準備したこの切断の意味を、自然=ピュシスの力と直接わたりあう「悪党」的人々を座標軸として解き明かす、歴史のボヘミアン理論」
 何だか分かったような、よく分からないような。ともかく「そういうこと」だそうです。

 「ⅠからⅣ」までこの主題にそって展開される同著ですが、そのうち直接的にこのテーマと向き合っているのが「Ⅰ 歴史のボヘミアン理論へ」です。
 前掲文の中の、「日本的近世」を準備した13-14世紀に何があったのか。後醍醐天皇による「建武の中興」(1333年)です。よってここではその前後の後醍醐帝の人物像や時代背景から浮かび上がってくるものを、従前的史観ではなく独自の「中沢史観」として捉え直しているわけです。

 と言っても後醍醐天皇時代にスポットを当て直したのは、中沢が初めてではありません。先人の細野網彦に『異形の王権』という画期的な後醍醐天皇論があったのです。
 そして今回分かったことには、何と細野は中沢の義理の叔父に当たり、中沢は中学生の時細野の同著を既に読んでいたというのです。細野という優れた親族を持てた中沢は、学究としてずい分得していると思います。

 それまでの古代王権を、一気に近代的王権へと組み換えを考えた「魔術王」後醍醐天皇は、従前の朝廷や鎌倉武士団が集めたことのない人々を集め、ネットワーク化しようと企てます。
 供御人、商人、禅律僧、密教僧、悪党的武士、山の民、川の民、海の民(海賊的な武士も含まれる)、職人たち。
 広義の意味ではこれら全部が「悪党」になるわけです。しかし狭義では、ここに出てくる悪党的武士ということになります。その代表的人物こそ、河内に勢力のあった楠正成に他ならないのです。

 彼らの特徴とは何か。本文にいわく、
 「彼らは流動し、変化する。「なめらかな空間」を生活の場とする人々だ。自然(ピュシス)の力と無媒介的にわたりあいながら、生きている人々だ。ガンダルヴァの民。「魔術王」がそれを捕獲し、組織する。」
 「彼らの生のエートスは、本質においてボヘミアン的である。河がそういうボヘミアン的な生を結び合わす路となるのだ。乱流域を生活の場所とする人々の生の感覚のベースには、こういう運動と変化と野生に満ちた直接性がみなぎっていた。」
 「その乱流域に、悪党的武士である楠氏があった。彼らは関東に発達した武士団のような、律令制度によって開拓されはじめた農耕地とそこに生きる農民の支配者として勢力をたくわえていった武士団とは、まったく違った特徴をもっているのだ。」

 中沢の言う悪党とは、ボヘミアン的マージナル(辺境)なところに位置し、鎌倉武士団に脅威を与えた楠正成のように、既存の勢力を脅かす人物または集団を意味するのでしょうか。
 むしろ今日的問題は、均質化されたこの社会には、悪しき旧体制の変革が叫ばれながら、それを為し得る「悪党的エネルギー」の持ち主がなかなか現われないことにありそうです。 

 以上ほんのさわりだけ紹介しましたが、『悪党的思考』、通り一遍に読んだだけでは理解しがたい難解な著書です。その分知的スリルに満ちています。
 中沢は本文中で、後醍醐天皇時代を考察しそこからエキスを吸い取ることが今のこの時代にどうしても必要なのだ、というような意味のことも述べています。もう「古典的」と言っていいのかしれない、この著書。興味ある方は地元の図書館などでお借りになり、「灯火親しむ候」是非読んでみてください。

参考・引用
『悪党的思考』(中沢新一著、平凡社ライブラリー)
フリー百科事典『ウィキペディア』

 (大場光太郎・記)

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鉢呂氏「放射能つけちゃうぞ」発言は虚報 !

 ほぼ1ヵ月前の『鉢呂氏辞任会見の暴言記者判明』記事。依然関心が高いらしく、その後も高アクセスを続けています。しかし今回ご紹介する上杉隆氏(フリージャーナリスト)の一文にはびっくりです。鉢呂前経産相の「放射能つけちゃうぞ」発言自体がなかったというのです。
 鉢呂氏が同問題発言をしたとして一斉報道し、経産相辞任に追い込んだのは新聞・テレビです。上杉氏の一文はそんな「亡国マスコミ」のあり方に一石を投じるものです。
 なお私も使わせていただいている「官報複合体」という用語は、他ならぬ上杉隆氏の造語です。

                       *

鉢呂前経産相の「放射能つけちゃうぞ」発言は虚報だった!
http://diamond.jp/articles/-/14408
『ダイヤモンド・オンライン』-「週刊・上杉隆」 (10月13日)

 仮に、テレビや新聞の報じていたニュースがまったくの虚報だったらどうすべきか。おそらく、一般の人々はそのデマを元に報じられたニュースの善悪性を判断し、人物評価を下してしまうだろう。そして、それによって当事者の人生は、大きく変わってしまうことが多い。

 海外のジャーナリズムでは忌み嫌われる横並びの報道を「是」とする日本の記者クラブ制度のもとでは、実はこうした被害がたびたび発生している。ジャーナリストの浅野健一氏や山口正紀氏などが長年追ってきた「報道被害」の実例は、枚挙に暇が無い。

 しかし、今回、明らかになった事例は、虚報の度合いといい、被害の大きさという点では過去にもそう例のないものだ。

■鉢呂前経産相「放射能と言った記憶がない」

 火曜日、筆者が司会を務める『ニュースの深層』(朝日ニュースター)に鉢呂吉雄前経済産業大臣が生出演した。冒頭、筆者は鉢呂氏が発したという「放射能つけちゃうぞ」発言の真意について聞いた。

「放射能と言った記憶がないのです。確かに相槌を打ったような気もしますが、それもはっきりせず、自分で言ったような記憶はない。私も長年政治家をやってきていますから、自分で言った言葉については大抵覚えております。でも、放射能という言葉自体、あまり使ったことがありませんし、放射性物質などということはありましたが、なにしろ記憶にないのです。でも、優秀な記者さんたちがみんなそう報じるので、どうしてなのかなと思っておりました」

 結論からいえば、鉢呂氏は「放射能」も「つけちゃうぞ」も発言していない。発言のあったとされる当日、東京電力福島第一原発所の視察から戻った鉢呂大臣(当時)が、赤坂宿舎に集まった4、5人の記者たちと懇談したのは事実だ。だが、防護服を着用したままの鉢呂氏に「放射能」という言葉を使って、水を向けたのは記者たちのほうであり、それに対して、鉢呂氏は何気なく相槌を打っただけというのが真相なのだ。

 つまり、マスコミが勝手に自ら言葉を発して、何も語っていない政治家の話した言葉として勝手に報じて、勝手に責任を追及し、デマによって世論を煽り、ついには大臣を辞めさせてしまったというだけの話なのだ。

 なんとばかげたことだろう。とても民主主義国家のメディアの仕業とは思えない。根拠のないデマによる集団リンチであり、ジャーナリズムの自殺行為だ。

 しかも、そうした事実が明らかになった現在もなお、どの社も鉢呂氏に対して、訂正も謝罪もしていないという。ぶら下がった記者の中には密かにICレコーダーで録音し、完全にすべてを理解しているにもかかわらずである。

 卑怯、ここに極まれり、といった感である。

■ジャーナリズム以前、人間としての良心すらないのか

 もはや日本の記者たちはジャーナリストとしてではなく、人間としての良心も失ってしまったのだろうか。

 朝日新聞デジタル版が、言い訳がましく検証しているので、まずはそれを引用してみよう。

〈9日午前、新聞やテレビ・通信社は鉢呂氏の「放射能」発言を報じなかった。

 だが、その日午前の記者会見で、鉢呂氏は原発周辺自治体を「死のまち」と表現。野田佳彦首相は9日昼すぎ、「不穏当な発言だ。謝罪して訂正してほしい」と語り、鉢呂氏は同日夕に発言を撤回し、謝罪した。

「放射能」発言を最初に報じたのはフジテレビとみられる。9日午後6時50分過ぎ、鉢呂氏の失言関連ニュースの最後に「防災服の袖を取材記者の服になすりつけて、『放射能を分けてやるよ』などと話している姿が目撃されている」と伝聞調で伝えた。

 午後8時半には自社のウェブサイトにも掲載。この後、他のメディアも報じ始め、共同通信は午後9時過ぎ、「放射能」発言を加盟社向けに速報し、約30分後に記事を配信。TBSは午後11時半からのニュースで報じ、NHKも午後11時59分に「経産相『放射性物質うつった』発言」というニュースをネット配信。朝日新聞など新聞各社も10日付の朝刊で発言を大きく扱った。

 一方、発言内容や自社の記者が現場にいたのかどうかの表現は、社によってばらついた。毎日新聞は「毎日新聞記者に近寄り、防災服をすりつけるしぐさをしながら『放射能をつけたぞ』という趣旨の発言をした」と報道。9日に報じなかった理由は「経緯についてはお話ししかねる」(社長室広報担当)という。

 同様に自社の記者が現場にいたことを明らかにしている共同通信は「鉢呂氏が突然、記者の一人にすり寄り、『放射能をうつしてやる』という趣旨の発言をした」と報道。同時に、経済部長名で「『死の町』発言で、原発事故対策を担う閣僚としての資質に疑義が生じたことで、前夜の囲み取材での言動についても報道するべきだと判断した」というコメントも配信した。

 他のメディアでは、産経新聞、東京新聞、テレビ東京、時事通信が「囲み取材には参加していなかった」としており、東京新聞は紙面で共同通信の配信であることを明らかにした。日本テレビ、TBS、テレビ朝日などは取材に対し、取材の過程については答えられない旨を回答。フジテレビは「取材の結果、報道する必要があると判断した」とし、記者が現場にいたかは明らかにしていない。

 朝日新聞の渡辺勉・政治エディターは「8日夜の議員宿舎での発言の後、鉢呂氏は9日午前の記者会見で『死のまち』とも発言。閣僚の資質に関わる重大な問題と判断して10日付朝刊(最終版)で掲載した」と話す。辞任会見で鉢呂氏が、議員宿舎での取材を「非公式の懇談」と語ったことについては「議員宿舎の玄関付近での取材は自由であり、扱いについて特段のルールはない」としている。〉
http://digital.asahi.com/articles/TKY201109120533.html?id1=2&id2=cabbajbd

 こんな程度の取材でニュースを作れるとは日本の記者たちはずいぶんとお気楽な職業に就いているものである。

■虚報による政治家の社会的抹殺 マスコミの罪はテロ行為にも等しい

 そもそも「死の街」発言についても、福島県民からの苦情が殺到しているように報じられていたが、鉢呂事務所にはそうした声は届いていなかったという(鉢呂氏)。むしろ、「がんばれ」という激励の声が多数寄せられていたそうだ。

 それもそうだろう。鉢呂氏は、大臣就任前から一国会議員として福島県に通い、放射線量の測定や、小学校や保育園の除染の徹底、そして暫定基準値の20ミリシーベルトから1ミリシーベルトへの引き下げを訴え、菅首相(当時)に直訴していた数少ない政治家の一人だったからだ。

 大臣辞任直前には、「鉢呂氏を辞めさせないで」という署名運動が福島県内で始まっており、まさに「死の街」という事実をきちんと告知してくれたことへの感謝の言葉すらあったのだ。

 それが、なぜか、マスコミのフィルターにかかると、福島県内で非難の声が多数あがったということになる。だが、そのほとんどが匿名だ。一方、鉢呂氏の発言はその通りだとするのはたとえば、南相馬市のエム牧場の吉村農場長や、同じく南相馬の桜井市長など実名での発言となっている。

 マスコミのデマによって職を追われた鉢呂氏は、ずっと「放射能つけちゃうぞ」などという言葉は発していないといい続けてきた。だが、その反論をまともに取り上げるメディアはなく、事実上黙殺された。

 発言していないデマによって、ひとりの政治家を葬るのはまさしくテロ行為に等しい。メディアは恥を知るべきだ。いまからでも遅くない、もう一度、自らの稚拙な取材を検証しなおしてみるべきだ。

 そして、当事者の鉢呂氏も「もう、大臣を辞めてしまったからいい」と自らのことばかりを考えるのではなく、今後の民主主義と若い政治家たちのために、きちんとした対応をすべきなのである。

 放送に関してはBPOに訴えるのもよし、あるいは名誉毀損で裁判を起こすのもよし、いずれにせよ、こうした卑怯な振る舞いに対しては断固とした措置を講じるべきなのである。仮に、こんな卑劣なデマ報道が許されるとしたら、それはジャーナリズムのみならず、民主主義の死を意味する。

 嘘によって、選良である代議士を葬ることは、代議制民主主義、ひいては国民への裏切りに他ならない。 (転載終わり)

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2012年『本当の自分に返る年』

 『2012年-本当の自分に返る年』。
 今まで「これが自分だ」と思い込んできた肉体中心の自分は、「仮の自分」だったとでもいうのでしょうか。どうもそのようです。これまで「偽りの自分こそが自分だ」と思い込んできたがために、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、ずい分痛い思いもしてきました。そんな思いをしないためにも、もういい加減このへんで「本当の自分」を思い出し、そこに返る必要があるわけです。
 そしてそれが「2012年」だというのです。

 その基本的なことを踏まえて、今回のメッセージにじっくり耳を傾けてみましょう。
 「本当の自分とは何か」など、いくつかのキーワードについて私なりに説明したいところですが、それぞれ重要で一つひとつが独立した記事となりそうです。そこで「いずれ折りをみて」ということに致します。
 今回もエンヤの詠唱です。曲は「Only Time」。代表曲の一つのようです。そういえばエンヤさんについて少し思い出したことがあります。それもまたいつか述べてみたいと思います。



2012年『本当の自分に返る年』

 私たちは進化の次の段階に入っていくにあたって
    本当の自分を思い出さなくてはなりません

    一つひとつの魂は、今までなかったほど
          貴重なものとなり
          あなたの意識は
       時空間の制限を越して拡大し
      あなたの魂は、肉体に宿ったまま
    自分がやってきたふるさとに帰ることを
         切望することでしょう

         それは可能なのです
  2012年とはその絶頂期を意味しているのです

 闇の勢力は、この世の終焉的なシナリオによって
       恐れを創りだそうとしています
  でも彼らにも、この集合的な人々の目覚めを
     予期することはできなかったのです
彼らの権力と支配は、日々崩壊に向かっているのです

        この宇宙で最も力があるのは
             「愛」です


         そして、私たちのハートが
 ここまで輝いたことは未だかつてなかったのです

 私たちは、この惑星を制覇しようとする闇の勢力に
          打ち勝つことでしょう

        愛と思いやりだけによって !
         他は何もいらないのです

      マザーアースの新しい周波数と共に
私たちが自分たちのヴァイブレーションを上げるにつれ
      私たちは今の次元の制限を超えて
     集合意識を拡大していくことになります

         私たちはゼロポイント・・・
    すべてが一つであり、永遠であるところに
         向かって行っているのです

  もう二元性の世界、分離の世界がなくなるのです

そうです・・・私たちは聖なる源と一つになっていくのです

 (大場光太郎・記)

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蛾眉山月歌

                李白

  蛾眉山月半輪秋    蛾眉山月 半輪の秋 
  影入平羌江水流    影は平羌江に入りて流る
  夜發淸渓向三峡    夜 清渓を発して 三峡に向かう
  思君不見下渝州    君を思えども見ず 渝州に下る

…… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 
 蛾眉山にさしのぼる半月も、秋の気配。その光は平羌江にさし入って、水とともに流れ去る。夜中、私は清渓を出発して、三峡へと向かった。月よ、君のことを思いながら、姿を見ることのできぬままに、渝州まで下ってきたのだった。 (『唐詩選(下)』より)

 上の読み下し文と大意文のように、夜半蛾眉山(がびさん)を遠く望む清渓(せいけい)の船乗り場を発って、平羌江(へいきょうこう)から三峡(さんきょう)そして湔州(ゆしゅう)へと川を船で駆け下っていくようすを、月影の推移とともに描写した七言絶句です。
 蛾眉山上に見えていて平羌江(青衣江とも)の水面にさざめいていた月も、下るとともに長江上流部の狭隘な峡谷に隠れがち、なお駆け下っているうちにやがては峡谷の下に沈んで見えなくなってしまったという構図です。

 詩の題にもなっている蛾眉山とは、現四川省の西端近く、成都市からみて西南部にある名山です。古来道教や中国仏教の聖地の一つでした。最高峰は万仏山で標高3099メートル、現在ではユネスコの世界遺産にも登録されています。

 この詩における月とは「半輪」つまり半分の月、西南の方角の蛾眉山上に出ていたということから上弦の月と推察されます。
 松岡正剛氏によりますと、そもそも李白は「月」を詠むことに情熱を傾けた詩人で、月の詩が多いそうです。そういえば以前取り上た五言絶句『静夜思』もそうでした。
 ただ中国における月とは「皎(こう)」と明るく輝き下界を照らす月。我が国の清少納言の『枕草子』が典型的な、「朧月」に情趣を見出すようなことはないようです。

 秋の形容にもいろいろある中で、この詩では「半輪の秋」。李白の独創的表現なのでしょうが、李白自身の心の半分に隠し持った憂愁の気分が感じられそうです。

 そこからなのでしょうか。この詩は自然描写の名詩として十分すぎるくらいですが、それとは別の事を暗示しているという解釈もあるようです。別の事とは「女性」です。それは次のような詩句からうかがわれるというのです。
 「蛾眉」とは、女性の美しい眉のこと。「月半輪」とは、半月・片月・片割れ月ということから、夫婦・恋人などの関係で別れて片方だけになっていることの暗示。「思君」とは、直接的には月に対する表現ながら異性の暗示。

 なるほど言われてみれば確かに。この詩は李白25歳頃の作と推定されています。自由奔放な天才肌だった詩仙・李白の分けても青年時代。意中の女性がいて、夜船に乗り込んで遥々逢いに行ったとしても不思議ではないわけです。
 その女性はどこにいたかといえば三峡流域のどこかの町。しかし「君を思えども見ず」。「不見」には「見ない。会わない」という意味もあるようです。結局逢えずじまいで、仕方ないから渝州(今の重慶市)にまで駆け下って来てしまった、ということになるのでしょうか。

参考・引用
『唐詩選(下)』(ワイド版岩波文庫、前野直彬注解)
『松岡正剛の千夜千冊「李白詩選」』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0952.html
『李白 蛾眉山月歌 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩』http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/rs95.htm

 (大場光太郎・記)

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小沢捜査・裁判は憲法違反だ !

 今や偏向、歪曲、捏造に満ちた政治記事しか出せないのが、この国の大新聞です。どなたかが言うように、今この国におけるクオリティ・ペーパーは、朝日・読売・毎日などではなく『日刊ゲンダイ』だと言っても過言ではありません。

 その日刊ゲンダイが10月13日の1・2面で、小沢・陸山会裁判について重要な論評をしています。
 出来るだけ多くの人に知っていただきたい内容なので、後半(2面)部分を抜粋して転載させていただきます。(適宜行空けをしています。)
                      *

私刑(リンチ)にかけられている小沢一郎の運命 - この国は民主主義国でも法治国家でもない

一連の小沢裁判は何から何まで憲法違反だ

 
改めて言うまでもないが、2年前の西松建設事件に端を発する一連の小沢事件はすべてが異常だ。
 小沢の政治生命抹殺を目的にした違法捜査、逮捕が繰り返され、ついには検察審査会が小沢本人を強制起訴した。これらはことごとく「憲法違反」だ。多くの法曹関係者がそう言っている。まず、弁護士資格を持つ辻恵衆院議員はこう言う。

 「例えば西松事件です。西松側の献金元となった2つの政治団体について、元秘書3人の判決では『社名を隠して政治献金を行うための隠れみのにすぎない』と決めつけましたが、おかしな話です。西松の元総務部長は公判で『2つの政治団体は完全に実体があり、ダミー団体ではない』と証言したし、建設業者や医師会が献金目的の政治団体を設立することは広範囲で行われています。西松のケースだけが飛び抜けて悪質とはいえないのに、小沢氏のケースだけ狙い撃ちにし、唯一、立件したのです。極めて恣意的で不当な捜査、起訴で、これは『すべての国民は法の下に平等である』と定めた憲法14条に違反するものです」 (中略)
 「裁判所は、検察の政治的な捜査や公判請求の無謀を批判すべきでした。それなのに検察以上に深読みと推論と憶測を重ねて元秘書を断罪。有罪判決を出した。こんな裁判では日本人の人権は保障されませんよ」

検察審査会という存在自体がおかしい

 確たる証拠もないのに、東京地裁が推論を重ねて元秘書に有罪判決を下したことは「憲法31条違反」(第二東京弁護士会所属の伊東章弁護士)との声もある。<何人も法律の定める手続きによらなければ、その生命もしくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない>と定めたものだ。この条文は国民の基本的人権を保障するもので、「裁判所が合理的な判断理由も提示せず、被告人を一方的に断罪するのは憲法の理念に逆行する」(伊東章氏)のだ。

 さらに、検察審査会の強制起訴議決。こちらも、「違憲・無効」だ。元参議院法制局第3部長だった播磨益夫氏(現弁護士)が論文発表という形で、明確に憲法違反を指摘している。
 播磨氏は検察審が「強制起訴」という基本的人権に抵触する権限を持ちながら、所管する上部の行政機関が法律上存在しないヌエのような存在であることを問題視。検察審の存在は<行政権は内閣に属し、内閣は行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を負う>と定めた憲法66条に違反すると書いている。
 しかもメンバーは無作為に選ばれたド素人ばかり。強制起訴された人が無罪になっても、メンバーは匿名性に守られ、責任を負うこともない。播磨論文は「法律論よりは感情論、情緒論、ムード論に起因して決定される危険性があり、『法律に基づく行政』ではなく、『感情に基づく行政』の危険性が危惧される」と喝破した。

 これぞ、魔女狩り裁判ではないか。市民が好き嫌いで起訴できるのであれば、検察官なんて要らなくなる。この国は本当に法治国家といえるのか。誰が見たって、もうグラグラなのである。

せっかく勝ち取った憲法の精神を捨てるのか

 現行憲法の3大原則のひとつは基本的人権の尊重だ。小沢をめぐる一連の捜査と裁判は、日本が戦後ようやく勝ち得た新憲法をことごとく踏みにじっていることになる。
 九大名誉教授の斎藤文男氏(憲法)は「裁判所が推認と憶測だけで、起訴事実にない裏金の授受まで認定するとは本当に恐ろしいことだ」と言い、こう続けた。
 「ただでさえ、この国は検察と裁判所が一体となり、有罪率99%という異常な状態が続いてきました。まして最近では判検交流と称して一体化をいっそう強め、裁判員制度などの導入で司法の場にド素人を巻き込み、世論におもねる形で重大犯罪の厳罰化が進んでいます。この流れは、マスコミが検察の言いなりだけに怖い。検察とマスコミが“あいつは真っ黒だ”と特定の人物や団体を陥れ、その通りの世論が形成されれば、裁判所も推認と憶測を重ねて追随してしまう。『人権の最後の砦』であるはずの日本の裁判所で、今後は西部劇の人民裁判のような光景が繰り広げられかねないのです」

欧米のデモを見習ったらどうだ

 それなのに、日本人は本当におとなしい。いまや、リビア、エジプト、中国だけでなく、欧米にもデモの渦が広がっている。為政者のやりたい放題は許さない。そういう人民の意思表示だ。ところが、日本では人権が風前のともしびなのに、ダレも抗議行動を起こそうとしない。脱原発の集会には6万人が集まったが、当局が何人かを逮捕すると、それでシュンとなってしまう。当局の横暴は許し難いが、それが彼らの手口でもある。国民が声を上げなければ、日本は暗黒国家になってしまう。

 「魔女狩りのような小沢裁判を見ても抗議の声を出さない日本国民は、三権分立の大事さや議会制民主主義の大切さ、人権の重みに対して、極めて意識が薄いと思います。戦後60年以上経ち、この間、経済の繁栄ばかりに気をとられ、儲かればそれでよしとしてきたツケです。今、その繁栄も失われ、もともと軽視してきた人権もないがしろになりつつある。日本人は何もか失うかもしれません」(伊東章氏=前出)
 マトモな声も上げず、お上の言いなりで「ガンバロー」なんて言っている若者を見ていると、絶望的な気持ちになってくるのだ。  (転載終わり)

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唱歌『夜汽車』

                       *
 夜汽車     ドイツ民謡、日本語訳詞:勝承夫

  (著作権法により歌詞表記はできません。)


 元々のドイツ語の歌詞は、夜汽車とはまったく関係のない“恋の歌”であるようです。しかし昭和30年代前半に小学生だった私などは「夜汽車といえばこの歌」です。

 訳詞した勝承夫(かつ・よしお)という人も懐かしいです。当時の小学校の音楽の教科書には、この人の名前がよく載っていました。

 この動画のある人のコメントにもありましが、なかなか見つからずやっと探りあてました。あっという間に終わってしまう短い歌ですが、しみじみ良い歌だと思います。

 以下の一文は、「二木紘三のうた物語」の『夜汽車』のコメント(08年3月)を一部手直しして転載したものです。

                       *

 夜汽車。本当に懐かしいひびきです。

 私にとって夜汽車とは、『故郷を離るる歌』の思い出のように、夜通し走る列車ということです。今は全国的に新幹線網が整備され、日中かなり遠方まで移動できますから、わざわざ夜行列車を走らせることもないのでしょう。

 と気になって、問い合わせてみました。その結果、JR東日本の場合今でも、上野駅から札幌また金沢。東京駅から大分・熊本また高松など、数本は出ているとのことです。しかし、やはり昔に比べて、本数はずっと少なくなったとのことです。

 郷里での少年時代の思い出の一つとしてー。

 当時の我が家は、駅からも線路からも何キロも離れていました。しかし普段ならまず聞こえないはずの夜汽車の音が、ある寝静まった夜更けに、なぜか聞こえてくることがあるのです。
 シュッシュツ、ポォー。……。ポォー、ポォー。……。シュッシュツ、ポォー。……。
 近づいて、大きくなって、やがて遠ざかっていく…。

 それが不思議で、私はそれを題材にした下手くそな詩を書いたことがあります。

 高校1年の時でした。たまたま隣の席だった、米沢から通っていた少しニヒルな感じの級友に、その詩をみせました。私は1、2年の時は丸坊主、彼はカッコウいい長髪でした。一読するなり斜に構えたその級友は、例のニヒルなうすら笑いを浮かべながら、「変な詩だなあ」と一言言ったきりで、突っ返してきました。(その詩は、とうの昔に捨てました。)
 そんな彼とは気の合うところもあって、ある日曜日、他の仲間と共に彼の家に遊びに行ったこともありました。

 「夜汽車」とは直接関係ありませんが、私の高校に関する話をさらに一つ紹介させていただきます。

 私が高校時代、汽車通学で利用していた「山形交通フラワー長井線」(私の頃はただの「長井線」)が、数年前のNHKの『小さな旅』という30分番組で紹介されました。夕方たまたま途中から見たもので、全部を見ることはできませんでしたが。

 その中で、私もかつて3年間乗り降りした、懐かしい無人駅の「南長井駅」のプラットホームなどを、私の高校(山形県立長井高等学校)の後輩たちが、ボランティアで掃除している姿が映っていました。
 私の頃は、ただ乗降しっぱなしでしたのに。だいぶ年長の先輩である私も、少し誇らしい気分になりました。
 なお運転手も、30代くらいの後輩が務めておりました。

 夜汽車そして蒸気機関車…。「ユックリズム」。懐かしいですね。 (転載終わり)

 (大場光太郎・記)

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えっ、ディビッド・ロックフェラー失脚 !?

 -もし事実なら「日米関係の見直し」など、日本への影響も必至なのだが…-

 今重大情報がネットを駆け巡っています。
 「世界総裁」「世界帝王」と怖れられてきた、あのディビット・ロックフェラー(96)が失脚したらしいというのです。

 ディビット・ロックフェラー(以下「DRF」)は1915年6月10日にロックフェラー家の五男として生まれました。それまでロックフェラー家当主だった長兄のジョン・ロックフェラー3世の死(1978年7月10日)によって、跡継ぎで甥のジェイ・ロックフェラーから強引に家督を奪い、ロックフェラー家当主におさまってきました。
 以後33年間、グループ全体で米国GDPの60%にも及ぶというロックフェラー財閥の財力をバックに、米国はおろか世界の政治、経済、軍事など主要分野で絶大な影響力を行使してきたのです。

 米国の大統領選はセレモニーで、近年の米大統領はDRFによって決められていたといいます。一例はアル・ゴアと争ったジョージ・ブッシュの2000年大統領選です。最終的に連邦裁判所に勝敗の判定を委ねたほどの僅差でした。しかし実際勝利していたのはゴア候補の方だったのです。
 イラクとの戦争を見据えていたDRFは、密かにブッシュを呼び「任期中に戦争を起こす気があるか?」と尋ねます。ブッシュの答えは「イエス !」。フロリダ沖海底に夥しい投票箱が投棄されたといいます。(これが西側民主主義国家宗主国の実態。)

 そのDRFが一族と共に、ロックフェラー家所有のインドの秘密シェルターに逃げ込み、英国を拠点とするこれも世界的財閥のジェイコブ・ロスチャイルドに居場所を突き止められたというのです。直接的に突き止めたのは、ロスチャイルドの子飼い機関である英国情報部(M16)です。

 当ブログでも今年3月の『有色人種40億人殺戮キャンペーン(1)』で、DRF一族がインドの核シェルターに避難したというベンジャミン・フルフォード情報について触れました。しかしそれは3・11人工地震→第3次世界大戦という文脈においてでした。「インドの核シェルター」自体眉唾だという批判もありましたが、どうやらそうではなかったようです。
 DRF一族にとって3・11以降大きく情勢が変わり、DRFら米国戦争屋が仕掛けた日本壊滅→第3次世界大戦→世界人口大削減のシナリオが根本的に狂ってしまったのです。

 もしこの情報が真実だとすれば、今回のDRF一族のインドシェルター入りの目的は、ロスチャイルドの追及逃れだったことになります。
 いずれにしても居場所を特定されたDRFは、ジェイコブ・ロスチャイルドから、
 「命を取るか、財産を取るか」
と二者択一を迫られたといいます。
 
 DRFは現在96歳という超高齢。にも関わらず、超絶パワーで世界中を大混乱に陥れるための諸プランの陣頭指揮を取り続けてきました。しかしさすがの化け物(本当に「化け物」かもしれない)も、ここ1、2年はパワーの衰えを指摘されていました。
 いくら老い先短いとは言え、やはり命は惜しいようです。結果DRFは、全財産つまりはすべての権力を失ったもようだというのです。
 だとしたら米国のみならず世界中、分けても日本にとって“大慶事”です。

 米国にも拠点を有するロスチャイルドは国際金融をメーンとし、俗に「銀行屋」と言われています。息がかかった英国外交や米国民主党に典型的に見られるように、勢力均衡を旨としています。戦争によって一気に事を決したりする、一国突出主義を嫌う傾向があるとされています。その意味でロスチャイルド家の方が「ソフト」だといえます。
 対してDRFロックフェラー家はハードな「戦争屋」。近年の湾岸戦争、9・11、アフガン戦争、イラク戦争などはすべて、共和党政権を使った“DRF戦争”でした。

 今回のDRF失脚が事実だとすれば、第2次世界大戦以降米国ロックフェラー家に奪われていた世界盟主の座を、ロスチャイルド家が奪還した図式です。かなり計画的だったようです。
 それが証拠にロスチャイルドは、DRFと対立し銀行屋系とみられていたジェイ・ロックフェラー一族すらも一網打尽にしたといいます。徹底的な「ロックフェラー家潰し」を図ったのです。

 日本にとっては、DRF戦争屋による「首都圏直下型大地震」「富士山大噴火」「第2、第3のフクシマ」が回避できたのかもしれないのが、最大の慶事です。
 その上日米安保、米軍基地、対米従属外交、対米依存経済…。戦後日本はロックフェラーアメリカの手の上で踊らされてきたことを考えれば、「日本の真の独立」を考える上でまたとないチャンス到来なのかもしれません。
 日本にとって慶事が幾重にも重なることを祈るばかりです。

 ただ世界全体としてみた場合、ロックフェラー支配がロスチャイルド支配に戻るだけ。近代以降のユダヤ国際資本支配構造は何も変わらないのです。この呪縛からいかに脱け出すか、ここに人類の未来はかかっています。

参考
板垣英憲『マスコミに出ない政治経済の裏話』
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken
陽光堂主人の読書日記
http://yokodo999.blog104.fc2.com/
当ブログ『真実の近現代概略史』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat43851635/index.html

 (大場光太郎・記)

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秋の夜汽車は…

              中村 汀女

  目をとぢて秋の夜汽車はすれちがふ

…… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 中村汀女(なかむら・ていじょ) 略歴は『触るるばかりに春の月』参照のこと。

 同略歴の中で、「1920年(大正9年)に大蔵官僚の中村重喜と結婚。以後、夫の転勤とともに東京、横浜、仙台、名古屋など国内各地を転々とし、後に東京に定住した」とありました。
 今回の句は、そのうち昭和12年10月末、仙台から東京の下北澤(現北沢1丁目)に引っ越すことになった時に乗った夜汽車での事を詠んだ句であるようです。

 句そのものは至極平易です。「秋の夜に汽車に乗っていて、目を閉じていたら別の列車とすれ違った」という、ただそれだけのことを詠んだ句です。
 しかし表面的な平易さとは別に、句の奥に込められた余情はなかなか深いものがありそうです。

 「目をとぢて」とは、もう少し字数が許されていれば「目をとぢていて」ということです。どちらかというと「瞑目」さらに言えば「瞑想」の感じに近かったのかもしれません。
 仙台で暮らした過ぎし日々の回想、これから暮らすことになる東京での生活のこと。諸々の想いが去来し、浮かんでは消え、消えては浮かびしていた…。
 とそれらの想いが、高い轟音で突如破られることになります。思わず目を開けると、反対方面から列車がやってきてすれ違って行ったのです。

 汀女はこの瞬間を「俳句的場面」ととらえ、この句として成立させたわけです。汀女にとって極めて印象深い瞬間だったからです。

 どうしてなのか?それを考えるには、当時の「夜汽車」を想像してみる必要がありそうです。今でも「東京駅発-各地方行き」などの夜行列車は走っているそうです。しかし当時と今日の新幹線とは決定的な違いがあります。それは「スピード」です。
 昭和12年といえば戦前、今から70年以上も昔になります。だから夜汽車とは石炭をくべて走る蒸気機関車。今とは比べのにならないくらいのろのろだったことでしょう。

 この句のように他の列車と「すれ違ふ」場合、スピードの違いは決定的だと思われます。ゆっくりのろのろ走る汽車の場合、「すれ違ふ」ことによって、そこに余情が生まれる余地があると思うのです。あっと思う間もなく通り過ぎてしまう新幹線では、余情は生まれようがありません。
 
 それに「秋の夜汽車」です。10月末の「秋の夜」の持つ侘しさの気配がこの句にはまずあります。それに転勤という事情も加わって、汀女にはことのほか「旅情」が深かったかもしれません。

 そんな中での別の列車とのすれ違い。作者が乗っている汽車とは真反対方向に、その汽車は走り去っていったのです。その方向とは、たとえ何年間ではあっても汀女たちが過ごしてきた方向でもあります。
 作者の連想はなおも広がったことでしょう。向うの汽車にも多くの乗客がいる。仔細には知り得なくても、一人ひとりの乗客にはそれまでの固有の人生があり、固有の乗車の理由があり、固有の目的地がある…。

 「人生そのものが旅」。汀女の人生途上の秋の夜汽車でのつかの間のすれ違い。作者はそこに妙(たえ)なる「一期一会(いちごいちえ)」を感受したとしてもおかしくはないと思います。

 (大場光太郎・記)

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白隠禅師の悟り

    衣(ころも)やうすき
    食やとぼしき
    きりぎりす
    聞きすてかねて
    もる涙かな       白隠禅師

 白隠禅師(はくいんぜんじ)-1686年(貞享2年)~1768年(明和5年)-は、臨済宗中興の祖と言われる江戸時代中期の禅僧です。
 駿河国原宿(現静岡県沼津市)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家し諸国を行脚し、苛酷な修行を重ね病(神経衰弱と言われている)にかかります。何とか病を直そうと洛東(京都)白河山中の白幽仙人を訪ねたところ、「軟酥(なんそ)の法」を授かったといいます。

 「軟酥」とはバター状の秘薬で、身を横たえながら軟酥が溶け出して頭の天辺から流れ伝い、全身をくまなく浸し、病や毒を洗い落としながら足のつま先から抜けていくようすを観ずるという行法のようです。現代的には一種の「イメージトレーニング法」と言っていいかもしれません。
 白隠は白幽仙人に教わったとおり、繰り返しこの行法を行ったところ効果覿面、病がたちまち全快したというのです。

 白隠は後に地元駿河に戻って布教を続け、衰退著しかった臨済宗を復興させます。当時「駿河には過ぎたるものが二つあり。富士のお山に原の白隠」とまで謳われたといいます。

 さてそんな白隠禅師。大乗仏典最高峰の一つとされる「法華経」を若い頃から読み続けていたものの、その真髄を解ろうとしてもどうしても解らなかったそうです。
 とここからは、松原泰道師著の『観音経入門』(祥伝社・NONブックス)の一文を引用してみます。

 白隠が四十二歳の秋です。彼の傍らで一人の坊さまが「法華経」第二巻・第三章(品)の「譬喩品(ひゆぼん)」を誦(よ)んでいました。そのとき、たまたま石だたみの上で、一匹のコオロギの鳴く声が聞こえてきたのです。この声を聞いて、心中に深く閃くものがあったのです。「法華経」がほんとうにわかったのです。読めたのです。白隠だけが自覚した人生の真実です。どのように「法華経」がわかったのか、どのような内容であるかは、それからの白隠の言動に展開されています。しかし、その時点での白隠の心境は他からは窺(うかがい)知れぬ絶対なものです。
 (中略)
 とにかく、コオロギが無心に鳴く声を、ほとけの教えと聞けるところの、ほとけのこころが自分の心中に埋ずみこめられあるのに気づき、今までの疑いが解けました。白隠は思わずうれし泣きに声をあげて泣きます。
 (中略)
 誰もが、いつ・どこでも、いのちを抱くとともに抱かれている事実に、あるいは気づかせ、思い出させようとの、大きないのちの誓いと願いとが的確に受けとられたのです。 (転載終わり)

 その時の心境を詠んだのが、冒頭掲げました歌です。なるほど味わい深い歌です。再度掲げます。

    衣やうすき
    食やとぼしき
    きりぎりす
    聞きすてかねて
    もる涙かな

 これが白隠が解った法華経の精髄を示した歌なのです。これを読めば、私たち凡俗にも『仏の慈悲とはこういうものなのだろうな』と、何となく解った気にさせられます。しかしこの時の白隠は、単に頭の知識として解ったというような生易しいものではなく、それこそ全身全霊で命のどん底から「豁然大悟(かつぜんたいご)した」ということだと思われます。

 法華経を読み切った白隠の、それまでとその後は松原師ご指摘のとおり、言動がまるで違ったものになったことでしょう。違う教えで言えば「知行合一」(陽明学)。白隠禅師にとって、法華経の精髄である「慈悲、利他行」が当たり前の生き方になっていったのです。
 一個の菩薩いな生き仏の誕生です。

【追記】文中ご紹介した「軟酥の法」がYouTube動画になっています。体のどこかに違和感がおありの方、是非お試しあれ !
http://www.youtube.com/watch?v=-M7hqjR-0ew

 (大場光太郎・記)

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裁かれるべきはこちらの巨悪たちだ

 -検察、マスコミは小沢の微罪に大騒ぎし、中曽根、森、小泉らの巨悪を見逃してきたのはなぜなのか !?-

 6日注目の小沢一郎民主党元代表に対する初公判が、東京地裁で開かれました。下世話な話ながら、49の傍聴席を手に入れようと2146人が並び、東京地裁に隣接する日比谷公園まで長い行列ができたといいます。43倍という競争率です。
 初公判史上過去最高倍率は09年10月25日の酒井法子の時の約330倍(6615人)、第2位は97年4月24日のオウム真理教の麻原彰晃死刑囚の時の約256倍(12292人)でした。行列者の多くは、酒井初公判時同様マスコミに雇われたアルバイトだったとはいうものの、それにしても驚くべき数字です。

 先月26日の石川知裕衆院議員ら元3秘書の東京地裁の結審では、登石郁郎裁判長によるまさかの“トンデモ有罪判決”が下りました。
 その結果が自身の公判にダイレクトに影響するとあってか、出廷した小沢元代表にはいつになく力みと緊張があったようです。司法界全体がグルになって、自分を罪に陥れようという魂胆が明白である以上当然というべきです。
 「捜査は検察が小沢一郎を標的に行い、政治的、社会的に抹殺しようとしたのは明白だ」。証言台に立った小沢元代表は、このような激しい口調で自身の無罪主張とともに、約10分にわたる意見陳述の大半を検察批判に費やしたといいます。

 いずれにしも東京地裁における小沢一審裁判は、来年4月に予定されている結審までのプロセスで、詳細はその都度明らかになっていくことでしょう。
 そこで小沢裁判そのものは一先ず置いといてー。

 それにしてもおかしくはないでしょうか?
 田中角栄以来、金丸信、梶山静六、村岡兼造そして小沢一郎。過去に検察に挙げられた大物政治家は、村上正邦ら一部を除いて多くが自民党旧田中派、経世会なのです。旧田中派だけが突出した“悪徳政治家”ぞろいだったというのでしょうか?
 自民党他派閥の大物たちはいずれも、一点の曇りもない清廉潔白な政治家たちだった?そんなバカな !

 例えば岸信介、佐藤栄作、中曽根康弘、森喜朗、小泉純一郎など、主に(旧田中派・経世会のライバル派閥だった)旧福田派・清和会の連中はどうだったのか?
 岸は米CIAエージェントの一人としてA級戦犯を解いてもらい、60年安保改定時の総理として米国に国を売り、沖縄はじめ全国に米軍基地があるおかげで半世紀後の今日でも米国の属国状態が続いています。
 弟の佐藤は造船疑獄で指揮権発動により逮捕を免れ、以後アメリカ様に忠勤を励み、そのおかげで戦後最長の佐藤政権を維持した上ノーベル平和賞まで与えられました。

 中曽根大勲位こそは戦後最大の「疑獄のデパート」と言うべきです。九頭竜川ダム汚職(1964年)、殖産住宅事件(1972年)、ロッキード事件(1976年)、リクルート事件(1988年)と、4大事件で濃厚な嫌疑をかけられながらいずれもセーフ。
 「日本列島は不沈空母」など時のレーガン・アメリカ様が泣いて喜ぶ発言などにより、こちらも戦後稀な長期政権を維持。今では「(財)世界平和研究所」なる、世界の不平和に貢献しているユダヤ・イルミナティの下部組織と思しきシンクタンクの会長に収まっています。

 一昨年の西松建設事件では小沢一郎だけが狙い撃ちにあいました。しかし同事件では、森喜朗元総理、町村信孝、伊吹文明ら清和会の大物らの名前も上がったのです。しかし検察情報に詳しい、警察庁元長官の漆間巌官房副長官(麻生政権当時)の「自民党に捜査の手が及ぶことはない」発言どおり、まったくのスルー状態でした。
 大久保隆則元秘書逮捕は、米国からの指示、「かんぽの宿」疑惑隠し、小沢政権阻止などの要因により、麻生総理指示のもと森英介法相の指揮権発動による不当逮捕だったのです。

 清和会最後の大物・小泉純一郎も見逃すことはできません。
 出来が悪くて慶応大学を何年も留年し、とどのつまりは1967年春に同大女子大学生へ婦女暴行を働き神奈川県警横須賀署に逮捕(年配の横須賀市議なら知らぬ者はいない)。都内の精神病院への入院歴もあります。孝太郎、進次郎の母である元妻とは、凄まじいDVが原因で離婚。平の衆院議員時代は、愛人芸者「小はん」を“行為”の最中首絞め過失致死させ、あのハマコーに「この芸者殺し野郎 !」と面罵されています。
 森元総理の早大時代の買春逮捕もそうですが、世間に公表できない彼らの犯罪歴を米CIAなどはすべて把握していたのです。対米隷属で行くしかなかったわけです。

 小沢一郎をバッシングしまくっている新聞・テレビなど“マスゴミ”は、小泉の忌まわしい過去など百も承知でかかる異常者の“ヨイショ”に終始したのです。
 小泉は総理時代の、りそな銀行、かんぽの宿疑惑が特に重大問題です。
 また中曽根は米国の極秘指令に基づき、正力松太郎(PОDAM)と共に日本に原発を持ち込んだ張本人であり、小泉政権は我が国原発行政を一段と加速させました。

 これら自民党清和会の大物がらみの数々の疑惑に対して、東京地検特捜部は本気になって捜査のメスを入れたことがあったでしょうか?新聞・テレビが疑惑追及をしたことがあったでしょうか?
 本来東京拘置所に直行すべきは、この連中の方なのです。

 彼らの巨悪から見れば、「小沢政権潰し」のための政治的謀略の疑いが濃厚なのが小沢事件です。小沢「陸山会」の収支報告書記載ミスなどは、取るに足りない微罪です。(検察が受託収賄罪で起訴できなかったのに、登石某の「1億円裏金授受推認」は、小沢を有罪にするための司法全体の布石です。)

 自民党旧田中派・経世会と旧福田派・清和会との、検察・司法の際立った不公平は一体何なのでしょうか?
 違いを解く鍵は「対米外交のスタンス」という、ただ一つの問題に帰着します。
 自主独立、日米対等外交志向が経世会。対して清和会は岸信介以来一貫して米国依存、対米従属外交志向です。田中角栄は米国に断わりなく日中国交を回復させ、アラブ諸国とメジャーを通すことなく石油を直接輸入しようとしていました。途端に、米国議会でロッキード事件の発端となる証言が飛び出したのです。

 米国に対して「NО !」と言えば失脚の可能性が高まり、「YES !」と尻尾を振り続ければ政権は安泰です。検察、マスコミを含めた「米官業」旧勢力は清和会大物などの不正は見て見ぬふり、大勲位やノーベル平和賞の栄誉にも預かれるのです。

 以前述べたように、そもそも東京地検特捜部の前身は、GHQの旧日本軍退隠物資取締り部局なのでした。米CIAと根っこは同じなのです。そして最高裁、財務省、外務省などオール霞ヶ関は官僚組織の維持最優先であると共に、悉くアメリカ様の顔色ばかりうかがっています。財界もしかり。その上新聞・テレビを牛耳る電通の本質は「米国代理店」です。

 あなたはこれでも、検察や裁判所の正義を信じマスコミ報道を鵜呑みにし、「小沢有罪」を確信しますか?

 (大場光太郎・記)

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鎮魂の物語の成立

 赤坂憲雄(あかさか・のりお)氏。何とも懐かしいお名前です。今から20年以上前、民俗学や文化人類学などの分野に興味を抱き、少し関係図書を読んだ中にこの人の著書も混じっていたのです。
 今でも書棚のどこかに、赤坂氏の『異人論』や『境界の発生』など読みかけの本がそのまま眠っているはずです。そもそも同氏に関心をもったのは、何かの専門雑誌の中の同氏の一文をたまたま読んだことでした。『この人は何と頭の良い人なんだろう』。その明晰な論旨の展開に驚嘆してしまったのです。

 赤坂憲雄(以下敬称略)は1953年東京都生まれの民俗学者です。近年すっかりそういう分野から遠ざかってしまったことにより同氏の消息も忘れていましたが、現在は青山学院大学教授、福島県立博物館長というお立場のようです。また多数の著書により幾つもの学術賞を受賞し、東日本大震災復興構想会議委員でもあるようです。
 今回久しぶりに赤坂憲雄の名前を目にしたのは、有隣堂の広報紙『有鄰』第516号の2面に同氏の一文が掲載されていたからです。

 赤坂は4月のなかば、3・11大震災で被災した岩手県太平洋沿岸の各地を訪れ、被害状況を『鎮魂の物語の成立』という一文として掲載しているのです。
 少し長い文なので前半の被災地ルポの部分は割愛させていただき、同氏の真骨頂である『遠野物語』に関係した後半部のみ今回転載させていただきます。
 なお既にお読みいただいた方もおありかと存じますが、当ブログでも昨年8月『寒戸の婆』『続・寒戸の婆』『「遠野物語」発刊100周年』の『遠野物語』関連記事を公開しています。 (大場光太郎・記)
 
                       *

鎮魂の物語の成立 今もとめられる、聞き書きの旅   赤坂憲雄

 (前半省略)

大津波に流された妻の幽霊と田ノ浜で遭遇する『遠野物語』

 それから、田ノ浜へと向かった。船越に隣接する地区だ。ここもまた、甚大な被害を受けた。じつは、この田ノ浜は『遠野物語』の第九十九話に、とても印象深いかたちで登場してくる。主人公は福二という、『遠野物語』ではだれもがそうであるように、実在の人物である。この人は遠野から、縁あって田ノ浜へと婿に行った。そして、先年、つまり明治二十九年に大津波に遭って、妻と子とを失い、生き残った二人の子どもとともに、元の屋敷地に小屋を掛けて暮らしていたらしい。一年ばかりが過ぎた頃に、福二はこんな不思議な体験をしたのである。
 ここからは、『遠野物語』を引きながら、わたしの呟きを添えてゆく。

 夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。

 幽霊との遭遇譚である。舞台は、夏の初めの月夜、まちがいなく旧暦のお盆の時期であった。死者たちが還ってくる季節だ。満月か、それに近い月が、波が寄せては返す渚を照らしている。この渚は民俗学的には、海のかなたより寄り物が漂着する、この世/あの世が重なり合う境界領域であった。まさしく、海に流された妻との再会の舞台としては、これ以外ありえない場所だった。船越村とのあいだには小さな崎があり、そこには洞がある。こうした海辺の洞穴にはしばしば、地蔵が祀られて、サイの河原などが見いだされる。ここで、ついに福二は妻の名を呼ぶのである。妻は振り返って、にこと笑った。しかし、妻のかたわらにはだれか、男がいる。

 男はと見れば此も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互に深く心を通わせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛くは無いかと云へば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。

 まことに残酷な展開だ。男と女の二人連れが近づいてくる。女が妻であることには、すぐに気づいた。名を呼ぶと、妻は振り返った。同時に、連れの男も振り返ったにちがいない。よく見知った同じ里の男だ。津波で死んだ。福二が婿入りする前に、妻はその男と深く心を通わせあっていた、と聞いていた。噂か、いや、里のだれもが知る事実だったにちがいない。福二はずっと、子どもが何人も生まれた後になっても、そのことを気にしていた。妻の心はずっと、あの男の元にあるのかもしれぬ、と疑っていたのである。だから、妻は答える、今はこの人と夫婦になっている、と。思わず未練の言葉が口をつく。子どもはかわいくはないのか。禁句だった。そんな文句にすがったら、この男には惨めな敗北しか残らない。妻を泣かしたところで、心を引き戻すことはできない。

 死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明けまで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。

 死者と物言うとは思われず、しかし、ふと死者なりしと心付くと、もはや追いすがることはできない。福二は夜が明けるまで、道中に立ち尽くし、堂々巡りを考えあぐねる。その後、久しく病気になった、という。作家の三浦しをんさんが、遠野で対談したとき、この第九十九話には小説のすべてがありますね、と話していたことを思いだす。

たくさんの福二と妻の物語を記録に書き留める新たな聞き書きを

 この田ノ浜はこのたび、明治二十九年と昭和八年に続く大津波によって、またしても深刻な被害をこうむった。被災の状況が高台/低地のあいだで、くっきり分かれている。低地は土台しか残っていない。火災が起ったらしい。高台の一部も延焼でやられている。背後に広がる杉林のなかにも、点々と焼け焦げた跡が残り、さぞや怖ろしい一夜であったことだろう、と思う。ここでも、少し高台にある神社が生き残っていた。八幡様が祀られていた。拝殿のわきからは、木の間越しに海が見えた。あの静かな海が盛り上がって、どす黒い壁となって押し寄せてくる姿を思い描くことは、とうていできない。
 たくさんの福二と妻の物語がそこかしこにある。それらを聞き書きし、記録に留めねばならない。生き延びた者たちだけが物語りをすることができる。死者たちのゆくえに眼を凝らし、消息に耳を傾けながら。鎮魂のために。寄り添い続けるためにこそ、そんな聞き書きの旅が求められている。  (転載終わり)

 引用 有隣堂『有鄰』第516号2面より

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テレサ・テン『何日君再来』

 先日は1930年代の上海が懐かしく呼び起こされる、ディック・ミネの『上海ブルース』を取り上げました。折角ですから、“ノスタルデック上海”を喚起させられる歌をもう一つご紹介したいと思います。
 『何日君再来』(ホーリー ジュン ザイライ)です。




『何日君再来』 訳詞:長田恒雄、作曲:妟如
 
 今回YouTubeで歌うはテレサ・テンです。しかし元々は1937年に上海で製作された映画『三星伴月』の挿入歌として歌われたのが最初でした。当時の人気女性歌手だった周璇が歌って空前の大ヒットとなったのです。
 また1939年に香港で製作された映画『孤島天堂』の挿入歌にもなり、黎莉莉が歌いこちらもヒットしました。

 さらに1939年(昭和14年)、『いつの日君帰る』というタイトルで日本でも歌われてヒットしました。こうしてみると、その年ディック・ミネが歌ってヒットした『上海ブルース』は、この歌に触発されて作られた歌だったことも考えられそうです。

 この近代中国の名曲をより深く味わうため、ここで当時の上海の概略を述べてみたいと思います。
 当時の上海は人口150万人と世界一の人口密度を有する極東一の大都会でした。1843年のアヘン戦争以降英米仏独露などさまざまな外国人が居留していたアジア全体の金融の中心地でもありました。その豊かな冨を背景に、街には摩天楼が聳え立ち、「夢の四馬路(スマロ)」など外国人居留地にはショッピングモールや百貨店など大型量販店が建ちました。

 さらにはネオ・ルネッサンス様式、ネオ・バロック様式、アール・デコ様式などの華やかな建物も建ち並んでいました。
 近代中国文学の父・魯迅(ろじん-ルーシュン)も当時上海に住んでいたように、思想信条の自由もある程度保証され、思想誌が多く発刊され映画産業が発展した文化都市でもありました。

 反面法規制の甘さから“上海ギャング”も横行し、阿片窟、売春宿、カジノなどの闇商売がはびこり、裏社会が築かれていった「魔都」でもあったのです。
 成功を手にしようと多くの中国人が各地から流入してきました。しかし彼ら中国人労働者の大半は成功できず、欧米人の華麗な居留区の場末の貧民街で身を寄せ合って生きていました。
 1930年代のノスタルデック上海とは、全盛期であると共に頽廃と衰退が兆していた時期でもあったのです。
 
 蒋介石率いる国民党と急速に台頭しつつあった中国共産党との戦闘に上海も巻き込まれました。加えてこの歌が歌われた1937年は、日中戦争の勃発により上海も実質的に日本軍の統制下に置かれ、それまでの自由度が著しく圧迫され始めた年でもありました。
 風雲急を告げる中この歌が歌われ大ヒットしたのです。豊かだけれど妖しげな魔都の素顔も垣間見せる上海。中国人男女の奇跡のような純愛が描かれ、時局に翻弄され離れ離れとなり、「何日君再来」と遠き日の再会を希(こいねが)う歌なのです。

 その後この歌は日本だけでも、李香蘭(山口淑子)、夏目芙美子(羅仙嬌)、渡辺はま子、松平晃、翁倩玉(ジュディ・オング)、鄧麗君(テレサ・テン)、石川さゆり、小野リサ、夏川りみなど、数多くの歌手によって歌われてきました。
 もちろん本場中国(中華民国)でも多くの歌手が歌い継いできました。しかしこの歌の復活を決定づけたのは、何といってもテレサ・テンです。彼女が歌ったことにより、今や中華民国、中華人民共和国、香港、シンガポール、のみならず全世界の中国人によって歌われる「チャイナ・メロディ」の代表曲となったのです。(英語では『When Will You Return?』)

 いかにも嫋々たる胡弓の音(ね)に合いそうなチャイナ・メロディの代表曲を、奇しくも主に日本で活動していたテレサ・テンがリバイバルで歌って大きく甦ったのでした。

 この歌の復活との因果関係はないものの。上海も有数の世界都市として現代に甦り、2300万人もの人口を擁する中国における商業・金融・工業・交通などの一大中心都市となりました。
 そんな中1930年代に流行した旧外国人居留区のアール・デコ様式などの建築群は、そのまま中国政府によって保存建築に指定され、夜は一斉にライトアップされて上海の大きな観光資源となっています。

 あヽ今は亡きアジアの歌姫・鄧麗君(テレサ・テン)よ。“懐かしき”1930年代上海の街の灯よ。

 (注記)本記事は、『ウィキペディア』を参考にまとめました。
 なお参考のため、「美的姑娘」・周璇の元歌(YouTube)も掲げておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=HVpxBQNKm9g&feature=related

 (大場光太郎・記)

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「元秘書有罪」について小沢氏語る

 石川知裕衆院議員ら元秘書3被告の有罪判決後はじめて、小沢一郎民主党元代表が公の場(インターネット番組-ニコニコ動画)で同判決についての見解を述べました。
 「(自分が)最大の狙いだった。政権交代のスケープゴートにされた」。一連の小沢・陸山会事件に関して、小沢元代表がここまで踏み込んで述べるのは珍しいのではないでしょうか。
 そこには間近(6日)に控えた自身の初公判について、司法への牽制の意味もあるのでしょう。しかし述べていることは一々正論です。

 「何の証拠もないのに、裁判官が独断で推測に基づいて有罪を決めてしまうのは民主主義国家では考えられない」「最も国民の生命、財産、人権を守らなくてはいけない裁判所までが、そういうことになってしまっている。非常に心配だ」。こうも言い切っています。

 小沢元代表が言うようにこの国は「民主主義国家」です。「官主主義国家」ではないのです。民主主義国家における主体は、言わずと知れた主権在民で「国民」です。よって今回の判決は「官主主義」司法ファシズムが発した、国民に対する深刻な挑戦と受け止めるべきです。
 小沢一郎が好きか嫌いか、そんなことではありません。 (大場光太郎・記)

 以下『毎日新聞ネット』から転載します。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20111003k0000m010058000c.html

                       *

小沢元代表:「証拠なく有罪考えられぬ」ネット番組で批判

 民主党の小沢一郎元代表は2日、インターネット番組に出演し、石川知裕衆院議員ら元秘書3人が政治資金規正法違反事件で有罪判決を受けたことについて「何の証拠もないのに、裁判官が独断で推測に基づいて有罪を決めてしまうのは民主主義国家では考えられない。本当にびっくりした」と強く批判した。

 9月26日の有罪判決後、小沢元代表が公の場で発言するのは初めて。元代表は「既得権益を持ち続けてきた人にとっては、(自分が)最大の狙いだった。政権交代のスケープゴートにされた」と述べ、判決を不服とする姿勢を示した。

 判決が水谷建設からの裏献金を認定したことについては「不正な金銭の授受があったということを推測で前提にして、有罪だと決めたので二重にびっくりした」と批判。「最も国民の生命、財産、人権を守らなくてはいけない裁判所までが、そういうことになってしまっている。非常に心配だ」とも述べた。【葛西大博】

毎日新聞 2011年10月2日 21時03分(最終更新 10月3日 1時19分) (転載終わり)

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石川知裕氏の結婚を祝す

-有罪判決直後なのに「災い転じて福と為す」。お二人の前途に幸せあれ !-

 9月26日およそ有り得ない非常識な判決を受けた陸山会3被告のうち、石川知裕衆院議員(38)のびっくりの朗報が伝えられました。
 禁固2年、執行猶予3年の有罪判決を受け控訴を決めた石川氏が、近く結婚することが分かったというものです。

  

 お相手は、日本BS放送(BS11)アナウンサーの阪中香織さん(27)。11歳の年の差婚となりますが、坂中さんは聖心女子大文学部哲学科卒業のお嬢様。父親は投資顧問会社『ソブリンアセットマネジメントジャパン』の阪中彰夫氏。
 阪中香織さんは同局唯一の新卒採用のアナウンサーで、報道を中心に仕事をしながら、国会議員が出席する討論番組などでは、出演者の身の回りの世話などAD的な仕事もしていたといいます。
 身長は170センチ弱と長身で、上掲写真のとおり知的な美人です。そのためか「石川にはもったいないくらいの美人キャスターだ」などと、永田町では言われているそうです。(ご存知かと思いますので、石川氏の写真は省略)

 2人は5月に知り合ったばかりの“スピード婚”だといいます。2日には石川氏が地元の北海道帯広市で支援者に結婚を報告し、3日に同市に婚姻届を提出する予定とのことです。

 石川衆院議員本人は、現在小沢・陸山会裁判関係で同氏の連載をしている『日刊ゲンダイ』に以下の告白をしています。
 「彼女とは、マスコミ関係者との会合で知り合いました。実は、彼女の父上も東京地検特捜部に引っ張られた経験( 昨年2月東京地裁で旧証券取締法違反罪で有罪判決)があるそうで、初対面からその話で盛り上がり、意気投合したのです。陸山会事件の裁判で一番つらい時期を支えてくれたのが彼女。当初から、結婚を前提にお付き合いさせいただいています。頃合を見て発表しようと考えていましたが、一部報道で交際が公になるため、これもタイミングかなと思い、月曜日(3日)に入籍することにしました」

 思えば石川知裕(以下敬称略)にとって、昨年初頭から陸山会事件が東京地検に捜査され始めてからの1年半余は、石川の半生で最悪の時期だったといえます。事件に何の関係もない女性秘書まで突然しょっぴくような、検察の連日の過酷な取調べの上、同年1月には逮捕され、今回の悪判決につながる起訴となりました。
 植草一秀氏は3被告の逮捕時「三勇士」と讃えていましたが、後に録音の存在で明らかになった前近代的な検察の取調べ、各マスコミのバッシング報道、のみならず身内であるはずの民主党内からも攻撃を受ける中、今日までよく耐えてきたものだと思います。

 逮捕直前が特に精神的に追いつめられた時期で、「自殺者が出るのはスジがいい証拠」と平生うぶいていた大鶴基成ら検察幹部(当時)すら石川の自殺を懸念し、そのため逮捕を早めたと言われたものでした。(事件のキーマンに自殺されては、本ボシの小沢一郎に行き着くのは不可能になるわけですから。)
 しかし石川は逮捕、民主党離党後、どこかで気分が吹っ切れた瞬間があったのではないでしょうか。師の小沢一郎ではないけれど「天命に遊ぶ」。自分には何の疚しいところがない以上、『もうどうにでもなれ』と事態を達観したような。

 その精神的余裕が、既に売上げ数万部以上という『悪党 小沢一郎に仕えて』という著書の今年7月の発刊となり、今回の阪中香織さんとの運命的な出会いを呼び込んだとも考えられます。阪中さんは単に美人というだけでなく、父親の一件もあってか芯の強い正義感のある女性だといいます。

 小沢・陸山会事件に関して、新聞・テレビがいかに歪曲、偏向報道を続けようと、以前の田中角栄などの時とは訳が違います。何せ今や国民は「ネット」という大きな武器を手に入れたのですから。「いくら何でもあんな判決はないだろう」と、東京地裁の登石郁郎裁判長の判決を疑問視する声が日に日に多くなってきています。それら目覚めた市民は、「これは国民に対する許しがたい冒涜だ」と受け止めているのです。
 最高裁事務総局の指令によって検察救済判決を下したつもりが、逆に司法全体の地盤沈下を早める結果となりつつあるのです。

 石川知裕議員。師匠の小沢一郎ともども苦難はまだまだ続くはずです。しかし「陰極まれば陽となる」。このたびは得がたい最高の伴侶を得られました。この結婚、国民は祝福こそすれ誰も非難はしませんよ。
 この先まだまだ厳しい展開が予想される中、二人三脚で、晴れて「無罪」を勝ち取っていただきたいものです。

参考・引用 『日刊ゲンダイ』9月3日(3面)など

 (大場光太郎・記)

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登石裁判長を「弾劾訴追」し罷免しよう !

 ブログ『杉並からの情報発信です』様は、以前から小沢「政治とカネ」問題の不当性をさまざな角度から訴えておられます。今回の東京地裁の登石裁判長の陸山会“不当”判決に対しても、まっとうな指摘をされています。
 以下にご紹介するのは、前段で、当フログでも前回転載しました『日刊ゲンダイ』記事を同じく紹介しながら、それに続く論評です。
 なおまことに勝手ながら、適宜行詰めをしています。
出典元 『杉並からの情報発信です』 http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/2c2d70ae276d969ee46135c6fef74909
                       *
 (前略)

▼ 東京地裁登石裁判長を「裁判官弾劾裁判所」に訴追して罷免せよ!

東京地裁登石裁判長は、日本国憲法第76条第三項の「全ての裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法を及び法律のみに拘束される」との「裁判官の独立」の規定に明白に違反しています。
その違反理由は以下の3つです。

(1)東京地裁登石裁判長は「西松建設裁判」の中で窮地に立たされた検察から申請された「訴因変更」を違法に容認し裁判を中断して「陸山会事件」に無理やり併合したこと
(2)東京地裁登石裁判長は「陸山会裁判」の中で検察が立件出来なかった「水谷建設1億円闇献金」容疑事件を何の証拠もなく3人の法廷証言のみで「認定」し「全員有罪」にしたこと
(3)東京地裁登石裁判長は「陸山会事件」で強引な取り調べで書かれた多くの検事調書を証拠採用拒否したにも関わらず、検察の主張を全面的に認めて3人の元秘書全員に「有罪判決」を言い渡したこと

日本国憲法第15条は「公務員を選定しおよびこれを罷免することは国民固有の権利である」と「公務員の選定罷免権」を規定しています。
我々国民は憲法違反、法律違反このの裁判官を国会内に設置された「裁判官弾劾裁判所」に「職務上の義務に著しく違反しまたは職務を甚だしく怠った」罪で訴追し罷免すべきなのです。

▼ 「西松建設事件」は「小沢民主党政権」誕生阻止目的で麻生政権が指揮権発動して検察にやらせた政治弾圧!

当時の麻生自公政権は半年以内に予定される総選挙で「小沢民主党政権」が誕生して政権を奪われる危機的な政治情勢下にありました。
麻生政権の背後には「小沢民主党政権」の誕生で利権・特権を奪われる米国支配層、自民党清和会、公明党=創価学会、霞が関特権官僚、経団連大企業、大手マスコミ、広告代理店・シンクタンク、右翼・暴力団などの「既存勢力」が「小沢民主党政権」誕生阻止で動いていたのです。
麻生自公政権は検察に小沢一朗民主党代表を逮捕・起訴して「小沢民主党政権」の誕生を潰すために全力を挙げていたのです。

麻生首相は森英介法相に命じて検察に指揮権を発動させ「西松建設事件」の強制捜査で小沢一朗民主党代表の大久保第一公設秘書を逮捕・起訴させたのです。
東京地検特捜部は「西松建設事件」に100人の検事と一年以上の歳月と30億円以上の税金を投入して前代身分の「総力体制」をしき、「ゼネコン各社から小沢一郎氏へ多額の闇献金が支払われている」とのストーりを作り上げ、小沢一郎氏を「収賄罪」もしくは「受託収賄罪」容疑で逮捕・起する計画だったのです。

▼ 検察は「西松建設事件」の立件に失敗し小沢一郎氏を逮捕・起訴出来なかった!

東京地検特捜部は逮捕した大久保秘書を締め上げて「嘘の供述書」をとろうとしたが大久保秘書の完全拒否に会い何の供述も得られなかった。
また東京地検特捜部は100名の検事を総動員して全国のあらゆるゼネコンを強制捜査して「小沢一郎氏への闇献金」の供述と証拠を集めようとしたが、確たる証拠も供述も得られなかったのです。

東京地検特捜部は獄中にいた水谷建設水谷会長(当時)の「ダム建設受注の謝礼で大久保秘書に1億円払った」との嘘の供述に望みをつないだが、水谷会長の供述の信用性は低く立件できなかったのです。
東京地検特捜部は仕方なく「西松建設の政治資金管理団体から陸山会が受領した2500万円の政治献金は、西松建設が実態のないダミー組織を通した献金でありダミーであることを知っていた大久保秘書は政治資金収支報告書に虚偽記載した」という微罪容疑でしか大久保秘書を起訴出来なかったのです。

▼ 東京地裁登石裁判長は「西松建設裁判」の「訴因変更」と「裁判併合」によって検察の窮地 を救った!▼ 東京地裁登石裁判長は「陸山会裁判」の「全員有罪判決」で「日本支配層」の窮地を救っ た!

東京地裁登石裁判長は「陸山会裁判」の判決の中で「水谷建設から1億円が石川被告に渡されたのは明白」「小沢氏が立て替えた4億円の中に水谷建設の1億円が入っており原資を隠すために虚偽記載した」と何の証拠もなく3人の証言だけで「認定」したのです。
もしもこのことが事実であったならば、東京地検特捜部はとっくに「西松事件」で小沢一郎氏を逮捕し「収賄罪」「受託収賄罪」で起訴していたはずなのです。

東京地裁登石裁判長は検察が全力を挙げた強制捜査でも立件できなかった案件を公判の証言だけで「有罪」にしたのです。
この判決は、裁判官が表面的に持っている「法の支配」や「社会正義」や「中立性」をかなぐり捨てて「恣意的な判決」を下して、危機に瀕した「支配階層」を最後の段階で救済したのです。

国民はもはや日本の裁判官も裁判所も信用しないであろう。

(終わり)

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